.02 食らい生きる
02. 食らい生きる
行くあて無く、目的すらも存在しない旅は過酷だった。
悪魔に弄ばれた身体は決して朽ちることが無いという事実を知ったのも、この旅の最中である。
10歳であるオアにとって、自然と大地は余りに過酷な環境であった。
同時に、村を治めていた大老たちの偉大さを認識する。
まず最初に襲い掛かった猛威は人として避けられぬ欲求の一つだった。
血肉を求めて地面を這いずり、胃の中に入れられそうな物はなんでも口の中に放り込んだ。
その結果はオアに毒という存在を教えてくれた。猛烈な吐き気、眩暈、神経そのものが引きちぎられるかのような激痛。
気が付けば陽が沈み、深淵の中で大地を這いずり回って伏せていた。
オアは当然意識を失っていたが、目を覚ましても苦しみは止まらない。胎内で臓腑が腐り落ちる音が頭の奥から響いた。
悲鳴に近い金切り声を挙げれば、口の端から零れ落ちたのは赤黒い血反吐である。
オアの視界は再び暗転し、次に瞳に映った物は雲一つない晴天。
消耗した体力、全身に帯びる倦怠感。そして、どうしようもないほど自覚する飢餓と渇き。
繰り返し、繰り返す。
何度も同じように、飢えに溜まりかねて見たことも無いような口に入れられそうなものを探しては食する。
恐れと覚悟を宿して、思い切って未知を噛む。人体に毒であるかどうかすらも知らず、解らず『生きる』という本能に従ってひたすらに咀嚼する。
訪れるのは体の拒絶。何が安全に食べられるのか、何を食べれば良いのか。
オアは知らなかった。
成人として認められる前、欲求の一つである食というものを与えられるだけだったオアは安全を知り得なかったのである。
故郷を営む大老の偉大さ、そして大きな背中は誇張なく生死を分ける知恵を紡いでいたことを理解した。
幾たび、死んだか。
自覚ができたのは安全に食べられる野草や果物などを、なんとなく分かってきた時だった。
オアは延々と続く食中毒と飢餓の中で生きていた。
オアが理解することが出来ない状況であったが、食事を比較的安全に摂ることができるようになるまで凡そ30年以上の月日が経過している。
呪い子として死なない体になった事を思い出したのも、その頃だった。
鬱蒼と茂った森の中で枯草と樹洞に身を預けて、赤く色づいた果実に齧り付く。
見上げた満点の星空は、突き抜けるような青と黒に光点を灯していた。
雲なく見渡す限り無限に続いていく夜の海に、オアは喉を鳴らして胃袋へと果物を落とす。
去来した感情は寂寞たるものだったが、この時のオアはそれに気付かなかった。
あまりに小さな自身を感じ、世界に拒絶されたような違和感を覚えてそっと首から下げた家印石を右手で握り込んだ。
鼓動と連動し、触れた指先が震える。
そうすることでオアは力を貰えた気がした。
命という物について深く考える余裕は生まれなかった。
大地を歩き、丘陵を上り、森に潜み、湖を泳ぎ、未知を進む。
目的地はなく、頼りの無い両の足を踏みしめれば土煙が中空で溶けて行く。
太陽の熱に焦がされて、吹き付ける風雨が体を叩く。
当てどもなく大小さまざまな原生の動物たちがオアを襲い、時に食らった。
呪い子として異形の悪魔にその身を変えてしまったオアは、自らを貪る獣を見て悪魔の血を分け与えてしまっているのではと恐怖した。
そして悪魔の呪いが伝播していくのだろう、と震える事になった。
自然、オアは大老が与えてくれた弓と矢を番えて身を護る事を覚えることになる。
時には自らの身を護ることが出来た。もしくは息を潜ませてやり過ごし、逃走が叶えば幸運であった。
生と死を繰り返しながら、オアは大地を進んだ。
その生死の循環は少しずつ、少しずつだが僅かに遅れて行った。
目的地はない。
一匹の獣と同じように、たった一人の呪い子としてその日を『生きる』為、死中に糧を求めて歩いた。
胸中に宿した激烈な衝動を、胎内に抑え込みながら。
始まりを意味する名を送ってくれた大老と、故郷に誓った。
悪魔よ、私はここに居るぞ。
お前たちを滅する始まりの者。
オアとなる。
さぁ、早く私の存在を知ってくれ。
そのために大地を歩き、死を迎えまた『生きる』ことを受け入れたのだ。
悪魔の呪い子がきっと出迎えよう。
必ず貴様らを見つけ出して、滅してやるぞ。 悪魔。 悪魔め!
