平成時代へ捧ぐ〜『書経』大禹謨より、平成神話〜
とある吉日。
禹は、現在の帝たる舜より命じられた。
「帝位に就け」──と。
禹は深く驚いた。
帝たる位に就けるのは、邦でただひとり。
邦のすべての権を一身に集める立場である。
過去に、舜もまた堯より帝位を譲られている。
しかしそのようなことは、禹からしてみれば雲上の出来事である。
まさか己の身に降りかかってこようなどとは、禹は考えてもみなかった。
舜の行おうとする、帝位を誰かに譲るということ。
それは、欲がなく、徳のある者にしかできないことである。
舜は、実行するのは現世が始まって以来、もっとも賢なる帝。
舜は人格をはじめ内実ともに、誰もが認める人物である。
その人のあとに帝として立つ。
禹には自信がなかった。
禹は、過去に治水工事の成功を収めている。
己の仕事には誇りを持っていた。
しかしそれは、禹を支えた人物たちの協力あってのこと。また、父の失敗の上に成り立つものである。
禹ひとりでは成し遂げることなどできなかった。
──帝である舜は、かの治水を評価してくださったに違いない。しかし。
治水については確かに実績がある。
しかし、己が帝位を譲るに値する人物であるのか。
禹は不安であった。
もっと、ふさわしい者はほかにもいるのではないか。
舜の築いた治世を壊してしまうのではないか。
己に邦を治めるなど、できるのだろうか。
繰り返し、自身に問いかける。
──本当に、わたしで良いのだろうか。
禹は水面に映る己の顔を見つめた。
丸い顔に少し前方に出すぎた大きな瞳。
魚のよう、とよく言われる。
憂いのために、覇気がなく、肌色は心なしか陰っている。
とても帝のたる器にあるようには見えない。
***
禹は、後日、賢帝たる舜へ会った。
禹は訴えた。
貴方様はわたしに帝の位を譲るとおっしゃいました。
本当にわたしに務まるのでしょうか。
わたしのような凡愚に、世を治める資質はあるのでしょうか──と。
舜は眉目秀麗。
内実ともに、当世一の帝である。
舜はその清涼感のある顔を、険しくした。
この愚か者、と舜は禹を叱咤した。
禹を叱りとばしたのちに、舜は目元をふ、と緩ませた。
世のすべてを内包する笑みである。
舜は、禹に説いた。
禹よ。禹よ。
わたしを、己を信じるがよい。
この世には帝に相応しくない者がいる。
己を省みない者。
己を過信する者。
己を愛しすぎる者。
為政者としては、不適切である。
己を省みる者。
己を過信しすぎない者。
己を愛しすぎない者。
この三つは、為政者の条件である。
この三つに当たる者は、簡単なようでいて、なかなかいないものだ。
禹よ。
そなたは、己を省みることができる。
己を過信しすぎない。
己を修めつつ、他者へ思いやる。
すなわち、最も帝位にふさわしい。
禹よ。
そなたこそ、天の求めし人材である──と。
禹はそれでも、納得しなかった。
禹は言った。そのような方は、たくさんおります。
功臣のなかから、占いで決めるのはいかがでしょうか。
舜は答えた。
禹よ。
わたしの意志がすでに決まっていて、他の者も納得している。
鬼神もそなたを認めているし、占いも吉とでている。もう、結論が出ていることだ。占う必要などない。
そう。そなたは天が定めし逸材。
わたしが認める人間である。
何度も言わせるな。
常に、己を疑え。
しかし、疑いすぎるな。
常に、信じろ。
しかし、過信しすぎるな。
常に、慈愛をもて。
しかし、愛しすぎるな。
大事なのは、均衡である。
平静である。
治世とは、凪いだ大河のようなものである。
帝たる舜は、禹に背を向けて臣下に命じた。
正月朔日、百官を宗廟に集めよ。
禅譲はこの日に。
禹は固く辞した。
お待ちください。お待ちください。
やはり、わたしには荷が重すぎます。
ほかの賢なる臣に任せるべきです。
舜は言った。
もう、決めたことだ。何度も言わせるな。
舜の意志は固かった。
舜への説得は叶わず、禹はしぶしぶと家に帰る。
禹はひとりとなり、ふたたび自問自答を始めた。
彼は生来、決断の早い人物である。
しかし、この時ばかりは違った。
邦を背負って生きる。
民の命の責を負う。
感じたことのない重さが、禹を襲った。
***
憂慮を濯ぐように、禹はある晴れた朝に禊した。
清涼なる河に、一糸纏わずに飛び込む。
春を迎える前の河。凍えるようである。
身を投げたいわけではない。
水と一体となりたかったのだ。
河はいつも禹とともにあった。
禹は、悠々と河を泳いだ。
──もし、天が己を認め、我が身を生かすなら、死ぬはずがない。
禹は青々とした天を見つめるように、ぷかり、と浮かんだ。
ただ、流れされるがままに、その身を任せた。
河は禹を受け入れた。
四肢が溶け込むようである。
目を閉じた。
広大なる山河。
その、ままならぬ意志に、禹の心身も混ざりゆく。
帝位に就くとは、どのようなことか。
禹は、天意を問うた。
答えはない。
天地に思いをめぐらせる。
禹は本質に触れたかった。
掴めそうで、掴めない。
禹は、ただ、水に浮かんだ笹舟のように、揺蕩う。
ふと、禹はその足にくすぐったさを感じた。
魚が禹の足の皮を食む。
小さな川魚である。
──己を食べるか、それも良い。
禹は、何者かに食べられることがなぜか心地よかった。
