.02 映し世
.02 映し世
アクルアムと出逢い、オアは映し世の世界を彼と共に歩き始めた。
どちらともなく、自然と連れ立って行動するようになったのは、同じ人というものに飢えていたからだろう。
アクルアムはオアと比べ、大柄な男であった。
お互いに履いている物は何もなく、まったくの裸であったから、その体躯の差異は目立つものであっただろう。
身体の大きさだけで言えば、オアの倍はあったのだから。
オアは彼と共に、映し世を歩いた。
歩き初めてすぐに分かったことは、アクルアムと歩む映し世は最初にオアがこの世界を初めて認識した時とは違い、景観が豊かである事だった。
鳥……とは思えないが、翼のある飛行する妙な生物が居る。飛翔している鳥の形は様々で、生物なのか疑いたくなるような薄っぺらい物から、空の半分を埋め尽くしどうやってその小さな翼で飛んでいるのかと疑いたくなるような物まで多様だった。
空からは雨のような液体が降ってくることもあれば、空という存在そのものが落ちてくる事もあった。
大地は見た事も無い草木が生えている事もある。そう思って居れば見覚えのある密林が目の前に急に現れ、泉を創りだして消えることもある。
およそ現実ではありえない現象が連綿と続く。単に滅茶苦茶と言っても良い。
最初こそ驚きに溢れていたが、やがてこの光景は慣れてしまう事になった。映し世の世界では生理的な現象は何も起こらないからだ。三大の欲求を感じることも欲することもなくなり、時間すらも消えてアクルアムとオアという二人の人間は出鱈目な世界とは隔絶するが如く不変の存在であるかのように安定していた。
目的地もなく、映し世を彷徨う。
オアは無為に世界を歩く事に慣れていたが、アクルアムという男はそうではなかった。
やがて、頭を押さえて唸り、ほどなくアクルアムは自らの首を掻きむしっては叫ぶようになった。
その頃にはようやく、オアもアクルアムの扱う言葉を理解するようになっていく。
「……ここは何処なんだ!くそっ!こんな所に何で閉じ込められてるんだ!」
陽も昇らず、星も出ない。泥の混ぜたような景観。見上げても、見下げても大地は続く。境界線を区切りにして。
色の現役を塗りたくったような大地に腰を下ろし、アクルアムはオアに聞いた。
何度も尋ねられた。オアも自問を幾度となくしている。だから、その度にオアは同じように答える。ここは映し世だ、と。それしか知らなかったし、それすら疑っていた。
「く、くふ……ふっふ……ふっくっく」
両手で顔を覆って、アクルアムは口から意味のない声を出していた。
そして決まって、彼はオアに身の上話をする。これも何度聞いたか。きっともう数えられない程で、この話をすることがアクルアムという男の精神を繋ぎとめている事にオアは気付いていた。
だから何時もの様にしっかりと彼に身体を向けて、話を聞く。寄り添うように、頷いてあげている。
彼はイングソと名付けられた集落で生まれた。アクルアムの父の名はドュート。母はたくさんいる。
彼の集落では神を崇めていた。オアの故郷と同じようにモニュメントを立てて、そして全員でその神の為に生き、死ぬことが教えだった。
神の名はクガ。アクルアムの集落では偉大なるという意味を持ち、その周辺でもクガの名は広まっていたらしい。
オアはこの話を何度聞いても飽きることはなかった。神という概念を持っている同胞を知ったのはアクルアムが初めてであったし、神は善い物であることと漠然と知っていたから、クガという神に強い興味も抱いたからである。
この映し世の中でなければ、彼の神クガを、オアも信仰していたかもしれない。
そしてアクルアムは生まれて15の歳月を過ぎた頃、神に見初められたという。
その時に彼は一度、命を落とすか落とさないかという病を患っていた。集落の半分が犯されたという奇病だった。アクルアムは意識が混濁し、それが現実なのか夢なのか、朦朧とした状態。所謂、峠を迎えた時に神と邂逅したという。
神と出会ったその日から、アクルアムの心身は病に侵される前よりも、より良く健全となった。
腹の底から活力が沸きだし、集落の誰よりも頑健となり、身体がみるみる強大に成長したというのだ。ある種の万能感すら抱いたと言うのだから、力に満ちたのは本当の事だったのだろう。
