魔界風インドカレー
ここは魔界。
その中央には魔界で一番の力を持ち、魔王と呼ばれる悪魔の城が建っていた。
そしてその城にて今、魔王は自らの地位を狙う一匹の悪魔と激しい戦いを繰り広げていた。
三本の捻れた角、四つの眼、鋭い牙、蛇の尻尾、鋼のような体毛に全身を覆われ、六枚の黒翼。
それらを有する強靭な魔王は、群雄割拠の魔界にて常に最強の名を恣とした存在だった。
しかし今、その魔王はその膝を折ろうとしていた。
「ぐおうっ!」
城の上空にて空中戦を繰り広げていた魔王は、相手に蹴り落とされてバルコニーへ転落。
そのままバルコニーを突き破り、地面へと叩きつけられた。
そんな魔王目掛け、急降下してきた相手の悪魔が拳を振るう。
その姿は人間の少女に近かった。
ただ、人には無い異形の部位がその体にはあった。
背には蝙蝠のような羽根があり、体は鉄で出来ているかのように黒い。
いや、実際に彼女の体は金属になっていた。
足も腕も、眼球すらも全て金属だ。
唯一の色彩は、虹彩の金色だけである。
彼女はアーマーデーモンと呼ばれる種族の悪魔であり、体を金属へ変える能力を持っていた。
彼女の名はヘル。
多くの力ある悪魔がひしめく群雄割拠の魔界。
その混沌とした勢力図を自らの力のみで纏め上げ、最後に残った魔王という魔界最強の存在を今まさに打ち倒そうとしている一人の悪魔だ。
この魔王を倒せば、ヘルは名実共にこの魔界の支配者。
魔王となれるのである。
急降下と共に放つ拳が、魔王の臓腑を穿つ。
「ぐるぁっ!」
悲鳴を上げる魔王に、彼女はさらなる攻撃を加える。
角をへし折り、歯を殴り砕き、尻尾や羽根を引き千切り、目を蹴り潰した。
魔王の反撃に繰り出した腕は逆に掴まれてへし折られる。
容赦のない攻撃に、魔王はもはや成す統べなくこれ以上なくボロボロになっていた。
最終的にヘルは魔王に馬乗りとなり、何の抵抗もしない魔王の顔を執拗に殴りつけた。
殴るたびに血や牙の残骸が砕けて飛んだ。
そしてふと気付く。
振り上げる拳を止めた。
魔王は既に事切れていた。
「これが魔王か。他愛無いな……」
ヘルは詰まらなさそうに言うと、馬乗りになっていた魔王の体から下りた。
魔王を倒したヘルは、城内で魔王の手下と戦う部下へ勝利宣言を行なった。
同時に、魔王の手下達は戦意を喪失し、魔界最強の敵との戦いは終わった。
戦いが終わり、ヘルは仲間達と共に食事をする。
魔王が玉座を置いていた部屋に陣取り、城の食料庫にあった食料を各々が好き勝手に取って食べている。
ヘルは玉座に座り、何の物かわからない干し肉を食べていた。
「魔王の食い物も、私達が食ってたもんとたいして変わらんな」
「そうですかい? やっぱり、ちょっと味が違いやすぜ! 超上手いじゃねぇですか!」
手下の一人。
兎頭の男が生のニンジンを食べながら言う。
「そりゃよかったな」
「本当に美味いですぜ! 全部美味ぇ!」
別の手下。
イノシシ頭の男が干し肉を食べながら言う。
「お前は何食っても同じ事を言うじゃないか」
「そんな事ないっスよ。ヘル様も、好きなもの食えば違いがわかりますって」
「好きなものねぇ……?」
「そういや俺、ヘル様の好きな食い物知りませんや。言ってくれりゃあ、取って来ますぜ」
笑顔で申し出るイノシシ頭。
「無いな」
「へっ?」
「私はこれまで、美味いと思った物がないんだよ」
「へぇ、そうなんですかい」
「だからお前らが羨ましいよ。何かしら、美味いと思えるものがあるんだから」
魔界に住む住人は一重に魔族と呼ばれているが、全ての魔族を人括りにできるわけではない。
ヘルがアーマーデーモンという種族に区分されるように、その種類は千差万別存在する。
彼女の手下である、兎頭もイノシシ頭もそれぞれ別の種族だ。
そして種族ごとに主食となる食べ物も違う。
兎頭は野菜類が好きで、生で齧るだけでも美味く感じるらしい。
イノシシ頭の好みをヘルは知らない。
さっき指摘した通り、何でも美味いと感じるのかもしれない。
他にも、生肉や卵などは勿論、ミミズに虫、土を好む者などもいる。
種族によって食文化が異なる事もあり、魔界は料理という文化が乏しかった。
料理という言葉自体が人間界の文化であり、その言葉を知っている者も魔界では一握りだけであろう。
しかし、ヘルには種族として好むべきものはない。
美味しいと思える食べ物がなかった。
強いて言うなら肉をよく食べる。
だが、それが生だろうが干していようが焼いていようが、美味いとは思えなかった。
美味い、とはどんな感覚なのだろうか?
