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オリジナル駄文集と言う名のアイデアの種

バロールの魔眼

作者: みずっち

何故か他作品からゲストがやって来ました。


櫻華氏に感謝。

ヘリコプターの音が画面から響いて来る。

『ご覧下さい!ショッピングモールから人が溢れ出しています!』

アナウンサーの声が悲鳴にも似ていて、逼迫した状況である事を物語っていた。

モールの端から煙が立ち昇っているのをカメラが捉えている。

煙の根元では、運転席のひしゃげたタンクローリーが、ショッピングモールの外壁に突き刺さっていた。




「ちっ…報道ヘリ飛ばすんなら怪我人乗せろよ全く…」

丁度カメラが抜いていた群衆の中で、一人の老人が悪態を吐いた。

「まぁまぁ先生、仕方有りませんよ。あれはドクターヘリでは無いですから」

脇に控える壮年の女性が彼の言動を嗜める。

「しかし何だな…俺達も、こんな状況に出くわして仕事ってのも因果な職業だなみよちゃん」

「まぁそう言う仕事ですからねぇ」

その男性は、”みよちゃん”と呼んだ女性と共に手持ちの荷物を漁り、白衣を羽織った。

折角の休日、往診の帰りに寄ったショッピングモールで、こんな大事故に出くわすとは。

悪運が強いと言うか凶運というのか。

「今日は厄日かおい」

「偶々ですよ先生」

軽口を叩きながら駐車場の真ん中に走る。

モールの職員と警備員と消防やら警察やらが集まり始めていた。

「おい!お前ら!」

「あ、大藪先生!」

警察官の一人が老人の呼びかけに反応した。

顔馴染みの巡査部長だ。

「今どうなってる!怪我人は!?」

「取り敢えず避難誘導は進めてます!怪我人はあちらに!」

警察官の指差す方にブルーシートが見えた。

臨時で敷かれた物で、その上に怪我人達が集められている。

「タンクローリーは消火中、救急車も呼んであります!」

避難訓練をたまにしていた事も有り、そこは迅速に対処されている。

「松田ん所に押し付けろ!」

「分かりました!」

齢八十に手が届きそうな老医師は、消防隊長に指示すると五十代の看護婦と二人で救護所に走って行った。

「部長、今のは…?」

「あぁ、お前は知らなかったか」

若い巡査が上司に質問を投げかける。

「大藪照正先生だよ。看護婦の方は橋本美代子さんだ」

「あの二人が…!」

まだ配属されて間もない故に実物を見た事が無かったようだが、名前を聞くなり目を見開いた。

どうやら辣腕ぶりは聞かされている様だ。

「あのお歳で、未だに大病院の院長先生達が頭上がらないってんだから恐れ入るよ」

一介の町医者コンビの筈だが、病院、警察、消防にも顔が利く。

警察署長や消防署長も子供の頃から世話になっているそうだ。

普段はそうでも無いが、怒ると署長達でさえ一様に体を震わせると専らの噂である。


遠くから救急車のサイレンが響く。

一つ二つでは無い。幾重にも重なった音がけたたましく街中に響き、その規模の大きさを人々に実感させ、恐怖を煽った。

そんな喧噪の真っただ中で、老医師と壮年の看護婦、そして救急隊員達が動き回っていた。

慌ただしく、忙しなく、しかし無駄の少ない連携で一定の秩序を形成して行く。

看護婦が赤、黄、青、黒、四色のタグで怪我人達を仕分けし、救急隊員達が臨時の救護テントに人々を運ぶ。

運ばれてきた患者を老医師が片っ端から処置するのだ。

「破片が刺さってるな…次は…」

言い終わらない内に金属片を取り除き、次の処置を進める。

処置の終わった患者が次々と救急車に乗せられ、送り出されて行った。

「次はこの患者を運べ!」

「はい!」

老医師は隊員の返事を待つ事無く次の患者に取りかかる。

「先生!」

「ああ!?」

「ドクターヘリが来ました!」

「案内はみよちゃんに頼め!」

隊員には目もくれずに怒鳴った。よそ見をする暇など無いからだ。

赤は一秒でも早く処置をしないと()に変わってしまう危うさを秘めている。

