第50話 祭りのあと
中間部屋での休息を終え、騎士団とともに地上へ戻った。
視界が開けた瞬間、肌に刺さる冷たい空気を感じた。
迷宮に入ったのは昼過ぎだったが、あれから随分と時間が経ったようで、
茜色の空が広がり日没の訪れを告げている。
迷宮前の広場には所狭しと、天幕が設営されていた。
そこには数十人の騎士や冒険者、それにローブを纏った集団が――
あれは教会関係者だろうか。
そう言えば、キュメンで教会に立ち寄った際に、似たようなローブ姿を見たな。
とにかく、大勢の人が待機していたが、彼らの視線が一斉にこちらに向いた。
次の瞬間――
「Sランク魔物、討伐成功だ!」
「無事に帰還したぞ!」
割れんばかりの歓声が広場を包んだ。
拳を突き上げる騎士、剣を掲げる冒険者、
聖印を切りながら安堵の表情を浮かべる教会関係者。
戦場の張り詰めた空気とは異なり、ここには安堵と勝利の実感が満ちていた。
前線で一緒に戦った騎士たちは泥と血に塗れた鎧のまま、
互いに肩を叩き合っていた。
疲労の色は隠せないが、誰もが生還の実感を噛みしめている。
全身の力が抜け、肩の荷が下りたような感覚に襲われる。
肩越しに振り返ると、カーリナも大きく息を吐き、
眩しそうに空を見上げていた。
自分たちは確かに、あの強大な魔物を倒し、生還したのだ。
「カーリナ……たまには、こういうのも悪くないな」
「はい!」
だが、その喧騒の中で、広場の一角だけが異様に静まり返っていた。
人々が距離を取り、その場にはぽっかりと空白が生まれている。
深い黒のローブを纏いフードを目深にかぶった男が、
迷宮の入り口をじっと見据えていた。
「おい、あれって……ひょっとしてラリーか?」
「ラリー……えっ、それって黒い呪術師ラリーか!?
噂通り、本当に黒いローブなんだな」
若い騎士たちの間で小さな囁きが交わされる。
「俺も本物を見るのは初めてだ。あの人なしじゃ、封印は無理なんだとさ」
「そうなのか……っていうか、封印なんて本当にできるのか?」
「知らねぇよ。俺も見たことねぇし。
実際に見たやつもほとんどいねぇらしい」
ラリーに視線を戻すと、
周囲のざわめきを意にも介さず、ただ静かに迷宮の入り口を見つめていた。
ローブ越しでもわかる分厚い肩と太い腕、まるでプロレスラーのような体格だ。
フードの奥からわずかに覗く口元は微動だにせず、
指先は慎重な動きで衣の裾を整えている。
彼の手がゆっくりと懐に伸びると、古びた羊皮紙を取り出した。
それを指先でなぞるように触れた瞬間、
かすかに空気が歪むような感覚が広場を包んだ。
「これより、封印の義の準備を始める」
ユーハンの低い声が響く。
それだけで、歓喜に沸いていた広場の空気が一変した。
騎士たちは瞬時に動き、ラリーを中心に陣を組む。
剣を抜き、周囲を警戒しながら迷宮へ入る準備を整えていく。
「準備はいいな?」
「はっ!」
ユーハンの指示で、騎士団がラリーを護衛しながら迷宮の入り口へと向かう。
封印の義とはどんなものなのか。
ただ、これから何かが始まろうとしている。
空気が張り詰め、無言の緊張が広場を包んでいくのは確かだ。
未知の儀式が、今まさに目の前で幕を開けようとしている。
ラリーが横を通り過ぎる瞬間、一瞬だけフードの奥から強い眼差しを感じた。
迷宮の深部を見通すような、冷徹な目。
それはただ冷たいだけではなく、
何かを測るような、見透かすような鋭さを持っていた。
その視線が自分に向けられた途端、背筋に冷たいものが走り、喉が詰まる。
思わず息を呑んだ直後、服の裾が小さく引かれた。
振り返ると、レオノールがわずかに肩を縮めながら、
自分の後ろに隠れるようにしていた。
「これが終われば、迷宮は沈黙するはずだ」
ユーハンの言葉には確信めいたものが感じられるが、
その表情にはまだ警戒の色が残っていた。
「本当に大丈夫なんですか」
思わず問いかけてしまったが、ラリーがフードの奥からこちらを一瞥し、
低く静かな声でその問いに答えた。
「迷宮を閉じるのが私の務めだ」
当然のことのように聞こえる。
「行くぞ」
ユーハンの号令と共に、ラリーと騎士団の一隊が迷宮へと入る。
