僕色カメレオン
大学に入って最初に行われたサークル紹介。その中で僕は――。
サークル棟の片隅、『天文部』と白い紙にマジックペンで書かれているだけの殺風景な張り紙。中に誰かいるのか、電気は付いているが物音はほとんどしない。
恐る恐るノックをしてみると、中から静かに「はい」とだけ聞こえてきたが、それきり扉が開くどころか中にいるであろう人物が動いている気配もない。
扉を開けて中の様子を窺うと、そこには長い髪をまっすぐに伸ばした女性が身じろぎもせずに一人で本を読んでいるだけだった。
「……。何か用かしら?」
本から顔を上げることなく彼女は僕に問いかける。
「あの。僕この天文部に入りたくて、見学に来たのですが……」
「……そう。私は、三年の桑原星良星良よ。この天文部の部長をしているわ」
そこまで言うと彼女、いや桑原先輩は本から僕へと視線を移し、値踏みするかのように頭の天辺から爪先までを観察していく。
「あなた、名前は?」
「あ、はい。須田誠と言います」
僕の名前を聞き観察を終えた先輩は、テーブルの端に目線を移す。
「須田君、ね。入部するならテーブルの上にある用紙に記入してくれるかしら?」
先輩の目線を追うようにして、僕は用紙のもとへ向かう。
「わかりました。この紙ですね?」
近くにある椅子に座り、入部届と書かれた簡単な作りの用紙に所属・氏名をボールペンで書き終えると、一つの疑問が頭に浮かんだ。
「桑原、先輩? ここって何人くらい部員がいるんですか?」
すると先輩はゆっくりと立ち上がり、僕の方へ歩み寄る。そして書いたばかりの入部届を僕から取り上げ静かに呟いた。
「部員は……、一人ね。いえ、たった今二人になったわ」
「え? 二人になったって?」
僕は先輩を見上げるような形で、言葉の意味を聞いてみる。しかし先輩は、満足そうに入部届を見つめるだけだった。
これが僕と先輩の出会い。僕はこの時、先輩は分からない人だと思った。
入学式後のオリエンテーションから数日後、前期の授業が始まり、僕は大学生活に少しでも早く慣れようと思い日々の生活を送っていた。そんな中、ある授業で先輩らしき人をたびたび見かけるようになっていく。
物静かな先輩とはあまりにも違うタイプであろう、友人らしき人が元気よく先輩に声をかけ、隣の席に座る。
「星良、おっはよー。ね? 先週出た課題っていつまでだっけー?」
そんなふうに接して、先輩はどう反応するのだろうか。僕以外の誰かと話す先輩に興味が湧いてきた僕は、つい二人の様子を窺ってしまう。どうせあの人も、僕のように冷たくされるのだろうと勝手な推測をしながら。
「おはよう。あぁ、五限の?」
しかし僕の推測は見事に外れ、先輩はにこやかな笑顔を返した。僕には見せたことのない表情に思わすドキリとしてしましながら、気付かれないようにそっと、観察を続けていく。
「そ、すっかり忘れてて……」
「もー、仕方ないなぁ……」
そして先輩は手帳を取り出そうとしたのか鞄に手を伸ばすと、後ろの方に座っていた僕と目が合ってしまった。先ほどまで隣に座る友人に見せていたものとは違う、僕に向けられるどこか冷めた目線。
「……」
「ん? どしたの?」
先輩の異変に気が付いたのか友人が声をかける。しかし先輩は何事もなかったかのように、手帳を確認し期日を友人に伝えた。
「ううん、なんでもないよ。えっと、来週までだね。大丈夫? 間に合いそう?」
「うっそ……、来週?」
先輩たちが話している間に、先生は教室にやってきていたようで、ほどなくして授業が始まった。先生が授業を進めていくなか僕は、僕と友人に対する差が大きいことにショックを受ける。
当然のようにこの日の授業は一切頭に入ってこないまま、今日一日の授業は終わり放課後の時間になってしまった。
授業の時のことがあったため、部室へと向かう僕の足取りは重くゆっくりとしたものだった。今日は部室には行かずに帰ってしまおうかとも考えたが、あからさまに避けているようにも感じられるし、帰るにしたって別に他の行き先があるわけでもない。
結局僕の足は部室へと向いていたわけで、どんなに考えを巡らせていようが、部室の扉の前についてしまう。僕は深呼吸をし、覚悟を決めて、扉を開いた。
「盗み見る。なんて、趣味が悪いとは思わなかったのかしら?」
部室に入った瞬間、先輩からかけられる言葉に僕は口ごもってしまう。
「いや、えっと……。別に盗み見るつもりは……」
「あら、そうなの? その割には後ろから視線を感じたのだけれど?」
そんな僕を気にすることなく、先輩は続ける。
「それは……」
「……」