ギリギリの崖っぷちで命を拾い上げていくのは並大抵の作業では無い。

振り返る一瞬でさえ惜しい。

「一人寄越せ!ひよっこでも構わん!」

「はい!」

人数が人数だけに、一人では限界が有る。

経験の浅い研修医レベルでも人手が有ると助かるのだ。


テントの外がバタバタと騒がしくなってきた。

「大藪先生が?」

「はい、研修医でも良いから一人助手にと」

老医師にとっては見知った声がする。

最近新設した救急センターのセンター長になった元教え子だ。

「分かりました、おい!敬太郎!」

テントの出入り口を開けながら壮年の医師が一人呼び寄せる。

「先生、コイツで良ければ」

「おう、こっち来い!」

「は、はい!」

少し緊張気味に青年が近づいてきた。

「そっち持て」

「っ、はい!」

渡されたヘラで内臓の一部を持ち上げ、視野を確保する。

二年目の研修医だそうだが、こちらの意図を正確に読み取る辺り、教育が行き届いているようだ。

少なくとも、切開した切り口や使用器具を見てどういう治療をするか分かるぐらいの知識は有るらしい。

名札を見ると、苗字が”松田”と有った。

「お前か、松田んとこの小倅は」

「はいっ!」

少し会話をする間に処置を終え、運び出す。

「次!」

「はい!」

研修医にしては手際が良い。

「モタモタすんな!患者が死ぬぞ!」

だが。

「は、はいっ!」

第一線で活躍するにはまだまだだ。だからこそ、さっきのセンター長もコイツを選んだのだろう。

「先ずは脇腹だ」

「あの、こっちは…?」

「患者死なせたいのか?先にこっちだ」

「っ、はいっ!」

患者を見た瞬間に全体の手順をシミュレーションし終えている。

青年は舌を巻いた。

まるで全てを見透かしているようだ。

目そのものにCTかMRIが備わっている様な変な感覚に陥る。

尤も、感嘆している暇は無い。

青年は老医師の指示通りにメスを握った。


「もたついてる暇は無えぞ!」

「はい!」

別のテントで、センター長の檄が飛ぶ。

「森村さん」

「何だ」

センター長が振り返らずに返事をする。

「さっきのお爺さんってもしかして」

「あぁ、大藪先生だよ」

鬼教官と揶揄される森村センター長や嘗て手術時に鬼軍曹と呼ばれた松田院長が、若い頃には思いっきりしごかれたらしい。

思い出すと今でも泣きそうになるとも言われている。

その相手があの老医師か。

松田総合病院や出身大学では、生ける伝説として語り継がれている。

患者を問診して触診しただけで病名を全て当て、各種精密検査と同じ結果を導くのが日常茶飯事だった。

現役時代には海外でも名前が知れ渡り、一目置かれていたと聞いている。

少し診ただけで全てを見通す神の目を持った医者だと。

「あの人が…」

患者の治療をしながら青年医師がぽつりと呟いた。

既に一線は退いている筈だが、ちらっと見た限りまだ矍鑠としているようだ。

手を貸してくれるなら、これほど心強い相手は居ない。

逆に向こうから見れば情けないと言われそうだが。

「松田のヤツ、大丈夫ですかね」

「潰れたらそれまでだ。俺や院長のしごき方はあの人の真似みたいな物(劣化コピー)だからな」

青年医師は耳を疑った。アレでも劣化コピーなのか。

二人より厳しいと言うのは正直想像しがたい。

忙しなく処置をしながら、青年医師は戦慄を覚えた。




松田総合病院のロビーが慌しい。

患者が次から次へと運ばれてくる影響で、外来が中止され、ロビーが仮の患者待機所になっているのだ。

血と嗚咽が濃密に入り混じるこの場所は、さながら野戦病院の様だ。

ついさっき聞いたが、例の老医師(大藪先生)が現場に居て、ここを指定したそうな。

道理で。

実際に処置をしている医療スタッフ達は得心した。

TVで見る事故の規模に比べて、死者()の数が思ったより少ない。その代わり、赤と黄が圧倒的多数を占めている。

応急処置の手際を見ても、応急と言えるレベルを超えていた。

恐らく、大藪先生の処置と橋本看護師の見立てにより、一段階引き上げられたのだろう。