ヘルには知りようがない。
だが、こうしてそれぞれ美味そうに物を食べている手下達を見ていると、酷く羨ましく思えた。
「……そうだ。思い出した」
「なんですかい?」
しばし沈黙し、不意に声を出したヘル。
そんなヘルにイノシシ頭は問い掛ける。
「魔王は、面白いマジックアイテムを持っていると聞いた事がある」
ヘルは玉座から立ち上がり、歩き出した。
「どこへ?」
「宝物庫だ」
「お供しやす」
「構わず食ってろよ」
「いや、もう腹いっぱいです。むしろ、そっちの方が気になりやす」
「好きにしろ」
ヘルは言って歩き出す。
「あ、俺も」
兎頭も声をあげ、彼女はイノシシ頭と兎頭の二人を伴って宝物庫へ向かった。
宝物庫の扉を開けて中に入る。
無造作雑多に置かれた様々な財宝に目も暮れず、ヘルは奥の台座に飾られた鏡の前まで歩いていく。
「多分これだろうな」
「これがそのマジックアイテム?」
イノシシ頭が呟く。
ヘルはマジックアイテムの鏡を台座から手に取る。
「いったい、これにはどんな効果があるんですかい?」
兎頭が訊ねた。
「これは、一生に一度だけどんな願いでも叶えてくれるマジックアイテムらしい」
「本当ですかい? じゃあ、俺にも後で使わせてくだせぇ!」
「あとでな。……魔王は、それの力で魔界一の力を手に入れたらしい」
「魔界一ねぇ……。その割に、ヘル様に手も足も出なかったすけれどね」
「願った時に私がまだ生まれてなかったか……もしくは私が強すぎたかな。何でも叶えるって言っても限界はあるはずだ」
「ちげぇねぇや」
「しかしまぁ、そういった理由から魔王はこのマジックアイテムをとても大切にしていたらしい。こんだけ大事に飾っているんだ。だからこれだろう」
ヘルは鏡に向き直る。
何を願えばいいだろう。
私は何を求めているんだろうか?
ヘルは考える。
魔界はもう自分のもの。
人間の世界を手に入れるか?
しかし、魔界が獲れたのなら人間の世界も自分の力でなんとかできそうだ。
本当に、私は何が欲しいのだろう。
何が手に入れば、私は一番喜べるのだろう。
そこまで考えて、彼女は思いついた。
「よし」
「決まったんですかい? 何をお願いするんです?」
手下二人に小さく笑いかけ、ヘルは鏡に向き直った。
「私が望むのは、自分を一番喜ばせてくれるものだ」
望みを告げると、鏡は眩い輝きを放ち始めた。
日本。
ある高級レストランの裏口。
ドアが開き、中から一人の青年が蹴り出された。
「さっさと出て行け!」
青年を蹴り出した男が、青年に怒鳴りつける。
男の背中には、厨房が見えた。
その男は、この店の店長だった。
「そんな! お願いです! どうか許してください!」
青年は立ち上がって、店長に寄ろうとする。
けれど、そんな青年を店長は手で突き放した。
「許さん! お前はクビだ!」
店長は青年に向けて、手近にあったスパイスのビンを取り投げつける。
青年はそれを受け止めた。
「店長、調味料を粗末に扱うのは……」
言いかける青年の額に、もう一つのビンが直撃した。
青年はその一撃を受けて、仰向けに倒れた。
くるくると回りながら落ちてくるビンをキャッチする。
ビンが割れなくて、青年はホッと息を吐いた。
「退職金代わりだ! それ持ってとっとと消えろ!」
言うと、店長はドアを閉めた。
青年はドアノブを握って中に入ろうとしたが……。
諦めて手を放した。
溜息を吐き、歩き出す。
ビンを見る。
ターメリックとクミンだった。
カレーは作れそうだ。
なんて事を考える。
「このご時勢に、こんな変わった退職金を貰う人間なんて、僕ぐらいのものだろうな……」
青年はもう一度溜息を吐いた。
彼の名前は緒仲道流。