──河が、わたしを呑み込む。河は、大きな魚の胎のなかのようである。
果たして、どこからが河で、どこからがわたしなのか。
禹の意識は、食べられた皮の先、手足の先から広がりゆくようであった。
天と地。
陰と陽。
どこからが己で、
どこからが他か。
次第にわからなくなる。
同化してゆく。
溶け込んでゆく。
天意とは、このような混濁か──。
答えはない。
ただ、そこにある。
己とともに、存在する。
水のようなものなのか。
掴もうとして手を出しても、かえって逃げだすものである。
掴もうとせずに、任せる。
いま、河のなかに己の身が包まれているように──。
天の意はわたしにあり、
わたしは天の意のもとにある──。
*
正月朔日。
宗廟にすべての臣が集まる。
正装の舜はまず天帝が座す泰山へ向かって拝礼した。
舜の挙動は、欠けるところがない。
人間の営みの中で、最高級の礼を尽くした。
舜はすでに若くはなかったが、内面、外見、所作のすべてが完成されていた。
誰もがその美に酔うようである。
舜は美声を惜しみなく廟堂に響かせた。
百官よ、民よ。よく集まってくれた。
大事な話だ。
よく耳をそばだててよく聞くがいい。
来たれ、禹よ。
来たれ──。
禹は、その場に居なかった。
百官たちがざわついた。
──もしや、帝の位から逃れようとしているのか。
──誰もが欲するその席を。
凡百の官に、誰も禹の葛藤などは理解できない。
ただ、舜だけが、物語ではない現実の帝たる難しさを知るのみである。
来たれ、来たれ、禹よ。
舜が三度呼びかけたところで、禹は宗廟の入り口に現れた。
朝陽を背負うその姿に、魚のような顔と揶揄されていた頃の禹の面影はない。
百官は、天帝の来降を視たようであった。
禹は、遅くなりました、と短く伝えた。
舜は、黙って頷く。
その瞳には、新暦の光と、禹の覚悟が映った。
現帝たる舜は、祝辞を述べた。
禹よ、禹よ。
よく聞くがよい。
天はかつて、洪水を起こしてわたしを戒めた。
すべては、わたしが驕る心を少しでも持ち、徳を欠いたために招いたことである。
そのとき、誠意を尽くして治水の事業を成し遂げることができたのは、禹よ。
そなたが賢明だったからである。
よく邦のために勤め、よく家のために倹約し、しかも自分を尊大に振る舞わなかったのは、禹よ。
そなたが賢明であったからである。
そなたが才を誇ったりしなかったので、
天下の人々もそなたの才と争おうとしないし、
そなたが功績を誇ったりしなかったので、
天下の人々もそなたの功績と争おうとしない。
わたしはそなたの徳を認め、
ここに、そなたの大功を讃える。
帝位に就くべき天のめぐりあわせは、
そなたにある。
そなたこそ、帝位にふさわしい人物。
だがしかし、禹よ。
怖れるがよい。
人の心は、危うい。
真理は、遠く霞むようだ。
精神をただ一つにして、まことの中道を採れ。
考えの浅い言葉は聴いてはならない。
民の意を問わない計略は用いてはならない。
愛するべきは、君主ではない。
畏れるべきは、民衆ではない。
民衆は君主がいるからこそ、邦は治るのである。
君主は民衆がいるからこそ、邦を守るのである。
禹よ。慎みをもて。
そなたの帝位に慎みをもち、
その願うところを慎み修めよ。
困窮するすべての民に気を配り、助けることができるのならば、天から与えられた幸いは長く続くことだろう。
特に、口舌を戒めよ。
口はすべてを引き起こす。
友好も。争いも。
言葉こそ、危ぶむべき根源であり、願いたる希望である。
史官よ。
我が言霊を後世に残せよ。
廟堂に集まりし百官よ。
二度とは言わない。
よく、刻めよ。
わたし、舜は、賢なる禹に帝位を譲る。
わたしは、願う。
地の平らかにして、天の成るを──。
天地に願う、舜の言霊。
禹の瞳には涙があふれ、こぼれ落ちた。
清らかな新年の光が、その場にいたすべてのものを包む。
この瞬間、舜の帝たる位は失われ、禹に引き継がれた。
禅譲。
帝の位を譲ること。
誰もが譲ることのできるものでもない。
誰もが譲られるものでもない。
賢なる舜だからこそ譲り、
賢なる禹だからこそ譲られるものであった。
史官たちはこの神聖なる儀式を紡いだ。
史官たちもまたこの記憶を残すことこそ天命と受け止め、凛然として語り伝えた。
こののちに、禹は帝位に就く。
禹は舜の治世を引き継ぎ、名君として君臨した。
禹の治世。
位に驕らず、凛として立ち、民を慈しむ。
まるで天意に沿うように──。
その世は、まるで静かなる大河のようであった。
***
ふたりの功績は、後の世にさまざまな記憶に残った。
舜は、徳の高い者として神格化される存在となる。
禹もまた、名君として舜とともに名を残し、水の神とも崇められる。
『堯、舜、禹』
舜の先帝、堯とともに、徳をもって天下を治めた理想的な帝王とされた。
舜と禹、ふたりの問答については、『書経』大禹謨に残る。
曰く、
「地、平らぎ、天、成り、六府三事充に治まり、萬世永く頼るは、時れ乃の功なり」と──。
地、平らかにして
天、成る。
それは舜が禹に託した願いであり、禹の努力の末に得た治世。
まるで、静かなる水が煌めき、大河の凪ぐような時代。
すなわち、──平成──。
(参考文献)『新釈漢文体系 第26巻 書経(下)』明治書院