さらに言えば、救急センターのスタッフ達が一時間ほど前に現場に到着したらしい。

これで患者が亡くなったらこちらの責任だ。

医師や看護師だけで無く、事務スタッフ達も駆り出され、包帯やガーゼ配り、患者達の再配置に右往左往している。

だが全員理解していた事が有る。

一番厳しいのは、現場のテント(前線本部)に居る連中だ。

一人一人の患者達と向き合い、それぞれに有った診断と応急処置をミス無く迅速にこなさなければならない。

でなければ、生と死の天秤は確実に傾いていく。

恐らくそこは、戦場と言う表現すら生ぬるい地獄だろう。

勿論、病院での治療も気は抜けない。現場で施したのは応急(・・)的な処置であるからだ。

きちんとした治療をしなければ、折角拾い上げた命をまた落としてしまう。

そんな訳で、医療スタッフの誰もがフル稼働だ。

スタットコールの呼び出しもまだ続いている。シフトによって休みを取っている連中も招集しているのだろう。

「あっ、中原先生!」

今も、急遽出勤して来た小児科の男性医師を事務員が呼びとめ、赤のグループへ案内し始めた。

「現場に森村君と大藪先生が?」

「はい!」

「…分かった」

中年の医師は何度か頷いてそれだけ返すと、白衣を纏ってロビーに駆けて行った。


「物資は?」

『まだ十分に』

「そうですか…」

院長室で二人の男が話し込んでいる。

一人は老年に差し掛かった白衣の男性、二人目はスーツ姿の青年。二人とも院長室の椅子の側に立ち、内線の相手から話を聞いていた。

『ですが…』

「そうですね…手配、お願いします」

「分かりました」

スーツ姿の青年が返答し、何処かに電話を掛け始めた。

それを見た白衣の男が、内線に向かって話す。

「事務長、後はお願いします」

『はい』

内線を切った後、松田院長は応接ソファに座り直した。

「…はい…ありったけを直ぐに…はい、お願いします」

青年は電話を切った後、松田院長の向かいに座った。

「三十分ほどで到着するそうです」

「分かった。無茶な頼みだが、すまないね」

「いえ、普段お世話になってますから。これぐらい大丈夫です」

「そう言えば石川君は、子供の頃にうちで治療したそうだね」

「はい。あの時は副院長先生に手術して頂きました」

「そうか…仁科君か…」

当の副院長は今、手術室で戦っている。昔大藪先生に師事した弟弟子だ。だから腕は確かである。

しかし一体誰に似たのか、自身の弟子に対して厳しい。

まぁ自分程では無いと言う自覚は有るが。

「それにしても…こんな日が来るとはな…」

「僕も驚きました。大藪先生がいつも口酸っぱくして言ってましたけど…」

まるで予見していたかのように、毎年毎年病院に新年の挨拶代わりに怒鳴り込んで来ていた。

曰く、ショッピングモールが出来たから大事故のリスクが上がっただの、この街も人が増えてきたから災害時に処理能力が心配だの…。

その事を思い出し、二人は苦笑いを浮かべた。

数年に一度は市長や知事に掛け合い、松田総合病院を始め近隣の病院や診療所に備品を蓄えさせた行動力と発言力を考えると空恐ろしくなる。

副産物として医療サービスの充実した地域として日本全国に名が知れ渡ったので、市長達も表向きは鼻が高い。

そのお陰で今回の緊急事態にも対処出来る訳だが。

「毎回毎回、最後の決め台詞は『医療が死んだら国が滅びる』だからな…」

「はい…」

それを毎年毎年、この街が発展する度に院長室で捲し立てられ、事務長や副院長を含めた四人は、耳にタコが出来るぐらい何度も聞かされた。

「「…はあ…」」

脳裏にその様子が過ぎり、二人は再度ため息を吐いた。




翌日から数週間の間、各局のワイドショーはその事故の話題で持ちきりだった。

何せ、休日の大型ショッピングモールにタンクローリーが突っ込んだ大惨事だったにも関わらず、死者の数が事故直後の想定より遥かに少なかったからだ。

無論犠牲者の追悼等は有ったが、殆どの報道では治療の速さと的確さに焦点が当てられていた。

「これも藪さんの指導の賜物か?」

