ベルの向こうに
「ベルの向こうには、なにがある?」
自分がスランプだったときに、同じ部活の先輩が掛けてくれた言葉だ。
ベルっていうのは、楽器の一部分の名称で、円錐形に広がっているところ。
自分の息が大きな音のエネルギーとなり、響いていくところだ。
その質問の答えはすぐに分かった。それは、床だ。
私が担当しているのは、クラリネット。
クラリネットはベルが下に向いているので、ベルの先には床しかない。
でも、なぜ先輩はこの言葉を投げかけたのだろう?
4月
真新しい制服を着ている新入生たちが、体育館に入ってきた。
私は毎年、この光景を見ると心が踊る。
入学式の最初、先生の指揮に合わせて私たちは曲を吹き始めた。
数週間後、私のパートには2人の1年生が入ってきた。
どちらもクラリネット初心者であることは変わりないのだが、1人はアルトサックス経験者の山口あかねちゃんと、もう1人は全くの初心者の木村ちかちゃんだ。
このパートのパートリーダーである私は、この2人を、私が引退する前に一人前にしなければいけない。
なぜなら、私のパートには2年生がいないからだ。
私の所属している吹奏楽部は、今年入ってきた1年生を加えても部員が20人しかいない。
よくテレビでは、100人を超えるほどの部員を抱える学校に密着しているところを見るけれど、そんな学校は一握りしかない。
私の学校のように、少人数でコンクールに出場するのも危うい学校もある。
コンクール曲の練習が始まった。
私たちが演奏するのは、自由曲の1曲だけ。
55人が上限のA編成では、課題曲・自由曲と2曲演奏するのだけれど、私たちが出場する35人が上限のB編成は、その1曲のみで決まってしまう。
演奏時間も12分間ではなく、7分間と短くなる。
人に教えるのって難しい。
自分の中では理解しているって思って、それを言葉にして人に教えているつもりでも、相手はちゃんと理解できていない。
日を追うごとに、なんとなく少しずつ1年生との間に亀裂が生じている気がした。
だけど、今まで頼りの網であった先輩もいない。このパートには、私の同期もいない。
しかも、私は2人の1年生を教えながら、自分の曲も練習しなければならない。
だれに相談すればいいのか分からなくて、ずっと頭の中で同じ考えを回していた。
そうなると、自分の練習も上手くいかなくなるわけで、毎日のように合奏で捕まって怒られた。
音楽ってこんなに楽しくなかったっけ?
私は何のためにここまでやってきたのだろう?
6月に入ってすぐ、コンクールのオーディションがあった。
とは言っても、別に落とすわけじゃなく、誰がどれくらい吹けているのかをチェックするだけだ。
自分がやるときも緊張するけど、自分の後輩がやっているときの方がもっと緊張する。
教室で待っていると、2人が帰ってきた。
1人は嬉しそうな顔をしていたけど、もう1人は泣いていた。
泣いていたのは、あかねちゃんだった。
何があったのか、私にはさっぱり分からなかった。
聞いてみると、2人とも先生からはそんなに悪くは言われなかったらしい。
じゃあ、なぜこんなに2人の表情が異なるのか?
それは、あかねちゃんの負けず嫌いの性格だった。
先生の前で自分の実力を出し切れなくて、悔しかったのだそうだ。
いつも他人と比べてしまう私とは大違いだ。
「先輩、この部活辞めたいです。」
オーディションが終わってから1週間後の出来事だった。
この日、あかねちゃんから話があると言われたから聞いてみたのだけれど、そこで言われたのはまさかの言葉だった。
コンクール前のこの時期、これみたいに部活を辞めたいと言ってくる人は多くいる。
だからといっても、これはもったいなさすぎる。
なぜ辞めたいのかと聞いてみると、楽器を吹くのが嫌になったのだそうだ。
「もしかしたら、また好きになるかもしれないよ。もう一度考え直してほしい。」
その日、私はそう声をかけて練習に戻った。
でも、本当に考え直してくれるだろうか?
もっと何か声をかけてあげるべきだったのではないか?
