第159話 巨人が現れました(1)
「姉さん、今日どうして来たの?」
ふとハギスが尋ねます。
ヴァルギスはわざとらしく眠たそうに目をこすって、そしてハギスの頭を抱きしめます。
「なんとなくだ。特に深い意味はない」
ヴァルギスに抱きしめられたハギスは、それでもヴァルギスの言葉の真意に気付いていました。
明日から戦争です。もしかしたらヴァルギスとハギスのどちらか、または両方が死ぬかもしれないのです。その前に最後の抱擁をしようと思ったのでしょうか。
ハギスも、死ぬのは怖いです。
でも、大好きなヴァルギスがいてくれるなら。せめて、ヴァルギスが一緒にいてくれる今この瞬間を楽しみましょう。
ハギスはヴァルギスを抱き返します。
「姉さんには、このハギスがついてるなの」
「‥ん?」
ヴァルギスは聞き返しますが、ハギスはくうすうと寝息を立て始めます。ヴァルギスは「ふふっ」と笑って、自分も目を閉じます。
しかし、すぐにまた目を開けます。
(‥‥アリサ。今日も会ってきたが元気がなさそうだった。いつ元に戻るのか?)
私が部屋に1人で籠もりだしてから、すでに2週間が経っています。
その間、ヴァルギスは政務や戦争準備のかたわら、ずっと孤独で震えていたのでした。
◆ ◆ ◆
私は狭い部屋の小さく古いベッドから、窓の外の月を眺めていました。
今日は一日中、窓際の椅子に座って、外の様子を眺めていました。
この部屋に入れているのは、食事や着替えを運ぶ給仕と、それからヴァルギスだけです。1日に数回はトイレや入浴のために部屋を出ていますが、メイたちと鉢合わせしたくないので、給仕用のみすぼらしいトイレに行っています。風呂も濡れたタオルで全身を拭いてしのいでいます。
こんな状況でもヴァルギスはずっと自分を気遣ってくれています。今日も昼過ぎにヴァルギスが来ました。世間話もしましたし、外の様子も話してくれます。自分なんかに構ってくれて、申し訳ないくらいです。
敵が明日には攻めてくるかもしれないということも聞きました。もし私がこの部屋を出ることになったら、私もその戦争に参加することになるでしょう。
戦争に参加したら、私は人を殺さなければいけません。
人を殺す理由も、殺さなければいけない理由も、頭では分かっています。実際に私は、1人の人間を殺しました。
おそらく、これから数え切れないほどの人を殺さなければいけなくなるでしょう。
私は、殺した人の数だけ、十字架を背負うことになるのです。
毎日毎日、窓際の椅子に座りながら、ずっと1人で考えていました。
殺すことについてこの部屋に入った当初は抵抗する気持ちも残っていましたが、今は諦めの気持ちのほうが強いです。
自分は魔王と同等以上の非常に大きな力を持っているに関わらず、戦争においては無力です。魔法では人を改心させられません。人の心を操ってまで戦争を止めるとしたら、それは戦争よりもよっぽと悲しいことです。
代わりに、死んでいく人たちのために自分は何かできないか、という方向に思考はシフトしていました。
いろいろな案が頭の中に出てきてはやがて消えてを繰り返します。
自分に何ができるのでしょうか。
ベッドで横になった私はぎゅっと、薄い毛布を握ります。
「私に‥できること」
ウィスタリア王国からここへ亡命する途中にも、様々なものを見てきました。
助けられた人たち、助けられなかった人たちもたくさんいました。
私自身が、そういう人たちの心の支えになりたい。
私の中では、ぼうっとろうそくに火が付き始めたように、少しずつ結論が出始めていました。
人を殺す業からは逃れられませんが、その数だけ人を救うことはできないでしょうか。
私は人たちのために何ができるのでしょうか。
「‥‥はぁ」
また頭の中で何かが固まりかけていたのが、ふっと消えました。
あと一歩。あと一歩があれば、私は結論をはっきり出せるのです。