老練の医者を前に、馴染みの老人がニヤリと笑って茶化す。

「別に俺は何もしてねえよ…血圧は正常、と」

村田茂彦と書かれたカルテに数値を書き留めながら大藪医師は素っ気無く返答した。

「何言ってんだ、藪さんが口酸っぱくして言ってたからこれだけ充実した医療が出来てんだろ?」

老人は血圧計から腕を離しながらも軽口を止めない。

「茂ちゃん、それ以上言うと寿命削るぞ」

「おーこわ」

大藪医師に凄まれ、老人は肩を竦めた。

とは言っても、お互い本気で凄んでいる訳でも本気で怯えて居る訳でも無い。

ここまでルーティーンのような物である。

「先生、どうですか主人は」

頃合を見計らって、老人の横に座るお婆さんが声を掛けた。

「あぁ、問題ねえよ。こんだけ減らず口叩けりゃあな。まだまだボケそうにねえわ」

「そうですか」

それを聞いたお婆さんは安心した様に笑って頷く。

「ひ孫の顔見れるかねぇ」

「何だ?もう既に何人か居るだろ?月ちゃんとこに」

老医師が老夫婦の背後に居る長女を見やった。

「いや月子じゃ無くてよぉ」

村田老人の顔が膨れた。

この老夫婦には娘が二人居て、それぞれ家庭を持っている。

長女の月子には子供が数人居て更に月子の孫が何人か居るが、次女の陽子には一人息子の陽輔しか居らず、しかもこの間まで高校生だったのだ。

やきもきするのも当然と言えば当然か。

それに孫やひ孫は、沢山居ても困らない。


「まぁ何年か前の夏みたいな無理をしなきゃあ、後十年は死ななそうだが」

数年前の夏休みに孫の陽輔が恋人を連れて来たと言うんで爺が一人で盛り上がり、一緒に付いてきた叔母と言う人と酒を酌み交わしたのだ。

あまり飲むなと言われていたが、朝まで飲み明かし、後で妻と月子にどやされた。

それ以来アルコールは一滴も飲んでない。

「そうか…間に合うかねぇ」

「こればっかりは本人達次第だからな」

触診しながら二人で唸る。

晩婚化や少子高齢化が叫ばれて久しい昨今、この老人の唯一の懸念はそこである。

「まぁ大丈夫じゃない?」

口を挟んだのは月子だった。

「陽子から聞いたけど、陽輔君達、結構順調らしいわよ」

「そうかい、そりゃ良かったな」

大藪医師が村田老人の顔を見ながら呆れた口調で応える。

その話を聞いた村田老人が、さっきの懸念も何処吹く風でにこにこしていたからだ。

「今何歳だっけ?」

「何だ?患者の歳を忘れたのか藪さん?」

「ちげえよ、陽輔君だ」

流石に患者の基礎データは忘れてない。

「もうすぐ二十歳だっけ?」

背中に聴診器を当てながら聞く。

「えぇ、こないだ成人式が有ったんですよ」

村田夫人がこれまた満面の笑みで話す。

「その時の写真を送って来てくれましてねぇ」

たどたどしい手つきでスマホを操り、老医師に写真を見せた。

「ほう、中々サマになってるじゃねえか」

カルテに項目を追記しながら、大藪医師はニヤリと笑う。

近所の公民館の入り口でスーツ姿の青年が緊張した面持ちで立っていた。

その顔はまだ幼さが残っているが、若い頃の村田老人を彷彿とさせる。

傍らには同年代の女の子が振袖を着てピタリと寄り添っている。

「おっぱいとケツがでかそうだな…安産型か」

和服では本来の体形は分かりにくいはずだが、大藪医師には手に取るように分かるらしい。

「先生、今時の子にそんな事言ったらセクハラで訴えられますよ」

「うへぇ、気を付けるわ」

バックヤードから橋本看護師に笑顔で釘を刺された。




「よう後輩、そっちは元気にしてっか?」

大藪照正はお墓の前でふっと笑った。墓に刻まれた文字は『風見家代々乃墓』。

今日はこの墓の主の月命日…では無い。それは昨日だった。

老医師は敢えて日にちをずらし、毎回翌日にしている。毎月ではなく不定期なのが医者である証拠だろう。

そして月命日からずらしているのは、当日ここを訪問する者が居るからだ。

実際、老医師が訪れた時も墓前に花が生けてあった。

家族水入らずのひと時を邪魔するような、無粋な真似はしない。

