検査
スタッフは、颯と同じで皆とても若かった。
意外にも外国人が多くて言葉が通じるのかとハラハラしたが、全員流暢な日本語を話した。
発音に訛りもなく、日本で育った人達ばかりなのだろうと俊三は思った。
総勢二十人の大層な準備だったが、全員がきびきび動き、準備に時間は全く掛からなかった。
看護師もいるのかと思っていたが、全員が医師なのだと言う。
海外に留学経験のあるもの達ばかりで、何ならあちらから来ているものまで居て、結構なエリート集団のようだった。
一人に一人、きっちり医師がつく状態で、それでも余るほど医師が来てくれているので、じっくり話を聞いてもらえた。
俊三も、問診してから血液、尿、血圧、レントゲンなど結構な数の検査をこなして、それも全部受け持ちの医師がくっついて来て一々やるので、町の病院に行くよりずっと診てくれているという気持ちになった。
一人残った颯は、皆の流れを見ていて、必要なら手を貸してあちこち動き回っていた。
俊三の受け持ちの医師は外国人で、ジョアンという男だったが、それはニコニコと感じの良い人で、検査が終わる頃にはすっかり心を許していた。
検査も終わって、結果を出すのでと医師達が別室に引き揚げた後、ふと見るとまだ、忠司の担当の医師が颯と共に検査しているところだった。
…忠司、今日も具合が悪いのか。
俊三は、忘れていたと急いで忠司に歩み寄った。
「どうした?忠司、先生の言うことを聞かなきゃいけないだろ。」
忠司は、こちらを向いた。
「俊三?」
俊三は、名前が分かるか、と頷いた。
「そうだ。ほら、左の足首のことは言ったか?痛むんだろう。」
忠司は、首を振った。
「オレより加奈子を診てくれって言ってるのに。お前からも先生に言ってくれよ、加奈子が背中が痛いって言ってるんだ。」
俊三は、ため息をついた。
「…その、膵臓癌で嫁さん亡くしてて。」小声で颯に言うと、颯と忠司担当の医師は気取って頷く。俊三は声を大きくして続けた。「加奈ちゃんは大丈夫だ。お前が診てもわなきゃ。加奈ちゃんだって安心できないぞ?ほら、おとなしく…ええっと、心電図か?取ってもらわないと。」
そこへ、ジョアンが顔を出した。
『他の方の検査結果は出ましたよ、ハリス。』
英語だ。
俊三が何のこっちゃ分からんと顔をしかめると、颯が答えた。
『認知症みたいで。心電図以外は終わってるから、その結果を先に出しておいてくれないか。』
こっちも英語。
俊三がますます顔をしかめていると、急にスッと真顔になった忠司が、鋭い目で颯を見て英語で言った。
『認知症?オレは認知症じゃない。』
びっくりした颯が忠司を見た。
俊三も、その辺で成り行きを見ていた皆も固まって忠司を呆けたように見ている。
「え…忠司、お前英語が分かるのか?」
忠司は、頷いた。
「オレは海外勤務が長かったからな。加奈子だって話せたんだ。あいつは…ろくに楽しむ暇もなく、逝っちまったが。」
忠司がまともになっている。
「颯さん、忠司は時々元に戻るんです。今なら行けます。」
恐らく長く現役時代に聞いていた英語を聞いて、正気に戻ったのだろう。
そのまま、颯と忠司の担当医師は二人で心電図を取り、そして別室へと出て行ったのだった。
別室は、小さな娯楽室だ。
娯楽とは名ばかりで、ガランとした椅子とテーブルだけの何も無い部屋で、もっぱらカフェ跡の部屋に集まるのが日課の皆には馴染みの無い部屋で、今はそこにはたくさんのパソコンが置かれてあって、その他訳がわからない機器がぎっしり詰まっていた。
外から覗いただけなのでよくわからないが、医師達は今、そこに集まって検査結果を見ているようだった。
俊三は、他の十八人とカフェで待ちながら、そろそろ昼だなと口を開いた。
「…昼飯はどうする?思ったより大人数だぞ。」
喜美子が言った。
「憲ちゃんと話してたんだけど、私の担当のお医者様がね、食べ物は自炊できるから問題無いっておっしゃってるの。だから、私達は私達の事だけ考えたら良いみたいよ。」
憲子が、頷く。
「そうなのよ。だから、とりあえずお昼ご飯を食べに帰る?まだ時間が掛かりそうだし。」
すると、忠司が立ち上がった。
「なんか夢を見てたみたいな気がする。何か食べて来る。めちゃくちゃ腹が減ってるんだ。」
それは多分、ボケてたからだろう。
俊三は、慌てて立ち上がった。