僕と先輩の間に重々しい沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは僕だった。
「すみませんでした……」
すると先輩は少しだけ表情を和らげる。
「そう、ならもういいわ」
「え?」
思ったよりもあっさりと許してもらえてことを意外に感じていると、先輩は授業の話をし始める。
「ところで、あなたもあの先生の授業を受けていたのね」
「はい。他にやりたい授業もなかったので」
「私もそんなところよ」
意外だった。先輩は僕のように授業が面倒だなどと言わず、真面目に受けているのだと思っていたから。
「先輩も、そういうことってあるんですね」
「私にだって嫌なことはあるわ。……意外だったのかしら?」
口元をにやりと吊り上げた姿は、油断ならない黒猫の様だ。図星を指された僕は、動揺するが思ったことをそのまま言うことにした。
「いや、あの。……はい、意外でした」
「ふふ、正直ね。大体の人は取り繕うのに」
「すみません……」
「いいのよ」
すると先輩は腕時計をちらりと見て、荷物をまとめ始める。と言ってもノートと筆箱を鞄にしまうだけなのだが。
「私これから行くところがあるから、もう帰るわ」
僕が何か言う間もなく帰り支度を済ませた先輩は、部屋から出る直前にこちらを振り返る。
「またね、須田君」
ここに入部してから僕は最初の一回しか名前を呼んでもらっていなかった。それなのにたった今、先輩は何と言った?
――僕の、名前……。
急にくすぐったいような気恥ずかしさに襲われた僕は、俯きながら両手で顔を覆い、ため息を吐く。
「このタイミングでかよ……」
僕の呟きは、誰もいない室内に静かに響くだけだった。
大学生になって初めての期末試験が近づき、僕はレポートを終わらせるべく必死にパソコンに向かい合っていた。周りに何台かあるパソコンには、僕のほかにもレポートやなにやらで真剣な表情をして画面に向き合っている学生がいる。
パソコンに向かってから一時間ほどが経ち、レポートも半分以上書けてきたころ、僕の向かいの席に先輩が座っていることに気が付いた。
いつもとは違い眼鏡をかけている姿をそっと盗み見ていると、目が疲れてきたのか先輩はそっと眼鏡をはずし目薬を点す。僕の方から見えるということは、先輩の方からも見えているというわけで、先輩は正面にいる僕をその瞳に捉えた。
「あら? 須田君もレポートかしら」
「はい。先輩もですか?」
「ええ。全く、レポートよりも試験の方が楽なんだけれどね」
少し疲れているのであろう、先輩は顔を困ったように微笑みの形に歪ませる。
「先輩は眼鏡、かけるんですね」
「いつもはコンタクトなんだけど……。レポートを書く時ってずっと画面を見ているじゃない? 目が疲れちゃって、眼鏡の方が楽なのよ」
眼鏡のつるを人差し指でちょいっと持ち上げる可愛らしい仕草をする先輩を、僕は直視することができなくなり、書きかけのレポートをUSBに保存し、適当な理由をつけてその場を後にすることにした。
「僕、そろそろバイトなので……」
「へぇー? 須田君、バイトなんていつの間に始めたのかしら?」
「と、とにかく。今日は帰ります。先輩は、レポート頑張ってくださいね」
僕の嘘はきっと見透かされている。そうだとしても逃げるように僕は帰路に着いた。
図書館の窓際の席を陣取って、うたた寝をしようと思っていると、長い髪を頭の高い位置でポニーテールにした先輩の後姿を見つけた。どこに行くんだろう? これからスポーツ系の授業なのかな? ぼーっと頬杖を突きながら眺めていると、テニスコートへと入って行った。
――へー、テニスか。暇だし、ちょっとくらいなら見ててもばれないよな。
前に先輩を見ていることがばれてしまったことを思い出すが、テニスコートは屋外。ここは二階にある図書室。直線距離にしてもかなり遠い位置にいる。などと考えていると、先輩は準備運動を終えたようで二人組になってラリーを始めた。
――え? 嘘だろ……。
僕が驚いたのも無理はない、物静かで体を動かすイメージがない先輩が軽い足取りで次々ボールを返していく。
どうやらローテーションでやっているようで、ラリーをする人は五分ほどで交代をしている。
ラリーをしないときは休憩中のようだ。遠くてよくは見えないが、顔を上げ白い喉元をくっと反らしペットボトルから水を飲む姿が見える。僕はその姿から目が離せなくなり、このまま写真でも撮ってしまおうか。でも、それは犯罪だし……。と逡巡していると、先輩はすでに水は飲み終えていたらしく、さっぱりとしたすがすがしい笑顔で側にいる友人と話していた。
――どうせ撮るなら、こっちの方がマシだよな?