さっきまでは高級レストランのコックをしていた。
子供の頃よりいつか星を貰うようなレストランで働ける事を夢見て料理人になった青年である。
星のついたレストランにはまだまだ遠いが、それでも一皿何千円もするような高級レストランへ就職する事ができた。
今日は普段の努力が認められ、お得意様へ供する料理を任される事になったのだが……。
「はぁ……」
溜息が漏れる。
彼はそのお得意様のために、何日もかけてコースメニューを考えた。
自分の腕を十全に発揮できるように考えたメニューだ。
実際、その料理の味にお得意様は満足してくれた。
しかし……。
道流が提供したのは、全ての素材を余す所無く使用した料理だ。
本来ならば捨てる皮や肉の部位も、全て盛り込んだ物である。
それは道流にとって、自分にできる最高の料理のつもりだった。
しかし、お客様にとってはそうではなかったらしい。
「本来ならば捨てる部分も全部使っただと? そんな貧乏臭い物を食わせたのか!?」
お得意様はそう言って怒った。
「で、でも、味はお気に召してくださったと……」
「やかましい! 俺はここに贅沢な料理を食いに来ているんだ! 金のかかった物を食っているという贅沢を味わいに来てるんだ! 料理そのものの味なんかどうでもいいっ!」
そう言って、お得意様は帰って行った。
結果がさっきのやり取りである。
店を追い出され、道流は晴れて無職となった。
途方に暮れた道流の足は、知らず海辺の公園へ向かった。
海を眺めながら、また溜息を吐く。
順調だと思っていたのに、夢が遠退いてしまった……。
やるせなく、悲しかった。
涙が出そうになる。
もしかしたら、もうレストランで働けないかもしれない。
二度と、料理人を目指せなくなるかもしれない。
料理人になる事ばかり考えていた自分には、料理以外に取り柄などない。
他に意欲を持ってやりたい事だってない。
ならば、きっとこれからはずっと日銭を稼ぐためにバイトをして無気力に一生過ごす事になるんだ……。
悲観的な気持ちが、そう思わせる。
これでは、もう一つの夢も叶えられない。
道流には、もう一つ夢がある。
それは、自分の料理を美味しそうに食べてくれるお嫁さんを貰う事だ。
可愛ければなお良い。
自分の料理で幸せそうに笑うお嫁さん。
そんな姿を見られたなら、自分の力で相手を幸せにできているんだ、という実感を覚えられるだろう。
自分だって幸せな気分になれる事間違い無しだ。
なんて、まだ見ぬ可愛いお嫁さんの事を思い描いて、道流は儚く笑った。
諦めの笑みである。
その笑みはどこか切ない。
と、そんな時である。
彼の足元が光りだした。
「な、何?」
驚く彼の足元には、いつの間にか眩い光を放つ魔法陣が描かれていた。
魔法陣の光は次第に強くなり、そして……。
彼は光の中に落ちた。
「う、うわーーーっ!」
ヘルが願いを告げると、鏡に魔法陣が浮かび上がった。
そして、その魔法陣から一人の男が飛び出した。
男が宝物庫の床に倒れると同時に、マジックアイテムの鏡がパリンと割れた。
割れた鏡は、光の粒子になって消えた。
「ああ、鏡が!」
部下のイノシシ頭が叫ぶ。
「どうやら、あれで力を使い果たしたみたいだな。回数制限があったんだろう」
ヘルが言う。
そして、次に鏡から出てきた男を見た。
「それより、こいつは何だ? こいつが、私を喜ばせてくれるのか?」
「こいつ、人間じゃねぇんですか?」
「そうなのか? 私は見た事がないんだが」
「俺は一度、人間界の境界近くまで行った事がありますんで、その時に見やした。間違いないと思いやす」
「ふぅん。なら、人間界から来たのかな、こいつ」
なんて事を言っていると、鏡から出てきた男。
