.04 打算
04. 打算
オアが彷徨い、死に、朽ちて蘇る旅を繰り返して過日。
在る時に目撃されて、オアの与り知らぬところで邑の者たちの噂となることになる。小さな集落だ。
牛頭と呼ばれる巨躯の生物の首を、その口で噛み千切り、腕の一部尖った個所で跳ね飛ばし、牛頭を滅ぼしたのだともっぱらの話題に上がっていた。
上座で胡坐をかき、訝しげに尋ねていたのは集落を纏める長の一人。
ウチゴウと呼ばれている男と目撃者は塵積る落葉に飾られた小さな小屋の中でその話を聞いていた。
「首を跳ね飛ばされるのを見たのでございます。見間違いなどではありませぬ」
「では、その小さき者は生き返って、牛頭の首に噛みついたというのか?」
「はい、捻り潰されていたはずの身体が、生えており四肢が元に戻っていたのです」
この集落は部族として若く、立ち上げて間もなかった。行き場を失った者たちで寄り添い集まって日々を暮らしている。
この者たちにとって幸いであったのは、居を構えたこの山の麓の盆地は肥沃に満ちた大地であり、動物たちが活発に動き回っていることだった。
狩猟を行って糧を得て、山の中に潜って果実を得る。木々は杉や檜といった加工のしやすい柔らかめの素材が多く生え揃って建物を造るのに少ない労力をかけるだけで良かった。
暮らしを築き支える数多の要素が揃っており、ウチゴウが作り上げた集落は邑()むらとして、いつしか大きくなり始めていた。
しかし豊かな土地には問題が付きまとう事が常である。
多分に漏れず、ウチゴウの集落にも一つの大きな問題があった。それが牛頭である。
「連中を殺してくれるならそれは良いことだ。しかし、首を斬っただけで死んだのか?」
牛頭はその名の通り、牛に似た角を頭蓋から生やした赤目の巨人だ。体長はどの個体もゆうに3mを越えて、体躯の作りも筋肉を敷き詰めたような、丸みを帯びた容貌だ。
その身体からは浅黒い体毛がびっしりと生えている。体格通り、半端ではない膂力を持っており、山の中でじっと身を屈めて潜み、獲物を見つければ人よりも素早い俊敏さで襲い掛かってくる。
知能も高く、半端な罠では見破られて使い物にならず、大掛かりな物でも屈強な身体に物を言わせて破壊してしまう。
そして、村にとって最も重要なのは、牛頭は何でも食べるということだ。
動物はもとより、植物も、人間も。全てを食い散らかして腐敗をまき散らす。揶揄ではなく、その口から漏れ出る唾液は何もかも腐らせてしまうのだ。
「化け物が増えただけってことにならなければ良いのだが」
ウチゴウはそう言って、報告者を返すと小屋から顔を出して邑を俯瞰するように眺めた。
牛頭に殺された者は僅か20日で6人。集落に住む者たちを心底から震え上がらせていた。
いずれも森の中に暮らしの糧を求めて、狩りに出た男手ばかりが犠牲になっている。
近日では農耕を始めたばかりの場所が牛頭に荒らされた。幸いにも家の中にまで入り込むような事態にはならず、人の損失は無かった。
しかし冬に備えて植えた物は全て食い散らかされて、農業を行う為に確保した場所は腐り、使い物にならなくなってしまったのだ。
ウチゴウたちはある種の開拓者である。この豊潤なる土他の集落からは山々が連なり遥か遠くに位置していて移動だけで数年はかかる。
容易に移動は成り立たない剣難の地でもあったし、だからこそこの場所に居住地を開拓できれば楽園となる事を期待できた。
まだ時間に余裕があるとはいえ、冬を越す前に悪魔のような牛頭という存在を何とかしなければ、立ち上げたばかりのこの場所は、飢餓に襲われて地獄を見ることになるだろう。
ウチゴウは村の基盤を固める為に奔走していたが、方針を変えることにした。
牛頭の首を獲ったという、その存在を探すことにしたのである。
人だ。
オアの視界に現れた、二足歩行の存在を見つけた時には最初それが何なのか、すぐには分からなかった。悪魔かと思い、警戒して身を潜めてしまったくらいである。
谷の底で魚体を滅したオアは、その後も旅を続けて悪魔を探した。
洞穴の中で蝙蝠を。高台になった高地で空を飛ぶ鳥を墜とし、この山で牛の角をねじ切った。
それは長い時を経ていた。オアは暦を知らない。
死に、そして生き。時間の感覚は壊れていた。
繰り返し繰り返す中で水平線に落ち行く陽が何度立ち昇ったことか、知ることが出来なかったから。
そして、オアの目の前に今度は―――いや、ついにと言うべきだろう。人が現れたのである。
息を殺して落葉の中で身を潜めて、オアは何かを探すように山間をうろつく人を観察していた。長い旅路の中で人と会うのは初めてだった。
その事実はオアに興奮を齎すと共に、押し潰されそうなほど心底から不安を抱いた。
もう二度と人と会う事は無いと、知らず決めつけていたからである。
人。オアは人であったはず。だが、悪魔に弄ばれて変質し、悪魔に恨みを抱いて滅殺し、己が身に悪魔の一部を取り込んでいく。
そうした存在になってしまったオアは、自分が未だに人であるのか分からなかった。
