夕日隠れ
この地は現世の楽園である。
空と海とは澄み渡り、その美しさを正しく賞する言葉は見当たらない。
花も草木も、他の国であれほどまでに見事に咲くことはないだろう。
いつも遠くを見渡せる高みに立ち、浜風を感じながらこの国を幼き身に感じていた。
我はこの国の王となる。
兄は早世した。故に、我がこの国の王である。
幼さ故に、しばらくはそれがわかっていなかった。確と決意を固めたのは、あの日の夜。
間違いなくあの夜が境であった。
「おぬしはこの琉球王国の王になりたいか」
寝床で横になっていた我に、老婆の声が聞こえた。
聞き覚えのない声である。世子である中城王子の寝所にただの老婆が忍び込めるはずもない。この老婆は巫女の生き魂であろうか。
それならば無下にもできぬ。我は身を起こし、月光に照らし出された老婆を見た。
ほつれが目立つ粗末な着物だ。皺の深い顔ながらに、長い白髪は豊かで、それを結い上げて簪で留めている。
生きながらに彷徨う魂を、あるべき場所へ導いてやらねばなるまい。
答えに満足すれば戻るだろうと口を開く。
「無論だ。王にならぬという考えを持ったことはない」
これは天命だ。我が選ぶことではない。
我に課された宿命である。おかしなことを訊く。
それでも老婆は底の見えぬ目で我に問いかける。
「おぬしはこの琉球王朝最後の王となる。それは恥辱に塗れた生を送ることになるやもしれぬぞ」
最後の王とは不吉なことを言う。
老婆の戯言と言いきれぬのは、相手が生身ではなかったせいだ。匂いも熱もない相手は、我の心のうちまで踏み入りそうで、上辺だけの虚勢など意味のないことに思われた。
「最後の王とは、我がこの国を滅ぼすというのか」
すると、老婆は初めてまぶたに埋もれた目に感情らしき色を見せた。
「時代の波に呑まれるとでも言おうか。人の身で――いいや、神であっても避けることのできぬ流れと言えよう」
琉球を呑み込むのは、清国かそれとも薩摩か。幼い我に抗うことなどできぬのだろうか。
それでも、幼くとも我は尚氏の血統。この血を誇る。
「我が最後の王と。ならば、我がならずとも王になれるのは後、たった一人なのだな」
「そうだ。その者が最後の王となる」
老婆の口からはっきりとその言葉を聞いた時、我の中に迷いはなかった。
やはり、答えは変わらぬのだ。
「ならば我が最後の王だ。この美しい国を一時でも我のものとできるのならば、こんなにも幸福なことはない」
「代償は高くつくやもしれぬぞ」
子供が美しい蝶を手に入れて喜びに浸るようなものだと思えたのだろう。老婆の声は冷え冷えとしていた。
けれど、我は首を横に振った。
「我は生まれたこの国が愛しい。海、浜、空、御庭に咲くアカバナー、デイゴ、月桃、――三線、胡弓、それから舞踏、この御城もそうだ。この国は、我の好きなものでできておる。我よりもこの国を愛しむ者はおらぬから、誰にも譲れぬ」
美しいものを集めてできている。ここはこの世の楽園なのだ。
老婆は我の言葉に満足したのだろうか。それとも、気に入らぬのだろうか。口の端を痙攣したように戦慄かせていた。
「おぬしの兄は、否と答えた。そのように重い責は負えぬと。それを責めるのではないが、この国を慈しむおぬしの心を信じるとしよう。今宵は無礼を申した――最後の首里天加那志」
――あの日のことはいくつになっても忘れていない。夢であったとしてもそれを見たことに意味があるはずだ。
即位し、妃を娶り、子にも恵まれた。嵐に遭うようにして、数々の困難はあった。それを乗り越えるたび、あの日老婆が語った時代の趨勢に、我は呑まれずにこの国を守りきることができるのではないかと思いたかった。
しかるべき日は、それでも訪れる。
長らく琉球王国は薩摩藩の附庸国であり、清国とも朝貢によって王朝を保っていた。
だが、明治という世になると、琉球が王国という形であってはならぬとした。薩摩藩と同じく、琉球藩として、『国』ではなく『藩』であると。我は琉球藩王と呼ばれたが、これは王ではない。侯爵という位を授けられた。
我に位を授けるのは、琉球の神々だけだというのに。
清国との交流を絶て、上京せよ――王である我に命ずる。我は王である。神々の声にしか従わぬ。
しかし、民を守るのは王だ。民を見捨てる王は、神の怒りに触れるだろう。
だからあの日、幼き日、神は老婆の姿を借りて我のもとを訪れた。神は我を首里天加那志と呼んだ。
神に認められた王なのだ。それは最後の時まで、この命が尽きる日まで。
「尚泰侯爵、急がれよ」
風を感じ、琉球の地との別れを惜しむ我を取り囲む者共が急かす。今後は琉球の光の当たらぬ東京という地で生きねばならぬのだ。この素晴らしい国で過ごした我は、心をここに置いてゆく。
最後の王として、いつまでも、いかなる時もこの国を慈しむ。それは遠く離れようとも変わらぬこと。
我はいつか魂になってこの地に還る。
神々の祝福が、この美しい地にあらんことを――。
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