道流が目を覚ました。
「こ、ここは?」
頭を振りながら顔を上げ、辺りを見渡す道流。
そして、自分を見る面々に驚いた。
一人はとんでもない美少女。
それも驚くべきものだが、何よりも彼女の両隣にいるイノシシ頭の人間と兎頭の人間に驚いた。
イノシシ頭が近寄ってきて、道流の襟首を掴んで無理やり立ち上がらせる。
「△▲×○□☆☆(何者だ、お前)!」
そして、よく解からない言葉をまくし立てた。
「ええ!? 何語!?」
道流は戸惑う。
「☆○□××○□(待て。言葉がわかっていないんだろう)」
美少女、ヘルがイノシシ頭に声をかけて止めさせる。
そして、何事かを呟いて道流の額に触れた。
びりっ、と道流の頭に電流が走る。
「あがっ!」
あまりの衝撃に、道流は仰け反ってそのまま仰向けに倒れた。
「言葉がわかるな?」
高い女性の声。
女性というよりも、少女という形容がピタリと合うような声だ。
けれど、口調には少女特有のあどけない甘さはなく、硬質的な冷ややかさがあった。
起き上がって見ると、先ほどの少女がいる。
「わかる、な?」
「え、あ……」
どう答えていいかわからず、道流は奇妙な声を上げた。
「ヘル様の質問にさっさと答えやがれ!」
イノシシ頭の男が道流の襟首を掴み上げた。
そのままぐらぐらと揺らされる。
「わかりますっ!」
答えると手を放され、その場で尻餅をついた。
そんな彼にヘルは近寄る。
「お前はどうやって私を喜ばせてくれるんだ?」
「喜ばせる? 何の事?」
戸惑いながらも聞き返す。
道流には何がなんだかわけがわからなかった。
足元が光ったと思ったら、イノシシ頭の人にすごまれて、電流を流され、言葉が通じるようになったと思えば体を揺らされ、お尻を打った。
その上、見た事もないような美少女によく解からない理由で迫られた。
わけがわからない。
彼は混乱の極致にあった。
「お前は私が召喚したんだ」
「召喚?」
「そんな事はどうでもいい」
おもむろに、ヘルは道流を蹴り飛ばした。
軽く振られただけに見えた蹴りだったのに、彼の体は壁まで吹き飛ばされる。
「あ゛」
痛みに目を閉じ、呻いて再び目を開くとこちらへ猛スピードで迫ってくるヘルの姿が見えた。
彼女の拳が道流の顔のすぐそばにある壁に深々と刺さっていた。
肘の辺りまでが、壁に埋まっている。
その光景に、道流は恐れおののいた。
「私を喜ばせられれば命を助けてやろう」
「で、できなかったら?」
「この壁に起こった事がお前の胴体で起こる」
正直、何もかもがよくわからない。
納得なんてできやしない。
それでも自分はここで彼女を喜ばせられないと、命が終わるらしい。
「それで? お前は何ができるんだ?」
問われ、半泣きになりながら道流は考えを巡らせた。
必死に考えた末、口から出たのは……。
「料理ができる!」
という物だった。
「料理?」
ヘルは首を傾げる。
「初めて聞いた言葉だ。何だそれは?」
「ええ、そこからっ!?」
道流は料理について、ヘルにできるだけわかりやすく説明した。
「じゃあ、料理っていうのは食べ物を美味く作りかえる事だっていうのか?」
「うん。そうだよ」
ヘルは納得する。
そういう事か。
自分は今まで、美味いと思った物を食った事がない。
言葉では知っていても、どんな感覚なのかよくわからない。
そしてこの鏡曰く、自分が一番に喜びを覚える物はその美味いという感覚だったわけだ。
「面白い。なら、その料理とやら、私に食わせてみろ」
「え?」
道流は、命をかけて料理を作る事になった。
確かに彼は、今まで命をかける思いで料理の道を志していた。
けれど、比喩でなくそんな境地で料理を作る事になるなんて、思いもしなかった。
