宮の谷
桧が植林された斜面を登ると見覚えのある道に出た。宮の谷を遡って行く道である。人が一人通れるだけの幅の道が植林の急な斜面を横切ってつけられている。川面までの高さは軽く十メートルを越えているだろう。川原の様子は木々に遮られて見にくい。横からの小さな沢を横切るような所には赤茶色に塗装された鉄製の桟道が渡されていた。去年歩いた時は少し朽ちた木製の桟道でちょっと怖い思いをして歩いたのだったが、すべて鉄製に架け替えられていた。
白い息を吐きながら私たちは歩いた。寒いので手は半分くらい袖の中に入れている。寒いとどうしても歩き方がぎこちなくなる。道も夏よりも硬いような気がする。路面から出ている尖った石を避けるときに中途半端に足を運ぶとバランスを崩しそうになる。
しばらく歩いて行くと「犬飛び岩」との分岐に出た。先を急いでほしかったが、貴洋は左の「犬飛び岩」への道を進んだ。
「ちょっと、寄ってみようや」
私は貴洋の言葉に引かれて後に続いた。賢一が何か言うと思ったが、何も言わずに後をついて来た。
「犬飛び岩」は宮の谷の流れが対岸との距離が二メートルくらいに狭まった所である。距離に反して川面からの高さは二十メートルくらいあると思われる。昔大蛇に追われた猟師が愛犬を抱いて飛び越えて九死に一生を得たという伝説の場所である。去年の文字が消えかかって読みにくかった説明板に替わって今年は立派な説明版が傍にあった。そして何もなくて身を乗り出して川面を見るのも怖かった所に今年は鉄とセメントでできた頑丈そうな橋が渡されていた。私たちは橋の上に立った。下を見ると黒い絶壁に挟まれた流れが白く空を映していた。私は向こう岸に渡ってみた。
「大蛇が追っかけて来たのなら、私でも死に物狂いになってそっちまで跳べそう」
「そうや、智子の跳躍力に関しては今朝の三段跳びで実証済みや。蛇がおらんでもあんだけ跳べたんやから、これくらいの幅なんか余裕やろ」
「馬鹿」私は貴洋の肩を突っついた。
「それにしてもこんな山で何を狩っていたんだろうね、猟師さんは。すごい傾斜の山で歩くのも大変なのに」賢一は斜面を見上げながら言った。
「この山にはいろんな動物がおるやろ。鹿に猿、狐に狸、猪、そして昨夜智子が疑心暗鬼になった熊や。そやけど、大蛇はおらへんやろうな、いくら何でもさ」貴洋が答えるように言った。
「私もそう思う。大蛇なんておかしいわよ」
「大蛇は作り話やろ」
「そうだな。これくらいの距離だったら犬を抱えて飛び越せないこともないけれど、大蛇に追いかけられたというのは信じられないな。手負いの熊か猪にでも追いかけられたのと違うかな。大蛇はおかしいよ。ま、大蛇の方が話しは面白いけれどね」
「まあ、それにしても何となくそんな話しを納得させるような場所じゃないこと」
「そうやなあ」納得したように言うと貴洋は対岸の山肌を眺めた。私も対岸に視線を移した。紅葉はすでに終わっていて枯れた葉っぱがかろうじて枝にしがみついている。ほとんど散ってしまって疎らになっている木々も見られる。
「こんな所でゆっくりなんかしてられないよ。さあ、行こう」賢一が出発を促した。
「ああ、そうやな」貴洋はまた先頭になって歩き出した。私はすぐ後ろに続いた。私は最後尾はできるだけ歩かないことにしている。すぐ前の人と離れてしまったりすると後から何者かがついてきているような気配を感じてしまうからだ。往きはいいのだが、帰りが特に嫌だ。その何者かに押さえ込まれて声を出す間もなくどこかに連れ去られてしまいそうな気がする。本当はそんなことはないのだろうが、幼い時から後ろに誰もいないことは恐れている。もし、崖っぷちの道などで足を踏み外したりして岩や木にしがみついていても前を行く人に気がついてもらえないのではないかと思えたりもする。前を行く人が気がついて引き返して来た時には力が尽きて・・・。
