.03 埋める骨
03. 埋める骨
泥沼の底では闘争が続いていた。
傍から見ていればそれは、一方的な虐殺と変わらなかっただろうが、それでもこれは生死を懸けた競争であった。
オアは目を覚ませば千切られた半身を沼の中で身を沈めて、そのまま暫く藻搔くと沼魚に食われて死んだ。
再び目を開けば魚たちはどんどんとその個体が大きくなっていき、親であった沼魚と変わらぬほどに育っていく。そして数が増え続ける。
その内にオアはその身体の殆どを栄養として捧げることになって、再生を繰り返す事となった。
足らぬとばかりに身体を食われ、魚が持つ牙によって皮膚を剥がされて死を繰り返していく事になったのである。
100年を超える月日の間、深い谷底で行われる魚たちの佳肴である。
オアにとってこの100年という概念は、人が瞬きをする時間に等しいくらいに、僅かな感覚のものだ。
呪い子として旅立ってから、オアにとって時間の流れを把握することは無意味な事になったからである。死ねば一瞬で昼夜問わず逆転することになるオアには、時間の進むべき概念が失われていた。
俄然として状況が変わらないまま過ぎ去る時間は、死を繰り返すオアにとって生きるに必要ない物でもあった。
あるのは一つの信念だけだ。
感情が焦がすのは、オアの身を変えてしまった悪魔を滅ぼすという一念だけとなった。
転機はとてつもない規模の嵐が来た夜のことだ。
猛烈な風雨が吹き荒れて、谷底に溜まる水位が尋常ならざるほど上昇した。
身を食われ、くたばっていたオアを持ち上げて、水そのものが大地へと運んで行く。
目を覚ましたのはそんな時だった。
オアは水の中で大地を転がっていたのだ。
水位が上昇し、長年作り上げられた勾配によって、巨大な鉄砲となった水に押し出された。そして、オアの身体は谷底にある沼の池から地表に戻ってきたのである。
全身が残ったまま意識が明瞭なのは稀だった。
少なくとも谷底に落ちてから数百年以上の月日の間、五指で数えるに足りただろう。
穴に転がり落ちて沼の中へと身を投げ出してから、両の脚で立ち上がる事の無かったオアは身を起こした時にバランスを崩して転倒した。
全身を豪雨に打たれ、目の前すら見えない。視界が塞がってしまう猛烈な風雨の中で樹木を支えに立ち上がる。
胸元を抱けば、家印石が無くなっていた。命よりもオアにとって大事な物。唯一の家族との繋がりを示すシンボル。
慌てて視線を胸元に落とせば、オアの胸に食い込むように石が皮膚と癒着している。安堵の息を大きく吐き出した。良かった。
どの様な形であれ、自らの唯一の『人』として生きた証が失われずにある事。家族に託された一つの願い。失くしていれば気力を根こそぎ奪われていただろう。
身体の中に埋め込まれたこの家印石が、オアを『人』でいさせてくれる。
人であるオアが思う事はただ一つ、変わらない。
今すべき事は分かっている。
谷底で呪い子の身体を食い続けた悪魔の魚を葬ることだ。
あの沼の魚。悪魔と変わらぬ瞳を持ち、漆黒の鱗を生やして人の肉を食らう、アレを滅ぼさなければならない。
水の中で自在に動くヒレと尾。水の中に潜り生身で挑むことは、例え四肢を取り戻した今であっても叶わないだろう。
オアはどう沼魚どもを殺せば良いのか、分からなかった。
その時、雷が落ちて天まで伸びる大木を真っ二つに引き裂いて炎上した。
オアは嵐の中でその炎を見つめた。
天の恵が悪魔の魚たちの拘束を解いてくれた。
同時に、こうして揺らぐ炎で道を示してくれる。オアは一度だけ空を見上げて天意に感謝を告げた。
オアは家族が信仰していた神の名を知らない。長い時間を経て名を失ってしまった。悪魔に変態している呪い子の己に、神も感謝などされたくはないだろうが、それでもだ。
オアは目の前で燃える大木へと近づいていき、その腕を業火の前に晒した。
この嵐の中でも囂々(ごうごう)と音を立てて木々を猛烈な火勢で類焼させていた。差し出した手が瞬く間に熱に晒されて焦がし肉を焼き落としていく。
オアは痛みと熱によって目を細めて呻いた、しかし決して燃え落ちる皮膚から顔を逸らす事はしなかった。
焼け焦げた、皮膚の剥がれた剥き出しの手は僅かな肉と筋を残し骨だけとなった。
オアはそこで猛火から身を引くと、骨だけとなった手を自らの身体から剥がした。
乾いた音が響いて落ちた骨を無事な手で拾う。近くにあった手ごろな石で叩き、その骨を削り落とす。顔からは大量の汗が吹き出し、鼓動も跳ねるように頭の奥から響いていたが、痛みは感じなかった。
グン大老から戴いた弓は既に失われたが、オアは武器という物に関しては狩猟用として貰った弓しか知らない。水場の魚を獲る為の罠を仕掛ける事もできないし、その構造を思いつくこともなかった。
故に、オアは矢を造ることにした。
