日常
「おーい!」
俊三は、遠くから聴こえる声にそちらを向いた。
この土地に来てからというのも、俊三は毎日、朝の清々しい空気の中、静かで鳥の鳴き声しか聴こえない土の道の上を、散歩するのが日課になっていた。
退職してからもう十年以上、こうして続けて来たことで、ここに住んでいる皆は俊三のそんな動きは皆把握していて、何か用があれば、その散歩ルート上を探して来てくれるのだ。
見ると、軽トラに乗った貞吉が窓から手を振ってこちらに叫んでいた。
運転席には、茂男が居てハンドルを握っていた。
「おー、貞吉!どうした。なんかあったか。」
軽トラは、立ち止った俊三にそろそろと近付いて来て、目の前で止まった。
「大ありだ。町からあちこちボランティアで回ってるとか言う医者が来て、健康診断してくれるんだってさ。なんでも、ここみたいに病院が無い村を回って遠出できない老人の健康管理をするのが目的だとかで。認知症のことも調べてくれるみたいで…ほら、忠司の。あいつ、悪くなってるだろう?」
俊三は、顔をしかめた。
自分達は、全員退職してからこちらへ移って来た者達ばかりだ。
この辺りを開発して別荘地を作ろうとしたようだったが、生憎ここを買おうという人が居なかったようで、そうなって来るとその、開発した会社も困るようで、方向性を変えて老後の永住地に静かな山村で、と格安で売りに出したのだ。
それに飛びついたのが、俊三を始めとする12世帯の人々だった。
元は別荘だったので瀟洒な建物で中はそんなに広くはなかったが、妻を説得してここへ引っ越して来たのが定年後、しかし妻は程なくして病に倒れ、結局町の病院でひと月ほど入院した後に、他界してしまっていた。
町まで距離がある上、バスが村外れの舗装道まで出てしばらく歩いた停留所に、日に三本しか来ない。車で行けばいいのだが、それも億劫で具合が悪いと思いながらも通院をしなかった末の手遅れだった。
そして、村には歳の近い者達が肩を寄せ合って生活しているのだが、そのうちの一人の、忠司が最近、言動がおかしいのだ。
「…だが、忠司はどこも悪かないだろう。ちょっと頭の具合が悪そうなだけで。」
貞吉は、顔をしかめた。
「それが具合悪いっての。昨日、公民館の回りをウロウロ回ってて、どうしたんだと聞いたら車がないって。車なんかあいつ、こっち来てから乗ってないだろう。全部売り払ってあの家買ったんだって自分で言ってたのによ。医者が来たら、見てもらってちょっとでも良くならないかって。あのままじゃ、あいつの娘が次に来た時にはきっと町の特別養護老人ホームに連れてかれるぞ?まだはっきりしてる時もあるのによ。そりゃ可哀そうだろう。嫁さんも居ないのにさあ。」
言われてみたらそうだが、ここに留めて夜中にでも徘徊して、裏の池にでも落ちたら大変な事になる。
とはいえ、医者が来てくれるのは有難かった。
今生きて居住している者達19人の、健康状態をしっかり把握しておきたいのだ。
「今から公民館に来た知らせを見に行くんだ。」茂男が、運転席からこちらを覗いて言った。「乗れよ。一緒に行こう。」
俊三は頷いて、軽トラの荷台に乗ろうと手を付いた。
ちょっと前までは、何でもない高さだったのに、かなり頑張らないと足が上がらない。
だが、そんな事を二人に気取られるのが嫌で、俊三は表向き、何でもないような顔をしながら必死に足を上げて荷台へと飛び乗り、何とか荷台に尻を落とした時にはホッとした。
「俊三?なんかエラい音したが大丈夫か?」
俊三は、痛む尻を我慢しながら頷いた。
「ちょっと勢いよく飛び乗っちまった。気にすんな。行ってくれ。」
貞吉がハッハと笑った。
「相変わらず元気だなあ。」
本当は元気ではないのだが、笑うしかない。
俊三は、発車する軽トラの荷台で、そっと痛む尻を擦っていた。
こんな田舎だとは思えないほど立派な、場違いな鉄筋コンクリートの公民館に到着した。
