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ただ、暗闇の中に居た。
瞼を開けていても、閉じていても、見える景色は変わらない。どこまでも、どこまでも、暗い闇が続いているだけだ。
何時間経ったのか、それとも何日経ったのか、それすらも分からない。
水音と喘ぎ声、そして時折、獣のようなうめき声が聞こえる闇の中。非現実的なアダルトゲームのようなそこは、まだ精神的に幼い少女である陰縫陽子の心を苦しませるには、十分過ぎる場所だった。
(誰か、助けに来て……)
ボロボロと涙を流す陽子は服を脱がされ、口には自殺を防ぐ為と栄養を送り込む為の管を咥えさせられ、柱へと縛り付けられていた。
いくら暗闇の中とはいえ、隠したい箇所を隠す事も出来ないのは、酷く恥ずかしい。この状態にされた時には、まだそう思えていた。けれど、一つまた一つと嬌声の声が増えて行くにつれて、そんな事を考える余裕すらなくなっていった。
何時、自分が彼女たちと同じようにされてしまうのか。暗闇の中ではあるが、何が行われているのか、判断する事は出来た。
逃げ出したくても、体を捩る事すらできない。
自死しようと思っても、出来る事は何もない。
いつか来る、周りで犯されている彼女たちと同じ運命を辿る事しかできない。
ガチリ、と陽子の隣で音がした。
「嫌!やめて!ねえ、やめてよ!こんな事して何が楽しいのよ!そうだ、私じゃ無いで隣のあの子にしなさいよ!ねえ、ほら、あの子の方がきっと良い声で啼いて──あぐぅっ。いやぁ……抜いてよ、これぇ。抜きなさいよぉ……」
陽子と同じように捕らえられていた名前も知らない娘が、ほかの娘たちと同じように泣き始める。
隣の少女が犯され始めた事を察した陽子は、さらに多くの涙を流し始めた。拭う事のできない涙が頬を伝い、陽子の足下に小さな海を作っていく。
(嫌だ、こんなところで終わりたくない)
動かない腕を動かそうと藻掻く。足枷を壊す為に力を込める。喉元まで詰められた管を噛み砕こうと歯を立てる。
ギチギチと腕が嫌な音を立てる。力を込めた足が無理な動きに痛み始める。硬い管に突き立てられた歯から嫌な音がする。
逃げ出せないと分かっているのに、そんな事をしても無駄だと分かっているのに、生きる為に今更藻掻く。遅いのだと分かっていても、それでも藻掻く。
涙が流れるのなんて気にしていられない。身に纏うものがないのも気にしている暇はない。隣の彼女と同じようになる前に、名前も知らない誰かと同じ目に遭わない為に、今はただ、生きる事だけを考える。
力の足りない腕は動かない。非力な足では枷を壊せない。獣のものよりも脆い歯では管を噛み砕けない。
こつコツこつコツ。
足音が、聞こえる。水音と喘ぎ声に混じって、固い床を蹴る靴の音が。陽子を壊す為に、足音が近づいてくる。
玉のような汗が落ち、涙の海へと加わる。
ガチャガチャと体をやたらめったらに動かし、逃げだそうと藻掻き続ける。
こつコツこつ、コツン。
陽子の目の前に、一人の男が止まった。暗闇の中でも分かるほど近くに止まった男は、黒い長髪を後ろ手に纏め、モノクルを掛けていた。
男は、陽子の事を視界に収めると、口を歪めて笑った。
「おや、おやおやおや。まだここまで元気な子が居るなんて、良い事じゃあないか。さあ、ようやく君の番だ。他の子らと同じように、泣き、叫び、喘ぎ、そうして私たちにとって都合の良い苗床と成って──」
──轟!
