2話
訳が分からないといった表情の彼にそれを渡すと、男は背を向けてビルの屋上……その先にある手すりを乗り越える。
片手を挙げてヒラヒラと振りながら、彼を見ずに男は呟く。
「それがあれば幸運になれますよ! 何か困ったら5秒以内に押すと大概の事は何とかなりますから。但し、使った次のターンは何処に出現するか分からないから気を付けて。あと、5秒過ぎたら使えないのでお気を付けを! では、お先に失礼!」
そう言うや否や、青白い顔の男はビルから飛び降りた。
はっと冷静を取り戻し慌てて地上を見下ろすも、其処には男の成れの果てが。現実と幻想の境目が掴めぬまま自らが手にする物に目をやると、男から手渡されたスイッチが確かに有った。
……何か困ったら押すとは、何と抽象的で好い加減な。そして、そんな代物が存在する訳がない。先を越されて呆然とする彼は、その間際に一つ思い浮かべてしまった。
――金。
『金さえあれば生きる事ができたのに』
そう思うと、突如スイッチから音声が流れる。
「5……4……3……」
これは、まさか。
今際の妄言にしては質が悪い。とんだ茶番だ。
不意に沸いた苛立ちをその手に込め、スイッチを押し潰す。すると、すうっとスイッチが消え去るのと同時にズシリと重い感触がポケットに訪れた。そんな、まさかと覗くと其処には札束が。
彼が驚きのあまり阿呆の様に口を開けていると、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
『ああ、あの男が地上に落ちたからか』
そう理解すると共に、己の立場を理解する。このまま此処に居ては不味い。面倒な誤解を生んでしまう。しかし、どうして此処を去れば……。
「5……4……」
振り返ると、彼の真後ろにふわりと浮かぶスイッチが。
――彼は幸福に包まれていた。
地位・金・女……望む物は全て石ころを拾うが如く容易に手にし、全ての事情は望むがままの形へと成す。一度、菓子屋で当たりクジ付きの菓子を全て開けてみた。そう、一つ残らず当たり。小さな事であろうが、彼には世界から祝福を受けている事を実感するのに充分足り得る物だった。
彼は思った。こんな簡単な人生があったなんて。
彼は思った。なんて退屈なんだろう。
「5……4……」
突如、あの幸福振り撒くスイッチが彼の手のひらに現れた。疑問と云う退屈は持たず、押した。
しかし、何の変化も訪れずにスイッチは消えた。
まさか、今のでスイッチの存在が無くなったのか?
迷子の様な不安が彼を襲うも再びスイッチは現れた。だが、現れた場所は彼の前方に見える木。その高くにある小さな枝の先。地上からでは到底手の届かない小さな枝の先。
そうか、スイッチの在処が難しくなったのか。なんと単純な。いや、単純なのは己の思考か。
仕方なしに向かうと違和感に気付いた。スイッチの、秒を数える音声が流れていない。
5秒以内でなければ使えないと、ビルの上の男は言っていた。そのリミットを過ぎたらどうなる? ただ、無効になるだけ? 否、あの男が此れを持ってしても死を選んだ訳は……幸福の逆流?
彼の脳内に目まぐるしく不安の渦が巻き起こる。
『今、何秒だ』
不安の中から意識を戻すも、更なる猛烈な恐怖が迫る。




