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第56話 巡回の終わり

馬車の揺れが心地よく、意識がぼんやりと遠のく。

幌越しに差し込む西日が、淡いオレンジ色の光を車内に落としていた。


今思い返せば、この六日間はあっという間だった。

……といっても、何もなかったわけじゃない。


警らを終えて、難民キャンプへ戻る馬車の中。

身体は疲れているが、戦闘が少なかった分、精神的な疲労はさほどでもない。

だが、それでもこの六日間で起こった出来事は、

少なからず自分の記憶に刻まれている。


***


初日は慌ただしかった。

ベアトリーチェとの戦闘を終えたのは日没が迫る頃だった。

最初はそのまま三つ目の集落ソヴィへ向かう予定だったが、

ボスコの提案でシナルへ戻ることになった。

彼の判断は正しかった。


「ソヴィに行くのは無理だな。盗賊を連れて歩くのは面倒すぎる。

 一度、シナルに戻った方がいいぞ」


そう言ったボスコの表情は、少し強張っていた。

おそらく、まだベアトリーチェとの戦闘の余韻が残っていたのだろう。

こちらとしても、余計な負担は避けたかったので、その案に賛同した。


シナルに着くと、ボスコが馬車を手配してくれたおかげで、

難民キャンプまでの移動はかなり楽になった。

その道中、ボスコは終始無言だった。

自分たちが交わす会話にも、ほとんど口を挟むことはなく、

ただ前を見つめていた。


難民キャンプへ到着したのは深夜。

騎士団に報告を済ませ、盗賊を引き渡し、ボスコの宿泊場所も手配した。


「ボスコさん、今日はゆっくり休んでください」


カーリナがそう声をかけると、

彼は少し驚いたような顔をして、わずかに笑みを浮かべた。


「ん、そうか。助かったわ」


その声には、どこか安堵の色が滲んでいた。


あの初日はとにかく慌ただしかったな……

戦闘だけでなく、移動や報告、引き渡しと、ほとんど休む暇がなかった。

それでも、無事に終えられたことが何よりだった。


馬車の揺れに身を委ねていると、

荷台を吹き抜ける風が甘美で気高い香りを運び、そっと鼻をくすぐる。


あれから四日たったがまだ匂いは落ちないようだ。

まあ、嫌な臭いではないからいいのだが。


あれは、長い一日の終わりに、蒸し風呂から天幕に戻って、

ほっと一息ついている時だった。

荷物の整理をしているカーリナが、小さなガラス瓶を取り出した。


「師匠、これどうします?」


カーリナが持ち上げた小瓶は、

揺れるたびに中の淡い金色の液体が仄かに光を反射していた。


「ああ、ベアトリーチェのドロップアイテムか」


カーリナも知らないアイテム、たしか薔薇精油だったな。

油ってことは、オイルライターに使えるかな?

