.03 境目
.03 境目
オアとアクルアムは踵を返し、この映し世に最初に居たそれぞれの領域へ戻る為に歩みを進めた。
ただ元の場所に戻るのは困難だった。この世界はあまりに無形であり、その形は煩雑さに溢れていたから。一般的に道と呼べるものは無く、空が存在する日もあれば、見上げても境界線と原色の大地が見えるだけの日もある。
つまり、天地というものは無く、領域を区切る境界線は流動的にその形を変えているのが常であった。その為、彼らに標となるものは有しておらず、歩いてきた場所が今は形を変えて存在しないことも在り得ると分かっていた。
映し世に長く留まっている。
オアとアクルアムはひたすらに前に足を進める。
体感でしかないが、一日に一度、必要のない休息を取る。
生理現象の起きない映し世で、それは人間として在る為に課したものだ。アクルアムの提案から始まった物だった。
髪の毛をアクルアムは毟る。
ある日、アクルアムは10万本目の髪の毛を千切り捨て哄笑した。10万日を過ごしたということだ。
アクルアムは泣くように笑っていた。きっと苦しいのだろうとオアは思った。苦しい時こそ、彼は笑うからだ。
その日だけはアクルアムの歩みは止まった。
笑い続けて一日。オアとアクルアムは再び前に足を進めた。
大地は変わらず、無形の境界線を跨ぎ、時に夢の人と出合った。
一日と経たず、出合ったばかりの人間の荒唐無稽な映し世での死を看取る。
それはもう殆ど情動の動くこと無い物になった。何時からかは覚えても居ないし、思い出す事も無いだろう。
果たして2人が己の領域に戻れるのかどうか。この事は考えないわけではない。進むという選択肢しか見えなかったとも言う。
二人の間で交わされる言葉は少なくなり、やがてアクルアムには変化が訪れた。ゆっくりとだが、確実に。それは蝕むように生えてきて、オアは変質していくアクルアムに気付いていたが、受け入れていた。
15万本目の髪の毛を毟る頃には、アクルアムには激しい自傷性が備わった。
何時から始まったのかはもう分からなかったが、アクルアムは己の喉を筆頭に多くの箇所を掻きむしるようになった。
兆候として爪を噛む、目を過剰に擦るなどの行動が多くなり、やがて自分を傷付ける行為に至った。オアは聞いた。何故、自分を傷付けるのだ、と。
「俺は、俺であることを確かめねばならないからだ。ああ、俺は今、この場所に居るが現実の身体に戻らないといけないんだ。くそ、くそ、神クガは俺がこの場所に居る事を許さない、オア、俺はここに居るか?俺はここにいるだろうか?分からなくなるんだ、時折思い出さないと、俺は俺でなくなってしまいそうになるんだ。くそ、すまない。オア、違う、行こう。留まっている訳にはいかない。そうだ、笑おう。俺達はもっと人間らしく、はっはっは、笑うべきだ、はっはっは、人であるだろう?ああ、そうだ、そうだ俺は俺なんだ」
自分を認識する為に自分を傷付ける。もうアクルアムの喉は誰が見ても皮が剥がれ落ちて筋膜と思われる物しか無くなっていた。
不変の身体を激しい自傷で削り取っていた。そのせいかアクルアムは喋る度に喉を鳴らすようになった。
人であれば手遅れの致命傷かもしれない。止めるべきだろうかと悩んだ。
だが、オアにとってそれは最初は理解し難い事だったが、呪い子である事を知った時に己を破壊しようと試みた事を思い出すと、アクルアムの行動を自然に受け入れることができた。
だから、オアはアクルアムを止めなかった。
オアとアクルアムは歩いた。
アクルアムが自らの身体に自傷を続ける日々は続いている。
映し世に痛みは無い。だから削れていくアクルアムの身体は初めて出会った時と比べれば、少しばかり全体が小さくなっていった。
数える事を止め、ただのルーチンと化した髪の毛を一本、今日もアクルアムは抜いた。20万本目だと言っていた。
その時、オアは気付くこと無かったが、アクルアムは自らが持ち歩いている二つの石に小さな亀裂が入ったことに気付いた。
次の日からアクルアムは誰にでもなく話をすることが多くなった、二つ目の変化だった。
アクルアムの全てだ。
自分の事をとにかく話して、繰り返される同じ話を全て真面目に聞いたが、オアには分からない話も多くなった。
単に奇声としか捉えられない物も多く、訊き難い音も混ざり始めている。アクルアムの喉が壊れていたからかも知れない。
取り留めなく続く言葉はある日、突然に終わった。
嗄れ声でアクルアムは言った。彼が思い付きで話を始める時、必ず最初に言う言葉だ。会話の合図だ。
