3話
ぜぇぜぇと息を切らせながら必死に走り、その手が如何様になろうと木に爪を立て、登った。
……――間に合え、間に合え、間に合え。唯、幸せになりたかっただけなんだ。一度は諦めた。けれど、そんな自分にも幸せが有るのなら、欲しかったんだ。泣く事には慣れたけど、笑う事にはまだ慣れていないんだ。
当たり前の様に、幸せに、笑いたい。
千切れんばかりに伸ばす彼の腕が、スイッチへと届く――そして、彼は自宅の前に居た。
自身の家であるのに、彼の指はインターホンのスイッチを押している。其処には、あの赤いスイッチの残像。そして消失。
次に来る幸福。
扉を開けると、其処には妻と子が居た。そして、幸せそうに笑っている自分。
『違う! 違う! 俺なんだ! 家族と自分の幸せな景色を見たいんじゃない、自身が其処に居たいんだ!』
憤慨と絶望に苛まれながら、改めてスイッチを探す。
次は。次はどこだ。もう音声は流れない。いつ出現しているのかも分からない。どこだ。どこなんだ。
焦る彼が家の外を見ると、通りすがりのサラリーマンが。その背には、スイッチ。
嬉々として駆け付け、サラリーマンの背中ごと張り倒す。爽快な高音と共に景色はボヤケて滲む。
ほんの一瞬、彼が瞬きをすると目の前には妻と子が居た。
もう失いたくない。親の居ない彼にとって、妻と子は唯一無二の存在。金も充分に増えた。家族も元通り。
……何度押しただろうか。最早、彼にスイッチは必要無かった。願わくば、この瞬間を永遠に。
スイッチの5秒。
ずっと続く幸福なんてある訳が無い。不条理だ。きっと、制限時間内に押せなければ全ての逆流が襲ってくるに違いない。もう充分、もう二度と押す事は無いであろう。
そう強く、あの赤いスイッチを思い描き彼は誓った。感謝と畏怖の念を込めて。強く。
妻と子の笑顔に涙し、震えながら、彼は幸福に包まれ笑顔になった。
さよなら、幸福のスイッチ。
しかし、事は終わりを迎えない。
彼の思い描くスイッチを、心に現れたスイッチを、押してしまった。
景色は一変し、其処はビルの屋上。
呼吸の方法も忘れる程に乱れる彼は、必死に妻と子の姿を探した。
だが、無機質なコンクリートの屋上と、自身が過去に憎んだ地上しか存在しない。
まさか、心の中に描いたスイッチで……。
彼の心に描いたスイッチを、彼はこれまでの事を思い返しながら押したのだ。次なるスイッチは、彼の心の中に出現していたのだ。
だが、何故妻と子が居なくなる。家族を失いたくないと彼は願ったのに。
居なければ、失わない。
酷く退屈で安直な結論に至った。
もう疲れた。
スイッチを探すのも、人生に逆襲されるのも、幸福の天秤が崩れる恐怖も。
彼が終焉への答えを出すのに時間は要しなかった。
其処へ、一人の男が現れる。
見るからに不幸と絶望に包まれた……今にも此処から飛び降りてしまいそうな男。
そうか。そういう事か。あの男が吐いた最期の言葉の真意は。
全ての合点がいくと、彼は男を呼び止めてスイッチを取り出し、その手に握らせた。
「では、お先に失礼!」
そう言い残すと、彼は幸不幸の輪廻から飛び立った。