彼は、食料庫へ案内される。
無論、ヘルとその部下二人も一緒である。
食料庫は、先ほどの宝物庫のように綺麗に石を積んだような壁ではなく、洞窟の中のような所だった。
それも普通の岩ではなく、ピンク色の結晶めいていた。
そんな洞窟じみた部屋の中に、多くの食料が蓄えられていた。
「ここは魔王が魔界中から集めた食い物で満たされている。不足はないはずだ。さぁ、作れ」
ヘルが言う。
確かに、肉も野菜も多く揃っている。
だが……。
「あの……調理器具なんかは……?」
「何か必要なのか?」
「鍋とか、フライパンとかがないとちょっと……」
「それはどんなもんだ?」
身振り手振りで道流は説明する。
「なるほど。おい、兜と丸い盾をいくつか持って来い」
ヘルに命じられて、イノシシ頭の男がどこかへ行く。
「あの、それでもう一つ、鍋とフライパンをかける火の元……。コンロ……いえ、焚き火なんかもできれば……」
道流はおずおずと申し出る。
「ふん……。玉座の間で焚き火の準備をしておけ」
「へい」
兎頭の男もどこかへ向かった。
「あと、それから、水なんかも用意できたら嬉しいな……」
「お前、注文多いな! 本当は時間稼ぎしたいだけなんじゃないのか?」
「ちちち、違います。滅相もない!」
詰め寄られて、道流は必死に弁明した。
「本当だろうな? 逃げられないように、お前には玉座の間で手下達の目の前で料理とやらを披露してもらうつもりだからな?」
「玉座の間で?」
「ああ。たとえ美味い物が作れなくても、物珍しいだろうからな。いい見世物ぐらいにはなるはずさ」
「ひぃぃっ」
「さぁ、料理に必要な食料をさっさと選べ!」
言われ、道流は恐怖しながらも材料を選び始めた。
ああ、どうすればいいんだろう?
料理次第では命が消し飛んでしまう。
たとえ上手に作れたとしても、料理の好き嫌いだってある。
下手な料理は選べない。
ああ、どうしよう。
誰にでも美味しく味わえる料理なんてあるんだろうか?
それに、見た所調味料の類が一切見当たらない。
味付けだってできやしない。
本当にどうすればいいんだ?
いや、待てよ?
道流は洞窟内を見渡す。
ピンク色の結晶でできた洞窟。
もしかして……。
道流は、壁を爪で削って舐めた。
しょっぱい。
やっぱりだ。
これは岩塩の洞窟なんだ。
なら、ここが食料庫として使われている事にも納得がいく。
塩分を含むここなら、食料の保存が利く。
何より、ここで保存する事で塩気がつき、食材にも味がつくわけだ。
聞く限り、ここでは食材を料理するという文化がないようだ。
だったら生で食べるか、もしくはせいぜい焼いて食べる程度だろう。
その塩気だけでも、美味しく感じるはずだ。
辛うじて、塩は確保できる。
でも、それだけだぁ……。
道流は頭を抱え込んだ。
どうする?
肉の塩焼きでも出すか?
いや、でもなぁ……。
肉を焼くだけなら、ここの人達でもやってそうだ。
見た目だけで、味わう前から料理と認められないかもしれない。
他に、何かないかな?
焼くだけでは味わえないような、そんな味……。
そうだ……。
道流は思い出した。
ポケットを探る。
そこには、ターメリックとクミンのビンが入っていた。
道流の脳裏に、雷鳴の如く一つの料理が閃いた。
カレーだ。
道流は、ヘルに案内されて玉座の間へと連れられた。
玉座の間には、様々な魔族達がひしめいていた。
イノシシ頭や兎頭のように獣の顔を持つ者。
腕が六本ある男。
角の生えた女。
三つ首の龍までいる。
そんな人外達の注目を集め、道流は震えながらヘルに連れられて部屋を歩む。
その進む先には、三つの焚き火と兜と丸い盾、そして水で満たされた木桶が三つ用意されていた。