「なぜ生きているんだ。オア。俺はなぜ生きている。死んでいるのと同じなのに。もう、死んでいるじゃないか、この身体は。でも生きているよ、オア。死んでも死ねないのに、映し世で俺は生きている、おかしい。おかしい。おかしいよ」
「しっかりして、アクルアム。貴方は神クガの下に還るのだろう。そうしなければならないと。自分の領域に戻らないといけないだろう」
「も、もう嫌だ、歩きたくない。オア、オア、なんで、そんなにオアは強いのだ。俺は……俺は、オア、俺は……」
「アクルアム、笑おう。私はアクルアムに教わった通り、笑うことができる。はっはっは。ほら、私たちは人間だ」
「は……あ……あー……オア、オア。笑えたか。俺は。お前は……違う。俺ではない。人間では無かった。笑うことを教えたのは間違いだった。オア、お前は……神、ああ、神よ……騙されたのだ、俺が信ずるべき……俺は……真なる……」
この会話を最後に、アクルアムは口を開くことが無くなってしまった。
ただ二人きりで境界線を黙々と越えて行く。
ひたすらに。
オアはアクルアムが居るのか不安になった時に声をかける。アクルアム、大丈夫か、と。アクルアムはその時だけ顔をあげてオアを見た。お互いに視線を交わす。アクルアムにはもう顔を覆う皮膚は無くなってしまった。
もう彼の笑顔を見る事は出来ないだろう。オアは少しだけそれに寂しさを覚えた。
苦しい時に笑えなくなってしまったという事だ。オアはそれを助ける為に声を掛ける事ができた。
しばしオアはアクルアムと顔をお互いに確認しあうようにして見合い、そして無言のままアクルアム自分の石を見つめて顔を落としてしまう。
アクルアムと視線を交わすと、彼が存在していることにオアは安堵を覚えた。だから声が無くとも満足した。寂しいが、今のアクルアムに望めない事も理解していたからだ。
オアとアクルアムは前に歩く。
方向は意味を成さない。上下も無い。区切りの境界線の間隔だけは少し短くなったような気がする。
アクルアムは頭を触った。
髪の毛はもう無かった。
ある日。それは何時かは分からない。しかし、ある日にオアはアクルアムの振りかぶった拳を顔面に受けた。それは彼の持ちうる限りの膂力で叩きつけられてオアは原色の大地に揉んどりをうった。
攻撃性の発露。それがアクルアムに訪れた三つ目の変化だった。
殆ど皮膚のないアクルアムの顔が近く、拳だけでなく全身の力を使っているようで、体格に差のあるオアは抵抗は出来なかった。いや、鼻から逆らう気もなかった。
オアはアクルアムの突然の暴力に驚いたが、彼の事はほとんど全て推し量ることができたからである。
数多の殴打の中、これはアクルアムがアクルアムである為に必要な事だと分かっていた。自我を保つ為の行動だと知ることが出来ていたのだ。いつかは覚えてないがアクルアム自身がそう口にしていたから。会話を交える事は無くなったが、虚空に向かって話す事はしていたから。オアは彼が凶行にいずれ至ることを予想するのは簡単だった。
痛みはない。
仮に痛痒を感じていたとしても、オアには問題が無かっただろう。
映し世は人体にとって不変の世界であり、景観が不定形な世界である。
どれだけの時間、オアは殴られていただろうか。気付けばアクルアムはオアの身体に縋りついて謝罪しようと嗚咽していた。オアは優しく彼の身体を抱き、撫でてやった。
あれだけ殴られ続けていたのに、オアの身体に損壊は存在しなかった。
アクルアムの石の罅が、大きくなった。この時、オアはアクルアムの持ち歩いている2つの石が罅割れている事に気付いた。
時に殴られ、時に狂乱し、自分を掻く。
オアはアクルアムを引っ張って歩く。
アクルアムは足が潰れた。自分の持っている石で潰した。だから彼はもう歩けなかった。
神クガの下に戻る為に、アクルアムは己の領域に戻らなくてはいけない。
彼の願いの集約はそこである。
現実に戻る為にはアクルアムの領域を探さなくてはならなかった。
だから、オアはアクルアムを引っ張って歩いた。
引っ張っている時に、オアは珍しくもない映し世に現れた人を見つけたが、ちょうど同じ時にアクルアムの凶暴性が復活した。
映し世に現れた人間の目の前で、オアはアクルアムに叩きつけられて転倒する。何度も振りかぶって、石を持った腕が落とされた。目一杯。オアを破壊することだけを目的とするような、猛烈な勢いで。
この行為はアクルアムとオアを繋ぐ唯一の物となっていた。だからオアはこの暴力を受けている時が最も安堵する時間であった。
