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婚約破棄された悪役令嬢は王家に請求書を突きつける ~今さら戻ってこいと言われても、あなたの王位はもうありません~

作者: シオン
掲載日:2026/09/08


第一章 予定どおりの婚約破棄


「リディア・フォン・エルグランド。貴様との婚約を、今日この場をもって破棄する!」


卒業記念舞踏会の華やかな大広間に、第一王子ユリウスの声が響き渡った。


楽団の演奏が止まり、数百人の招待客が一斉に息をのむ。


王子の正面に立つ公爵令嬢リディアは、静かに扇を閉じた。


真珠を縫い込んだ銀青色のドレス。夜空のような黒髪。感情の読めない紫紺の瞳。


誰もが認める、王太子妃候補として完璧な令嬢だった。


そのはずだった。


ユリウスの隣には、淡い桃色の髪をした男爵令嬢ミレイユが寄り添っている。白いドレスに身を包んだ彼女は、小動物のように肩を震わせていた。


「殿下……。私のために、そこまでなさらなくても……」


「恐れることはない、ミレイユ。今夜こそ、君を苦しめた悪女の罪を白日の下にさらす」


ユリウスはミレイユの肩を抱き、リディアをにらみつけた。


「貴様はミレイユを階段から突き落とし、教科書を破り、昼食に毒を入れた。さらには身分を笠に着て彼女を学園から追放しようとした。到底、次代の王妃にふさわしい人間ではない!」


会場がざわめく。


貴族たちは扇の陰でささやき、若い令嬢たちは怯えた目をリディアへ向けた。


しかし、リディアは動じなかった。


むしろ、わずかに口元を緩めた。


やっと、この日が来た。


この瞬間を、彼女は十年待っていた。


「婚約破棄、承りました」


よく通る声でそう答えると、会場が再び静まり返った。


ユリウスは眉をひそめる。


おそらく彼は、リディアが泣き崩れると思っていたのだろう。あるいは、無実を叫びながら見苦しくすがりつくとでも期待していたのかもしれない。


「ずいぶん素直だな。ようやく自らの罪を認めたか」


「いいえ、殿下」


リディアは微笑んだ。


「婚約の解消と、罪を認めることは別の話でございます」


「往生際の悪い!」


「ですから、一つずつ確認いたしましょう」


彼女は扇の先を上げ、広間の奥を示した。


そこには学園長、騎士団長、神殿の司祭、そして王国法務官が並んでいる。


いずれもリディアが招待した人物ではない。


卒業記念舞踏会なのだから、出席していて当然の要人たちだ。


ただし、彼らの手元には分厚い書類の束が用意されていた。


「まず、階段から突き落としたという件ですが、事件が起きたとされる三月十二日の午後二時、私は王立図書館で外務卿と南部国境に関する会議を行っておりました。入館記録と議事録がございます」


「記録など、公爵家の力でいくらでも捏造できる!」


ユリウスが吐き捨てる。


「王立図書館の記録は、王家直轄の管理下にございます」


「それがどうした!」


その一言で、王家に仕える文官たちの表情が硬くなった。


王子は気づいていなかった。


公爵家を疑うために、王家自身の記録制度まで信用できないと言い切ってしまったことに。


リディアは淡々と続ける。


「次に、教科書を破った件です。ミレイユ様がお持ちだった教科書は、学園から貸与されたものではありません。三月二十日に王都の古書店で購入された品です。店主の証言によれば、購入時点で既に数ページが破れていたとのこと」