「さぁ、見せろ」
ヘルが言う。
道流は頷くと、手に持っていた素材を床に並べた。
鍋でもフライパンでもない。
本来の用途とは一切が違う鉄の機器。
戦うための道具だ。
ある意味それは、今の自分にとって戦うための手段だ。
自分の命を助けるための武器だ。
思えば、今までだってそうじゃないか。
自分は、料理を作る事を生きる糧として選んだ。
人生を切り開こうと思っていた。
なら、ある意味今の状況も今までとは変わらないかもしれない。
そう思うと、今までの怯えが嘘のように消えた。
ただ殺されるだけじゃないんだ。
今まで料理を作る事で生きていこうとしていたように、ここでもまた料理を作る事で自分の命を繋いでみせる。
覚悟が、決まった。
「野菜と肉を切るための道具をください」
「何だと?」
「お願いします」
先ほどとは打って変わって、堂々と願い出る道流にヘルは怪訝な顔をする。
「いいだろう。誰かナイフを貸してやれ」
兎頭が道流にナイフを渡した。
道流は材料を包んでいた布を床へ敷き、その上で調理を始める。
ナイフで器用に野菜の皮を剥き、肉ともども適度な大きさに切っていった。
そのあまりの手際の良さに、玉座の間にいた魔族達から驚きの声があがる。
「ほう、やるな」
ヘルも感心する。
材料を切り終わると、木桶の水を一つ分使って材料を洗った。
それが終わると、兜に水を入れて火にかける。
道流は円形の盾。
ラウンドシールドへ、一口大に切った豚肉を敷いた。
それを火にかける。
ラウンドシールドは丸みを帯びており、丁度フライパンのような形をしていた。
真上に本来の用途に使うための取っ手があり、フライパンのような取っ手はないが、派手に振る必要はないからこれで十分だ。
火にかけられた豚肉が、じんわりと油をラウンドシールドへ滲ませ始める。
そこへ、みじん切りにしたニンニクを投入した。
油に投じられ、ニンニクが独特の香りを放ち始める。
玉座の間に、得も言えぬ良い香りが満ちた。
「何だこの匂いは……?」
「良い匂いだ!」
「今、飯を食ったばかりなのに、腹が減ってきやがる!」
魔族達が騒ぎ始めた。
「騒ぐな!」
ヘルが叫ぶと、騒いでいた魔族達がぴたりと静かになった。
しかし、ヘル自身も気持ちは同じだった。
匂いだけなのに、美味そうだ。
これが料理という物なのか?
道流はニンニクの匂いが十分油に移ったと見るや、スライスした玉葱を投入する。
匂いがさらに変わった。
道流はナイフをヘラ代わりに、シールドへ投入した材料を丹念に炒めていく。
さらにニンジンを入れて炒め、しばらくすると次にトマトを投入した。
鍋の中身が、一挙に赤へ染まる。
トマトが煮え立ち、まるでマグマのようにボコボコと気泡を作る。
煮え立つ材料を削った岩塩で味付けする。
何度か味見をして整えると、次に取り掛かる。
その頃になると、兜の水が沸騰していた。
そこへ、皮を剥いたジャガイモを放り込む。
そして再び、シールドの方へ取り掛かる。
道流は二つの小瓶を取り出し、中の粉を振りかけた。
「こ、これは……」
途端に、さらに匂いが変わった。
それも今までとは一味違う、強い変化だった。
「匂いが、また変わった……。何なのだ、この、料理というものは……!」
ヘルの腹が、ついにグゥゥゥと鳴った。
これは、何だというのだろうか。
自分は今、何を前にしているというのだ。
ヘルには道流が無造作に食べ物を盾へ突っ込んでいたようにしか見えなかった。
だというのに、一つ、また一つと盾へ何かが入るたびに、その匂いは何度も変わっていった。
これは魔法では無いかと注意深く見ていたが、道流からは一切の魔力が感じられなかった。
なら、これは何だろうか?
