第137話 魔王が怒りました
一方の私は、何を言われてもまおーちゃんから視線を外せません。
私の体を、またあのときの黒いオーラが包んでいる感覚がします。
私が亡命する前の日の夜、デグルが寮の私の部屋に訪れる直前のような状態です。デグルはこれを恐慌状態と呼んでいました。
全身から力が抜けていきます。体が石のように硬直します。
黒いオーラに包まれている私を見てメイもさすがに「ひっ」と怖じ気ついて、隣りにいるラジカの体に自分を隠します。ラジカはもう自分しかいないと思ったのでしょうか、それでも怖そうな様子で、まおーちゃんに小さい声で話します。
「待って、誤解。アリサ様は浮気していない」
まおーちゃんは私から視線を外しますが、私の体はまだ石のように固まって、意識が少しずつ薄れていくような感じがします。
まおーちゃんは2人の入っている狭い個室にジャンプで飛び込んで、フートを上げて首をばたばたと振って乱れた髪の毛を整え直してから、ラジカに尋ねます。
すごい剣幕はまだ続いていますが、まおーちゃんの体の黒いオーラが少し薄くなっています。
「貴様、どういうことだ?」
「これはデートの練習」
「デートの練習だと?」
ラジカはうなずいて、便器に座っているナトリを見ます。ナトリもショックでまだ息が荒いのですが、なんとかしゃべることはできるようです。
「‥あさっての予行演習として、デートの練習の相手をしていたのだ。キスも頬にするつもりだったのだ。なあ、テスペルク‥‥おいテスペルク、大丈夫か?」
ナトリは私の体を揺さぶろうとしますが、体が石のように固まっていて揺することができません。「うわっ、なんだこれ!?」と声に出しています。
「はぁ‥‥とすると、2人は付き合ってないのだな?」
まおーちゃんの質問に、メイとラジカは口を揃えます。
「当たり前」
「当たり前よ、アリサは魔王一筋なんだから。その証拠にさっき買った靴、ナトリ見せてあげてよ」
ナトリは私を揺するのをやめて、衝撃で個室の隅に落ちてしまった袋を拾い上げ、その中から靴を取り出します。
暗い紫色と明るい紫色が交互にひし形に塗られた、かわいいデザインのブーツが出てきます。
「それそれ、それがあさってのデートでアリサが履く予定の靴よ」
メイが言うと、ナトリも補足します。
「魔王とのデートにはどの靴が合うか、テスペルクもしっかり吟味して選んだのだ」
「これが‥あさってのデートで‥‥」
まおーちゃんは靴の片方を手にとって眺めます。
「‥なるほど。貴様らの言い分は分かった」
まおーちゃんは何度かまばたきして、目を伏せて、靴をナトリに返します。
「‥‥魔王の気持ちはわかるのだ。ナトリも悪いことをしたのだ」
「最初に言い出したのはあたしよ。化粧とか手伝ってあげたわ」
「アタシもナトリを手伝った」
ナトリ、メイ、ラジカが口々に言います。
まおーちゃんを包む黒いオーラが消えていきます。
しかしまおーちゃんは、目を伏せたまま、静かな怒りを手の震えに変えて、重い声で告げます。
「‥‥だが、妾はまだこやつを許せない」
「ま、待ってくれ、魔王が許してくれないとナトリが今日デートの練習に付き合った意味がなくなるのだ。怒るならナトリに怒れなのだ」
「いや、これはこやつの問題だ」
まおーちゃんはそう言い切ってフートをかぶると、個室の出口を塞ぐラジカとメイをのけて、そのまま早足でトイレを出ていきます。
「魔王、待ってくれ!」
ナトリが呼び止めますが、まおーちゃんは止まりません。そのまま姿を消してしまいます。
「あ‥ああ‥最悪なのだ‥‥」
かくんとひざをついてうなたれます。
一方、メイとラジカは、石のように固まった私の体をぺちぺち叩いています。