石ではなく、自らの骨を矢じりとしたのは最も硬い身近な物で数を多く作れるものを選んだのだ。
それは直感に過ぎない。石器を加工する方法も知らなかったのだから、これはオアにとって最善の選択であった。
悪魔である沼魚に、普通の石を投擲するだけでは太刀打ちが出来ないと思ったからだ。
呪い子として悪魔に弄ばれた己の身である骨ならば、鱗を引き裂き肉を抉る武器になると考えたのである。
指の数だけの骨の矢じりの制作が終わった。雷による山火事は一昼夜かけて続き、ようやく収束していったようで朽ち果てた焼野原が出来上がっている。
燻っている燃木の煙で矢を炙りながら、焼かれて開けた山の様相をオアはじっとりと眺めた。
どれほど幽谷の底に居たのだろか。こんな場所をオアは通っていたのだろうか。
孤独には慣れたが人は恋しい。
思えばオアは獣のように吼えることはあれ、言葉を喋ることは無くなってしまった。
古くなってしまった記憶を掘り返して、口を開けばまだ声帯が再生していないのか。
乾いた音だけが少しだけ漏れるだけで、意味のある繋がりにはならなかった。
オアは言葉を失っていた訳ではないが、ここに人は居ないのだ。口に出す理由も無かった。
ここはオア一人だけの世界なのだろうか。悪魔が全ての人間を滅ぼしたのだろうか。
いくら歩き続けても人には出会えることがないままだ。本当に家族以外の人が居るのだろうか。
もしかして、もうこのまま誰とも逢えないままにと、神に導かれているのかもしれない。
オアは呪い子であるから、神が人を守る為に手を入れて決して自分とは会えない場所に人間は保護されているのかもしれない。
しかし、それはそれで良い。呪い子として悪魔と変わらない身体を持った自分の運命が、孤独であるべきだと言うなら受け入れられる。
ならばこうして死せず、ただ大地をうろつくオアという存在は、悪鬼を滅ぼす為の刃であり続けるべきだ。
人間を守る為に、新たな呪い子を生まれさせないためにも、悪魔を撃滅する、ただただ研ぎ澄まされた矢として在るべきだ。
オアは顔を上げて植物の弦を削ぎ落して作り上げた、粗末な弓を肩に担いだ。不格好だが、グン大老に戴いた弓を模した物だ。
山の形を変えるほどの風雨ではあったが、沼魚の住処かは変わらずに深い谷の底にあって、その黒く艶のある鱗が太陽の光を反射していて存在を主張していた。
オアという人間の3~4倍はあろうかというその身を翻し、飛沫をあげるその数は10を越えている。
見えている範囲には成体である沼魚10以上。その奥には稚魚が数えきれないほど居るはずであった。
高所に陣取って、骨を削って作り出した矢を打ち放てば、殆どは外れてしまったが数本は魚に突き刺さってくれた。
緑色の混じる水の中に、赤黒い線が広がっていき、確かなダメージを与えている事をオアに教えてくれている。
オアは笑った。
私の身体は美味かったか、悪魔め。全てを滅したら、今度は私が食らう番だ、思う存分に嬲ってやるぞ。
骨を削り、矢じりを作って弓で狙い定め、悪魔を穿つ。
オアは憑りつかれた様に、長大な時間をかけて深い谷間の底で逃げる場所の無い沼魚を射り続けた。
矢の殆どは外れて自然に還っていったが、沼魚の数は徐々に、少しずつではあったが確実にその個体の数を減らされていく事になった。
それは時間の感覚に乏しくなったオアでは測ることが出来なかったが、実に7年以上にも及ぶ作業となって、完遂を見る。
全てを滅したオアが、宣言通りに谷の底に降りて、朽ち果てて最早、腐り切った魚の身に飛びつくようにして歯を立てた。
食中毒を併発し、胃の中は爛れるような焼ける痛みが走っていたが、オアは目に見える全ての沼魚を、押し込むように口の奥に流し込んだ。
途中、生体反応から吐瀉した物も。稚魚を含めて全て、その全てを身体の中に押し込んで。
しかし沼魚の一部―――おそらく沼魚の中でも頂点に立つ―――魚の額に生える骨だけは消化もすることができず、唯一残ってしまった。
どうやっても処理することが出来なかったオアは、石で腕の皮膚を削り、自分の骨の中に沼魚の骨を埋め込むことにした。
呪い子となったオアの身体は時間の経過ととも修復されていく。
胸元にめり込んだ家印石がそうであったように、沼魚の悪魔の骨も、オアの腕の骨と癒着する様に結合し、やがて皮膚で覆われて行った。
これはオアの新たな武器として活用するに足る強度であった。
乾いた谷の沼の底。
陽光を防いでいた大木の多くは焼かれており、この谷の底まで陽が差すようになった空を見上げる。
身体の一部となった悪魔の骨の入った腕を掲げ、太陽の光に目を細めてから。
オアは使い古された不格好な弓を投げ捨てて、旅を再開した。
行く当てのない、終わりなき報復を誓った死の旅を。