第40話 タコツボ
暗闇が晴れ、ぼんやりとした視界が戻ってきた。
「師匠!」「お兄ちゃん!」
ぼやけた中で、かすかにカーリナたちの声が聞こえる。
だが、姿はどこにも見当たらず、
周囲を見回そうとするも、体が思うように動かない。
視線を下へ向けると、はるか下方にカーリナとレオノールの小さな姿が見えた。
二人がこちらに向かって叫んでいるが、
距離がありすぎて表情までは読み取れない。
とりあえず、二人は難を逃れたようでひと安心なのだが、
それにしても、何故自分はこんな高い位置にいるのだ?
足はどこにも着いていないし、
体が宙に浮かんでいるようで落ち着かない。
もしかして、死んでしまったのか?
天国へのお迎えが来たのか?
周りに天使の姿は無いが……
視線の先に、巨大な腕にしっかりと掴まれた人影が確認できた。
それはタコの冷たい瞳に映し出された自分であった。
そうか、捕まったのか……
ようやく理解が追いついた瞬間、強烈な締め付けが体を襲う。
「イテテ……」
腕がギュッと締まっていく。
皮の胸当が押しつぶされるような痛みに、思わず呻き声が漏れる。
一体、どうしてこんなことになってしまったのか。
確か、11階層の奥でタコの魔物を次々と片付けながら、
順調に迷宮を進んでいたはずだ。
クラーケンは巨大なイカだと思い込んでいたが、
実際に目の前に現れたのは6~7メートルほどもある巨大なタコだった。
クラーケン――北欧神話に出てくる、
船を襲う怪物として名を馳せた海の魔物だ。
確かにそれを思わせる迫力だったが、
幾ら巨大だからといって、このタコが船を襲えるとは思えない、
辛うじてスワンボートなら沈められるかもしれないが……
タコの魔物はイカとは異なり、どの腕を攻撃してもダメージが通った。
冷静に対処すれば、一撃で倒せる相手で、
一度に三匹出現しようとも、順調に煙に帰していけた。
そんな風に迷宮探索は実に順調だった……
少なくとも、あの墨が飛び散るまでは。
――イテテ、ギュギュッとタコの締め付けが強くなる。
あと少しで13階層への階段というところで、
最後のタコが突然、墨を大量に吐き出したのだ。
通路全体に広がる黒い墨に視界は遮られ、
カーリナやレオノールの姿も見えなくなってしまった。
「全員、避難だ!」
声を張り上げて、カーリナとレオノールに退避を促そうとした、その時だった。
どこからともなく伸びてきた腕に、逃げる間もなく捕まってしまったのだ。
気づけば、この有様だ。
――イテテテ、ギュギュギューッと更に締め付けられる。
ギュギュと締め付けられる腕の圧力に、現状の厳しさが改めて身に染みる。
タコの巨大な腕にがっちりと掴まれている自分を確認しながら、
どうにも動けない状況に舌打ちしたくなる。
見下ろすと、カーリナが懸命にタコの腕に剣で攻撃を加え、
その側でレオノールが木の盾を構えているのが見えた。
二人とも真剣そのものだが、タコも負けじと腕を振りかざし、
二人を威嚇するように動いている。
「カーリナ!タコはイカと違って、どの腕に攻撃しても倒せる。
一番手前の腕にだけ集中して、槍を突くんだ!」
そう指示を出すと、カーリナが少し怒ったような口調で返してきた。
「そんなことわかってます!さっきからやってます!!」
槍で必死にタコの攻撃をいなしながらの返答に、
少しだけ寂しい気持ちが胸に広がる。
しかし、攻撃がうまく通らない苛立ちからくるものだろう、
きっとそうだ、そうであって欲しい……自分で自分に言い聞かせた。
その時、レオノールがタコに近づきすぎているのに気づいた。
盾を構え、攻撃に備えているとはいえ、あの距離は危険だろう。
カーリナは何をやっているのだ!
