第七十三話 二つのバラの十字架
──十字架……。
ラームの呪文が間近に聞こえる。意識が遠のきそうになりながら、エレック王子はあの日の記憶をたどった。
──小さなお前の首にかけられた『バラの十字架』。私はそれを手に取り、太陽の光に向けて祈りました。お前に幸運が授かりますようにと……。
エレックは顔をしかめ、苦しげに呻く。
──その時十字架が光ったのです。光は、空を舞っていた大鷲を呼び寄せてしまいました。七歳だった私は、お前を守ことさえ出来なかった……私が驚いてお前から離れた瞬間、あの大鷲がお前の体を掴み、小さなお前をさらっていきました。あれは、ほんの一瞬の出来事。私が気付いた時、大鷲はお前を掴んだまま空高く舞い上がっていました。
と、エレックの頭の隅で聞こえていたラームの呪文が突然途切れた。
──お前は空のかなたに消えたまま、戻って来ることはありませんでした……許して下さい。お前はどこに行ってしまったのですか? 私の愛しい弟……グラント!
「王子様から離れて!」
開かれた扉から、チェスが声をあげて駆け込んできた。ラームはゆっくりと後ろを振りかえる。
「あなたは誰ですか? 私の邪魔をするなど、たとえ子供でも許しませんよ」
ラームは鋭い一瞥をチェスに投げる。
「おや、この子はあの時の……?」
リルは、ラームの陰からそっとチェスを覗く。リルがポルトランドの峠で薬草を採っていた時、偶然出会った少年。あの時は、木の実を採る手伝いをしてくれた。
──確か、『黄金の木の実』のことを尋ねてきて……あの後ジェナの仲間だと分かりましたが……。
そこまで考え重要なことを思い出したリルは、ハッとして息を呑む。
──そうです! バラの十字架! この子は『バラの十字架』を持っていました! 何故あの十字架を持っているのか不思議です。あれは、あの十字架はラークホープの王家代々に受け継がれる由緒ある十字架ではないですか!
リルはラームの長いマントの裾をそっと引っ張る。
「ラ、ラーム様。ラーム様」
「何ですか? この大事な時に」
ラームはチェスを睨み付けていた目をリルに移す。
「じゅ、十字架です。『バラの十字架』をこの子は持っております」
「何ですって? 『バラの十字架』……?」
ラームは言葉を切り、ベッドに横たわるエレック王子を見つめた。
「王家の『バラの十字架』を……エレック王子の携えている『バラの十字架』と同じものですか……?」
恐る恐るラームは、エレック王子の胸元に視線を移す。王子の首もとにはキラキラと小さく光る首飾りがあった。
「『バラの十字架』が二つ……二つの聖なる十字架が!」
「チェス!」
チェスの後を追って来たハンクとジェナと使用人が、王子の部屋に駆け込んできた。
「あっ、ジェナ!」
ジェナの姿を見つけたアビーは、その場の状況も気にせず喜びの声をあげる。
「アビー!?」
ジェナはアビーとリルの姿を見つけて驚く。
「また、あの化け物! 今度は何をしたの!」
「ヒェッ! あの娘までが!」
ジェナに睨まれ、リルが恐怖で体を強ばらせたその時、エレック王子の胸元から光が溢れ出す。それと同時にチェスの胸元からも神々しい光が放たれ始めた。
チェスは、驚いて胸元を押さえる。眩いばかりに輝き始めた『バラの十字架』。微かに熱をおびた十字架の温もりをチェスは感じる。