スマホを片手にぼんやりと考えていると、本当に盗撮してしまいそうになる。そんな自分に気が付いて、慌てて鞄の中にスマホを仕舞う。
本当は寝る予定でここにやって来たはずなのに、寝ることはなく偶然見かけた先輩を眺めてしまっていた。
「先輩ってほんと、見てて飽きないよなー」
僕は図書室の中、一人でくくくっと笑いを堪えるのだった。
少し肌寒くなってくる頃には僕もすっかり大学に慣れていて、たまに駅と大学の間の道のりを違うルートで行き帰りすることもあることもあった。
その途中で見つけたケーキ屋に寄り、適当にショートケーキとモンブランを買っていく。この二つを選んだ理由は単純、誰でも好みそうだと思ったからだ。
学校に着くなり僕は部室へと向かう、僕の予想通り先輩はいつもの席に座って本を読んでいた。
「おはようございます。先輩、ケーキ食べます?」
「おはよう。急にどうしたの? ケーキを買ってくる、なんて……」
本から僕に向けられた瞳は、すぐにケーキの箱に釘付けとなる。心なしか先ほどよりも瞳がキラキラとしているように感じられるのは気のせいだろうか。
「そこのケーキ屋さん、知っているの?」
「あー、たまたま見つけたんですよ」
「そう……。美味しいのよ。とても」
私も今度行こうかしら? などとうそぶいている様子を見るに、先輩の好きなケーキ屋だったのだろうかとも考える。
「そうなんですか? 今から食べるのが楽しみです」
ケーキの箱を机の上に置き、どちらを食べるか先輩に選んでもらおうと思った。
「先輩はショートケーキとモンブラン、どっちがいいですか?」
「私が貰ってもいいのかしら?」
意外な提案だったらしく、眉根を寄せて小首を傾げている。
「僕、さすがに二つも食べないんで。先輩が貰ってくれないと無駄にしちゃうんですよね」
「じゃ、じゃあ。……ショートケーキ」
小さな声でありがと、と続けられたことに僕は何だか気分を良くしていた。
「分かりました。今食べようかと思うんですけど、先輩はどうします?」
確か、店員さんはフォークを付けてくれていたはずだった。
「ちょっと待って。今、紙皿を出すから」
そう言うと先輩は壁際の棚へと近寄り、引き出しの中を探すと、すぐに紙皿二枚を持って戻ってきた。
「こ、ここに……」
両手でお皿を持っている先輩は、恥ずかしいのか手が震えていた。僕はお皿を受け取り、ショートケーキを乗せ、フォークとともに先輩へと差し出す。
「どうぞ?」
先輩は僕から受け取ったお皿を机に置き、いそいそとフォークを手に取る。そして、そっとフォークをケーキに突き刺し、口元へと運ぶ。口へ入れた瞬間の、顔をほころばせて喜ぶ先輩を見る。直視していたせいか僕の視線に気が付いた先輩は気まずそうにしている。
「な、なによ……」
「いや、なんでも。本当に美味しいですね」
僕はモンブランに舌鼓を打ちながら、とぼけてみせる。
「須田君て、変な人ね」
ケーキを食べる手を止めて先輩は考える素振りをする。
――変な人なのは先輩の方です。
ふと出てきた言葉を伝えることなく、僕はその場を笑顔でごまかした。
僕がこの天文部に入って一年が経った。その間に入部を希望する学生は一人もいなかった。今年入ったばかりの新入生を含めて、だ。
この部屋には相変わらず、僕と先輩がいるだけで何も変化はない。いや、僕らの距離は多少近づいただろうか。
「先輩、見てくださいよ。これなんか先輩にピッタリじゃないですか?」