「お前、ボケてたんだよ。家に帰っても何も無いかもしれないぞ?オレの所に来い、何か作ってやるから。」
忠司は、顔をしかめた。
「またか。オレ、時々何か分からなくなるんだ。お前や他の誰かが話し掛けてくれてるように思うんだが、それも断片的でな。夢の中みたいで…加奈子もまだ生きてて。でも具合悪いから、オレが家のことやらなきゃってさ。」
だったら家事はしているのかもしれない。
俊三は、頷いた。
「とにかく今はハッキリしてるなら、先にお前んちの中を確かめとこう。めちゃくちゃだったら今のうちに掃除して。とにかく昼飯だ。先にみんな帰っててくれ。先生達に知らせてくるよ。」
皆が頷き、帰宅のためにカフェの掃き出し窓へと向かう。
俊三は、一人公民館の内側から娯楽室へと向かった。
そして、扉をノックして出て来た颯に一度帰宅することを伝えると、颯はでは三時にまた戻って欲しいと言って、快く俊三を送り出してくれた。
俊三は、良い先生ばかりで良かった、と思いながら、忠司の家へと皆を追って、急いで下って行った。
忠司の家は、俊三の家から一番近い位置にある。
この場所は、この辺り一帯を買い取った不動産会社に開発されて別荘地にされようとしていた場所なので、山の斜面を綺麗に蛇行するように登っていく道沿いに、鬱そうと繁った木々の中に隠れるようにして、12戸の家が建っていた。
道幅は広いのだが、少し急な坂で一番下の昭三と憲子の家から公民館まで、結構な道のりになり、憲子が歩いて行くのはと愚痴るのも分かる様子だ。
それぞれどこやらのデザイナーがデザインしたとかで、違う形の家が建っているのだが、俊三と幸子の二人が一番早く購入を決めて押さえたので、一番高い位置で明るい大きな場所が取れた。
上から順に売れて行って、最後が昭三達だったので、こういう並びになっていたのだ。
思えば、幸子はここへ引っ越した来た時にはとても喜んでいたものだった。
まだ公民館のカフェもやっていて、町から来た若い夫婦が経営していたものだったが、こんな山村のカフェになどこの12世帯の隠居した者達しか来ないし、たちまち成り立たなくなって、店を閉めて出て行ってしまったのだ。
外との交流のなくなって、思うと幸子もおかしかったのかもしれない。
同じ皿を何度も洗っていたり、散歩に出ても変な道に入って行こうとしたりして、何となく様子がおかしいとは思ってはいたのだ。
それでも、妻が認知症を患っているかもしれない、ということの重さを思うと言い出せなくて、普通に生活できているので気のせいだと思うことにしていた。
そうしたら、ある日腹が痛いとトイレにばかり籠るようになったので、おかしいと町の病院まで連れて行ったら、もう手遅れだと言われたのだ。
俊三は、幸子が自分自身の異変にも気付けなくなっていただろうことを何となく分かっていたのに、もっと早く側に居た自分が病院に連れて行ってやれば良かったと今も後悔していた。
そんなことを思いながら忠司の家へと入って行くと、声を掛けた。
「忠司ー。どうだ、何か食うもんはあったか?」
俊三が言って中へと廊下を進んでいたが、返事はない。
忠司の家は、他の家と比べてかなりの広さを誇り、部屋数も多くて別荘というより屋敷のような場所で、廊下も長い。
どうして隠居するのにこんなに大きな家をと聞いた時には、子供や孫が来た時に一人ずつ部屋を与えてやるためだと言っていたものだった。
思ったよりずっと綺麗に片付いている部屋の中を歩いて広い居間へと入ると、忠司はそこで、またぼんやりと座っていた。
テーブルの上には、入れたばかりらしいお茶が二つ、湯飲みから湯気を上げているのが見える。
どうやら、そこに加奈子が居て、二人で茶を飲んでいるつもりのようだった。
…家に帰って一人になるといけないのかもしれない。
俊三は、思った。
だが、あいにく自分は英語はからっきしだし、ここでさっきのように正気に戻すきっかけを作れそうにない。
仕方なく俊三は、言った。
「忠司、飯の時間だ。なんか作ろうか。」
忠司は、こちらを見た。
「なんだ、俊三か。ああ、加奈子は具合が悪くてな。作ってくれたら助かる。」
俊三は、ため息をついて頷いた。
「だったら、キッチンを勝手に使うぞ。」と、勝手知ったる部屋の中を歩いて行った。「材料はあるか。まあ、無かったらオレが家で作って来る。」
俊三は、そう言って忠司の家のキッチンへと向かったのだった。