それはヘルにとって、完全なる未知だった。
先ほどから驚愕が、尽きない。
一種の恐怖をヘルは覚えていた。
踏み入れてはいけない、禁断の扉を前にしているかのような心境に陥る。
だが、同時に懐いていたのは相反する感情。
わずかな期待が、ヘルの心の内には存在した。
そんな心を虜にする魅力が、今玉座の間を満たす匂いにはあった。
そして、そのヘルの心境は道流の狙い通りであった。
調味料が満足にないこの状況では、最高の味を提供する事はできない。
道流はすぐにそう思い至った。
だからこそ、香りを重視する事にした。
人間に美味しいと思わせる要素は、味だけではない。
香りも重要だ。
香りの印象が、味の印象に繋がるのだ。
カレーという料理は、まさに今うってつけの料理だったのである。
道流は盾へ桶から水を流し入れた。
このまま十分煮込めば完成だ。
その間、道流は何もしなかった。
じっと来るべき時を待つが如く、身じろぎせず料理を眺め続ける。
「おい、できたのか? できたなら、さっさと食わせろ」
「いえ、まだです」
「お前、全然何もしていないじゃないか」
「待っているんです」
「何だと?」
「この料理が、一番美味しくなる時を……」
そう答える道流に、ヘルは何も言えなくなった。
一番美味しくなる。
その言葉に魅力を感じた。
もしかしたら、目の前には自分が今まで感じた事のない美味いという感覚があるかもしれない。
しかも、もう少し待てばその美味さはさらに高まって、最高のものであるかもしれないのだ……。
今すぐにでも無理やり食う事はできるだろう。
だが、その最高の美味さを味わってみたいとヘルは思った。
ヘルの腹の音がまた鳴る。
しかし、まったく気にならない。
玉座の間は、手下達の腹の音で満たされていた。
そして十分後。
料理は完成した。
「完成です」
道流は、完成した料理を熱した物とは別のラウンドシールドに乗せてヘルへ差し出した。
「インド風ポークカレーです」
シールドの上には、カレーが盛られていた。
マッシュポテトを御飯代わりにした、なんちゃってカレーライスである。
食料庫には、米がなかった。
小麦粉があったのでナンを作ろうと思えば作れたのだが、発酵させる時間が無かったために諦めた。
結果、代案として思い浮かんだのがマッシュポテトだったのである。
「これが?」
「はい。スプーンを……ないんでしょうね、多分……。どうしよう」
食べる手段がないと思い、困った様子の道流。
「手で食えばいい」
「本場ではそうでしょうけど……。熱いですよ?」
「問題ない」
そう言うと、ヘルは手を金属に変えてそのまま手づかみでカレーをマッシュポテトごと掴んだ。
これが、料理か……。
一度怖気にも似た感情を懐きつつ、ヘルは料理を口にする。
その瞬間……。
脳裏に見た事のないようなイメージが駆け巡った。
それは横たわるふくよかな男の姿。
大勢で情動のままに踊る男女。
鼻の長い巨大な動物。
そんな光景が頭の中を一瞬だけ満たした。
ナンだこれは?
その光景の中で、ヘルは無防備だった。
幸福という名の香りが、一糸纏わぬ自分の体を包み込むかのような錯覚を感じた。
香りが……!
香りが私を包んでいくぅ!
これが、美味しいって事なのか?
この喜びを通り越したこの感覚が、美味しいって事なの?
こんなに幸せな事が、この世にはあったんだな……。
「美味しい……」
カレーを口にしたヘルは、表情を綻ばせて呟いた。
何と言えばいいのか……。
形容する事のできない感覚だった。
甘い辛いとか、そんな単純な言葉では言い表せないような味。
これが、美味さか。
ヘルは、猛然とカレーを食べ始める。
必死さすらも感じさせる様子で、彼女は夢中になってカレーを食べた。
本当に美味しそうに、彼女はカレーを食べ続けた。
その光景に見る者が固唾を飲む中、ヘルは盾のカレーを食べ尽くした。
それに飽き足らず、指についたカレーを丹念に舐め取る。
名残惜しそうに最後の指を嘗め尽くす。
「はぁ、すっごく美味しかったぁ」
ヘルは恍惚にも似た蕩けきった表情でもう一度感想を漏らした。
その表情を見て、道流は言葉にできない気持ちを懐いた。
こんなに、僕の料理を美味しそうに食べてくれる人がいるなんて……!
いつしか、胸の高鳴りを感じるようになる道流。
その段になって、道流は気付く。
そうか、これは……。
「はっ」
正気に戻って、表情を繕うヘル。
「ふん。悪くないな。確かに、あの鏡の力は本物だったわけだ。お前は、殺さないでおいてやる」
そこまで言って、ヘルは目をそらしながら続ける。
「……それで、もっと料理を作って……」
そんなヘルの手を道流は両手で掴んだ。
「何のつもりだ?」
「作るよ、僕。君のために、もっと料理を作ってあげたい。だから、僕のお嫁さんになってください」
ヘルは、道流の思い描く素敵なお嫁さんそのものだった。
きっとこの気持ちは、恋に違いなかった。
「あ? え……?」
ヘルは、すぐには言葉の意味に到らず、奇妙な声を漏らした。
その後、彼女は緒仲ヘルになった。
ダ・ジャ・レ・デス! (ドヤァ)
と、読んで頂いた通り、これはあの名前を使いたいがために考えた話です。
察しの良い方は、多分主人公の名前を見た瞬間にオチへ思い至ったのではないでしょうか。
読後、「なにこれ?」と思っていただけたなら幸いです。