第199話 戦争の準備を進めました(1)
唇を何か暖かいものが包むような感触で、私はぱちりと目が覚めます。
「おはよう」
窓から朝日が差し込んでいます。私のすぐ近くにヴァルギスがいて‥‥ええっ。
わ、私、ヴァルギスのキスで目が覚めて、ええと、あの、その。私は頬を赤らめて、身を起こします。
「おっ、お、おはよう‥いきなりだったからびっくりした」
私は思わず口を手で覆います。何なんでしょうか、この気持ちは。
「まったく、あんたら、やっていることがバカップルよ」
隣のベッドのメイも起きたのか、身を起こして片足を床につけています。呆れたような、イライラしているような様子です。
また、ぴしっと指を私たちに向けて言います。
「いい?普通のキスまではいいけど、舌を入れるとか服を脱ぐとかそれ以上は絶対禁止!2人きりの時にやりなさい!ハギスの教育にも悪いし」
「はい、お姉様、節度は弁えます」
「人前でキスする時点で節度も何もないと思うけど」
メイは「はぁ‥」とため息をついて、もう片方の足も床におろして、立ち上がります。
「‥でも、魔王と一緒ならこの前みたいに寝坊することはもうなさそうね。あの時はあたしもラジカもナトリも起こすの苦労したけど全然起きなかったもん」
「あう、あの時は申し訳ありません、お姉様」
メイはやっぱりイライラしている様子でぷいっと顔の向きを変えて、洗面のために部屋を出ます。
私はもう一度、ヴァルギスの顔を見ます。にっこりと、私の顔を見つめています。
「‥寝起きの顔を見られるのは恥ずかしいが、貴様ならよい。妾は部屋に戻るぞ」
「うん、まおーちゃん今日も仕事頑張ってね」
「うむ」
そうやってヴァルギスも部屋を出ていってしまいます。
ハギスはまだくうすう寝ています。私はもう一回、掛け布団の中に潜り込みます。布団の中から、ヴァルギスのにおいがいっぱいしてきます。香水の匂いではありません。香水の中に隠された、ヴァルギス本来の匂いです。女の子の汗の匂いが、私を刺激します。たったそれだけで心臓の鼓動が速くなって、頭の中にヴァルギスの顔しか出てきません。満たされた気持ちになります。
こんなのが毎日続くとさすがに慣れるでしょうけど、私はこの初体験の興奮をじっくり我が身に刻み込んでいました。私、ヴァルギスに負けない変態になってしまったかもしれません。
◆ ◆ ◆
ここ数日、元マーブル家・元ハラス軍の将軍が帰順したいと申し出ることが増えてきました。
「アリサ様が夜も寝ずに私の兵士を世話していただいて‥‥」
「アリサ様の丹念なヒールの魔法に我々一同感心いたしまして‥‥」
「アリサ様の率いる兵士たちがみな親切で、よく助けていただきまして‥‥」
どの将軍も異口同音に、私のことばかり褒め称えます。むろんその前には「魔王様の仁政に深く感銘を受けました」を挟むのですが、私を帰順の理由に使ってくれたことそのものが本当に恥ずかしくて、嬉しくて。もともと敵兵の治療は、私が人を殺した罪滅ぼしとしてやっているので複雑な気持ちはありますが、無道な政治を繰り返すクァッチ3世のもとを離れ、仁政を施すヴァルギスのもとに人が集まるのは見ていて気持ちよさもあります。
もちろん帰順せずウィスタリア王国に帰ってしまった将軍や兵士たちも大勢いましたが、それでもヴァルギスは「国内に残って反乱を起こされるよりはいいだろう」と私を気遣って言ってくれました。
今日も何人かの帰順を誓った将軍が大広間を出ていくのを見て、玉座に座っているヴァルギスは言いました。
「ふむ。アリサの功績は大きいな」
「そんな、私なんて‥‥」
私は思わず声を出して、うつむいてしまいます。
「ふん。それだけ貴様のやっていることが規格外だということだ。戦場にありながら人を慈しむ心、そしてそれを実現させる能力。貴様は群を抜いて高い。それに、無闇に人を害するよりも、こうなったほうがよっぽと人道的ではあるな」