「大丈夫、アリサ、どうしちゃったの?」
「これがデグルの言ってた恐慌状態か‥‥」
「恐慌って何?」
「アタシもよく分からない」
「どうすればいいの?」
「持って帰るしかない」
2人の会話が雑音に思えるくらいに、ナトリは地面にべったり座り込んで、放心していました。
◆ ◆ ◆
石のように固まった私をナトリが背中に担ぎ、ラジカが浮遊魔法で体重を軽くします。
空はもう夕暮れで真っ赤です。
私を担いでいるナトリ、そしてそれを挟むメイとラジカ、みんな帰り道を歩きながら、表情を硬くしていました。
私のためにデートの練習の相手をしてあげたのに、まおーちゃんがそれを知って激怒してしまったのです。
「これから‥どうする?」
ラジカが尋ねると、メイは首を振ります。
「あたしにも‥分からない。言い出しっぺはあたしなのに、どうしよう。とにかく、アリサの口から直接謝るしかないわ‥‥きゃっ!?」
うつむいて歩いていたメイが、前を歩いていた魔族とぶつかります。
まおーちゃんに洗脳の魔法を解いてもらったとはいえ、メイの魔族嫌いはまだ健在です。顔を真っ青にして、その場ですぐ土下座を始めます。
「ご、ごめんなさい、前を見ていない私が悪いです、何でもしますので、ど、どうか命だけは‥‥」
「ウチがそんなに怖いなの?ショックなの‥」
「‥‥え?」
聞き慣れた声に顔を上げると、さっきメイがぶつかった人はハギスでした。
「は‥ハギス、ごめんね」
メイは急いで立ち上がって、それでもハギスに頭を下げます。
ハギスは表情を固くしているメイたちを不思議に思ったらしく、首を傾げて尋ねます。
「ウチはビリヤードのグラブから帰ってきたところなの。お前らは何してるなの?」
「ハギス、実は‥‥」
メイとラジカは歩きながら事情を説明します。
「最低でも、あさってのデートはなんとかならないかな?」
「分かったなの。ウチもお前らにデートスポットを教えたなの。ウチからも姉さんに謝るなの」
ハギスはあっさり快諾してくれました。メイの頬が少しだけ緩みます。
「ありがとう、お願い」
◆ ◆ ◆
「あ‥あ、ああ‥」
私たちの部屋でベッドの上に寝かされた私は、頑張って声を出してみます。
恐慌状態って、ほとんど体が固まったようなものなのですね。意識はありますが、体が動かせなくなります。かろうじて声が出せるようになりました。指の先もびくびくっと動かせるようになりましたが、まだ全身を動かせるまでは行きません。
外はもう暗いのでしょうか。窓を見たいのですが、首すら動かせません。
「アリサ、大丈夫?」
ベッドの隣に椅子を置いて座っていたメイが、心配そうに尋ねます。そばにはナトリが立っています。
「恐慌状態というのを城の図書室まで行って調べてみたのだ。対象者を一時的に体が動かせない状態にするもので、限られた人にしか扱えないのだそうだ。解呪できる人がいないうちは、自然回復を待つしかないのだ」
「とりあえず、何でもいいから食べて体力をつけなさい」
メイが、横の机に置いた食器を手に持って、中身をスプーンで掬い、私の口に流し込みます。パンをお湯に浸して粉々に潰して液体のようにしたもので、私は舌も満足に動かせませんでしたが自然に喉の奥へ流れ込みます。
「魔王には今、ハギスが謝っているはずよ。あんたはあさってのデートのことだけ考えていなさい。はい、次行くわよ」
メイは何度も、私の口におかゆのようなものを流し込んでくれます。
あたたかい液体が喉から私の体を温めてくれます。しみてきます。
私は「あ、ああ‥」という声しか出せませんでしたが、後でちゃんとお礼しましょう。




