第三十話 緑色の瞳
「どんな考えだ?」
アビーはガリーラに尋ねる。
「まあ、ここはひとまず宿に戻ることにしましょう。私は明日旅立つ予定ですので」
「宿? 宿などどこにある?」
アビーはぐるりと辺りを見回す。三百六十度見渡す限り草原が続き、遠くの方に放牧の牛達がいるだけだった。
「一時間ほど歩けば、ふもとの村に到着します」
淡々とした口調でガリーラは言った。
「一時間も? そんなに長く歩けるか。馬車を呼んで来い」
「その馬車を呼ぶためには、ふもとの村に行かなきゃいけませんよ」
荷物を背負い直し、ガリーラは歩き始めた。
「……」
アビーは舌打ちし、リルを一瞥する。薬がなくては魔法を使うこともできない。
「アビー様、たまにはお散歩もよろしいかと……エヘ」
アビーの冷たい視線を感じつつ、リルは笑みを浮かべてアビーを見上げた。
「お天気も良いことですし……」
──本当は、私の懐に予備の薬が一つありますが……今使用する訳にはいきません。あれはいざという時のためにとっておかなくては……。
リルは薬の入った胸元をそっと押さえる。
アビーとリルが立ち止まっている間に、ガリーラはスタスタと先を歩いて行き、段々と後ろ姿が小さくなっていく。アビーは仕方なくガリーラの後を追って歩き始める。リルはその後を追いかけるように、アビーの鞄と殻になった布袋を提げ、ちょこちょことついて行った。
アビーとリルが一山越えた先の村にいるとは知らないジェナは、その頃ハンクとともにセント・ベリーの街を歩いていた。
「おっ、いたいた!」
いつの間にか、広い通りは一段と賑わっていた。人だかりの向こうにチラリと小さなチェスの姿が見える。チェスはバイオリン弾きの男性の音色に合わせ、女性とともに歌を歌っていた。
「すげえな、チェスんとこが一番人が集まってる」
ハンクは人垣の後からジャンプして、チェス達を見ようとする。
「綺麗なメロディ、綺麗な声ね」
ジェナの耳にもバイオリンの音と歌声が聴こえてきた。温かく優しいメロディに、ジェナはうっとりと聴き入る。
「ほら、あの歌ってるちっちゃい奴がチェスさ」
「チェス?」
ジェナは人垣から背伸びしてキョロキョロとチェスの姿を探すが、人に押され見ることが出来なかった。
「こっちに来なよ」
ハンクはジェナの手を取ると、片手で人垣を押しのけながら前に進んで行く。「押すな!」「押さないでよ!」と罵声を浴びせられながらも、ハンクはジェナの手を引いてチェスの元まで辿り着いた。
チェスは隣りに立つ若い女性と、声を合わせて一心に歌を歌っている。その澄んだ美しい歌声に、聴いている人々は皆心を奪われているようだった。
「……」
ジェナもしばし、うっとりとその歌声に耳を傾ける。自分が今、見知らぬ街に佇んでいるということも忘れてしまいそうなくらい、その声は優しくジェナの心を包み安心させた。
──可愛い男の子。
ジェナはチェスを見つめて微笑む。同じ年頃の小さな弟達のことをふと思い出すが、チェスは弟達とは全く雰囲気が違う。何か、人を惹きつけるオーラのようなものが、チェスには備わっているような気がした。そう思うのはジェナだけではなく、まわりの人々も感じているようだ。歌を聴く人々は皆、穏やかな満ち足りた表情をしていた。
歌い終わったチェス達は、観客から大きな拍手と声援をもらった。まるで、大きな舞台で歌い終わった歌手さながらだ。
──なんだかあの子とは初めて会った気がしないわ。
多くの聴衆から飛び交う硬貨の雨をよけながら、ジェナはチェスを見つめる。
「あっ、ハンク!」
ハンクの姿に気付いたチェスは、すぐにハンクとジェナの元に駆け寄って来る。
「どこ行ってたの? あなたは?」
チェスは隣りに立つジェナに気付く。
「ジェナさ。ついさっきここに来たばかりらしい。色々と事情があるんだ」
ハンクはチラッと横目でジェナを見て、代わりに答えた。
「ふ〜ん、僕はチェス。よろしくね」
チェスはニコリと笑ってジェナに手を差しだした。
「こちらこそ」
微笑みながらジェナはチェスの手を握る。小さな温かい手。澄んだ美しい緑色の瞳。チェスの大きな緑色の瞳を見つめ、ジェナはふとエレック王子のことを思い出す。
──エレック王子様と同じ優しい緑色の目……エレック王子様……。
ラーク・ホープで眠ったままのエレックのことを考えると、ジェナの心は張り裂けそうになる。何としても魔法を解かなくてはならない。恐怖と不安で弱気になっていたジェナの心に、強い意志の力が再び戻ってきた。