.05 不死
.05 不死
ウチゴウが立ち上げた集落は、牛頭と呼ばれる化け物に襲撃されて危難に陥っていた。
その牛頭を討滅したと噂されるオアは、ウチゴウよりも小柄で、最初に会った時は人とは思えないほどの風貌であった。
だが、オアは数日もすると毒に犯されて頭蓋が見えていた皮膚は覆われ、黒い髪が生えそろい、溶けていた皮は見る間に組成から再生し、千切れかけていた腕は繋がっていた。
ウチゴウが悪魔を受け入れた。
違う。
ウチゴウは言った。悪魔ではない、神を受け入れたのだ。
それはこの村に居を構えている者たちはすぐに理解した。だから、ウチゴウは村に住んでいる者たちを繋ぎとめる為、オアを神としたのである。
オアが不死である事は人の身体に与えられた神の祝福であり、牛頭などの悪魔とは違う存在であることを大々的に喧伝したのだ。
そして、悪鬼である牛頭を滅する為に、この地へと現れたのは神の導きがあったからだと謳ったのである。
ウチゴウにとっては都合の良いことに、オアの胸元に埋まっている家印石は、まるで皮膚に刻まれた文様の様に見えた事だ。
この文様こそが神の使いであることを示す、或いは神そのものを表わす聖なる痣として、ウチゴウは村をまとめ上げた。
わざわざ少なくない労力を割いて、オアの胸元に刻まれたシンボルを集落の印として扱った。
オアは彼らが何を言っているのかは分からなかった。
揉めている原因も、話し合う姿の真剣さも、殆ど分からず状況に流されていた。
ただ、同じ『人』として受け入れられた事に喜んでいた。
何かを求められていることには気付いたが、何をすれば良いのかは分からなかった。
しかし、オアが神として村に住居を与えられてから幾らか。冬季が目の前に差し掛かってきた時、牛頭は村の畑へと図々しく現れた。
騒ぎを聞きつけて駆け付けたオアの視界に、牛頭が威嚇する様に人々を睨みつけ、ミネンの首を掻き切る姿をおさめると、猛々しくオアは叫び牛頭へと弾丸の様に飛び込んでいった。
悪魔!
殺さなければならない。悪魔は根絶やしにしなければならない!
阿鼻叫喚の中、オアは自らに課した悪魔の討滅だけで頭の中が埋まっていた。
それはウチゴウや村の者たちには理解しえない、長の時の中を死に生きた、オアが自己を保つためだけに掲げた導であったからだ。
突如として始まった、オアと牛頭との激しい争いは村の者たちを戦慄させるに足りた。
オアの手足は千切れ飛び、臓腑は何度も零れ落ち、首すら身体から落ちて行く。
牛頭の口からこぼれる液体で溶かされても、丸太の様に太い腕で身体が粉砕されても。オアは首から上だけで牛頭に食らいつき、やがて突き入れた指から眼球を抉り取って、逆に牛頭の眼すらも口の中に放り込んだ。
闘争の最中にもう一頭の牛頭が現れた。番なのか、仲間を守ろうとしているのか。
悪魔が何を思っているのかなど関係なかった。ただひたすらに互いの命を削ぎ落していた。
オアは牛玉と同じよう、獣に似た金切声を上げ続けていることに気付く事は無かった。
この争いは村全体に波及し、その闘争の時は七日以上にものぼった。
血だまりと毒が周囲を満たして、異様な悪臭が村全体に立ち昇って覆う事になったのである。
村人たちはウチゴウを含め、山間の使われていないあばら家を中心に避難していたが、やがて決着はついた。ウチゴウにはすぐに勝者がどちらかは分かった。
オアが一人、出会った時と殆ど変わらない風貌で、闇宵の中に現れたからである。
人々はオアを恐れた。
この時には村の者は、オアが自分たちとは種の違う忌避なる存在であることに気付いていたが、明確な拒絶を前にウチゴウが動いていた。
ウチゴウもまた、オア恐れている。しかし、ウチゴウは震える脚を叱咤し、またオアを両腕を広げて出迎えたのだ。
そう、神が。
牛頭を滅ぼしたのだ、と。
この時点でウチゴウの目論み、打算の思惑は重大な一点を除いて全てが無事に達成された。
悪鬼である牛頭を村の存続が可能な程度の犠牲で、最小限にして滅すること。
村に集まった人々が一つの意思の元で、集団として団結したこと。
それらの意思を統一する神輿として、神の存在を手に入れた事。
ウチゴウにとって誤算があるとすれば、牛頭との決着が大事な野畑で行われたことだろう。
時節は冬季に入り込んでおり、森からの恵みは乏しくなってしまった。春季には森に立ち入れば数分で目にするような動物たちは嘘の様に掻き消えていた。