元の道に戻ってしばらく歩いていくと「鷲岩」の分岐に出た。ここは「犬飛び岩」の絶壁に挟まれた狭い流れからは想像もできないくらい明るい川原が開けている。道からは鉄製の階段を降りればすぐに川原に降りられた。
「ちょっと休憩しようや」貴洋は川原に降りた。私と賢一も後に続いた。
私たちはここで今日初めて日の光を受けた。歩いて多少温まったとはいえ、冷え切っていた身体に暖かい太陽の光がじわっとしみこんでくるみたいだった。立ち止まると汗の冷たさも感じるのだが、ほとんど日の当たらない道に戻りたくない気持ちにさせられる。私たちは弱い風に吹かれながらも太陽の光の温もりを感じた。
「鷲岩って、どの岩のことをいうのかしら」川原から見えるどの岩が「鷲岩」なのか分からなかったので私は疑問を口に出した。
「さあ、どの岩のことやろうな。俺には分からへんわ。とにかく鷲のような格好をした岩があるんやろう。捜したらええやんか」貴洋と私は対岸の岩壁を上流から下流にかけて視線を移した。賢一も鷲岩捜しに加わった。
「おい、あれと違うか」
この川原は下流の方で背の高い門の扉が少しだけ隙間を開けたような絶壁の間へと吸い込まれて消えてしまっている。多分その奥の方に「犬飛び岩」があるのかも知れない。その絶壁の右側の上の方を見ると鷲の頭部に見えないこともない岩があった。貴洋はその岩を指差していた。先っぽはちょっと短いけれど、曲がった鷲の嘴に似ている。頭の上にあたる部分には枯れた羊歯がぼさぼさに生えていた。見ていると精悍な鷲の風貌を思わせるのが不思議だった。
「多分、あれだろう」賢一が言った。他に鷲に似た感じの岩が見当たらなかったので私たちはそれを「鷲岩」だということにした。
「写真、撮ろうや」貴洋が言った。
「うん、写真撮ろう。でもどこで」私は言った。
「もちろん、鷲岩をバックにしてさ。二人ともそこへ並んでくれ」貴洋はカメラを構えると賢一と私に並ぶように言った。賢一と私は貴洋が指を差すあたりに立った。
「ちょっと待ってくれ。まず、距離を合わせて、次に絞りを決めて、それからこの岩の上に置いてっと。それからセルフタイマーをセットして。あっ、そこんとこ、智子の横んとこ開けといてな。俺が入るで」
「ちょっと待ってよ。貴洋がここに来るんだったら、私が真ん中になるじゃない。三人で写真を撮る時、真ん中の人は先に死ぬって言うじゃない。私、嫌よ。ここ開けとくから貴洋が真ん中に来てよ」間に貴洋が入れるように私は横に移動した。
「あっ、智子、動かんといてくれよ。智子を真ん中にして撮りたいんやで」
「嫌よ、何で私が真ん中なの」
「それはさあ、男が並んでもショウもないやんか。やっぱり花を真ん中にしたいんさ」
「花って、私のこと」
「そうや、他に花がおるか」
「お世辞言っても駄目よ」
「でも、智子。真ん中になった人が先に死ぬってのは迷信だよ。三人で写真を撮る場合、自然と年長の人に敬意を表して真ん中になってもらうだろう。普通年長の人は先になくなるよね、順番からして。それでそんなことを言うようになったのかも知れないよ」賢一の言葉には納得させるものがあった。
「それじゃあ、こうしましょ。この三人の中で一番早く生まれた人が真ん中になるの。それならいいでしょう」
「ああ、そんならそれでええわ。誕生日か、俺は十二月の二十日」
この時私は愚かな提案をしたものだと後悔した。私は六月生まれだったのだ。多分一番早いかも知れない。貴洋が十二月とは知らなかった。賢一は何月なのだろうか。
