第61話 指輪
カーリナの槍がキングクラブの甲殻を割る音が、間断なく響いていた。
レオノールは一歩引いた位置から警戒しつつも、足取りは軽い。
どうやら昼食の休息は十分だったらしい。
午前の探索で、この階層の魔物は火魔法で倒せることはわかった。
本人も張り切っていることだし、午後は全てカーリナに任せよう。
曲がり角を抜けると、ひんやりと空気が一変した。
「あそこ……人がいるよ」
レオノールの不安げな声に目を凝らすと、
薄暗い広間の中央、濡れたローブをまとった女性が立っていた。
足元には水が滴り続けており、床石を濡らしながら広がっている。
「Sランク! ミラクルワーカーです!」
カーリナの叫びと同時に、ローブの裾がふわりと揺れた。
その揺れは、まるで見えない意志に操られているかのようだった。
直後、手から放たれた水の弾がこちらに向かって飛来する。
「レオノールちゃん、下がって!」
カーリナがすかさず前に出て槍を構えた。
次々と放たれる水弾が石床に着弾すると、
たちまち周囲の地面がぬかるみに変わっていく。
足元に力をかけるたびに、粘土のようなぬめりが絡みつき、靴が沈んでいく。
すでに辺り一帯が泥に包まれていた。
続いて飛来したのは石の弾。
今度は重量が違う。
石弾がレオノールの頭上をかすめ、乾いた破裂音とともに背後の壁を砕いた。
相手は足を奪ってから、石弾で仕留めるつもりか。
こちらも黙ってやられるわけにはいかない。
ワンドを構え、すぐさま呪文を唱えた。
「イグニス・スパエラ!」
火球がミラクルワーカーの胸部を直撃するが、
ローブが少し焦げただけで一歩も動かない。
この階層の魔物は火魔法に弱いはずだが、
自分の火球では威力が足りないのか、ほとんど効いていない。
――詠唱すれば、威力は増す。
ガイがそう言っていた。
それが本当かどうか、今こそ試すべき時だ。
自分の目の前に浮かび上がった文字列を、一つずつ丁寧に読み上げる。
「燃え盛る炎を纏いし荒神よ その灼熱の焔を我に灯せ
炎の球は猛り狂い 敵を叩きて焼き尽くせ……イグニス・スパエラ!」
火球は赤く脈動しながら肥大化し、空気を焼き切るような音を立てて放たれた。
着弾と同時に爆風が起こり、爆炎がミラクルワーカーの身体を覆う。
ローブが裂ける音が響き、揺らめく魔力が乱れるのが見えた。
「今だ、カーリナ!」 「はい、師匠っ!」
泥に足を取られながらも突進するカーリナ。
槍が空気を裂き、ミラクルワーカーの腹部を貫いた。
「カーリナ、下がれ!」
火球の追撃によって、
ミラクルワーカーの姿が崩れ落ちながら黒い煙に変わっていく。
ミラクルワーカーが立っていた泥の中に、青く光るものがあった。
拾い上げると、それは半透明の青い宝石がはめ込まれた銀の指輪だった。
「それ……水の指輪です。師匠、レアアイテムですよ、それ!」
カーリナの声に、ひと息つく。
レオノールも胸をなで下ろしたように、そっと息を吐いた。
自分はぬかるんだ地面に足を取られながらも、指輪をしっかりと握りしめた。
***
「師匠、その指輪、試してみますか?」
カーリナの問いに顔を上げる。
「試す……?」
「それ、水魔法の威力を上げる魔道具です。
魔法性が一時的に付与されるって、前に何かで読んだことあります」
水魔法が使えるかもしれないのか、それなら試してみる価値はある。
指輪をはめると、右手の薬指で青い宝石が淡く光る。
「アクア・スパエラ」
一瞬、ワンドが重くなると、先端に青白い水球が浮かび上がった。
壁に向かって水球を放つと、
ぱしんと音を立てて砕け、水しぶきが石壁に散った。
確かに使える。
なら、実戦での効果も確かめておきたい。
***
一旦、五階層を経由し、魔法陣を使って三階層の入口へと戻ってきた。
ちょうど通路の先から、魔物の気配が近づいてくる。
現れたのは、カボチャのような頭を持つジャック・オー・ランタンだった。
「じゃあ、試してみるか」