ただただ受け入れる。身体の奥に沈む衝撃に身を委ねて。
気付けばまた、アクルアムは自分を壊そうとしている所だった。
胴の内部を傷付けようとしていた。それはオアはダメだと思った。
身を起こしてアクルアムを慰めようと、留めようと近づくと人影が視界に振る。オアが振り返ると、それは殴られる前に見た人が口元を抑えて首を振っている姿だった。
「初めてだ。映し世の人間が、まだ形を保っているなんて」
「まったく驚いた。ここは映し世というのか、哀れな童よ。しかし不可思議だな。2日も殴られていては痛かっただろうに」
「別に痛くなかった。それに言葉も喋れるのか、喋れる人は少ないから驚いたな」
「ほほ、驚いたのは儂の方だ。この地に至れたのは凡そにして5日前だが、口ぶりからしてどれだけ長い間ここに居たのだ。殴られる関係性といい、死人の連れ添いと良い、まったく動じぬ童ときた。ここは不思議な界だ」
「死んでいない、アクルアムは生きている」
「……そうかの?確かに動いていたし、生きておるのか」
その人は老体であった。顔には皺が無数に刻まれ髭は長く伸びていた。だが、此処に居る誰よりも精悍であり背筋を伸ばしていた。
身の丈はアクルアムよりも小さく、オアよりも大きかった。
彼の手にはまた、石が握られていた。少しだけ亀裂の入ったものだった。アクルアムの二つの石よりも大きい石だ。
「さて、彼を止めよう。しかしどうして彼は生きているのかね。命があるようにはとても見えない様相になっているが」
老人はアクルアムを抑えた。アクルアムは何かを言おうとして藻搔いていたが、残念なことにもう彼には喉と口が無かった。
「ああ、ああ。まったく。こんなにも自分を痛めつけるとは、よほど精神が摩耗したのであろう。だがこの状態で生きているという事は、生きる意志は失われていないということか」
「老人よ。アクルアムは賢く強い男だ。彼は神であるクガの下に還る為、己の領域へと戻ろうとしている。生命の限り使命を全うしようと」
「ふむ、この者はアクルアムと名であるか。それに神・クガ。それは聞いた事のない神である。私とは違う場所か、或いは世界か、そんなところか……口が失われているのは残念じゃ。訊きたい事は多くある」
アクルアムの身体を抱き、腰を据えた老人の目の前に、オアも相対するように座り込んだ。
この老人は人との繋がりを絶って山頂に居を構え、長き年月を掛けて無というものを追った。オアは老人の名を尋ねたが、老人は名は捨てたという。
オアは自分の名を告げたが、老人は頑なにオアの事を童とだけ呼んだ。
老人は自身を語り始めた。ずっと山頂で意識という物の奥を知ろうと座していたが、それは実を結んだ。そう、老人は5日前にこの映し世へと至ったらしい。
そして此処は無の境地であることに感動していたが、オアとアクルアムが突如として現れて違う事に気付いたという。
「うむ、がっかりしたのぅ。映し世などという場所は儂が求めていた境地では無かった。考えてみれば当たり前かもしれぬな、儂はこうして童と語らうことが出来てしまって居るからな」
「無の境地とは何だ」
「それを理解した時は神となる時であろう」
「神に成ろうと求めたのか」
「はて、どうか。神と成ろう等と傲慢に過ぎるな。過ぎたる身を求めればそれは破滅に至る。儂は神と成ろうしたわけではない。そうだな、アクルアム殿と同じよう神の下へと向かいたかったのだろう。童には難しいかも知れぬが」
「神の下に……」
オアは顔を俯かせ、顎に手をやって考え込んだ。老人は笑った。
そして自信満々に言い放った。
「しかし、映し世。夢の世界か。ここが儂の至れる限界であったとはな」
「……この映し世に先があるのか、老人」
「知らぬ」
「では、何故そう思い至ったんだ」
「はっはっは、確証などない、勘であるぞ。ほれ、儂の持っているこの石は、映し世へ至った時に最初から持っていた物だ。割れておろう。これは儂は、己の命の石だと思って居る」
「命の石?老人の持っているのは……いや、石が命なのか?あなたの命の石は、割れているが」
「うむ、儂の身体は限界であったからな。それは儂自身のことだから、間違いないことであろう。この石が完全に割れる時、儂が死ぬ時だと思っておる」
オアは驚いて老人を見た。そして石を眺め、老人が抱くアクルアムの手を見た。
「うむ、アクルアム殿の石も……まぁ何故2つも持っているのか分からぬが、殆どひび割れておるようだ。屍にしか見えない身体と同じく、長くはあるまい」