「俺は九月だよ」賢一が言った。
次は私が言わなければならない。もう二人の生まれた月を聞いてしまったのだから、嘘を言って逃れることができる。しかし、嘘は言えない。かといって本当のことも言えなかった。私は何も言わずに黙ったままでいた。
「智子は何月生まれなんや。はよ言わんか。ははあ、言わへんとこをみると智子が一番早いんやろ」貴洋の言葉に私は黙ったままでいた。
「智子の誕生日なら知ってる、というか思い出したよ。六月の十六日と違ったかなあ」横から賢一が言った。私は何も言えなかった。
「なんや、そうやったんか。ほんなら初めの並び方で良かったんや。別にもめることなかったんや。やっぱり智子が真ん中でええんやんか」
私にこの場をごまかして逃げる術はなかった。万事休す。
「ちょっと待ってよ。確かに生まれたのは私が一番早いんだけど、死ぬのは一番じゃないでしょう。大体女性の方が平均寿命が長いんだから、真ん中に来るのは賢一になるんじゃない」私は咄嗟にいい考えが浮かんだものだと思って早口で喋った。額には汗が浮かんでいたかも知れない。
「何言うとるんや、智子。いつ死ぬのなんか関係あらへんやんか。一番早く生まれた者が真ん中になるって自分が言うたんやないか」貴洋の言葉は私をノックアウトした。
「ほんなら、俺、セルフタイマー押してくるでな」私たちは「鷲岩」をバックにして写真を撮った。
すぐに私たちは川原から登山道に戻った。道は崖のように急な斜面をわずかに削っただけの道だった。幅は一人が通れるくらいしかない。歩いて行くと徐々に川原から高くなっていった。右の山側の斜面にも左の川原へ落ちる斜面にも太いのやら細いのやらたくさんの木が生えている。広葉樹が伸ばした細かい枝が邪魔をする。葉っぱの落ちかけたものもあったが、木々の隙間から日の光が漏れて道に明と暗の縞模様を作っていた。
道が川原へと降りて行った。大きな石がごろごろしている。こういった場所では道を見失いやすい。川原に堆積した砂や足を置きそうな石の表面に人の歩いた跡を捜して行かなければならない。足下ばかりを見ながら歩いて行くと大きな岩に登るように鉄製の梯子が架けられている所に突き当たった。それを登るとまた同じような梯子があった。道は再び川原から急斜面の山肌に上がった。沢を横切るような所には鉄製の桟道が架けられていたりして余りアップダウンのない道を進むことができた。私たちの歩みは順調だった。
ある角を曲がると目の前に余りにも人工的な道が伸びていたので驚いてしまった。川原から二メートルくらいの高さの所に横の岩壁から水平に一メートル半くらいアングル材が何本も三、四メートルくらいの間隔で突き出て並んでいたのだ。補強するように斜め下からもアングル材が伸びていた。それらは物干し棹を支えるために軒下にある腕木のようだった。それらの上には物干し棹ではなくて鉄製の網板が渡してあって人が歩けるようになっていた。手すりは岩壁とは反対側にだけ付いている。まるで空中回廊のような道が岸壁に沿って延々と続いている。アングル材を打ち込まれた岩壁の痛々しさが感じられる光景だった。確かにこの道を通れば谷を安全に早く歩いていける。多少の増水があっても安全だ。割り切れない気持ちもあったが、空中回廊を利用させてもらった。百メートル以上ありそうだった。
身体が少し疲れを訴え始めてきた頃に水越谷との出合いに着いた。ここで宮の谷は左右に分かれているが、左の水越谷を行けば一時間弱で風折滝の下まで行けるとガイドブックに出ていた。この滝は落差が八十メートルくらいあって、流れ落ちた水が途中で風に吹かれて折れたように見えることからこのような名前がついたとの説明もあった。