再び呪文を唱える。
「アクア・スパエラ」
放たれた水球が直撃し、ジャック・オー・ランタンの炎が一瞬でかき消された。
「やったね、お兄ちゃん」
レオノールの小さな声が響く。
ジャック・オー・ランタンは水球一、二発で倒せた。
その後、アイサイクロンには多少手こずりはしたものの、二、三発で沈んだ。
この階層のC・Bランク魔物には、水魔法で十分に対応できると実感した。
この指輪の力が確かなものであることを確認し、再び通路を進み始めた。
***
空気が変わったのは、次の曲がり角を過ぎたあたりだった。
乾いた風が通路の奥から吹き抜け、
肌に触れた瞬間、冷たさと熱が入り混じったような感覚が走る。
前方の視界が少し開けたところに、それは立っていた。
金色のウェーブがかかった髪が風になびき、スカートがひらりと踊っている。
赤い口紅が目を引く明るい笑顔の女性がこちらにウィンクを飛ばしてきた。
まるで舞台の幕開けのように。
「Sランク……ウィンディ」
カーリナがつぶやいた直後、突風が走る。
強風が巻き起こり、カーリナの槍が風圧で逸れた。
同時に、ウィンディの指先から火花が弾け、背後の壁が炎に包まれる。
こちらの布陣を崩すつもりか。
笑顔のまま、容赦ない。
「アクア・スパエラ」
反撃に水球を連射で放つ。
だが、ウィンディの身体がふわりと風に乗って揺れ、全ての球は空を切った。
風に乗って回避されるなら、ヤツを逃げられないように追い詰めるか、
もしくはもっと速い攻撃が必要だ。
ふと、カーリナが難民キャンプで放っていた火の弾を思い出す。
火球よりも小さいが高速に発射できていた。
もし水魔法でも水弾があれば、速度で押し切れるはずだ。
急いで魔法一覧の画面を呼び出す。
あった、これだ。
グレーアウトしていないところを見ると、今の自分でも使えるようだ。
頼むぞ、水弾。
思わずワンドを握る手に力が入る。
「アクア・バレット!」
小さな水弾が矢のように連射されると、
同時にワンドが軽く跳ね、手首に衝撃が走った。
水弾はウィンディ目掛け鋭く空気を裂きながら突き進む。
数発がかすめると、瞬時にウィンディの表情が曇った。
当たった!
それに効いていそうだ。
だが、致命打とまでは至らないようだ。
ウィンディの風に乗った動きは読みにくく、攻撃のタイミングが掴みづらい。
しかし、先程までの水球に比べれば雲泥の差。
水弾が当たるのならば、あとは持久戦だ。
激しく襲いかかる水弾を避けながらも、
ウィンディが腕を振り上げると、突風が再びカーリナを襲った。
石床に槍を突き立てなんとか持ち堪えようとしているが、
再びウィンディが風を起こし、その追い討ちでカーリナがよろめいた。
「カーリナ!」
一瞬焦ったが、
転びそうになるカーリナの体をレオノールがしっかりと支えている。
小さな身体で、懸命に踏みとどまっている。
ウィンディがふわりと舞い上がり、風に乗って後退した。
一瞬の間をおいて、今度は炎の弾を連ねて放ってくる。
反射的に身を伏せると、炎が壁に命中し、爆ぜた火花が周囲を照らす。
炎攻撃はかなり厄介だが、風攻撃は足止めにしか使っていない。
であれば、耐え忍べば、攻撃の好機が得られるかもしれない。
水弾を打ち、ウィンディの注意をそらしながらカーリナに作戦を伝える。
「カーリナ、作戦だ! レオノールちゃんも手伝ってくれ」
「えっ、あっ、はい」
「次に風攻撃が来たら三人で突っ込むぞ。カーリナは背中をしてくれ。
レオノールちゃんはカーリナの背中を押して。
一気に距離を詰めて攻撃を叩きこむ」
「はい!」「うん!」
水弾が止むと、
ウィンディが反撃とばかりに腕を振り上げ風攻撃を仕掛けてきた。
「今だ!」
「いきますっ!」
向かい風の中、三人一塊となってウィンディに突進する。
背中が押されるので思ったよりも足が前に出るが、
いかんせん目を開けていられない。
それにさっきの風よりも激しくないか?