呪い子であるから、むしろ悪魔と同じ物だと考えても居た。
胸元に埋め込まれた家印石をそっと撫でる。深い藪の中、身を潜めて同じ者。人である存在をじっと見つめた。
石は震えている。それはただオアの鼓動に合わせて動いていた物だったが、珍しく緊張していたオアにはそれが自身の鼓動だと気付けない。
太陽が空の中空に浮かび、そして西空へと落ち行き、朱の彩に山間が包まれた頃になってオアを探す人間と視線が交わうことになった。
「牛頭か!」
「なんだと!」
持っていた武器と思われる棒切れを突きつけて男は叫んだ。
背は低く、小男である。斜面に立って居たところを振り向いたせいで態勢を崩し、腰が引けた状態でオアを睨んでいた。
小男が見たのは、オアの立ち上がった姿だ。山間に斜暉が差し込み、その陽を背に受けて立ち上がったオアの身体は枯れ木のように細く爛れていた。
顔に生気はなく、目元は抉れており、頬骨が露出している。胸元で陽に照らされた鈍く光る家印石が人の姿である造詣の中で、異様さを際立たせて。
男の持つ棍棒、そして下顎は震えて喉を鳴らす。叫ばなかったのは相対したオアから目を離すことが出来なかったからである。
「お前が……牛頭を滅ぼした者なのか……」
オアの唇は震えたが音は出なかった。だが、この男は運が良かったといえる。
オアが失った故郷から飛び出して遭遇してきた物といえば知性を持たぬ獣、そして自らが死ぬまで破滅を求める悪魔のみであったからだ。
常に命を秤にかけ、その軽さ故に死すらも武器として磨いてきたオアにとって、少なくとも敵対していない者の声というのは驚嘆すべき物となっていた。
戸惑いを含んだ問いかけに、しかしオアはやはり声を出すことは出来なかった。
何故なら、オアは牛頭との長い戦いの最中、喉元を食い千切られて再生中であったからだ。
オアは振わない己の声帯に様々な感情を乗せながら、話しかけてきた男に対しては自然と手が伸びた。
何を思って彼に手を向けたのか。それは分からないが、向けられた手に男は身を引いて後退りをした。恐らくそれは未知の存在に対しての本能が働いただけだ。
「もし……もし、お前が牛頭を滅してくれるというのなら……頼む。 俺達に協力をしてくれないか……」
さて。オアにとってこの男の言うことは良く分からない物だった。
この男の使う言葉、言語というものをオアは知らなかった。故郷で使っていた言葉とまるで違う形態であり、音の繋がりが示すものを理解することができなかったのだ。
オアはゆっくりと頷いた。何も分からなかったが、目の前の人間がオアに対して、敵対的でないことに感動を覚えていたから。
何を言われているのかも、問われているのかもわからないが、それでもオアは人との触れ合いを欲した。多大なる不安に震えていたが、それでも人の声には抗う事が出来なかったのだ。
小男はオアが仕切に頷く姿に、ようやく警戒を少しだけ解いた。そして近づく。
傾斜になっている山間の中、小男はミネンと名乗りオアの姿を間近で観察した。酷い有様であった。
四肢こそくっついている物の、千切れかけていて突っ立っているだけのオアの足下にはドス黒い血溜まりが腐葉土を染めている。
顔と思われる場所にはあるべき鼻が無く、皮膚は爛れて焼け落ちたように溶けていた。小男は負傷の原因が牛頭の毒だということに気付いたが、何も知らない者が見れば新たな悪鬼だと思われても可笑しくない風貌だった。
「協力してくれるなら着いてきてくれ……里に、案内する」
ウチゴウはミネンの連れてきたオアと相対すると、表情を強張らせつつも何度も頷き、家屋の中へと案内した。
焚火の爆ぜる音が室内に響き、麻で作られた布が敷き詰められたベンチへと腰をかける。
ウチゴウとミネンの声が響く中、オアは屋根のある『人が住まう場所』へと何時振りか。腰を落ち着けている事に大きな感動を抱いていた。
喚起用の穴から空気が循環し、薪が音を出す。この音と熱に、オアは一人、酔いしれていた。それは快楽だった。あまりの心地よさにオアはじくじくと眼の奥が熱を持つ。命の安息を得たように、オアの瞳から溢れる物は止まる事は無かった。
ウチゴウとミネンの声が止んでいた。
顔を上げ快楽に惑うオアの方を見つめ、口を開いたまま、ウチゴウとミネンは先ほどまで喧しいくらいに言葉を発していたのを止めた。
オアの濁った虹彩の瞳から、血液とは違う涙が顔を濡らしていたのだ。
ウチゴウはやがて、そんなオアへと覚悟の籠った顔を向けて、両腕を広げた。
そしてその両腕でオアの腐れ落ちた身体を包み込んだ。
「お前は私たちの神になれるのか」
ウチゴウは小さく、そしてオアにだけ聞こえるようにしてそう呟いた。
オアは、何も知らない。そして分からない。
だから、オアはウチゴウの言葉に頷いた。何度も、何度も頷いた。
「許してくれ。私はこの場所を守りたいのだ」
何も分からないから、オアはウチゴウの言葉にただただ、頷き続けたのである。