私たちは「鷲岩」を出発してから休みなしに歩いてきた。汗も出て身体も温かくなっていた。
「おうい、休もうに」先頭の貴洋が出合いにあるケルンの前に辿り着くと言った。
「賛成」私は息を弾ませながら言った。まだ歩き続けることはできたが、疲れないうちに休憩を取っておくのがばてないコツである。私たちはケルンの近くの大きめの石を捜して腰を降ろした。
「キャンプ地を出てから一時間半、鷲岩を出てから一時間か。まあまあのペースだな」
昨年はここまで来ることもできなかった。今回は初めてここまで来たのだが、余りにも簡単に来れたので拍子抜けしてしまった。
「もう水越谷との出会いに着いたんか。えらい速いなあ。何でこんなに速いこと来れたんやろなあ」貴洋が嬉しそうに答えの明らかな問いを発した。
「それは多分、うるさい顧問がいないからでしょう」私は貴洋が満足するように答えておいた。
「そうやな。一つ一つ言われへん方がええわ。自由に伸び伸び歩けるで。この調子やわ。ついでに風折滝の方も行ったろうか」
「いや、それは止めた方がいい。ここから片道でも一時間近くかかるみたいだし、どんな道かも分からないし」賢一が冷静な口調で言った。その言葉は貴洋と私の間にあった馴れ合った雰囲気を変えるものがあった。
「わかっとるさ。それくらいのこと。ただ、言うてみただけや。あんまりにも調子よう来れたもんでさ」
貴洋が言い返して口論にでもならなければいいかと心配したが、やんわりと答えてくれたのでほっとした。
「実を言うと俺も行ってみたいんだ。しかし、今回は池木屋山に登るために来たんだから諦めたんだ。仕方ないさ」賢一は残念そうに言った。
「ねえ、滝を見に来るくらいなら、卒業してからでも来れるんじゃないっ。夏休みくらいに連絡してよ。何とかしてそろって行こうよ」
「ああ、是非そうしたいな。その時は俺が車でここまで乗せてきたるわ。車で来たら便利やでえ。一日で往復できるわ」
「車で来るって言うけれど、その車はどうするんだ」
「できたらジープみたいな四輪駆動車がほしいんやけど、無理やったら親父の車を借りるわ」
「車があっても運転免許がないだろう」
「免許は大学に入ったらすぐにでも教習所へ通てとることにするわ」
「そんな暇あるかしら」
「何とかするわ」
「大学に入ってればいいけど、落ちたらどうするんだ。免許どころじゃないだろう。あっ、余計なこと言ってしまったかな」
「いや、そんなことない。たとえ浪人することになっても免許だけは取るで」
「たいへんな意気込みね。余り期待しないで、いえ、期待して待ってるわ」
「はっはっはっはっは、本当にだぜ」賢一は笑いながら言った。
「本当やわ」貴洋も半分笑いながら答えた。つられて私も笑ってしまった。
「そろそろ行くか。休んでいたんじゃ山は登れないからな」そう言うと賢一は立ち上がりながらザックを担いだ。貴洋もザックを担ぐとすぐに歩き始めた。私は慌てて腰を上げねばならなかった。
私たちはまた歩き始めた。今度は右岸につけられた道を進んだ。かなり枯れ葉が積もっていたが、道はよくわかるし、しっかりしていた。長い鉄製の梯子を登り切った所で前方から太く響くような音が聞こえてきた。さらに進むと葉っぱの落ちた樹間から水が落ちる白い帯が見えた。ガイドブックにある高滝に違いない。かなり大きそうだ。落ち始める所も滝つぼもまだ見えないが、物凄い量の水が落ちていることは想像できる。滝の全貌を見ようとして私たちの足取りは速くなった。ちょっと急な登りもあったが、息を弾ませながらも登ってしまった。口を開けて呼吸をしたが、それでも追いつかないくらい苦しい。ターボチャージャーでも付けてほしいところだ。大きな岩を乗り越えたり、滑りやすい一枚岩の上を微妙なバランスをとって歩いたりして私たちは滝の前まで進んだ。