強風……いや、疾風といった程度か。
それに、なにより喉が渇く。
しかし、この風って一体どこから吹いているんだろう。
ウィンディは酸欠にならないのだろうか。
現実逃避しながら、じりじりとウィンディとの距離を詰めていく。
風が収まりかけた時、背中のカーリナが動いた。
カーリナが踏み出すと、投擲の要領でウィンディ目掛けて槍を投げる。
風に逆らって放たれた槍が、ウィンディの胸元を正確に捉えた。
「アクア・バレット!」
追撃の水弾が、槍が刺さったままのウィンディを撃ち抜く。
笑顔を浮かべたままのウィンディだったが、
最後にひとつウィンクして、その身体が風に乗って舞いながら消えていった。
地面に残されたのは、赤い小さな石だった。
まるで生き物のように表面が波打っている。
「……蒼炎石ですかね?」
「そうえん?」
「はい。普段は深い青色なんですが、魔力を与えると、
こんな風に炎のように動く宝石です」
「わぁーきれい――あつっ」
手を伸ばしたレオノールが小さく声を上げて手を引っこめる。
その様子を見たカーリナが布を差し出して来たので、
手に巻いてそっと蒼炎石を拾い上げた。
指先に伝わる熱はまだ残っている。
だが、少し経つと、石の赤みが徐々に青へと変わっていった。
まるで、炎が静まっていくように。
蒼炎石——その名にふさわしい色だった。
***
「よしっ! じゃーもう今日は帰ろっか」
「もうですか、師匠?」
「ああ、明日はクリスさんに全階層を案内してもらうことになってるし、
今日はもういいでしょ。
ここからだと……地上に戻るのは5階層が近いかな?」
「はい、こっちです」
通路を歩きながら水筒を口に運び、一息に飲み干す。
喉が焼けるように乾いていた。
視界に右手の小指にはめた水の指輪が映る。
淡く光る宝石は、戦闘の熱をすっかり吸い取ったように、
今は静かに沈んでいた。
魔法の鍵を集めようと思っていたが、指輪も悪くないな。
状態異常を防ぐ鍵より、やっぱり魔法攻撃を可能としてくれる指輪の方が、
今の自分に有難みがあるってものだ。
先を並んで歩くカーリナとレオノールが、二人仲良く蒼炎石を覗き込んでいる。
歩きスマホならぬ、歩き宝石は危ないぞと思っていると、
カーリナが振り返った。
「師匠、この石……勿論売りませんよね?」
「んっ! そうだな……Sランク魔物のアイテムだから、
売れば結構しそうだよね」
蒼炎石は、今は青い光を静かに灯していた。
見た目の価値も高そうだ。
これはかなり期待してもいいんじゃないだろうか。
「えー!!」
「お兄ちゃん、売ったらもったいないよ」
「そうですよ、師匠。取っておきましょうよ」
「んっ、んん……でも、ほら、ワンドを買っちゃったからさ、
それなりに要り様なもんで――」
「それなら、その指輪を売りましょうよ」
「いやいや、それはダメだよ。それだけは絶対にダメだ」
思わず、左手で指輪を隠しながら、強くカーリナに反論する。
「ボク、こういうの好きなんです。
青いけど、なんだか力強くて……かっこいい」
「わかるー。きれいだよね、お姉ちゃん」
レオノールが石に手を伸ばしかけ、
けれど触れるのが惜しいように、そっと見つめたまま引っ込めた。
宝石にうっとりしている二人の様子を見て、言葉を飲み込んだ。
たしかに、高く売れるかもしれないが、
それ以上に二人が手放したくないと思っているのが、表情から伝わってきた。
「……まあ、急いで売るもんでもないか」
蒼炎石はレオノールのマジックバックの中へ。
収まりがいい場所に落ち着いた気がした。
また、生贄にされては困るので、水の指輪は自分の指に収まったままだ。
次は、この力をどう使っていくか——それが、少しだけ楽しみに思えた。
市場価値
ワンド・・・銀貨60枚(6千ラル)約12万円
水の指輪・・・金貨6枚(6万ラル)約120万円
蒼炎石・・・金貨10枚(10万ラル)約200万円