残念ながらアクルアム以外の者は病に倒れ、奇病に打ち勝てたのはアクルアムただ一人だけであったらしい。
それまで、集落の中では信心深くなかったアクルアムは神クガに傾倒した。毎日、祈りと供物を捧げ集落の誰よりも神クガの偉大さについて説法を行った。
アクルアムの地道な啓蒙は実を結び、やがて大きなうねりとなって、アクルアムの住んでいた集落だけでなく、周辺の村も信仰に溢れて行くようになる。
神クガという存在を御旗に、人々は団結し、アクルアムはその先頭に立つ教祖となったのだ。
「俺はこんな意味の分からない場所に閉じ込められて良い人間じゃないんだ。偉大な神に選別された者は私一人だけで、失えば多くの人が導を失ってしまう事になる、ああ、くそ。俺はこんな場所に居たくない」
「アクルアム。帰れる。泣かないでくれ」
「うう、なぜ私とオアだけ、このような場所にずっと取り残されてしまうんだ、おかしい。おかしい」
「……それは、分からない」
「何かあるはずだ。私は帰りたい。こんな場所にはもう居たくない、此処はおかしい、おかしいんだ」
大きな体をくねらせて、アクルアムは情けなく上ずった声を上げたまま涙をこぼした。
そうなのだ。アクルアムが言ったように、オア達は長く映し世の世界に居る間に、他の人間を見かけていた。
彼らはみな一様に一糸まとわぬ裸体であり、顔も姿形も違ったが、間違いなく映し世の世界へと現れたのである。
何も無い空間から突如としてオア達の目の前に現れる事もあれば、元から其処にもともと存在したかのように自然と暮らしていることもある。
だが、オアとアクルアムの二人と違うのは、どの様な形であれ彼らには最後が訪れているという事だ。
急に体そのものが溶解して消え去ることもあれば、物理的に落下や見た事も無い生物に押しつぶされるなどして『死』するのである。
オアやアクルアムが彼らの死を回避させることは不可能だった。本当になんの前兆もなく、唐突に彼らはこの映し世の世界から弾き出されてしまうのである。
「……我が神、クガの為に、膝まづいている時間などないな。オア、行こう」
「わかった」
「もし」
「?」
「もし俺がこの映し世で死んだら、オアが我が神の下に連れて行ってくれ」
「分かった」
「おう、約束だ。勝手な約束だが、良いだろ?」
「良い」
「ははっ、オア。お前はもっと笑うべきだ。俺の様に。それが人間性というやつだ。ほら、笑え笑え、苦しい時こそ笑うんだ。笑っている人間は美しいんだぞ」
それまで泣き崩れているのが嘘の様に、瞬く間に精神を立て直してオアへと笑いかける。
アクルアムを見ていて驚く事は、精神の復調の速さである。どれだけ心折られようと、泣き喚いた後には何事も無かったかのように立ち上がる。
神クガを信仰しているからだとアクルアムは教えてくれるが、オアにはアクルアムが彼である根底を支える物は強固な精神性であると思っていた。それは敬意に似た感情であった。
彼は『生きて』いる。
神クガの為にと。人として生きる為に気力を尽くしている。
それは眩しく映る物だった。オアはアクルアムの放つ光に惹かれつつあった。
気が付けばオアはアクルアムの大柄な体躯を、その顔をよく見上げて、意味も無く光を瞳に焼き付けていた。
「私は故郷を悪魔に滅ぼされた」
映し世を彷徨う事はオアにとってそう苦痛を伴う事ではなかったが、アクルアムと出合えた事は生きている中でこの上の無い幸福なことだった。
アクルアムと同じように、オアは自分の身の上を話した。きっと彼も聞き飽きただろう。だが、オアが話せることは数少なかったから、何度も同じ話をしていた。
その度にアクルアムは声を出して応じてくれる。そしてその疑問に答える。
この人として当たり前のことが、今のオアにとってどれだけ刺激的なことか。その感謝をオアはアクルアムに伝えれば、彼は大袈裟だと笑う。
楽しかった。そして嬉しい。受け答えして、意思を返してくれる。それをしてくれるのが、生の情熱に溢れるアクルアムであることが幸福だった。
「この境界線。跨ぐたびに人が現れ、そして死に、映し世から消えていく。これが映し世における唯一の規定のようだ」