ほぼ垂直に近い岩壁が私たちをぐるりと取り巻いていた。そして岩壁の隙間、四十メートルくらい上の所から水が流れ落ちている。滝つぼは私たちの立っている所よりももって前にあるようだった。私たちは初めて見る滝の威容に圧倒された。時々小さな水滴が風に吹かれてきて顔に当たって冷たさを感じさせる。それでも私たちは動かずに滝を眺めていた。ずっと見上げていたら首が痛くなってきた。
「すごいなあ。これが高滝か」私が見上げるのを止めても賢一はまだ滝を見ていた。私はもっと前に進んで滝つぼを確かめてやろうと思ったが、流れ落ちる水の飛沫がたくさん当たるので諦めざるをえなかった。貴洋がカメラを持っていろんな角度で滝を撮っている。
高滝まで来ることができたが、ここから先の道はどうなっているのだろうか。
「ガイドブックによるとここで左岸に渡るようになっているぞ」賢一がつぶやいた。私も横からガイドブックを覗いた。登山道を示す点線が高滝の前で流れを右岸から左岸へ横切っている。ということはここで渡渉をしなければならないのか。私の目は流れを追った。賢一の目はさらに上流を見ている。
「ここであっち側へ渡るんでしょう」確認のために私は言った。
「そうだよ。そこにある石を伝ってね。今朝みたいに跳ぶほどのものじゃないから簡単だよ」私は賢一が言う方を見た。向こう岸へ渡れるようにうまい具合に石が並んでいる。
「あっち側へ渡ったら、その右に見える道を登るんだろう。多分それがルートだよ」
向こう岸を見ると枯れ葉の積もった斜面をジグザグに登っていく道があった。
「さ、行こうか。ところで貴洋はどこへ行ったんだ。おおいっ、貴洋。行くぞ」
「分かった。ちょっと待ってくれ」貴洋は滝つぼまでかなり近付いたみたいで額が水飛沫をを浴びていた。
私たちは貴洋を先頭にしてまた歩き出した。ジグザグの登山道を登るのはちょっとしんどかったが、登るにつれて滝全体の姿が見えるようになっていった。まだ葉を落としていない木々の枝に邪魔をされて見えない部分もあったが、かなりの水量を落とす滝の迫力がよく分かった。いつか道は滝よりも高くなっていた。ここからは岩壁をトラバースするようにほぼ水平になっていた。うっかり足を滑らせたりしたら滝つぼに落ちてしまいそうな所である。足場が小さかったり、滑りやすそうな所もあってかなり緊張させられた。
やっと安全な場所に着いて立ち止まったら三人ともすごく激しい息遣いをしていた。帰りもここを通過しなければならないのかと思うと憂鬱な気分になるが、登ってしまったのだから下るのも当然のことだ。高滝の落ち始める所を見ようと思ったが、大きな岩が邪魔をしていて道からは見ることができなかった。さらに進んで行くと一本の木に「猫滝」と書かれた古い案内板が懸かっていた。そしてそこから下の方へ降りられるように踏み跡がついていた。
「こっちへ降りてみよか。「猫滝」ちゅうのを見てみように」私と賢一は後ろに続いた。ちょこちょこと歩くと棚のようになった大きな岩の上に出た。前方に可愛らしく小さな滝が見えた。先ほどの高滝とは違って水が優しく、明るい青色をした滝つぼに落ちていた。多分これが「猫滝」だろう。私の目はさらにその滝つぼから流れ出る水を追った。流れは硬そうな岩をえぐってすぐに、見るからに気持ちの悪くなりそうな青黒い釜に流れ込んでいた。そこから流れ出た水が高滝になるのだろう。岩の間へ流れ落ちている。
