01
恐怖感はすっかり消えていた。
ただ、勝負に敗れた時の空しさだけがあった。
聞こえるのは、自分の荒い息づかいだけだ。
目の前の男は黙ったまま、ベルトからナイフを抜いた。
さし渡し15cmか20くらいだろうか。
重そうな刃が鈍く、光った。
サンライズは、声を出そうと口を開いた。
口の中が粘ついて、ほこりっぽい味がする。
車の通る道からたいして離れているわけではないのに、人の声一つ届かない。さっきまであんなに人がいたはずなのに、気配すら消えている。
唐突に、どこかから自転車のベルの音が風に運ばれてきた。それきりだった。
男はナイフを握りなおし、ゆっくりと一歩、前に踏み出した。
足の下で、細かいガラスが割れて、粉々になったような音がかすかに響いた。
風がかすかに頬をよぎり、男の袖が視界をよぎる。
気づいたら、仰向けに押し倒されていた。
からっと晴れた空に、黒い男の影がおおいかぶさった。
男は、サンライズの胸に手をかけ、ぐい、と地面に押し付けた。
前に立った時にゆうに、その殺し屋は彼の頭一つ分は背が高いと気づいた。寝かされてもそうだ、顔は見えない。サンライズはカーキがかったその襟元に目をやった。
「撃て」
春日が、言った。
ささやくような声で、自分にさえも聞こえているのか、いないのか。
抜身の刃物をするりと取り出し、流れるような動きでサンライズのあごを軽く持ち上げ(まるでいつもの魚をさばく調理人といった様子で)さて、
三分間クッキングの始まりはじまり~。
サンライズの脳内に明るい声が響く。
「待ってくれ」
本心から、つい言ってみた。
言ってみるもんだ。男の手が止まった。
サンライズ、続く言葉を探す。
だが、キーが見つからない。
いつもならば、自然に頭に浮かんでくるはずの『キー』。
自分と他者とをつなぐシラブルの橋、面識があろうがなかろうが、その心の奥底に食い込み、自我に激しい揺さぶりをかける、そのための鍵が。
まるで見つからない。
いっしゅんの間に、いろいろ頭に浮かんだ。今、必要のない雑多な断片ばかりが。
もう、どうしようもない、と悟った瞬間、人間はどんなことをするか。
サンライズは以前誰かと話をしたことがあった。
ローズマリーだったかもしれないし、ハルさんとか、他の誰かだったかもしれない。
人道的犯罪抑止機関とも言われるMIROCの信条ともいえる『人を殺めず、傷つけず』が、数多くの任務の中で本当に可能なことなのか、また、どの範囲まで『傷つけず』とみなされるのか。
実際にわが身が危険にさらされている時、相手を斃しさえすれば自分が生き残れるとわかっている時にはどうするのが正しいのか。例えば……
銃を向けられた瞬間に自分も、弾がフルに装填された銃を相手に向けていたのに気づいたら、引き金をひくのに、何のためらいがあるだろうか。
「撃て」
春日が、もう一度言った。
居合わせた者たちはみな、小さなモニターに向かって、身じろぎひとつせず、神経を集中させている。
凍りついた時間。
モニターからも、それを取り巻く空間からも、物音ひとつしない。
「撃て」
誰かが言った。
針が落ちても聞こえるような静寂の中で、その一言は自らが意思をもつ弾丸のように反響しながら、人びとの頭蓋に突き刺さった。