「最近、大丈夫?」
ある日、同期でサックスを吹いているいろはに話しかけられた。
その子は中学からの経験者で、私が吹奏楽部に入るきっかけを与えてくれた人だ。
「大丈夫よ。なんでもない。」
「いや、そんなことないでしょ。」
私は驚いた。そんなに顔に出ていたのか。
すると、その子はこんな話をしてくれた。
中学のとき、先輩の指導方法に納得がいかなかったこと。
でも、自分が先輩になって、いざ教えるってなったときになにもできなかったってこと。
「みんな一緒だよ。人に教えるって難しい。だけど、焦ったらダメ。焦ったら、相手の気持ちが見えなくなってしまうから。」
私はいつものように練習を始めた。
2時間くらいたって、パート練習をしようと教室を移動しようとした瞬間だった。
急に全身の力が抜けて、そのまま廊下の真ん中で倒れてしまった。
すごい音がしたのだろう。周りの教室から人がたくさん出てきた。
「先輩!しっかりしてください!」
泣きそうな顔をしながら、あかねちゃんとちかちゃんが叫んでいる。
「大丈夫だよ。心配しないで。」
そう声をかけたかったが、その気持ちとは裏腹に体は言うことを聞かずに目を閉じていった。
気が付くと、私は病院のベッドの上にいた。私の横には先生が座っていた。
「山口がね、一番お前を心配していたぞ。大事な後輩に迷惑をかけてどうするんだ。」
私は下を向いて聞いていた。先生のその言葉は、今までで一番ずっしりと心に入ってきた。
一体、どれくらい私は眠っていたのだろうか。空はまだ明るかった。
今日は念のため1日入院するそうだ。
でも、私は体調がそこまで悪いわけではない。早く楽器を吹きたい。早く練習したい。
そんなふうに思っていたら、急にドアが開いた。
そこには、あかねちゃんが立っていた。どうやら、今日は部活が早く終わったようだ。
「先輩大丈夫ですか?」
泣きそうな顔をしながら、こう話しかけられた。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。」
私たちの間に、沈黙の空気が流れる。
すると、あかねちゃんが口を開いた。
「先輩、このあいだはあんなことを言って、すみませんでした。
楽器を吹くのが嫌になったから辞めるって、いつも一緒に練習しているクラリネットに失礼ですね。
クラリネットの力強くて、繊細なあの音をもっとだせるように自分が頑張らないといけないのに…。」
あかねちゃんに何の心の変化があったのか、私はよく分からなかったが、すぐにその答えを発見することになる。
彼女の手にあったものは、付箋だった。
その付箋は、私のスマホケースに隠して貼ってあったはずのもの。
「すみません。先輩が倒れた際にケースが割れてしまったみたいで、見てしまいました。」
私は青ざめた。なぜなら、そこにはこの言葉が書いてあったから。
“私は何も怖くない 私は一人じゃない”
その付箋は、私が中学生のとき部活が辛くて、思わず近くにあった付箋に書いてスマホのケースの裏に隠すように貼ったものだった。
私は慌ててあかねちゃんからその付箋をひったくった。
あかねちゃんは、しばらく驚いたような顔をしていたが、最後にこう言った。
「私、部活辞めませんから。もうあんなことは言いませんから。」
次の日、私はまた午後から部活に参加した。
あかねちゃんとちかちゃんは、最初は心配そうにしていたものの、最終的には何事もなかったかのように接してくれた。
コンクール当日
私は髪をポニーテールにして、前髪はしっかり止める。
これは、審査員が上から見たときに印象を明るくみせるためだ。
みんな、いつもとは違って顔がキリッとしている。
まあ、中には緊張しすぎて顔が死んでいる人もいるけれど…。
毎年、この光景を眺めてきた。
でも、それは今日で見るのが最後になってしまう光景かもしれない。
今日でこの日々が終わってしまうかもしれない。
すぐ近くのステージ上では、私たちの一つ前の学校が演奏している。
この独特の雰囲気は、さらに緊張感を高めさせる。
「私は一人じゃない。」私はあたりを見回して、そうつぶやいた。
ステージのほうから拍手が聞こえた。
前の学校がはけた後、私たちがステージに上がっていった。
自分の席に座って、前を見た。前には、たくさんの観客がいる大きな空間があった。
ステージの明かりがつく。勝負の7分間が始まった。
長い一日が終わって、みんなで先生の話を聞いた。ほぼ全員の顔には、涙が伝っている。
先生の手には、“銅賞”と書かれた賞状が握られていた。
私たちの夏が終わった瞬間だった。
9月
部活を仮引退して、早くも1カ月が経った。
放課後、文化祭での演奏を練習しているのか、誰かが楽しそうなメロディーを奏でている。
その音を聞きながら、私は自習室で勉強をしていた。
私も受験生だ。夏の遅れを取り戻さなければ。
人によっては、この音は雑音に聞こえるかもしれない。
でも、私にはこの音はがんばれって応援されているように聞こえた。
うちに帰っても、何も身が入らない。まるで自分が抜け殻になったみたいだ。
楽器を吹かなくなっただけで、こんなに変わってしまうものなのか?