ミレイユの顔から血の気が引いた。


「そ、そんな……。店主さんが勘違いしているのです」


「領収書がございます。購入されたのはミレイユ様ご本人ではなく、ユリウス殿下の側近であるナイジェル・ベルン子爵令息です」


名前を呼ばれた茶髪の青年が、列席者の中で肩を跳ねさせた。


「違う! 私は頼まれて本を買っただけだ!」


「頼まれたのは、破れた教科書を用意することでございますか?」


「それは……」


「ナイジェル!」


ユリウスが怒鳴る。


ナイジェルは青ざめ、口を閉ざした。


「最後に、昼食へ毒を入れた件でございます」


リディアの視線が、ユリウスの腕の中にいるミレイユへ向いた。


「ミレイユ様が口にされたのは、アーモンドを使った焼き菓子でした。医師によれば、症状は毒ではなく食物アレルギーによるものです」


「だとしても!」


ユリウスが声を荒らげる。


「ミレイユがアーモンドを食べられないことを知りながら、貴様が菓子を贈ったのだろう!」


「私は贈っておりません」


「菓子箱にはエルグランド家の紋章があった!」


「紋章入りの箱だけなら、王都の菓子店へ行けば手に入ります。父が毎月、領内の孤児院へ菓子を贈っておりますので」


「つまり、貴様の家の菓子だったのだ!」


「中身を購入したのは別の方です」


リディアが指を鳴らした。


侍従が、一枚の帳簿を法務官へ手渡す。


「菓子店の帳簿でございます。注文者の署名をご覧ください」


法務官が目を落とし、厳しい声で読み上げた。


「注文者、ミレイユ・ベルローズ」


ざわめきが爆発した。


ミレイユの体が大きく揺れる。


「ち、違います! 私はただ、リディア様から贈られたと聞いて……」


「ご自身で購入した菓子を、ご自身で召し上がったのに?」


「誰かに頼まれたのです!」


「どなたに?」


「それは……」


リディアは追及しなかった。


まだ、ここで終わらせるつもりはない。


「殿下。私は提出された三件すべてについて、反証を示しました。それでも私を罪人として断罪なさいますか?」


ユリウスの頬が赤く染まる。


怒りと屈辱の色だった。


彼にとって必要なのは真実ではない。


リディアを悪女にし、自分とミレイユを悲劇の恋人にする物語だ。


その筋書きが崩れ始めた今、ユリウスは理性を失いつつあった。


「証拠など関係ない!」


ついに彼は叫んだ。


「ミレイユが泣いている! 彼女が貴様を恐れている! それこそが、貴様が悪女である何よりの証拠だ!」


沈黙が落ちた。


法務官は目を伏せ、騎士団長は露骨に顔をしかめた。


学園長に至っては、頭痛をこらえるように額を押さえている。


リディアだけが、美しい微笑みをたたえていた。


「つまり殿下は、証拠ではなく感情に基づいて臣下を裁くと、公の場で宣言なさるのですね」


「言葉をねじ曲げるな!」


「承知いたしました」


リディアは優雅に膝を折った。


「それでは、婚約破棄の成立をここに確認いたします」


「待て。まだ話は終わっていない」


ユリウスは勝ち誇ったようにあごを上げた。


「エルグランド公爵家には、王家への反逆の疑いがある。貴様を拘束し、公爵領を王家の管理下に置く!」


とうとう来た。


リディアが十年間待ち続けた、決定的な一言だった。


「反逆とは、具体的にどのような行為でしょう」


「公爵家は王家に無断で兵糧を備蓄し、私兵を増強している。また、隣国ノルディアと秘密裏に通商協定を結んだ。これは謀反の準備にほかならない!」


広間の扉が開かれ、王家直属の近衛騎士たちが入ってきた。


抜剣こそしていないが、彼らの手は柄にかかっている。


招待客たちは後ずさり、リディアの周囲だけが不自然に空いた。


ミレイユはユリウスの胸元で、かすかに笑っていた。


誰にも見られていないと思ったのだろう。


だが、その笑みをリディアは見逃さなかった。


「リディア・フォン・エルグランド。国家反逆罪の容疑により、貴様を拘束する」


ユリウスの宣告に、近衛騎士が一歩踏み出した。


その瞬間。


「その命令は無効だ」


冷ややかな声が響いた。


近衛騎士たちが一斉に動きを止める。


広間の奥から現れたのは、漆黒の礼装をまとった青年だった。


銀色の髪に、冬の空を思わせる青灰色の瞳。


北方諸国連合の大使にして、ノルディア王国第二王子、アレクシス・ノルディア。


普段は社交界にほとんど姿を見せない彼の登場に、会場の空気が変わった。


「アレクシス殿下。これは我が国の内政問題です」


ユリウスが不機嫌そうに言う。


「外国の王族に口を挟まれる筋合いはない」


「内政問題であればな」


アレクシスは一通の書簡を取り出した。


「ノルディアとの秘密協定を反逆の証拠とした以上、当事国である我が国にも発言する権利がある」


「その協定こそが反逆だ!」


「違う」


アレクシスの声は静かだった。


それでも、王子の怒声よりはるかに強く響いた。


「エルグランド公爵家が我が国と結んだのは、穀物の緊急輸入契約だ。三年前、ルーベンス王国全土が凶作に見舞われた際、公爵家は北部諸国から小麦を輸入し、国内価格の高騰を防いだ」