いや、植物由来の油は引火点が多分高いから、

オイルライターには使えないだろうな。


カーリナから小瓶を受け取り、ゆっくりと蓋を開けると、

柔らかな甘い香りがふわりと広がり、天幕を包み込む。


「なんですか、この香り?」 「いい匂い!」


カーリナとレオノールが同時に顔を上げ、興味深そうにこちらを見つめている。


「ボクにも嗅がせてください!」 「お兄ちゃん、少し貸して!」


二人に手渡すと、嬉しそうに小瓶を持ち、交互に香りを嗅ぎ始めた。

二人はうっとりとした表情を浮かべる。


「確かに……これは良い香りだな」


自分ももう一度小瓶を手に取って、香りを堪能する。

集落の巡回の日々の中で、こんな穏やかな時間は貴重だった。

だが――


「――あっ!」


次の瞬間、レオノールの手が滑り、小瓶が手から零れ落ちた。


「きゃっ……!」


小瓶は寝台の上に落ちたので、割れはしなかった。

素早く拾い上げたつもりだが、

すでに布へ染み込んでいて、薔薇精油は瓶の半分ほどに減っていた。


「あーあ、こぼれちゃったか……」

「お兄ちゃん、ごめんなさい!」


レオノールが慌てて布を押さえるが、すでに遅い。

天幕の中はさらに薔薇の甘い香りで満たされていた。


「まあ……香りが長持ちすると思えば、いいんじゃないか?」


自分で言っておいて、まるで誤魔化しているような気分になる。


「そ、そうですね。ノーラちゃん、気にしないで。ほら、いい香りでしょ?」


カーリナが前向きに頷く。


こうして、天幕はしばらく仄かな薔薇の香りに包まれた。

その効果なのかは分からないが、

不思議なことに、それ以来ぐっすりと眠れる日々が続いた。


あの日はレオノールの手前、そう言わざるを得なかったが、

苦労して倒した魔物のドロップアイテムだったので、

実のところは、勿体ないことをしたと思う。


そんな失敗を二度と繰り返さないためにも、次に戦う機会があれば、

初めから火魔法をしっかり使えるようになっていないと決意し、

魔法修行も行った。


***


魔法についてローレンツに相談すると、

ガド騎士団にいる魔法使い夫婦を紹介された。


ローレンツが自分たちを連れて訓練場に到着すると、

そこでは二人の魔法使いが待っていた。


「ガイ、ミルドレッド。こちらが例の二人だ。頼むぞ」


ガイという男が軽く手を挙げて挨拶をするが、

その隣にいる妻のミルドレッドは彼を軽く睨んだ。


「またあなたは雑な挨拶ね」 「いいだろ別に、俺流なんだよ」


そのやり取りを見て、不安な顔をしてしまっていたのかもしれない。

ローレンツが小さく苦笑した。


「こいつら喧嘩ばっかしてっけど、腕は確かだ。

 魔法の腕は騎士団でも随一だから、安心して教わるといい」


実際、ガイたちは魔法の基礎から丁寧に教えてくれた。

魔法には火、水、風、土、雷、氷という六つの属性があり、

それぞれに初級、中級、上級があるということ。

さらに、詠唱を使わなくても魔法は使えるが、

詠唱することで威力が格段に上がることを学んだ。


二人の指導のもと、何度も練習を繰り返したが、

自分は火の玉を生み出せても、狙った場所へ飛ばすことがどうにも苦手だった。

その反面、カーリナは着実に魔法の技術を上げていき、

あっという間に火の弾を出す魔法イグニス・バレットまで習得してしまった。


「師匠! 見てください、火の弾もちゃんと命中しました!」


カーリナは得意げな笑顔で、自分に手のひらで揺れる小さな火の弾を見せた。

自分が必死に努力している間に、カーリナはどんどんと前に進んでいた。


そんな修行の最中、ガイがふと鼻をひくつかせた。


「おい、お前らなんか甘い香りがするけど、何か持ち込んでるのか?」


自分は軽く頭をかいた。


「いや、実は小瓶に入ったいい香りのする液体をこぼしてしまって……」


ガイは目を見開いて驚いたように言った。


「それって薔薇精油じゃねぇのか?