「ならば早く彼の領域を見つけてあげなければならない。神クガの下に帰さなければ」
立ち上がったオアの手を、老人は掴んだ。
「童よ、その前に少しだけこの老体に付き合っておくれ。ついと先ほどまで、お前さんは散々にアクルアム殿の拳を受けていたよな?」
「そうだ。アクルアムが自分という物を実感するために必要な行動で、私はそれを受け入れた」
「ふむ。なるほど」
大きく頷いて老人は抱いているアクルアムを見て、オアをまた見た。
老人の考えている事は分からなかったが、なにか達観したような顔で何度も頷いている。オアはもどかしさを感じた。
命の石だと老人は言った。それは正しい事の様に思えたから。アクルアムは自らを傷付けると石が割れた。アクルアムがオアを傷付けようとすると石が割れた。
命を削ってアクルアムは生きている。
映し世はどこまでも繋がっていて、境界線は際限なく増えて行く。
歩いていく先が戻っているのか進んでいるのか、標もないから分からない。
大地は時にひっくり返り天となる。天を歩いていても落ちる事は無い。
悪魔に近い何かが生まれて消える。
人の夢の世界らしい。
分かっている事は少ないが、オアはアクルアムを神クガの下に戻してあげなければならない。約束をしたからだ。
初めて人と交わした約束。オアは必ず果たしたいと思っていた。
オアが反芻するように想いに馳せていると、老人はアクルアムを離し、黄色の大地に寝転んだ。
「ふぅ……そうか、そうか。ああ、童よ。おぬしはオアと言ったか」
「?ああ、私はオア。始まりの名を大いなる老に戴いた。オアだ」
「神に至るのは、オア。おぬしなのだろうな」
「神に私が至る?それは違う、老人よ」
オアは悪魔に命を弄ばれた呪い子であることを老人に告げた。大地に寝そべり空を見上げていた老人は少しだけ首を傾けて私を見やったが、話を遮る事はしなかった。
境遇と生い立ち、そして死に、生きたことを淡々と話す。アクルアムにそうしたように、老人へオアは全てを語った。
もちろん、それはきっと長い時間をかけた物では無かった。映し世に時間という無意味な物は無かったが、一日にも満たない時であっただろう。
オアの話を聞き終えて、老人は笑った。
「そうか。童よ。神か、悪魔か。なんとも、儂は思い上がっていたようだ。人には決して到達できない頂があるのだな。早々に気付けた私は幸運だったろう」
「何を言っているんだ、老人」
「言った通りだ。神か、悪魔か。アクルアム殿がオアを殴る理由が一つ分かった」
「……」
「神か悪魔かだ。それを識ることが出来るのは、オア。おぬしだけだ」
「私は神ではない」
「どうかの」
老人はアクルアムを離していた。
音が鳴った。珍しくはっきりと認識できる音は近く、オアの視線は老人の命の石へと導かれた。老人のものは急速に割れ始めている。
アクルアムの手に握られている石を続けて見た。それには変化は無かった。
こんなに急速に割れることなど、アクルアムの石には無かったはずだ。老人は5日前に映し世に在った。普通の人と違って、一日も経たずに消える事無く。存在が安定して映し世に至った人間だ。
だというのに、命の石は割れて行く。見る間に力を失ったかのように、パキパキと音を立ててオアの耳朶をうつ。
「老人よ……石が、割れている、死んでしまう。何とかしないと……」
「……」
「なぜ! このまま死ぬのか?どうして死んでしまうのだ」
「はて。儂には至れぬと心底で思ったのだろう。未練が命を繋ぎとめていたとも言うかもしれん。この映し世に泰然と在るお主を見て、折れたのかもしれぬ」
「私?なぜ、私が。分からない。老人よ、教えてくれ」
オアはその後に何を話しかけても、老人の口が開く事は無かった。
それからずっと、オアは立ち尽くしてしまった。老人の石が完全に二つに別つまで、老人の肉体がこの映し世に溶けて消え去るまで。横たわった老人に変化は無かった。
アクルアムが稀に呻く声を上げたが、この領域に溶けて消えた老人は最後まで指先一つ動かさず、溶けて消えた。
それを見届けてから。
オアはアクルアムを身体を引っ張った。
その時に黄色の大地は遥か遠くまで伸びていった。老人の大地は色付きを失い灰の塗れた。灰色の線が伸びていく。ぐんぐんと伸びて行った。
どこまでも遠くに、形を不定の地形に沿わせ、視界の奥に消えるまでずっと遠く。遥か遠くまで。
そして一本の線となった。
そう、一本の境界線と成るまで果てなく伸び、オアは老人の大地が描いたその線を、脚で跨いだのである。