僕は自分のノートパソコンの画面を先輩に向ける。
「あぁ、カメレオン座ね。見てみたいとは思うのだけれど……」
画面を一瞥すると、困ったような笑顔を作る。
「何かあるんですか?」
「見えないのよ、日本からはね。ほらここ」
先輩の細く長い、白魚のような指先が、僕のノートパソコンの画面の一点を指す。そこには『オーストラリアなどの南半球で見ることができるが、日本からは見ることはできない』と書かれていた。
「あー、日本は北半球だから……」
見えない理由がやっと理解できた僕は、画面に目を向けながら肩を落とす。
「そう言うことよ。ところで、どうしてカメレオン座が私にピッタリなのかしら?」
「それは……」
「それは?」
そこを突っ込まれるとは思っていなかった僕は、少し戸惑ったが、意を決して正直に言うことにした。
「僕、初めて先輩に会った時に、冷たい人なのかな? って思ったんです。でも、友達とは楽しそうにしてるし、テニスをやっている時もキラキラとした笑顔が眩しくて……」
そこまで言いかけるは先輩は驚いた顔をして僕の話を遮る。
「テニス? ちょっと待って、それいつの話?」
「ええと……。十月ごろ、です。あ、でもたまたま見かけただけで、別に、先輩のことをストーカーしてるとかは、ないので……」
驚いた顔のまま無言で僕を見る先輩に、弁解するかのように言い募る。そして気を取り直して言いかけていた言葉の先を紡いでいく。
「それで、ですね? 先輩は色んな側面がある人なんだなって。周りの雰囲気とか、相手に合わせて自分を変えていく、カメレオンみたいだなって。思ったんです」
言い終えた僕は恐る恐る先輩を見上げてみるが、特に何も言うではなく、静かに僕を見下ろす先輩がいるだけで、どうしたらいいのか分からなくなる。
「あ、あの。先輩?」
「ねぇ? 須田くんはいつになったら私のことを名前で呼んでくれるのかしら?」
僕の声に被せるようにして、先輩は問いかけてくる。
「名前でって……。先輩は先輩じゃないですか」
「ふぅん? なら、私が先輩じゃなくなればいいのね?」
言われたことがいまいち分からなかった僕はすぐ側に立っている先輩を見上げることしかできない。すると先輩は何かを決めたように僕の方に近づいてくる。そしてそのまま僕の唇に柔らかな何が触れる。
――これは……?
突然のことに驚いた僕は瞬きすらできない。先輩は僕に触れるだけのキスをすると、今度は耳元に唇を寄せる。
「好きよ、誠くん」
「……!?」
僕が勢いよく立ち上がると、今まで座っていたパイプ椅子がガタンと派手な音を立てる。
「何、してるんですか……」
「嫌だった、かしら?」
不安げに聞くその声は微かに震えている、僕は諦めたように軽くため息を吐く。
「……先輩? 僕を好きって、本当ですか?」
「本当よ。……私のこと、嫌い?」
「いや。僕も、先輩のこと好きですよ」
首をゆるく横に振り、先輩に自分の気持ちを告げる。すると先輩ははっきりとした口調で先輩自身の名前を呟く。
「星良」
「え?」
「名前で呼んでくれてもいいじゃない」
頬を赤らめ僕を少し睨んで見せるけれど、怖いなんて事は無く、反対に愛らしいと思えた。
「僕も好きだよ、……星良」
そう言うと星良は、顔を真っ赤にして俯いてしまう。今まで見たことのない素直な姿に、つい手を伸ばして自分の腕の中に抱き寄せる。
「私も、好き……」
先ほどとは打って変わって、恥ずかしそうに呟く星良は、これ以上ないくらい甘美なものに思えた。