 ベアトリーチェのドロップアイテムだろ!?」


ガイの反応に、自分とカーリナは顔を見合わせる。


「そんなに珍しいんですか?」


カーリナが恐る恐る尋ねると、ガイは呆れたようなため息をついた。


「珍しいどころじゃない。市場価格だと金貨一枚はくだらない代物だぞ」


カーリナが口を開けたまま固まっている。


「カーリナ、金貨一枚ってどのくらいだ?」


カーリナはゆっくりとこちらを振り向き、引き攣った表情で、小声で答えた。


「……一万ラルです」


自分はその言葉に思わず絶句する。

一万ラルということは、日本円で200万円ほどか。

それを半分も無駄にしたことを考えると、眩暈がしそうだった。


こぼしてしまったものを今さら嘆いても仕方がない。

覆水盆に返らず――昔の人はうまいことを言ったものだ。

レオノールには絶対言わないでおこう。

知ったら泣き出してしまうに違いない。


「お前らそんな貴重なアイテムをこぼすなんて……」


ガイの言葉を聞いたミルドレッドがからかうように言った。


「あら、あなたも貴重な魔導書をお得意な火魔法で燃やしたじゃない?」

「ミリーそれを言うなって!」


ガイが焦って声を上げる。

そんな二人のやり取りを見ながら、自分は内心でそっと呟いた。

魔法使いが魔導書を燃やすって……


魔法修行は警らを終えた夕方から毎日行った。

その修行が可能だったのは、

毎日決まって夕方には難民キャンプへ戻れるよう、

ボスコが馬車を出してくれたからだ。


今もボスコは御者席に座り、

自分とカーリナは荷台に揺られながらキャンプへ戻る途中である。

前方で馬を操る彼の背中を見ていると、

この数日間で彼が少しずつ変わっていったことを思い返していた。


初めてボスコと会った時、

彼は無口で面倒くさそうな態度を隠そうともせず、どこか冷めていた。

集落ソヴィへの案内役でしかなかったのだ、

最初は自分たちに心を開くどころか、明確に距離を置いていた。


だが、盗賊の襲撃やベアトリーチェとの戦闘を経て、

少しずつその態度が変わり始めた。


特にベアトリーチェの襲撃で、自分たちが命懸けで戦ったことは、

彼にとって大きな衝撃だったようだ。

実際、あの時ボスコは恐怖で動けなくなっていた。

自分とカーリナが戦いを終え、難民キャンプに戻った晩、彼は一言だけ呟いた。


「……世話になったな」


短い言葉だったが、その声色には明らかに感謝の気持ちが滲んでいた。

あのぶっきらぼうで冷めた男がそんな言葉を口にするなんて、少し意外だった。


翌日以降も、ボスコはあまり多くを語らなかったが、

その代わりに行動が明らかに変わっていた。

馬車の手配を進んで行ったり、難民キャンプ内での情報収集や、

自分たちへの支援を積極的に行うようになっていた。


「……あの男、意外と面倒見がいいんだな」


ある時、ローレンツがボスコについてそんな感想を漏らしたことがあった。

その時自分も同じことを考えていた。


ボスコ自身は相変わらず口数が少なく、表情も硬いままだったが、

自分やカーリナ、レオノールに対する彼の態度や行動は確かに変わっていた。


今こうして馬車で共に難民キャンプへと戻る道中も、

彼の背中は以前よりも落ち着いて見える。

相変わらず面倒くさそうな態度ではあるが、

どこか自分たちを仲間として認め始めているような気配が感じられた。


自分は改めて、あの数日の激しい出来事が、

互いの距離を縮める大きなきっかけになったのだと実感したのだった。


ボスコの心情変化にはレオノールも一役買っているだろう。

普段は無愛想で無口なボスコだが、なぜだかレオノールと話すときは、

いつもより柔らかい表情をしていることが多い。

時折、小さな笑みすら浮かべている。


レオノールには、コミュニケーションの才能があるのかもしれない。

気付けばいつも周りに馴染み、人懐こく献身的な彼女に対しては、

誰もが心を開いてしまうのだろう。


実際、ローレンツとの取引でもそうだった。

約束していたカーリナと自分の武器は、

物資が不足しているという理由で、結局手に入らなかったが、

その代わり、レオノールは沢山のアイテムが収納できるという、

マジックバックを貰っていた。

レオノールのジョブは運搬人だから、収納アイテムは役に立つだろうが、

それにしてもあの色、


「……なぜピンク?」


自分が何気なく尋ねると、ローレンツは当たり前のように答えた。


「ノーラの好きな色だからな。これ特注品だぞ」


なるほど、そういうことか。

レオノールは嬉しそうにピンク色のマジックバックを抱えていた。


そんなレオノールはローレンツだけでなく、

その娘アイノさんともすっかり打ち解けてしまったようだった。


毎朝、レオノールは嬉しそうにアイノさんの作業場へ駆けていく。

はじめは遠慮がちだったアイノさんも、

いつの間にかレオノールがやって来るのを楽しみにしているようだった。


そんなある日、アイノさんが唐突にレオノールへ贈り物をした。

小ぶりで扱いやすそうなクロスボウだった。


「ノーラ、これあげる。

 アタイが昔使ってたものだけど、アンタに似合いそうだから」


突然のプレゼントにレオノールは目を丸くし、

それから満面の笑顔でアイノさんに飛びつくように抱きついた。


「ありがとう、アイノさん!」


その様子を見守っていたローレンツが柔らかい表情で頷いた。


「ノーラはすっかりアイノの妹分だな」


アイノさんもローレンツもレオノールをとても可愛がっているようだった。


***


馬車がゆっくりと進む中、やがて前方に難民キャンプが見えてきた。

だが、今日はなぜだかいつもより賑やかな雰囲気だ。


「あれ……何かあったのか?」


軽く眉をひそめ、自分は馬車の荷台から前方をじっと見つめた。

キャラクター設定


ガイ

ガド騎士団所属の魔法使いLv.34(ミルドレッドの夫)

人族、28歳、火魔法が得意


ミルドレッド

ガド騎士団所属の魔法使いLv.26(ガイの妻)

人族、22歳、不眠がち(ガイの歯ぎしりのせい)

ガイからはミリーと呼ばれている

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