04
刃には、血の一すじもついてはいなかった。
上唇に、何か感じて手をやった。とろりとした、暖かい液体。目の前にかざすと、手指は真っ赤に染まっていた。
鼻血だ。全然止まる気配もなく、ふき取った後をまた、流れ落ちていった。
エリーは、一歩彼から離れた。夢からさめたかのように、半ば呆然としている。
サンライズは、そっと、喉元に手をやった。傷はなかった。そう気づいたとたん、急に息苦しさが消えた。
(助かった)
急にきびすをかえし、殺人者は去っていった。彼を追いつめた時と同じく、音もなくすばやく、あっという間に、路地からその姿は消えた。
サンライズは起き上がろうとした。が、膝の力が抜けて動けない。
ようやくのこと、壁にもたれかかるように座り、とにかく鼻の止血を試してみた。
自分の『力』が効いたのだろうか。
鼻を押さえたまま、彼はぼんやりと敵の消えた小路の角をみやっていた。
『力』は効くわけがなかった。なぜなら、それを使っていたという手ごたえが全然なかったから。
疲れてはいたが、あの力を出し切った後によくある激しい頭痛を伴う虚脱感というものはなかった。 ただ、鼻血だけ。量はすごそうだが(まだ止まる様子がない)、単なる、鼻血。
塀の影から、小さな老婆が顔を出した。何かブツブツつぶやいている。中国語のようだった。座ったままの彼をちら、と見て驚くかと思いきや、またもや何かつぶやきながら、家の中に引っ込んでしまった。叱られずには済んだ。
どこかから、唐突に揚げ油の香りが流れてきた。
「動き出した」その声に、春日、はっと我にかえる。
「どっち?」
「エリー。サンちゃんは……動いてない」
最悪の事態を予想してか、マヤラの声音はかえって事務的になっている。
「聞こえるか、サンライズ」
陳は、カリカリと鳴るばかりのモニターに耳を澄ませ、反応を待った。
「くそ」春日が声に出さずにつぶやいた。これだけの人数で見張っていながら、見殺しにしてしまった、そういう思いが苦く、胸のあたりにわだかたまっている。
「エリーは。どこに行った」
「石川町の駅に向かってる。電車に乗る気かな」
「聞こえるか? サンライズ」陳がなおも呼びかける。
春日、ついに立ち上がった。「オレ、現場に行くわ」
「駄目だよ、エリー、まだ狙ってるよ」
「だいじょうぶ。あと頼む。スミさん、いいとこ来た、悪い、タクシー呼んで」
「中華街行くの」
「あったりまえだろ」
「16号、大渋滞だって」
「どこで」
「関内の手前」
陳が立ちあがった。「オレの車使えば。ナビついてるし」人々が動き出したせつな
「ハルさあん」パーテーションの向こうから、何も事情を知らない総務の本杉さんが呑気そうな大声で呼んだ。
「外線だよ」
「くそ。このくそ忙しいときに」もはや罵倒を小声で、なんて余裕もない春日。
「誰?」険のあるでっかい声でそう尋ねたが
「サンライズ・リーダー」
その返事に、スタッフ、あわてて電話の前に集まる。本杉さんの間延びした声が
「どうすんの? かけ直す?」
「ばかばか、何番だぁ?」「二番!」
春日、すばやく二番を押した。「もしもし」
「ああ、ハルさん?」サンライズののんびりした声に、膝の力ががくっと抜けた。
「ばかやろう」涙声になってなかったのが、せめてもの救い。
「どうしてすぐに電話しない」
「だから今、電話してるし」向こう側の声は、いつもの淡々とした口調だった。
「公衆電話、今少ないから苦労した。エリーはそっちで追っかけてるんだろう?」
マヤラがイヤホンを少しずらし、首を横に振ってみせた。
「圏外に出ちまったって。電車に乗ったんだ。対策は帰ってから」
迎えが来るまでポイントを動くなよ、と言い置いてから、一番気になることを、春日は聞いてみた。
「どうして撃たなかった」
「エリーを?」「人殺しをさ」その時ピーと電話が鳴った。
結局、その場では答えは聞けず終いだった。
確かに、ナイフの切っ先が首筋に当った。
ひやりとする一筋の直線。自分の皮膚が、押し当てられたその刃のあまりの薄さを、一瞬のうちに正確に測り終えていた。
そしてその刃はもうそこにはない。
銃を使おうなどと、まるで思い至らなかったことに愕然とした。
多分、使おうとしても、気配の一瞬後には喉を切り裂かれていただろう。それでも銃に手をかけなかった理由が、まるで思い浮かばなかった。
サンライズ・リーダーは鼻の周りにこびりついた血を、くしゃくしゃになったハンカチでこすり落とし、ゆっくりと足をひきずりながら、表の道へと向かった。
その後、エリーの姿はかき消したように見えなくなった。
予告状の期限が過ぎたが、春日は無事だった。