貴族たちが顔を見合わせる。


三年前の凶作を覚えていない者はいない。


不作にもかかわらず、王都ではパンの価格がほとんど上がらなかった。王家はそれを「国王陛下の慈悲深き政策」と大々的に宣伝していた。


しかし、実際に国民を救っていたのはエルグランド公爵家だった。


「その契約には国王陛下の署名もある」


アレクシスが書簡を法務官へ渡す。


「写しではない。原本だ」


法務官が封蝋を確認する。


「間違いありません。国王陛下の御璽です」


「なぜ外国が原本を持っている!」


ユリウスの声が裏返った。


「契約とは双方が保管するものだ。王太子教育では習わなかったのか?」


広間のあちこちから失笑が漏れた。


ユリウスは屈辱に震えたが、もはや彼に同情する者はいなかった。


「兵糧の備蓄も、三年前の凶作を受けて国王陛下が命じたものです」


リディアが補足する。


「備蓄量の三割は王都の非常用、二割は王国軍の遠征用として保管しております。当然ながら、命令書も会計記録も残っております」


「黙れ!」


ユリウスが腰の剣を抜いた。


悲鳴が上がる。


その切っ先は、真っすぐリディアへ向けられていた。


「貴様さえいなければ、すべてうまくいくのだ!」


しかし、刃が届くことはなかった。


一歩踏み込んだアレクシスがユリウスの手首をつかみ、剣を床へ落とさせる。


次の瞬間、近衛騎士ではない別の騎士たちが広間へ雪崩れ込んだ。


王国騎士団長の直属部隊である。


「第一王子ユリウス殿下」


騎士団長が重々しく告げた。


「国王陛下の命により、剣を収めていただきます」


「父上の命だと?」


「陛下は現在、別室で本日の一件をご覧になっております」


大広間の壁に埋め込まれた大鏡。


その一つがゆっくりと持ち上がり、鏡の向こうに小さな観覧室が現れた。


そこには国王、王妃、宰相、そして議会を代表する大貴族たちが座っていた。


ユリウスの顔が絶望に染まる。


「なぜ……」


「私がお願いしたのです」


リディアが答えた。


「殿下が私との婚約破棄を計画し、同時にエルグランド公爵家を反逆罪に問おうとしていると知りましたので。国王陛下には、ご自身の目と耳で真偽をご確認いただきたいと申し上げました」