男が言葉を紡ぎ終えるよりも先に、言葉を遮る轟音が響いた。
暗闇に光が差し込み、周りの様子がよく見えるようになる。陽子が目だけを動かして周りを見ると、口に出すのも憚られる光景が広がっていた。
陽子は、思わず目を閉じた。これから自らの身に起きようとしていた事、他の子らに起きていた悲惨な事から、目を逸らす為に。
そして、目を閉じた陽子の耳に聞き慣れた声が届いた。
「よい、しょっと。見つけたよぉ、こんな所に隠しちゃってまあ、そんなにここが大事かねぇ?」
その声は、少女のものと言うには少し低く、けれど大人の女のものであると言うには高かった。
「どうやって見つけた。ここは、誰にも見つからないように厳重に守られれいたたはずだが?」
「目に付いた壁、全部壊してきただけだよ。ここの壁、もう少し固くした方が良いよ。私程度で壊せるなんて脆すぎる」
「忠告感謝するよ。それで?ここには何の用で?まさか、単身でここに捕らえられた人間を助けに来たとは言わないだろう?」
「その"まさか"だよ。私の大切な幼なじみが捕らえられたって聞いてね。ついでだから、全員助けに来た。それだけだ」
何日も聞いていない訳でもないのに、懐かしく感じるその声に、陽子は目を開いた。
光の差し込むそこから少しだけ横にずれた場所に、彼女は立っていた。普段とは違う髪の色に、豪華絢爛と評するのが正しいドレスを身に纏っていた。
「はっ、ははははは!お前一人で、全員を助ける?冗談はよしてくれ。お前一人では、ここにいるこいつ一人すら、救う事など出来はしないさ」
男の手が、陽子の足を撫でる。
ぞわぞわとした感覚が陽子を襲い、止まりかけていた涙がまた、溢れ出す。
「……よし、殺す。今すぐ殺す。お前の肉も、灰も、細胞の一片たりとも残さず殺す」
その様子を見た少女の様子が変わる。敵地にありながら弛緩していた雰囲気が、冷たく、鋭利なものへと変わった。
「殺す、殺すときたか。ならば、お前がこの娘を助けるよりも前に、私がこの娘を殺して見せよう。腹を割き、臓腑を掻きだし、惨たらしく、世界の染みへと変えてやろう」
「残念だけれど、それは叶わないよ」
パチン、と少女が指を鳴らす。
「大切な人に、何も施さないとお思いで?」
嘲る声。いつもとは違う、人を馬鹿にする声音。陽子の知る彼女が出すとは到底思えないその声は、陽子のすぐ隣から聞こえた。
腕を固定していた器具の感触はない。足を止めていた枷の感触もない。喉元まであった管の異物感もない。体全体を覆っていた窮屈な感覚も、全てなくなっていた。
「君の事は、命に代えても守るって決めてたからね。助けに来たよ、陽子」
柔らかく、暖かな小さい手のひらが陽子の頭を撫でる。
「あ、ああぁぁあぁあ……ひいろ、ありが、とう」
大粒の涙を流し、幾日かぶりに発した声は、酷く震えていた。
「うん、でも、ありがとうはまた後でちゃんと聞くよ。まずは──」
「嗚呼、なるほど、なるほど。もとよりその娘を救出する術は、はじめから用意していた訳だ。ならば今一度、その娘を捕らえよう。そうして、お前すらも捕らえよう。小娘、お前は、死んだ後ででも苗床として利用してやろう」
「あの、糞野郎を殺してやる」
涙に霞む視界の奥で、男が笑ったのが見えた。モノクルの奥で瞳を楽しげに歪め、人のものとは思えないほど鋭い犬歯を剥き出しにし、笑っていた。
冷たく、鋭く、体の内を刺すような殺気が陽子たちを襲う。
戦いを知らない陽子は、その殺気に死を幻視する。首が飛ぶ、四肢が切り離される、胴体が泣き別れる。その他、陽子に想像する事が出来た死の映像が、脳内に流れた。
「陽子、大丈夫。すぐにここから逃がしてあげるから」
耐える事の出来ないその幻視に、陽子の意識が落ちる直前。優しい声に混じって、カチリと音がした。