作物は牛頭の口から滴る毒素によって、大地その物が汚染されて使い物にならない。収穫する暇すらなくオアとの壮絶な戦いが始まってしまったので、目下の危難はどうやって飢えず冬を凌ぐかであった。
飢餓という大敵を前にして村人たちが抗おうと活発な活動を始めた時、オアはこの集落の人々の中に溶け込もうと躍起になった。
オアという存在が悪魔を滅してきたのは、この時の為だったのだと感じ入ったからだ。
手を伸ばせば接触を拒否され、言葉を覚えようと口を開けば警戒する様に人々から距離を離されたが、オアにとって彼らの行動が不審な物に映るということはなかった。
ミネンが生きていれば違ったかもしれない。ウチゴウがもう少しオアに歩み寄れていれば変わったかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
故郷とは違う人々であることをオアは認知していたし、人に在って然るべき、備わっていなければならない時間の感覚が無かった。
ただ彼らの行動がそうであったという事だけしか、認識することは無かったが悲しみを抱くことも無かった。それはオアが無垢であることの証左でもあった。
天の涙は白く染まり、この村の周囲は白銀となった。
雪雲の中から覗く陽は、白い世界を照らし上げては蒼黒く染まり、星の瞬きを氷雪に照り返す。
大自然の折り成す佳景といえよう。
細くひび割れた己の手をウチゴウはじっと見つめた。その手は震えており、ささくれていた。
厳しい冬が訪れたのだ。
枯れた木々が焚きだされ、小屋の中では火の爆ぜる音が不定期に繰り返される小屋の中。ウチゴウは己の震える手をもう片方の血管が浮き出た手で抑えていた。
吐く息は弱々しく、瞼はくぼんだ。頬は肉を削ぎ落されたかのように細く、唇は閉じることができなかった。
これはウチゴウを含め村の全ての人間が同様の症状に陥っていた危難だった。
活動に必要なエネルギーを経口摂取することが出来ず、一か所に寄り添い、只管に飢えを凌ごうとしていた。
間に合わなかったのだ。
僅かな人口を支えるだけの食料を確保することは、今のウチゴウ達が持っている技術力では難しく、天啓の閃きを得るような賢人も居なかった。
「神は……神よ……」
発声するだけで震える歯の音が脳髄の奥を突き抜けるような錯覚を覚える。ウチゴウの身体は痩せ細り、まるで枯れ木の枝と同じよう、座り込んだままじっと動く事は無かった。
太陽が昇り、瀕する集落を照りだした。
薪の火の音が消えて、黒く染まった暗雲が遠くに見えた。
ウチゴウの瞳の奥はぐるぐると廻っていた。遠くに幽鬼の様に身体を揺らす人々が見えた。―――村の人間の殆どが居た。
陽が水平線の奥に消えて、夜の帳が落ちると静かになった。
まるで音の消えた世界に落ち込んだようである。写実として表わされた世界と言っても過言では無かった。
この時、世界は止まったのだ。
ウチゴウの口が開いた。
「神は。 オア様は」
牛頭に四肢を砕かれて臓腑が腐り落ちても。
「神は。 オア様は」
定められた命すら持たない、人とは異なる者。
「神は。 神よ」
それまで動く事の無かったウチゴウは立ち上がり、陽の光が昇ると共に、村の者たちは神の家をくぐった。
ウチゴウから動かぬよう逗留してくれと懇願されていたオアは、天井を見つめて寝そべっていた。
人が来たことを音で知ったオアは、ゆっくりと上半身を起こして、見慣れぬ青銅を装備を持った居並ぶ人たちを見上げる。
オアにはその顔に見覚えがある。
何もかもを失った、グン大老のもの。
己の故郷を失い、旅路の中で飢え死を繰り返すことになった水たまりに反射した自分の顔。
一様に痩せ細り、縋りよるオアへの視線に事態は把握することができたのである。
ウチゴウが跪いて、オアは僅かに逡巡したのちに周囲の人々を見回した。
オアは呪い子だ。
悪魔に弄ばれ、その肉体構造が近似した。
オアを食らい、生きた時。
ウチゴウは人であるのか。
それとも、オアが滅するべき悪魔となっているのか。
「神よ……神よ」
足下で俯き、細腕で足首をウチゴウに掴まれたまま、オアは胸元に埋め込まれて癒着している家印石を撫でた。
牛頭との戦いの中で変形してしまったそれは、元々刻まれた文様がゆがんで、まるで人の顔のように描かれている。