空いたスペースに自分が持ってきた花を一輪差し、減っていた水を少し足す。

「アキちゃんは元気でやってるみてえだな…てっきり寂しがって直ぐにそっちへ呼ぶかと思ったぜ」

大藪はくっくっと静かに笑った。

そして思い直す。家族想いだからこそ、長生きして欲しいと思うのだ。

「おめえが閻魔さまを説得でもしてんのかねぇ」

案外治療でもしてるんじゃないか?ずっと座ってると腰に悪そうだし…いや、あいつの専門は脳外科だったか。

そんな他愛も無い事を一瞬考え、思い出した様に鞄から荷物を漁る。

「そうだ、見てみろこの記事」

取り出したのは、ヨーロッパで発行されている医療雑誌の最新号だった。

ヨーロッパ屈指の腕を持つ外科の権威として、一人の男が特集されている。

レイバート・ポドルスキーという東欧出身の五十代後半の外科医は、内視鏡手術では世界でもトップクラスだと絶賛され、インタビューも収録されていた。

そのインタビューで、彼はこう答えている。


――私には二人のマスター(師匠)が居る…二人共日本人だが、彼らが居なければ今の私は無かった――


二人の師匠として、コウイチロウ・カザミとテルマサ・オオヤブの名を挙げていた。

「何時の間にか俺達の弟子になってたらしいぜ」

弟子を取った覚えなど無いが、この男の事は覚えている。

三十年ほど前の国際学会で、彼の発表の時、大藪医師が議論(イチャモン)を吹っ掛け、そこから会場中を巻き込む大激論に発展したのだ。

あの時壇上でガタガタ震えていたひよっこが、今では内視鏡手術の大家だそうだ。

「世の中どうなるか分かんねえもんだな…」

老医師は、遠くを見るような目をして穏やかに笑った。

今思えば、あれが老医師と風見家の付き合いの始まりであり、ひいては風見病院と松田病院の人材交流の発端でもあった。

あの時、風見孝一郎が大藪のイチャモンに待ったを掛けなければ、大藪が一方的にひよっこをいじめて終わっただろう。

その後、年に一度の学会で大藪医師が誰かに議論を吹っ掛け、風見医師が諌めるように割って入り、他の研究者達を巻き込むと言う光景が見られる様になった。

驚いたのは、風見が発表者に議論を吹っ掛ける事も有った事だ。その場合は大藪が諌める側に立ったが。

何年かそう言うやり取りが有った後、どちらからとも無く『先輩・後輩』と呼ぶ様になり、お互いの勤務先である両病院同士の交換留学の話が立ち上がって行った。


どうなるか分からないと言えば。

孝一郎が先に亡くなったのもそうだ。

以前、家に行って初めて遺影に手を合わせた際、大藪は呟いた。

『先輩を差し置いて後輩が先に逝っちまうなんて…何やってんだおめぇ…』

憎まれっ子世に憚ると言うが、惜しいヤツが先に逝った。普通は年上が先に卒業するだろう。

そんな事を思い、つい口に出たものだった。

ハッと我に返り、後ろに向き直ると、秋仍夫人が嬉しそうな寂しそうな何とも言えない微笑みを浮かべていた。

ありがとうございます、とお辞儀され、恐縮してしまってそれ以上何も言えなかった。

まぁその後はひ孫や病院関係者(野次馬)数人も出席した宴会に招待され、医者連中とは互いの見識を深め合う事になったが。

その席でも、触診と問診で大体分かると言ったら若手の連中には大層驚かれてしまった。

と言っても、隆典(息子)康介()は病院で仕事中だったからその場に居なかったし、二人ならそうは驚かなかったかも知れない。

何せ孝一郎がそうだったからだ。

彼は脳外科が専門だが、だからこそ、初期対応が重要である事を知っていた。

だから、患者の挙動をつぶさに観察し、診察に利用していたのだ。

時には、診断領域の人間である自分にも相談をして来た程だった。

大藪の記憶では、あの熱心さは二人にも受け継がれていた筈だ。


「さて…そろそろ行くか…」

大藪照正は踵を返し、墓地を後にした。

今度は婆さんと二人で家にお邪魔しようか。老医師はそんな事を考え、桜並木を歩いて行った…。

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