第五十九話 ラークホープローズ
「誰が寝ているんだ?」
マントを引っ張るリルを無視して、アビーは立ち上がる。
「一体ここは誰の──」
ベッドの中で眠っている人物を見下ろして、アビーは言葉を飲み込む。
「アビー様、ここはお城です。早くこちらに」
声を殺してリルはそう言うと、精一杯の力を込めてアビーを引っ張る。廊下を歩く足音が、次第に近づく。軽く扉をノックする音の後、静かに扉が開かれた。その瞬間に、アビーとリルは、どうにか隅のテーブルの下に身を隠すことが出来た。
一人の年輩の侍女が、白い薔薇を生けた大きな花瓶を抱えて、ベッドの方へ歩いていく。
「王子様、ラークホープローズを生け直して参りました」
侍女は小さく呟き、ベッド脇の丸テーブルにそっと花瓶を置く。
「エレック王子様の大好きな白薔薇です……」
侍女はベッドで眠っている王子に目を落とし、軽く息を吐く。
「早くお目覚めになると宜しいのに……王様もお妃様もたいそう心配しておられます。エレック王子様まで、いなくなってしまわれては……」
侍女は沈痛な顔をして、王子の掛け布団を正す。エレックは安らかな顔をして、気持ち良さそうに寝息を立てている。本人は夢の中。自分の身に何が起こったのか、知る由もなかった。
「そう言えば、ジェナはよく王子様のために白い薔薇を摘んできていましたね。あまり白薔薇ばかり摘んでくるものですから、他の薔薇になさいと言った覚えがあります」
侍女はふと思い出し、微かに笑う。
「あの娘が……ジェナが王子様を救う方法を見つけたらしいという噂があります。そのジェナも未だ戻っては来ませんが……今はあの娘に望みを託す他ございませんね」
侍女は眠っている王子に向かって一礼すると、静かに部屋を出ていった。
「どういうことだ、リル? 何故、僕達はエレックの城にいる?」
侍女が扉を閉めて出ていった後、アビーは小声で聞いた。
「それはですね、多分、ラークホープに戻してください、とお願いしたからではと」
リルはアビーを見つめてニコリと笑う。
「ラークホープの中心というと、お城になりますからね、エヘ」
「フン、ラークホープの中心だと? こんなちっぽけな城より、僕の屋敷の方がずっと豪華だ。王子の部屋にしては、だだっ広いだけで何にもないじゃないか」
アビーは王子の部屋を見回す。白い壁に白いカーテン。必要な物以外は置いてない、殺風景な部屋だった。
「そうですね、王子の部屋にしては貧相でございますね。アビー様のお宅は装飾品が多いですから、エヘヘ」
間近に迫るリルの笑顔から、アビーは顔を逸らす。
「帰るぞ。ここにいてもラームが来るまでは何も出来ない」
アビーはサッと立ち上がり、静かな寝息を立てているエレックを一瞥すると、足早に部屋を出て行こうとする。
「アビー様、お待ち下さい。家来に見付からぬようお気をつけ下さい」
リルも慌ててアビーの後を追う。
「何も知らない王子は間抜けだな。彼奴の命が尽きるのも後僅かだというのに」
アビーは鼻で笑う。
「アビー様、そのような恐ろしいことを。ですが、そんな恐ろしいアビー様もリルは大好きです、エヘッ」
リルも笑いながら、煌びやかなアビーのマントの陰に身を隠しつつ、急ぎ足で城を出ていく。
花瓶の中の白い薔薇の花々が、優しい香りを放っている。
眠りの中のエレック王子は、ラークホープの白い薔薇の香りに包まれて、深い眠りの中にいた。
──これは、ラークホープローズの香り? 目覚めなければ、起きあがらなければ。
エレックは頭の中で考えるが、瞼は開かず体は動かない。
──何故、起きられない? 早くしなければ、また大切なものを失くしてしまう……。
エレックは一瞬苦しみに顔をしかめるが、すぐにまた激しい睡魔が襲いかかり、深い暗闇の中へと落ちていった。