第六十三話 夢から覚めて
「……ンク、ハンク、ハンク」
ぐっすりと眠っていたハンクは、突然誰かに名前を呼ばれ、身体を揺すられる。
──ん? 誰だよ? まだ眠いのに……。
目覚めそうになった意識が、もう一度眠りの中に落ちていきそうになった時、また呼び声が聞こえた。
「ハンク、ハンク!」
今度は、さっきよりも大きく強い声で呼んでいる。
──ジェナ?
ふと、ハンクの頭の中にジェナの顔が浮かぶ。彼女は怒りのこもった眼差しでハンクを睨み付けている。
『酷い! 私にキスするなんて! 初めてのキスなのに! もうエレック様にお会いできない!』
「ハンク!」
また、呼び声が聞こえた時、ハンクはビクッとして飛び起きた。
「あれはキスじゃねーよ!」
とっさにそう叫んで目を開けると、ハンクの目の前にジェナの顔があった。ジェナはキョトンとした顔で、ハンクを見つめ返している。思わず赤面してジェナから顔をそむけたハンクだが、次の瞬間には、もう一度ジェナに視線を移した。
「ジェナ?」
さっきまで息も絶え絶え、熱にうなされていたジェナとはうって変わり、そこにはいつもどおりのジェナがいた。
「良くなったのか?」
ジェナはこくりと頷いて、微笑んだ。
「あのおじさんの薬が効いたんだよ」
近くにいたチェスも、嬉しそうな笑顔を向ける。
「やったな! まぁ、効いて当然だけどな……あいつは?」
ハンクは辺りを見渡す。既に日は暮れて、辺りは薄暗くなっていた。側の木に繋いでいたはずの二頭の馬の姿はもうない。
「もう、いっちまったんだな……」
ハンクは肩をすくめた。薬は効いてジェナは快復したが、ハンク達の二頭の馬はなくしてしまった。
「二人ともごめんなさい……私が病気にならなければ、こんなことにはならなかったのに……」
ジェナはすまなさそうに瞳を伏せた。
「ジェナのせいじゃないさ。たまたまジェナが病気になっただけで、もし俺かチェスが病気になってても馬は売っただろうし。目的地まではそう遠くねぇんだしな」
「そうだよ。ジェナが良くなるなら馬なんかなくたって良いよ」
チェスは、俯くジェナの顔を覗き込むようにして言った。
「ありがとう……でも、馬がないと到着が遅れてしまうわね」
フーと息を吐いて、ジェナはゆっくりと立ち上がった。
「食事を済ませたら、出発しましょう。徒歩でも夜明け前には、ヨークに到着出来るわ」
ジェナはそう言うが、病み上がりのジェナの足元はまだふらついている。
「焦ることねぇさ。ここで無理してまた病気がぶり返すとまずいぜ。まだ、ゆっくり休んだ方がいい。出発は明日の夜でもいいさ、なぁチェス?」
「うん、僕もそう思う。距離は短くても、歩いていくのは大変だよ。もっと休んで元気になってからの方が良いよ」
「……そうかもしれないわね。また倒れたりしたら、余計に迷惑をかけるわ」
「そうそう。もう金貨も馬もねぇんだ。貴重な薬は手に入らないぜ」
ハンクも立ち上がり、大きく伸びをした。暗くなった天上には、無数の星が瞬いている。
「小さいけど、このオアシス居心地良いしな」
静かに目の前に広がる泉には、大きな満月の姿の浮かんでいた。
「釣れる?」
泉のほとりで釣り糸を垂らしているハンクの横に、ジェナは腰を下ろした。少し向こうでは、チェスも釣り糸を垂らして座っていた。昼間は活動出来ないため、長い夜は起きて過ごさなければならない。
「さあな? 魚がいるかどうかも分からねぇけど、そろそろ手持ちの食料もなくなってきたし蓄えも必要だ」
ジェナはひっそりと静まった泉を眺める。泉には月が浮かんでいるだけで、他の生き物は眠っているかのように静かだ。
「ねぇ、ハンク……」
ジェナは泉を見つめながら口を開いた。
「ん?」
「あの……ハンク、さっき夢でも見てたの? 何か叫んでいたようだけど」
「えっ!?」
ハンクはドキリとしてジェナを見る。ジェナはじっと泉を見つめたままだ。
「ゆ、夢なんか見てねぇさ!」
「そう。あの、私……」
ジェナは言いにくそうに口ごもると、俯いた。
「何だよ?」
「私、夢を見てたの……苦しくてうなされてたんだけど、エレック様の夢を見たの」
ジェナは恥ずかしそうに頬を染める。
「エレック様……?」
ハンクは、ジェナが『エレック様』と呟いていたのを思い出す。あれは、ジェナに口移しで薬を飲ませた直後だった。
「そう。それが夢の中で……エレック王子様が眠っている私の元に突然近づいてきて……その私の……」
ジェナは真っ赤になった頬を両手で押さえるが、口元は夢見るように微笑んでいた。
「分かった。ジェナの唇にキスしたんだろ」
「えー! 何でハンクが私の夢を知ってるの!?」
「分かるさ、ジェナは眠りながら『エレック様』とか言ってたもんな」
ハンクは可笑しそうに笑う。
「キャ、嫌だ。恥ずかしい……私、今まで誰ともキスなんてしたことないのに、何だかとても……」
──そりゃそうだろうな。実際にキスしてんだもんな。しかも、あれはディープキス……いや、あれはキスじゃねぇんだ!
ハンクはチラリとジェナの唇を見て、咳払いする。
「で、どうだった? エレック様とのキスの味は?」
「それが、とても苦くて──やだ、ハンク変なこと聞かないでよ」
ジェナは真っ赤になりながらも、嬉しそうな顔をしている。
「何だよ、結局その話を俺にしたかったんじゃねぇのか? あーあ、やってらんねぇな」
ハンクはおどけたように肩をすくめると、また泉に視線を移した。水面の中央には、絵のように綺麗な満月が映っている。ゆらゆらと波に合わせて、満月も静かに揺れる。
と、その満月の姿が、突然泉から消えた。次の瞬間、上空からパタパタという音が聞こえてきた。その音は次第に大きくなり、夜の静寂を破って近づいてくる。
「ん?」
ハンクは空を見上げる。異変に気付いたチェスとジェナも、上空を見上げていた。