「あの釜を見ていると何だか怖いわ」私はそう言うと後へ下がった。
「そうやなあ。何か気持ち悪うなるなあ」
「もし、ここから落ちたらあの釜へはまることになるし、多分出られないからそのまま高滝に落ちるしかないな」
「とにかく気持ち悪い所や。早よ行こ」
私たちは道に戻った。ここより先の道は歩く人も少ないのか余り踏まれておらず心細い感じになた。石には苔が着いて薄緑色になっているし、枯れ枝や枯葉が落ちていた。進んでいくと滝の音も小さくなって山に深く入ったことを感じさせる。
両岸から迫り圧迫感を感じさせる岩壁がなくなるとともに沢の両側が開けているので明るくなった。沢は全体が小さな作りになった。両側の岸から痩せた木々が枝を自由に伸ばして水量の少ない流れの上にアーケードを懸けていた。高滝までの変化に富んだ谷の作りと比較すると箱庭のような代物だ。途中の一箇所を除いて大きな岩はなかった。持ち上げようと思えば持ち上げられそうな手ごろな大きさの石ばかりが転がっている。水はその間をおとなしく流れている。道の傾斜も緩やかになって疲れないで歩ける。二回ほど思い出させるように道が途切れて対岸へ渡らねばならない所があった。
ずっと左岸に沿って歩いて行くと突然道がなくなった。前には黒い岩が垂直に流れに落ち込んで行く手を塞いでいる。貴洋は対岸へ渡る所を捜し始めた。スムーズとは行かなかったが、何とか石から石へと足を置いて対岸へ移れる場所があった。対岸に渡ってほっとしていたら後から賢一が言った。
「おい、見てみろ。すごいぞ」
私は振り返った。見た瞬間目の前にあるのは池かと思った。底に綺麗な石がいくつも見えている。それが滝つぼだと分かるのに時間はかからなかった。波紋が規則正しく岸に寄せて来ている。視線を上げると眩しい空からレースのカーテンが懸かるように、対岸の行く手を阻んだ黒い岩の上に水の糸が幾筋も落ちていた。飛び跳ねた飛沫が様々に光っている。真直ぐに進んでいたら宮の谷がこの池で行き止まりだと思っていただろう。さき程私たちの行く手を阻んだ岩に滝が懸かっていたのだ。谷はここで右に直角に曲がっている。
「これ、何て滝なのかしら」私は賢一に尋ねた。
「多分、どっさり滝だろう」
「それにしても綺麗な滝ね。滝つぼが可愛いわ」
「何や、こんなとこに滝があったんか。横から流れ込むとはけったいな滝やでぇ」
私はしばらく滝に見とれていた。貴洋が写真を撮っている。賢一も滝を見ていたが、すぐに道を捜し始めた。ところが、あっちへ行ったり、こっちに来たりするだけだった。
「どうやらこっちに道はないみたいだな」賢一は草臥れた様子を見せた。
「なら、ここで行き止まりなのかしら」
「いや、こっちの岸にあらへんだけさ。元の岸をもう一回捜してみやなあかんやろう。さあ、戻ろう、戻ろ」
道がこんな形で急になくなるのは変だと思った。私たちは元の岸へ渡ると斜面の上の方を見ながら歩いた。歩いて来た道を少し戻ってみると急斜面をジグザグに登る道があった。割としっかりした道だったが、さっきは見落としてしまったのだ。
私たちは滝の上に出ることができた。すると流れはそこで二股に分かれていた。ようやくガイドブックにある奥の出合まで来ることができたのだ。小さな二つの川がぶつかって幅が広くなっていた。私はちょうど良さそうな石を見つけると腰を降ろした。
「おい、あんな所に小屋があるでぇ。行ってみように」貴洋が指を指しながら言った。指差した方を見ると流れより少し高くなったわずかな平地に本当に小さな小屋があった。壁は薄い板が張ってあるだけの粗末な小屋だった。貴洋は駆け寄り入り口の戸に手をかけた。