住むのに公民館もないんじゃなあと、渋っていた客にアピールするために、不動産会社が目玉として建てた代物だ。
実際、中には部屋が幾つもあり、災害時にはこちらへ避難できるようにと高台にあって、一階にはカフェまであった。
しかし、カフェはものの数年で撤退し、今は老人達が茶を持ち寄って話をするだけの場所になっていた。
それでも建物は三階建ての立派な物で、十年そこそこではびくともしていなかった。
ここの維持費は住民達が納める自治会費で賄われていて、といっても電気ガス水道代ぐらいなので、今のところ困ってはいなかった。
三人が軽トラを降りて入り口へと歩くと、中から憲子が出て来て言った。
「ああ、俊三さん!貞吉さん達に聞いた?」
俊三は頷いた。
「何か町から医者が来るんだって?」
憲子は、頷いた。
「そうなの。うちの旦那が喜んじゃって、来てくれる先生方のためにって上の部屋を掃除しに行ったわ。ほら、これがそのチラシよ。」
言われて手渡されたチラシには、無料医療相談と大きく書かれていて、その下に健康診断の詳しい項目が書かれてあった。
異常が見つかったら町の病院に診断書も書いてくれるようだ。
もちろん、何か薬を処方してどうにかなるのなら、その場で薬をくれるらしい。
願ってもないことだった。
「…へえ。完全ボランティアだって。一月も居てくれるみたいだな。徹底的に対処してから、次の集落へ行くらしい。」
俊三が言うと、憲子はウキウキと言った。
「そうなのよ。助かるわーうちは旦那しか車を運転しないし、いちいち町まで行ってくれって言いづらいんだもの。ちょっと胃が痛くて、気になってたのよね。」
俊三は、今打ち付けた尻を見て欲しいとは言えなかったが頷いた。
「この際だ、全部治してもらっとこう。うちのかみさんみたいなことになっちゃ大変だ。」
それを聞いて、憲子は一気に暗い顔をした。
思えば、この憲子と俊三の妻の幸子は仲良くしていたものだった。
それが、あまりに呆気なく死んでしまったものだから、憲子もしばらく落ち込んでいたのだ。
もう何年も前のことなのだが、それでも憲子にはまだ、重い記憶なのだろう。
「…さっちゃんのことは、私だって忘れてないわ。お医者様にしっかり見てもらうつもり。」
話しながら中へと入っていつものようにガランとしたカフェの椅子へと向かうと、そこには忠司がぼうっと虚空を見つめて座っていた。
最近、忠司はこんな風だった。
元気な頃は誰より鋭く頭の切れる男だったのに、一年前に俊三と同じように妻を亡くしてから、こうなっていることが多かった。
俊三自身も、最近は物忘れが多くて衰えを感じて来ている。
何か他人事には思えなくて、俊三は笑顔を張り付けて忠司に寄って行ってその背を叩いた。
「おい、忠司!なんだよ、湿気た面して。なんか町から医者が来てくれるらしいぞ?どっか悪い所はないか?」
忠司は、ぼんやりと俊三を見た。
「…ああ?医者?」
俊三は、頷いた。
「そうだよ、医者が来るんだ。」
忠司は、言った。
「オレはいい。加奈子をみてもらってくれ。あいつ、最近背中が痛いって言うんだ。なんか具合悪いのかもしれん。」
加奈子とは、忠司の亡くした妻の名だ。
俊三は笑顔が凍りつくのを感じたが、無理に言った。
「こら。またそんなこと言って。加奈子ちゃんは今頃もう、元気にやってるよ。それよりほら、最近なんか足を引きずってることがあるじゃないか。左か?」
忠司は、ハッとしたように言った。
「ああ…そうだ、左のこの辺がなんかおかしい。」
足首をくねくね動かして、忠司は答える。
俊三は頷いた。
「そうか。だったらみてもらうといい。オレが言ってやるよ。」
忠司は、頷いた。
「すまんな。頼むよ。」
そうしてまた、目を虚空へと向けた。
貞吉が寄って来て、耳元で小声で言った。
「…無理だ。今日は具合が悪いらしい。ソッとしておいてやろう。」
俊三は頷いて、忠司をそのままにして皆と話し合い、二階三階の部屋を掃除しておくことにした。