その疑問が心から消えないまま、私は第一志望校に合格した。
年が明けて、私は部活に戻ることになった。
約半年ぶりに持ったクラリネットは、ずっしり重くて、前よりも輝いて見えた。
1年生の2人も、前よりずっと上手くなっていて嬉しかった。
私の目の前には、たくさんの譜面が置いてある。全て、定期演奏会で演奏する譜面だ。
ほんとにこれ、全部吹けるようになるのだろうか?少し不安になってきた。
2月
ほかの3年生は自由登校になる。
その中で、吹部の3年生だけは毎日部活のために登校していた。
同級生のSNSでは、卒業旅行などの写真がたくさんあがっている。
正直、羨ましいなって思うけど、これは自分が3年前に選んだ道。後悔をしないように、進むしかない。
卒業式の日
式の入場と退場には、吹部の演奏がある。
去年まで、あそこに座っていたって思うと、少し複雑な気持ちだ。
何年前の話だったか、吹いている途中で先輩を見つけて、号泣しながら吹いたこともあったかな。
あの場所には、特別な思い出がある。
吹部に入らないと味わうことが出来ない思い出が。
でも、もうあの場所に座ることはできない。もう2度と。
定期演奏会の前日
今日で制服を着て、学校に来る日は最後になる。
いつも当たり前のように着ていた制服が、今日を最後に当たり前に着ることができなくなる。ほかの人よりも着ている時間が長かった分、思い入れが大きかったことに今さら気がついた。
最後の練習が終わった後、帰るときに私は校門のところで振り返った。
私の前には、夜に浮かび上がった校舎があった。
「今までありがとー!」
私はその校舎に向かって思いっきり叫んだ。
ステージのスポットライトが眩しい。
本番前のリハーサルが終わって、少しほっとしていた。
手には、3年間を共にしてきたクラリネットが握られている。
そのクラリネットは、いつもよりも輝いて見えた。まるで、3年間ありがとうと伝えているみたいだ。
私は鏡の前で演奏会のときの衣装であるワインレッドの蝶ネクタイを直した。
「これで最後だから。」
本ベルが鳴った。
もうすぐ、終わってしまう。
私の学生生活をずっと捧げてきたこの部活が。
今まで嫌だと散々言ってきたはずなのに、急に寂しくなってきた。
指揮者が入ってきて、お辞儀をした。
そしてすぐに私たちに向き直り、指揮棒をあげた。
それに合わせて、私はいつものように楽器を構えた。
このメンバーでの、最後の演奏が始まった。
最後の一曲は、あっという間に終わってしまった。
最後の一音を吹いたあと、いつも怒っているような顔をしていた指揮者の先生がニコッと笑ってうなずいていた。
指揮者の合図に揃えて、みんなで立ち上がる。
すると、目の前には2つの風景が広がっていた。
1つめは、お客さんが一斉に拍手をしている景色
スポットライトで顔はよく見えないけれど、拍手の音はとっても暖かかった。
2つめは、私が3年間やってきた事が積み重なって山となったところから見えた、穏やかで明るい景色
心地よいそよ風が吹いていて、辛かったことが一気に吹き飛んだ。
そうか、ベルの向こうにあったものは床ではなかった。
あの質問の本当の答えは、達成感に満ち溢れたきれいで明るい景色だった。
「お疲れ様でした。」隣で吹いていたあかねちゃんとちかちゃんからそう声をかけられた。
「ありがとう。」私は笑顔でそう答えた。
ステージ裏に行くと、もう我慢の限界だったのか、仲間の前で号泣した。
卒部式の日、私は後輩達にこう質問をした。
「みんなが吹いている楽器のベルの向こうには、なにがありますか?」
たくさんの答えがあると思う。
だけど、私はこれだけは言ってほしくない。
それは、後悔という言葉。
だって、私には明るい景色とともに、後悔という答えもあったから。