ある日のことだ。
アクルアムは確信するように言った。大地の色が変わる時、それは境界線を越えた時である。跨いだ領域に誰も居ない時もあるが、誰かが居る時もあった。
それは大抵においてオアやアクルアムと同じように人であり、中にはしっかりと意識を持ち、意思をもっている存在もある。
もちろん、この映し世には見た事も無い、まるで悪魔にも似た異様なる存在が湧き出ては自壊していく不思議な生物も多かったが、同時に人が映し世に現れた時と消え去る時に連動していた。
「オア、今までに過ごした日にち、そして境界なる線を越えた数と、出合った人数を覚えているか」
「いや、考えた事も無い」
「俺は覚えているぞ。いや、数えている」
「そうだったのか。どうやって数えたんだ」
オアは人との交流が無かった。だから知識に乏しかった。アクルアムはそんな無知であるオアに、多くの知識を口頭で説明し、道程の中で教えていた。
貪欲に知識を吸収したオアは、今ではアクルアムの扱う言語を完全に習得するに至っている。
そして、彼が越境した境界線と出合った人数をどうやって把握しているのか尋ねるとすぐ教えてくれた。
それは髪の毛であった。この不変性を二人に齎している映し世の世界で、裸である彼が数を把握するのに最も適した物は毛髪だったのだ。
道理で見た目が変わらないはずのこの世界で、アクルアムは前髪が少なくなったとオアは感心した。
「人と会うたびに一本。境界の線を越えれば一本。休息を取る度に一本」
「アクルアムは賢い」
「オアが物を知らなさすぎるだけだ。話を戻すが、人と出会ったのは272人。休息を取ったのは一日に……まぁ体感でしか判断してないが、おおよそ一日に一度で982本目だ。そして境界線を越えたの数は800程だ。そして、一つの境界線の区切りの中には俺達を除くと一人しか存在しない。そいて人は……この映し世に現れた272人は例外なく石を持っていたぞ」
一つの境界線の内側の領域。
そこには一人の人間と、一つの石。
そして幾つかの荒唐無稽な生物が生み出される。
人が消え去る時、謎の生物もまた同様に領域からは消えていく。
映し世においてオアとアクルアムが知った限られたルールであり、それは重大な手掛かりの一つだった。
オアは当てどもなく彷徨う事しか出来なかったが、アクルアムはこの何も無く出鱈目な世界の中でも謎を紐解くための手掛かりを見つけていた。
熱心にアクルアムの話を聞いている内に、オアは忘れかけていた映し世の中で出会った悪魔の言葉を思い出すことになった。
区分けが必要になった、元は単一だった世界。命を使い捨てる場所。人は境界線の中で一人だけ。
アクルアムの話が進むごとに、悪魔の言葉を裏付けする様に証明が進んでいく。
オアはこの映し世できっと……いや、違わずに自分の境界の中に居た。この境界線は区別されている。他の人間の領分と交わらぬように、大地の色が混ざらない様に区分されている。
悪魔が居たのはオアの領分の中だけであった。そして、見渡す限りに亡骸が敷き詰められていたのもオアの領分の中だけであった。
不定期に不規則で、時に悪魔とも思える存在が顔を出す映し世の中は、出鱈目な存在を許容する不可思議空間だとオアは思っていた。それは間違いではない。
しかし明確に、一定の理に沿っている事にオアとアクルアムは気付くことになったのだ。
悪魔の声が、聞こえてきた。
定められた命という籠から篩に落とされたら、その数は無限となるか
使い捨てられた命を片付けている。そう言った悪魔の言葉は本当の事だったのだろうか。しかし、アクルアムの話を繋ぎ合わせるとそれが真実としか思えなくなってしまった。
「人間は夢を見る。夢の世界というのはどういう場所なのだろうと俺は若い時分に考えた事がある。怖い夢を見たんだ。何か良く分からない存在に殺された夢だ。それは、もしかしたら、この映し世と呼ばれる界の事で経験したものでは無いだろうか」
「夢……?アクルアム、夢とはなんだ」
「ううん、夢を知らない?そんな事は無いだろう、人は眠りについた時になんというか、現実の世界とは違う場所を視ることがある。オアだって経験しているはずだ」
「私は……わからない、知らない、と思う」