迷宮入口の手前で、ユーハンが副団長のラウリに視線を向けた。
「地上に残る部隊には十分休息を取らせておけ。
ただし、迷宮の入り口から魔物が溢れ出した場合に備えて、
即応できる態勢を整えておくように」
「了解しました。迎撃部隊を待機させます」
ラウリの返答を聞いてユーハンが短く頷いた。
ラリーたちが広場に張り詰めた空気を引き連れ、迷宮の奥へと消えていく。
その背中を見送りながら、どこか不安が拭えなかった。
本当に、これで終わるのか。
問いに答える者はいなかった。ただ、冷たい風が広場を吹き抜けた。
***
開けた場所には、テーブルと椅子が乱雑に並べられ、
騎士たちが好きな場所で休憩している。
夕暮れの光が広場を染め、
近くの食事を提供する天幕からは湯気が立ち上っていた。
「そろそろ何か食べておかないと」
そう思いながら席を確保すると、
カーリナとレオノールが食事を取りに向かった。
二人が去った後、腰を下ろし落ち着いていると、
「ヒデキさん、あなたのおかげで助かりました!」
「本当にありがとうございました!」
治療を終えた騎士たちが、次々と感謝の言葉を述べてくる。
「あっ、まあ、はい……」
慣れない賞賛に戸惑いながらも、適当に応じるしかなかった。
これだけ多くの人から感謝されるのは、悪い気分ではないが、
どうにも気恥ずかしい。
「おお、ここにおられましたか」
地図を手にしたフレデリックが現れた。
席に着くなり、視線を地図に落としながら、
何やら真剣な面持ちで考え込み始めた。
「ヒデキ殿、今回の戦術についてどう思いましたか?」
急に話を振られ改めて考えてみた。
戦闘の最中は夢中で動いていたが、
今こうして振り返ると、改善点も見えてくる。
「そうですね……前線の負担が大きかった気がします」
自分の回答に納得したのか、フレデリックは深く頷いた。
「ヒデキ殿も気付かれましたか。
戦力をもっと分散させて包囲するべきだったんです」
「はい……」
「これを見てください。次はこの布陣を試してみようと思うのです」
フレデリックが机の上に地図を広げて見せた。
沢山の丸と矢印が書き込まれ、何かしらの陣形を示しているようだ。
「戦力が均衡している場合、広く展開すると各個撃破されますが、
局所的に集中すれば突破できる可能性が上がります。
戦場では数の使い方が勝敗を分けるのです」
「えっと……なるほど……?」
「今回の戦い、もう少し効率よく戦えたはずなのです」
「そうなんですか……」
「いいですか。ここで部隊を展開すれば――」
フレデリックの熱弁がまだ続く。
カーリナたち、早く帰ってこないかな。
天幕前の行列に並んでいるのが見える。
まだ時間がかかりそうだ。
フレデリックの熱量には圧倒されるが、確かに彼の言葉には筋が通っている。
最初は適当に聞き流していたが、気づけばフレデリックの言葉を追っていた。
「これによって、前衛が崩れたときに即座に支援できて、
次に遭遇する敵によっては、この陣形が有効なのです」
本当に戦術を考えるのが好きなんだな。
呆れつつも、その情熱には認めざるを得ないものがあった。
カーリナたちが食事を運んできて、食事を終えた後も、
フレデリックの戦術論議は続いていた。
戦場の緊張が完全に解けたわけではないが、
少しずつ戦いの余韻が薄れ、日常へと戻っていく気配があった。
***
夜が更け、騎士団が準備した天幕の中は静けさに包まれていた。
外では、夜警の足音が遠く響き、時折風が天幕の布を揺らす音が聞こえる。
空気には、まだ戦場の名残が漂っている気がした。
カーリナとレオノールはすでに眠っているようだった。
深く沈むような寝息が、戦いの疲れを物語っている。
横になりながら、今日の戦いを振り返る。
手元のタバコを取り出し、火をつけた。
細く立ち上る煙が、闇の中に消えていく。
それを目で追いながら、ふと考える。
Sランク魔物の討伐、歓喜の声、迷宮封印の開始……
戦いは終わった。
だが、次がないわけではない。
少しは前に進めたか?
そう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
安堵と次の戦いへの警戒が入り混じる中、意識が静かに沈んでいく。