タコの腕に必死で気付いていない。
内心焦りながらも、先ほどカーリナに怒られたばかりなので、
また怒られるのではないかと、ためらいが頭をよぎる。
「レオノールちゃん、危ないから下がって!」
直接レオノールに声をかけると、一瞬こちらを見たが、
引くどころかさらにタコの腕の合間を縫って前進している。
何をそんなに……ひょっとしてあれかな?
首がつりそうになりつつ確認すると、
レオノールの先には、さっき落としてしまった自分の剣があった。
タコの腕の合間をすり抜け、
必死に自分の剣へと向かうレオノールの姿が目に映る。
カーリナに視線を向けると、
タコの腕に槍で応戦し、目の前の戦いに集中している。
レオノールの前進にまだ気づいていないようだ。
再びレオノールを見ると、
小さな体を駆使して、まるで迷路を進むように器用に前進しているが、
レオノールの向かう先にあるタコの腕が不穏に動いているのが見えた。
「レオノールちゃん、攻撃が来る。一度引くんだ!」
レオノールの顔は剣に向けられたままで、
自分の声が耳に届いているのかどうかはわからない。
「カーリナ!レオノールちゃんが危ない、守れ!」
カーリナも必死なのだろう、返事がないので、
自分の声が届いているかわからない――どいつもこいつも。
もう少しでレオノールの手が届く、
その時――タコの腕が大きく振り下ろされた。
しかし、レオノールはとっさに身を低くし、タコの攻撃をかわすと、
次の瞬間、飛び込みながら剣に手を伸ばした。
「お兄ちゃん、剣を取ったよ」
「わかったから、早くカーリナのもとへ急いで戻って!」
剣を握りしめたレオノールが、鋭い眼差しでこちらを振り返る。
その表情には怯えはなく、むしろ覚悟のようなものが宿っているように見えた。
彼女の小さな手がしっかりと剣を握り、盾を掲げたまま後退を始めた。
バーンッ!
狙いを定めたようにレオノールに向かってタコの腕が振り下ろされた。
激しい砂埃が舞い上がり、視界を奪われ、
瞬く間にレオノールの姿が見えなくなった。
「レオノールちゃん!おい、返事をしてくれ!」
砂埃が邪魔でレオノールの姿が見えない、
胸が締め付けられるような焦燥感が押し寄せる。
レオノールの無事を確認できないでいると、
さらにタコの腕が強く締め付けてくる。
体がきしむような圧力に歯を食いしばりながら、
どうにかこうにか抜け出そうと試みるが、指先すらまともに動かせない。
痛みが増し、息をするのも一苦労だ。
このままでは自分も動けなくなる――
こんなところで、ただ締め付けられてもがいているだけなんて、
情けないにもほどがある。
カーリナは懸命に戦っているのに、肝心の自分が何もできないなんて……
レオノールの安否も確認できないっていうのに、
これじゃあ守るどころか足手まといじゃないか。
「ねぇー、お兄ちゃん、大丈夫?」
かすかに聞こえたレオノールの声に、思わず耳をそばだてる。
まさか……無事なのか?
その瞬間、カーリナの声が鋭く響いた。
「師匠!レオノールちゃんなら大丈夫です。タコの真下にいます!」
胸にこみ上げる安堵と焦りが入り混じり、もどかしさで体中が震える。
今すぐ助けに行きたいのに、この腕から抜け出せないなんて……
タコの攻撃に耐えているカーリナが視界に映る。
カーリナは現状を打破して、レオノールを助けに行けそうにない。
あれ?
なぜタコはレオノールを攻撃しないのだ?
腕の一本は自分を掴んでいるが、残り七本全てでカーリナを攻撃している。
どうしてカーリナにばかり執着しているんだ?
もしかすると、この巨体が故に、視界も限られているようだし、
すぐ真下にいる敵には気づけないのか?
