第十六話 眠れる国の王子様
───アビー様、大丈夫でしょうか?
魔法を唱えると同時に気を失い、バッタリと倒れ込んだアビーをリルは心配そうに見つめる。
───リルは驚きました! 呪いの魔法がこんなにも強力だったなんて……
死んだように眠っているアビーの体を、すぐに使用人の男達が抱え上げ馬車へと運ぶ。
───エレック王子様の方はどうなったでしょうね?
リルは薔薇園へと目を向け、ソロソロっと近づいていく。
「だっ、誰か! 誰か来て下さい!」
突然、大きな叫び声が薔薇園から聞こえ、慌てふためいたジェナが走って出てきた。
「王子様が! エレック王子様がっ!」
「あの娘も来ていたとは!……あの娘は苦手です」
リルはジェナの姿を見ると、頭巾を目深に被り気付かれないよう逃げようとする。だが、ジェナは黒い頭巾を被った小さなリルの姿を見逃しはしなかった。
「待って! 王子様が倒れたのよ! ちょっと、待ちなさい!」
足早に逃げていくリルを追いかけ、ジェナは頭巾を掴む。リルの頭巾がハラリと脱げ、髪のないリルのしわくちゃの頭が覗く。
「キャッ! お許しを! 私、何も致しておりません!」
怯えたリルは、ジェナの手を振りほどき、ジェナに顔を向ける。
「あっ! あなたはこの前の!……」
コウモリ顔のリルを目にして、ジェナは口元に手をやる。その恐ろしく醜い顔にジェナは悲鳴を上げそうになるが、グッと堪える。ジェナが怯んだすきに、リルはササッと馬車まで走っていく。
「ま、待ちなさい! 化け物!」
ジェナは後を追うが、リルは予想以上にすばしこく、アッという間に馬車に乗り込んでしまった。
「あれは、アビーの馬車……」
猛スピードで去っていく馬車を見て、ジェナは呟く。
───アビーと化け物が、王子様に何かしたんだわ!……
ジェナは踵を返すと、お城に向かって走り出す。
呪い魔法をかけられたエレックは、その時から目覚めない眠りにつく。
すぐに国や近隣の国から名医が呼ばれたが、どんな治療も薬も王子の眠りを覚ますことは出来なかった。医者の他に、祈祷師、魔法使いの類も呼ばれたが、リルの強力な薬魔法を解く術は、誰も知りはしなかった。
「アビー様、いい加減に目を覚ましてくださいませ」
リルはベッドに寝ているアビーの顔を覗き込む。
「アビー様もエレック王子のように眠りについてしまわれたのですか?」
瞳をうるうるさせながら、リルはアビーの顔に接近しそうなほど自分の顔を近づける。
呪いの薬魔法を使って以来、アビーも三日間眠り続けていた。
「ああ、やっぱり、呪い魔法など使わなければ良かったのですね……このままアビー様が目を覚まさなければどういたしましょう。リルは、リルは泣いちゃいます……」
細い目に溜まったリルの涙が瞳からこぼれ落ちて、ポタリとアビーの頬に落ちる。それは、どす黒い炭のような涙だった。黒い涙の落ちたアビーの頬が、痙攣するようにヒクヒクと小刻みに震える。
「……う、うぅ……」
それと同時に低いうめき声がアビーの口から漏れてくる。
「あっ! アビー様! アビー様、お気づきになられたのですか!」
リルの涙はうれし涙に変わり、もう一粒アビーの頬に黒い染みをつける。
「う、うぅ」
苦痛に顔を歪めながら、アビーは目をパチリと開ける。
「アビー様!」
「僕に近寄るな!」
アビーはリルをはねのけて、ベッドから身を起こす。
「気味の悪い夢を見た……黒い水に溺れる夢だ……」
肩で荒い息をしながら、アビーはリルに目をやる。アビーの頬からリルの黒い涙がタラリと落ちた。その気持ちの悪い感触にアビーはゾッとして、手で頬を拭った。
「アビー様! リルは嬉しゅうございます! やはりアビー様は悪運の強い方なのですね。エヘッ」
リルは小首を傾げて微笑む。
「フン、それより、エレックはどうなった? 魔法は効いたのか?」
「はい、もちろん効きました。エレック王子様は今も眠りから目覚めておりません」
「そうか! 魔法はずっと効くのだろうな?」
「はい、呪いの魔法を解くことは容易ではございません」
「ハハ、そうか、エレックは一生ベッドの中で過ごすといい!」
アビーは声を立てて笑う。リルも一緒になって嬉しそうに笑った。
と、二人の笑い声をうち消すかのように、アビーの部屋のドアがドンドンと激しく叩かれる音がした。