第六話 ときめき
夜明け前にジェナは目を覚ました。一番鶏が鳴くよりも早く、ジェナは身支度を整えていた。鏡の前に立って、何度も何度も姿をチェックする。結局、昨夜はほとんど眠れず、目の下にはうっすらとクマが出来ていた。
「はぁ……こんな疲れた顔、エレック様に見られたらどうしよう」
お城でエレックに会えるかどうかも分からないのに、ジェナは気がかりでならない。
「もう行かなきゃ……」
時間ギリギリまで鏡の前に立っていたジェナは、昇り始めた朝日が窓から降りそそぐのに気づき、慌てて部屋を出ていった。
「ジェナー! おはよう」
ジェナが外に出ようとドアを開けた瞬間、朝から会いたくない人物が目の中に飛び込んできた。
「……アビー、何か用?」
アビーがジェナを迎え入れるように、大きく両手を広げて目の前に立っている。ジェナはアビーの脇をすり抜けて外に出る。
「ジェナ、『おはようのキス』をさせておくれよ」
アビーはジェナの後を追う。
「僕達、婚約者なんだから」
「あのね、アビー昨日も言ったでしょ、私には心に決めた方がいるの。だから、私たち──」
「ジェナは恥ずかしがり屋だなぁ。でも、僕はそんな君が大好きだよ」
アビーはジェナの話を最後まで聞かず、頬を赤らめてニヤニヤと笑う。
「結婚まではお互いに清い体でいたいものだね。でも、頬のキスくらいはさせて」
ジェナは肩を落として深くため息をつく。アビーの性格は、幼い頃からよく分かっていた。世の中全て自分を中心にまわっている、例え王だろうと王子だろうとお金さえあれば自分の自由になる、と思っているアビーだ。
「早く、お城に行かなきゃ……」
ジェナは足早に歩いていく。
「待って、ジェナ! 僕の馬車に乗って行けば良いよ」
アビーの声を後に聞きながら、ジェナは走るようにお城へと向かった。
お城に着いたジェナは、年輩の小間使いから一通りのお城での仕事の説明を聞いた後、さっそく洗濯の仕事を言いつけられた。
ジェナは、少し年上の小間使い達と洗濯物の籠を抱えて川辺へ向かった。
「ジェナ、あんた何故お城で働くことにしたの? 婚約者がいるって聞いたけど」
一人の女が川にシーツを浸しながらジェナに聞く。
「婚約者?……私にはそんな人いないわ。誰から聞いたの?」
「アビー様よ。ジェナと婚約したと言っていたわ。みんな知っているわよ」
ジェナは体中の力が一気に抜けるような、深く重いため息をついた。
「いいじゃない、いずれ荘園領主の妻となるなんて。お城の仕事をするよりずっと良いわ。アビー様も素敵な方だし」
「それなら、代わりにあなたが婚約するといいわ……」
ジェナは低く呟き、水に浸したシーツをゴシゴシと洗う。確かにお城での仕事は休みなく忙しい。だが、身近にエレックがいると思うだけで、ジェナは幸せな気分になれるのだった。
「アビー様では不服のようね。ジェナ、他に好きな方でもいるの?」
「え?……」
ジェナは洗濯をする手をふと止める。エレックが好きだということは、誰にも言ってはなかった。
「えぇ、まぁ……」
ジェナの頬はポッと赤く染まる。
「あっ、お城からどなたか出てきたわ」
小間使いの女達は洗濯の手を止め、立ち上がる。お城の門が開き、二頭の馬が駆けだして来る。
「エレック王子様よ」
女の一人が一頭の黒馬に乗っている人物の方を見て言う。
「エレック様!」
ジェナは慌てて立ち上がると、馬が駆けていく道の方へ走って行った。馬はスピードを上げて駆けていく。ジェナの元からは、馬にまたがったエレック王子の姿が小さく確認出来ただけだった。
「エレック様……」
馬に乗ったエレック王子は、従者とともに去っていく。遠目にしか目にすることは出来なかったが、真っ直ぐな金色の髪をなびかせ、凛とした姿勢で馬を走らせていくエレックの姿が分かった。ジェナの心臓はドキドキと鼓動を速める。胸の高まりは、走ったせいだけではない。ジェナはしばらく我を忘れぼんやりと草原に立ちつくしていた。
「エレック王子……」
アビーは望遠鏡を目から外して呟く。彼は離れた木陰から望遠鏡で、ずっとジェナの様子を観察していた。馬に乗ったエレック王子が去った後も、ジェナはずっとその後を見つめている。
「心に決めた方?……」
今頃になってジェナの言葉を思い出す。何か得体の知れない嫉妬心が、アビーの心の中にムラムラと沸き上がってきた。
読んで下さってありがとうございます!
まるでストーカーのようなアビー……(^^;)ストーリーはまだ起承転結の起の部分だと思います。これから徐々に展開していく予定です。