仮にそうだとすれば、タコの足元さえ潜り込んでしまえば、
こちらに攻撃を仕掛けられる隙が生まれるかもしれない。
しかし、タコの下にいるレオノールの武器はナイフ、
到底、宙に浮くタコに届くはずもない。
となれば……
「カーリナ!タコの真下に潜り込め!」
自分の声に力を込めて、的確な指示を出すが、まだ不安が残る。
果たして、この作戦がうまくいくのか……
「師匠!そんなこと言われても、今のボクは防ぐだけで精いっぱいなんです!」
カーリナの声が痛切に響く。
タコの腕が次々と襲いかかり、カーリナは懸命に槍で受け流しているが、
一瞬でも気を抜けば押し潰されかねない状況だ。
まさに、守勢に徹するしかない状態に追い込まれているのが見て取れる。
「あたしが、注意を引くから……その間に、お姉ちゃんが!」
えっ、レオノールが囮になると言っているのか?
レオノールの思いがけない申し出に、胸がざわついた。
「ちょっ、ちょっと待って、レオノールちゃん。
危険すぎる!そんなことはさせられない、無茶はダメだ!
おいっ、カーリナ!何とかならないのか!?」
思わず声を張り上げるが、レオノールの決意は揺るがない。
「あたしなら、あんまり怖くないし、できる気がするから……だから!」
レオノールの言葉に一瞬ためらいがよぎったが、
カーリナが鋭い声で言う。
「師匠、それでいきましょう!ノーラちゃんを信じましょう」
作戦が整い、どうにかしてこの状況を打開する一筋の希望が見えた気がした。
レオノールが駆け出すと、
タコがそちらに向きを変え、巨大な腕を振り上げ始めた。
狙いは完全にレオノールに向けられている。
レオノールはタコに向かって後ろ向きに走りながら、
両手で盾をしっかりと構えている。
その小さな体で必死に注意を引こうとしている姿に、思わず胸が熱くなる。
レオノールがタコの注意を引きつけている間に、
カーリナが素早くタコの巨体の下に潜り込むのが見えた。
レオノールの囮作戦が成功している。
次の瞬間、カーリナが槍を突き上げたのだろう。
タコの体が黒い煙に包まれると、ゆっくりと霧散していく。
見事だ、レオノールとカーリナの連携で巨大なタコを倒した。
しかし……タコが煙に変わると言うことは……
そう、自由落下だ。
タコの腕が消え去ると同時に体が急に自由になり、地面へと落下した。
かなりの高さではあったが、尻餅をついたおかげで足首の捻挫は免れた。
尻餅をついたままの姿勢で、自分は周囲を見回した。
レオノールとカーリナも、互いに無事を確認し合っている。
「ありがとうな、二人とも……」
危機一髪だったが、
今回の戦いで仲間の大切さを改めて実感させられた気がする。
まだまだこの迷宮に挑むには、自分ももっと強くならなくてはいけない。
次こそは二人を危険に巻き込まず、
もっと堂々と守れるように――そう心に決め、静かに立ち上がろうとした瞬間。
「イテテテェー!!」
迷宮内に自分の情けない悲鳴が響く。
どうやら、足首の捻挫は避けられたが、
代わりに尾骶骨を強打し、尻に容赦ない痛みが走った。
カーリナにお願いし、情けない恰好のまま薬草を尻に当ててもらった。
魔物設定
クラーケン/ kraken
系統:海生 種:頭足類 ランクB
弱点:火 耐性:水 特殊:石化
攻撃:触手攻撃(一定確率で石化発動)
特徴:宙に浮かぶ巨大なタコ。腕で突く攻撃を仕掛けてくる。
ジャイアントスクウィッドと異なり、
クラーケンのどの腕に攻撃してもダメージが加算される。
但し、ジャイアントスクウィッドよりも高い確率で石化が発生する。
墨を吐き、相手の視界を遮る。
ドロップ:素材/海泡石、カード/体力のカード