「…………いや、まぁ、夢というのは分からなくなるものだ。日々を過ごしていく中でさほど重要な要素を占めないから、俺は怖い夢を見たから覚えてた。だが、夢は普通に暮らしていると忘れてしまうから、オアは忘れているだけだろう」
眠る時に見るという夢。それがこの世界であるとアクルアムは推測していたがオアは困惑した。
オアは夢を見た事は無い。いや、アクルアムが言うように覚えていないだけで見た事はあるかもしれないが、夢の世界を認識できたことは生まれてから一度も存在しなかった。
それはオアが死して意を失っている事の方が長いことの弊害であったといえる。また、オアの過ごしてきた世界は死してからの方が長かった。
何より、過ぎ去った日々は呪い子となった日の方がはるかに長い。もしも人間しか夢という世界を見れないというのならば、悪魔に造り変えられた呪い子は『人の夢』を見る事はきっと出来ないのだろう。
「とにかく一つ、解き明かしたぞ。この映し世を。ここは夢の中なのだ。オア、戻ろう。今まで歩いてきた道を戻り、元に居た己自身の領域に戻ればきっと現実へと戻れるんだ……ハハ、まったく。こんな不条理な世界を歩き回る必要なんてもともと無かったんだな。バカバカしい日々を過ごした。なぁ、どうした、オア」
「え?」
「随分と震えてる。珍しいな、いつも震えるのは俺の方だっていうのに。ハハ、なんだ。お前も人間らしいところがあるじゃないか」
「私は……アクルアム、私は分からない。もしも夢というものが人間の見る物であるというなら、夢を見た覚えのない私は、人間ではないという事になる。それは何より、君に話したように私が呪い子であることの証明になる。だから人ではない……私は」
戸惑いに顔を伏し、両の手を見つめて震えるオアに、アクルアムは毛髪の少なくなった頭部を一度掻いてオアの手を掴んだ。
顔を上げたオアを正面に見据えて苦笑する。アクルアムは言った。自分の胸を叩き。
「馬鹿を言うなよ。オアは人間さ。俺と同じ身体を持って、俺の顔色を伺ったり悩んだり不機嫌そうにしたり笑ったり。感情と意思がある。俺と話す為に、俺の言葉を学んでいたじゃないか。そして俺達はこうして意思を交換出来て、お互いを知ることができただろう?ああ、こうして二人で映し世の中を歩いてきたんだ。分かるか。俺は人間だ。神クガの為に生きて現実に戻る事を誓っているが、誰かが一緒でなければきっとこの映し世の中で無限に彷徨って、泣き喚き、頽れて歩き続ける事は出来なかっただろう。だが、俺は歩くことができた。オア。それは君と言う私と同じ人間が居たからだよ。私と同じ境遇の君が居なければ……」
アクルアムは慰めと本音を混ぜた言葉をかけ続け、そこで一度途切れた。
不思議そうに続きを促すオアに、恥ずかしくなったのか鼻を弄りながらそっぽを向いて、茶化すように苦笑した。
「そう、オアが少し情けないところを見ることが出来て良かったと思ったさ。お前は呪い子ってやつみたいだから、少しだけ最初は不気味だったしな」
神クガに選別され命を戴いたというアクルアム。悪魔の玩具として生きている呪い子のオアにとって彼は眩しく映る人だった。
皮肉や煽り、自嘲や冗談という人との間に行われるコミュニケーションに疎いオアは言葉通りに不気味な存在だったというアクルアムの言葉を受け取って、頭を下げて意気を落とした。
アクルアムは自分の失言に気付くと、気まずそうに口元を抑えてスマン、と一言だけ呟いた。
謝罪を受け取ったが、オアは暫くの間、思考が沈んでしまった。
それはアクルアムにとっては長い時間であり、およそ三日間ほどの体感を経ていたが、オアにとって三日という時間は矢の如く早く過ぎ去るものだった。
だから、アクルアムは最終的に、困ったように口を開いたのだ。
「ほら、落ち込むってことはやっぱり感情のある人間じゃないか。だから、良いだろう?そろそろ機嫌を治してくれないか。話し相手になってくれよ。そして笑ってくれ、オア。俺達はきっと笑う事ができるだろう?」
オアは何を言われたのか分からない様子で首をかしげたが、アクルアムのおずおずとした申し出に頷いた。
そしてお互いに示し合わせたように、口を歪めて笑いあったのである。