それがなかなか確定しないことに、もどかしさを覚えていました。
◆ ◆ ◆
翌朝。
マーブル家の軍は、ウィルソンら4兄弟とともに、20万人の兵士が長城の一角へ、一歩一歩近づいてきます。
対する城壁の兵士はクロスボウを構えて、間合いが詰められるのを待ちます。
マーブル家の兵士たちの先鋒の歩兵が、一気に城壁まで走ります。運んできたはしごを城壁に立て掛けます。
もちろんハールメント王国側の兵士は抵抗しようとクロスボウを放ったり、大きな岩を協力して落としたり、油を投げつけたりします。
しかしその兵士たちをさらに妨害すべく、マーブル家の兵士の後方部隊がクロスボウを放ちます。それをさらに、城壁の魔術師たちが防ぎます。
激しい矢の応酬が続きます。
城壁を破壊するための攻城兵器である破城槌が運び込まれます。
木造のそれに兵士たちは必死で矢を射込みますが破城槌の数にはついていけず、ついに複数の破城鎚が城壁に達します。
兵士たちが勢いよく破城槌の丸太を城壁にぶつけるものの‥‥そこはアリサが補強していた部分です。あまりの硬さに、破城槌の丸太が逆に折れてしまいます。
兵士たちは怯みますが、すぐに他の兵士たちが持ってきたはしごに登り始めます。
はしごを登る兵士、それを後方から支援する兵士。後方支援をかわしつつ城壁の上から妨害する兵士。激しい戦闘が続きます。
「ふん‥なかなか進まんな」
高台から馬に乗ってこの様子を眺めていたマーブル家4兄弟のうち、ブーンが言います。
「そろそろ我々の能力を使う時が来たのではないか」
ブラウンが言いますが、オペリアは止めます。
「天候を操るのは味方にも被害が出かねない」
「知ったことか」
2人が言い合うのを、長男のウィルソンは「ははは」と笑い飛ばします。
「あんな脆い城壁など、この俺が巨人になって壊してくれよう。そこの兵士をどかせ」
そう言ったかと思うと、馬から飛び降りて呪文を唱えます。
「いかん、俺たちも離れるぞ!」
オペリアの言葉とともに、他の人たちもウィルソンから離れます。
ウィルソンの体が少しずつ膨らみ、大きく高くなっていきます。
「お、おお‥」
膨らみ終わったその体は15メートルくらい。巨人の図体でした。
◆ ◆ ◆
長城、側防塔の中の会議室に、兵士が駆け込んできます。
「申し上げます!巨人が現れました!」
「私もたった今確認した」
窓の外を眺めていたマシュー将軍が返事します。
「いよいよですね。屋上の兵士たちには、体を伏せて壁から落ちないよう指令してください」
ソフィーは冷静に言います。あらかじめ想定していたかのように、マシュー将軍の顔を見ます。
「この城壁はアリサさんが補強したものです。あの程度の巨人ではひびが入ることもないでしょう」
「うむ、そうだな。だが油断は厳禁だ」
マシュー将軍はそう言って、なお巨人を見つめます。
大きな鎧を身にまとったその巨人は、ずじーん、ずじーんと足音を立てて近づいてきます。地響きがだんだん激しくなってきます。
屋上の兵士たちが地面に伏せ、巨人に向けてクロスボウを放ちます。魔術師も同様に、必死に魔法を放ちますが、巨人の前にはびくともしません。
城壁の高さ20メートルに対し、巨人の身長は15メートル程度です。腕を伸ばしても、城壁の屋上にいる兵士たちには届きません。代わりに、城壁を強く殴打します。
激しい地響きが側防塔の会議室の中にも伝わってきます。テーブルが勝手に動き、小さな棚は倒れます。
「ソフィー、大丈夫か?」
衝撃で酔ったらしく、ソフィーがはぁ、はぁと地面にへばりついて荒い息をついています。
「だ、大丈夫です、これくらい‥‥」
巨人の拳は、ミニチュアのように小さいクロスボウの攻撃を何度も受けながらも、何度も何度も城壁を強く叩きます。しかし城壁はびくともしません。