オアは歩く。
遅々として進まぬ足を運び、何処とも知れぬ場所を目指して、死にながら歩く。
始まりの時を告げる為、胸中に尽きぬ灼熱の激情に蓋をして。
胸元の家印石を握り込めば、力が貰える。
家族がくれた勇気に火が灯る。
『生きる』ための力を。
自然が形成する構造は、時に人の想像を超えてゆく。
火山活動、風雨、地質の構成に地殻の変動。輝く太陽も闇夜を照らす月光も、その全てが交わり自然を育む。
燦燦と輝く太陽の猛烈な光線を遮り、完全なる闇を産みだす深い渓谷と天空に突き抜ける針葉樹。
岩を削る大量の水が川となって海を形成し、循環の果てにまた岩をこそぎ落として結晶を造る。
あらゆる場所に風は吹き、砂を巻き上げて嵐となる。そしてまた、違う場所で堆積する。
全ての要素が絡み合って複雑な行程の果てに、大自然は形成されるのだ。
ある時、オアは深い渓谷に落ちた。
完全に覆い隠された落葉に、オアの眼に映るものは穴を発見することが出来なかった。
永い時を歩くオアにとって、それは珍しい事では無かった。
自然に作られた天然の罠。時折それは猛威を振るう事を経験から知っていた。
たまたま嵌入し、つっかえ棒の様な形で助かる事はある。
しかし今回の穴は深く抉れた大地の底まで、転げ落ちる事しかできないほどの深い穴であった。
大地が作り上げた幽谷の底には溜まりがあった。
水と泥で出来上がったソレは沼であり、オアはその中に真っ逆さまに突っ込んでいった。
浮き上がる事も出来ず、そもそもが落下した衝撃で命を奪われている。
そのまま長い月日が流れた。
眼が覚めるとオアは泥濘の中で溺れた。口の中はおろか胃のすべても土砂で埋まり、体中の毛穴すらぬめった土で覆い隠された。
呪い子として悪魔の力で目が覚め、そして体内を埋め尽くす土砂によって即座に窒息死する。
繰り返される生死の循環は無限に続けられて、暗黒の中で過ごす事が当たり前となった。
大地は風雨によって少しずつ削られていった。
淀んだ世界が循環を始め、大掛かりな土砂崩れが起きた時にオアの身体そのものが谷の底から運ばれたのである。
大地が鳴動し、空に浮かぶ幾つかの星が形を変えて巡り終えると、オアはその身体が半分だけ水に浮き出ている事に気が付いた。
何か、小さな音が半身だけになったオアの耳朶に響く。
沼のような水の中に、異音が生じる。
身体を起こそうとしたオアは、劈くような音と啄まれている様に音を立てる水面に引っ張られた。
水面に飛沫が舞い上がり、滑った身体を銀色に光らせて空を踊る。
半身だけを出して寝転んでいたオアの瞳に、口から牙を生えそろわせた巨大な沼魚の姿が映し出された。
オアはその時に理解した。
身体を啄み、その肉で腹を満たしてオアを栄養としたのがこの沼魚であると。
立ち上がろうとして、歪むように視界が回る。
空を映し出していた視界は大地にひっくり返って、沼の中に"自ら"の手足が沈んでいるのを見つけてしまった。
それまでまったく気付かなかった、沼には巨大な魚のほかに、その子供である小さな沼魚が犇めいていた事を。
半身の手足を失って目を覚ましたオアにはどうする事も出来なかった。
沼魚が再び近づいて、その巨躯を用いてオアの身体を転がし、また最初の態勢であった時の様に半身が沼に埋もれて行く。
そして啄む、無数の口。
泥濘に藻搔き、身体を起こしても沼魚はその度にオアをひっくり返した。
死を前にオアは背びれを震わす巨大な沼魚を睨みつけた。
動けないまま身体を刺してくる、焼ききれそうな痛みにうめき声をあげていると、やがて耳障りなオアを食す音が止んだ。
子魚の食事が終わったのだ。
皮膚はぐずつき、腐敗した肉の匂いとその断片をまき散らして、血だまりに沈むオアは這いずるように沼の中を泳いだ。
食われている最中に視界に一つ。大地を打つ水の音を響かせるものに上陸する。地面があった。そこへ向かおうと残されている手足を伸ばせば、回遊するように巨大な魚影が周囲を巡る。
死なない餌。
胎を満たすそんな都合の良い存在を逃す訳がないのだ。
オア自身も飢餓に震えて死を繰り返した。この目の前の生物。沼魚がオアの逃走を許す事などしない。
伸ばした手足を引っ込めれば、沼魚はふたたび水の中に身を沈めて消えて行く。
諦めた訳ではない。
このまま沼の中で一生を過ごすつもりなど、毛頭ない。
オアは知らなかったが、その胸中に溢れる感情は歓喜に似ていた。
水しぶきを上げて中空に躍り出た時にオアは見ている。この沼の中でオアを食い続けた―――呪われた悪魔の血肉を吸い続けた者の正体を見ている。
魚とは思えない牙が生えそろい、変質した鱗はドス黒く、赤色に揺らぐ目を持ち、人の肉を覚えた。
悪魔の子を餌とし続けたからか、それとも最初からそうだったのかは知る術がないが。
オアは笑った。
家族の下を発ってからどれだけ歩いた。
やっと出会えたのだ。
食ったのだろう。 呪い子である私を。
元からならば躊躇いはない。 変容したとて変わりはない。
心の底から沸き上がる昏い喜びは、オアの唇は音を立てる事無く震えた。
見つけたぞ、悪魔よ―――貴様は私が滅ぼして、食らってやる
泥濘の底でオアは笑い、胸元の家印石を残った手で強く握りしめた。