両の目があり、鼻があり、口があった。
それに触れながら、オアは初めてこの集落で、自らの故郷で使っていた言葉を発した。
それは失われた言語で伝わる事が無いと分かってたが、滑らかにオアの口から滑り出た。
「ウチゴウ。私はオア。始まりを意味する名を家族から授かった。故郷を悪魔に滅ぼされて、その悪魔に復讐し討滅するだけの存在だ。私は呪い子だ。悪魔のおもちゃにされて、永遠の苦しみの中で"死んでいる"。もう、どれだけ生きているのかも分からないのだ」
オアは座り込み、震える身体を丸めているウチゴウの肩にそっと手を添えた。
顔をゆっくりと上げた、出会った時とはまるで容貌が変わってしまったウチゴウと視線がぶつかると、オアは彼の首元をゆっくりと両手で包み込んだ。
ウチゴウは何もしなかった。
オアも、何もしなかった。
ウチゴウもオアも、お互いに全ての状況を受け入れている様であった。
ただ、その状態のままの二人を見守っている村人と、見つめ合っているオアとウチゴウの視線がぶつかるだけの時間が過ぎて行く。
それは長く続き、静寂の中で止まっていた。
「ウチゴウ」
名を呼ぶ。
この集落の使っている言葉は、水などの簡単な単語を幾つかと、名乗ってくれたウチゴウとミアンの名前しか、オアは知らない。
「ウチゴウ」
名を呼ぶ。
ああ、貴方を悪魔にしたくない。
だが、グン大老に無かった。ウチゴウの目は生きていた。
命を繋ぐ希望をその瞳に強く映すウチゴウを死なせたくない。
オアは分からなくなってしまった。
とても単純で簡単な構図だったのに。
悪魔を討滅するだけの刃であるだけなら、こんな懊悩は生まれなかったのに。
「呪い子である私が生きる事よりも、生きている者が"生き抜く"べきなのか。だが、悪魔の子。呪い子である私を食らえば、私が滅するべき悪魔に貴方たちは―――私が目覚めたその時に、殺せるだろうか。悪魔を殺さなければならぬのに、殺すことができないかもしれない。それは私が生きる標を失くしてしまう。わからない。私はウチゴウたちを殺したくない。呪い子である私を受け入れてくれたという事実が、間違っていたのか」
声に出してみてもわからない。分からなかった。
だが、一つハッキリと分かる事はオアが両手で包んだウチゴウの首を、ゆっくりと離したということだ。
命を刈り取るに容易い、飢餓に敗北して悪魔になろうとしている存在を滅することは出来なかったという事なのだ。
その行動を自分で省みて気付いてしまった瞬間に、オアは"生きる"ことを止めてしまった。
オアはそのまま両腕を広げ、小屋の床にそのまま倒れ込んだ。
何も言わず、何も云えず。
人々はゆっくりと寝そべったオアの周囲を囲むように家屋の中に入り込んでくる。
オアは眼を閉じた。視界に入れたくないと思った。
ただ胸中に渦巻くのは、あの破滅した日の故郷の景色と、歪んだ世界の中心に立ちオアへと向かって手を伸ばしてきた悪魔の顔だ。
こうして命を繋げようと必死に"生きる"人々ですら、悪魔の思い通りであるのか。オアは何のために死んだのだ。オアは何のために生きているのだ。
悪魔の討滅すら出来なくなったオアは―――何をすればいいのだろう。
「ウチゴウ」
ウチゴウからの声が聞こえた。自分の名を名乗った様だ。
それから、他の人の聞いた事のない声が聞こえた。
「スヴェロク」「インガサモ」「シバニ」「フンシン」「メトゥ」「クオゴエ」
聞いた事のない言葉ではなく、何かの単語でもない。
名だ。
彼らが持っている名が、一つずつ。それぞれが口に出してオアへと告げていた。
不思議とオアにはその一つ一つの名。そして声が全て、鮮烈に刻まれていった。
この呪われた命を。
彼らに捧げるからか。
きっと永遠に忘れる事のない、オアを『人』として救ってくれた人々の名である。
名を告げ終わった人々が、青銅で出来た鉈を、村で一番大柄な者に手渡したようだった。
大きな音を立て、命を繋ぐべく、室内で両手を振り上げる―――空気を切り裂く音が満ちた。
その音の間隙を縫うように、オアは口を開いた。
これだけは意思の交換が出来ずとも、明確に宣言しなければと思ったからだ。
私はオア。 始まりの者を冠する名をグン大老より戴いた―――
「 "呪い子" だ」
金属と床を叩く盛大な音が響き、オアの意識はそこで完全に途切れた。