ヴァルギスはこう評してきます。なんだか全身がむす痒いです。
「‥‥だが、帰順が増えたことで新たな問題が出てきた」
「新たな問題‥ああ、なるほど」
ケルベロスがなにかに気付いたようにうなずきます。
「うむ。兵糧や兵站だ。このままのペースで帰順が増えると、我が軍は月末には40〜50万を超える軍勢になるだろう。もともと遠征の時に不足する兵力は、ハールメント連邦を構成する他の国からの援軍で補おうと考えていた。だが、その分を自前で用意できるようになるということだ。また、帰順組が反乱を起こさないとも限らないのでな、遠征の留守番を任せるにしては見過ごせない勢力になってきた。帰順した将軍や兵士も遠征の時に連れて行こうと思うが、それにはやはり兵糧が足りないのだ」
「足りない兵糧は、他の国に兵を出す代わりに送ってもらいましょう」
「うむ、そうするつもりだ。まあ、これは交渉というレベルのものでもないな。ウタン、そこにいるな?行ってまいれ」
「はい」
ウタンなる者が返事します。
「最終的に何万人で遠征に行く予定ですか?」
マシュー将軍が尋ねると、ヴァルギスはすぐ答えます。
「60万だ。10万程度は他の国からの援軍で補おうと考えている」
「分かりました。獣人、人間とともに3方位から攻めるのであれば、その兵力で十分ですね」
「うむ。そして、獣人と人間の協力を取り付けるため、すでに使者を向かわせているが、最後の仕上げが必要だ。大イノ=ビ帝国に使者を出したい」
大イノ=ビ帝国といえば、ウィスタリア王国が侵攻してくる前に使者を出してきて、ウィスタリア王国が片方の国に攻めたらもう片方の国がウィスタリア王国を攻めるという内容の条約を結ぶよう要求した国です。実際にウィスタリア王国がハールメント王国へ攻めてきてから1年以上が経過したので、大イノ=ビ帝国は責務を果たさなければいけません。そのことを確認する使者を送ろうというのです(第4章参照)。
といっても、大イノ=ビ帝国の使者が来た時に私は大広間にいませんでしたので、詳しいことは隣の家臣に教えてもらいました。
「もっとも、あの国は小国だ。約束を守らない可能性もあるからな。デンジアナよ、貴様は舌戦が上手だったな」
「はい」
「あの小国に言ってこい。これより1ヶ月以内に軍備を整えてウィスタリア王国に攻め込めと。妾たちも、同時に攻め込む。大イノ=ビ帝国には、クロウ国の亡命政府もある。あの連中をうまく利用して説得しろ」
「わかりました」
かくして、ハールメント王国から各地方へ使者が次々に出されます。
◆ ◆ ◆
ウィスタリア王国・王都の王城、大広間では、家臣たちが議論を繰り広げていました。
ダガール・ペヌの2都市で反乱を起こした兵士たちの処遇について話し合っています。その兵士たちはすでに別の場所に移して、ある区間に閉じ込めています。
ただ、その話し合いの場にクァッチ3世はいませんでした。そのため、話し合いは至って平和に進みました。話し合いに参加する家臣たちのほとんどが、私利私欲を貪る奸臣であることを除いては。
「あの兵士たちは全員奴隷にして売って金に換えよう」
「それがいい。どうせ殺すなら金にしたほうがいいだろう」
かくして話し合いは順調に進み、ダガール・ペヌとその周辺都市で反乱を起こした兵士たちは奴隷として売却され、金に替えられました。もちろんこれは国の収入ではなく、家臣たちの私腹の肥やしになりました。
一方でこれをよくない動きであると感じた家臣もいました。その家臣は、政治の無道さを訴えるためにビラを作って王都内で頒布しました。家臣が全財産をはたいてビラを配ったためにその規模は凄まじく、広大な王都で王城の現状を知らぬ者はいませんでした。もっともそれはすぐに露見し、家臣は公開処刑となった上に名誉刑に処されました。
ビラの内容は全て嘘であると王城は莫大な金を使って広報しましたが、ハラスの一件もあってそれを信じる人たちはいませんでした。