「最初から、私をはめるつもりだったのか!」


「いいえ」


リディアの微笑みが消えた。


「私は殿下に、何度も引き返す機会を差し上げました」


数日前、彼女はユリウスへ手紙を送った。


卒業舞踏会で重大な発表を行うのであれば、事前に国王へ相談するように。


罪を告発するなら、感情ではなく証拠をそろえるように。


そして、王家と公爵家の契約書を読み直すように。


けれどユリウスは、手紙を一通も開封しなかった。


ミレイユが「リディア様の脅迫です」と言ったからだ。


「殿下は自らの意思で婚約を破棄され、自らの意思で虚偽の罪を告発し、自らの意思で王命に基づく公爵家の行動を反逆と断定なさいました」


リディアは告げる。


「今日の結果は、殿下ご自身がお選びになったものです」


「リディア!」


「その名を軽々しくお呼びにならないでくださいませ」


その声は、氷のように冷たかった。


「私どもの婚約は、先ほど殿下ご自身が破棄なさいました」


観覧室の扉が開き、国王が大広間へ入ってきた。


疲れ切った顔をしていた。


その後ろには王妃もいる。彼女は息子ではなく、リディアを見つめていた。


「ユリウス」


国王が呼ぶ。


「お前には失望した」


「父上、これは誤解です! 私は王国を守るために……」


「何から守るつもりだった」


ユリウスは言葉を失った。


「凶作から民を守った公爵家か。小麦を融通した友好国か。それとも、お前を十年以上支えてきた婚約者か」


「私は……」


「連れていけ」


騎士たちがユリウスの両腕を取る。


「嫌です、殿下!」


ミレイユがようやくユリウスの腕から離れ、逃げようとした。


だが、彼女の前にも法務官が立ちはだかる。


「ミレイユ・ベルローズ男爵令嬢。虚偽告発、公文書偽造および王族への不正な働きかけについて、事情を伺います」


「私は何も知りません!」


「菓子店の注文記録には、あなたの署名があります」


「誰かが真似したのです!」


「教科書を購入するようナイジェル殿へ依頼した手紙も保管されています」


「それも偽物です!」


「階段から落ちたと主張した日、あなたが侍女へ『今から転ぶから王子を呼んで』と命じた証言もあります」


「でたらめです!」


ミレイユは左右を見回した。


けれど、彼女を助けようとする者はいなかった。


「ユリウス殿下、助けてください! 私たち、愛し合っていますよね!」


「黙れ!」


ユリウスが初めてミレイユを突き放した。


「すべてお前が言ったのではないか! リディアが悪女だと、公爵家が王位を狙っていると! 私はお前を信じただけだ!」


「そんな……」


「お前が私をだましたのだ!」


その言葉に、ミレイユの表情が変わった。


怯えも、涙も消え去る。


「信じただけ?」


彼女は低い声でつぶやいた。


「私が少し泣けば、証拠も確認せずにリディア様を罵ったのはあなたでしょう」


「何だと」


「王太子教育が嫌だから授業を抜け出したのも、政務をリディア様に押しつけたのも、自分の意思ではありませんか」


「黙れ!」


「私がレポートの答えを褒めただけで、天才だと思い込んだくせに」


乾いた笑い声が漏れる。


今度は誰も隠そうとしなかった。


かつて恋人同士を演じていた二人は、互いに罪をなすりつけながら連行されていった。


大広間の扉が閉ざされる。


これで、すべてが終わった。


そう思った者は多かった。


しかし、リディアにとっては、ようやく始まりにすぎなかった。


彼女の本当の復讐は、ここからだった。


第二章 悪役令嬢の前世


リディアには、前世の記憶があった。


彼女がそれを思い出したのは、七歳の誕生日だった。


高熱にうなされながら、夢の中で別の人生を見た。


自分は遠い世界の小さな会社に勤めており、数字と契約書に追われていたこと。


体調を崩した母を養うため、無理を重ねて働いていたこと。


冬の夜、帰宅途中で意識を失い、そのまま目覚めなかったこと。


そして、この世界がかつて遊んだ恋愛物語によく似ていること。


物語の題名は『聖なる乙女と四つの誓い』。


主人公は男爵令嬢ミレイユ。


彼女は学園で第一王子ユリウスと出会い、数々の困難を乗り越えて結ばれる。


リディアは二人の恋を妨害する悪役令嬢だった。


やがて卒業記念舞踏会で断罪され、公爵家もろとも処刑される。


物語の最後に、ユリウスはミレイユを王妃として迎える。


華やかな戴冠式の場面で物語は終わっていた。


しかし、リディアは知っていた。


物語の外側に、王国の未来があることを。


ユリウスには政治の才能がない。


ミレイユにも国を背負う覚悟はない。


国政を支えていたエルグランド公爵家を滅ぼしたあと、王国経済は急速に悪化する。


前世で夢中になった続編では、暴動と飢饉によりルーベンス王国は滅亡していた。


王妃となったミレイユは王宮から逃げ、国王ユリウスは家臣に見捨てられる。


そして、国境を越えようとした二人は民衆に捕らえられた。


一作目を美しい恋物語だと思っていた読者たちは、続編のあまりに悲惨な結末に言葉を失った。


当時のリディアも、その一人だった。


まさか、その悪役令嬢として生きることになるとは思っていなかった。


記憶を取り戻した当初、彼女は婚約を回避しようとした。


けれど、七歳の時点ですでに婚約は内定していた。


父に訴えても、幼い娘の悪夢として受け流された。


王家からの申し入れを断れば、公爵家が反逆を疑われる可能性もある。


逃げられない。


ならば、備えるしかなかった。


リディアは王太子妃教育を完璧にこなし、その裏で公爵領の財政を学んだ。


十歳で領内の倉庫を調査し、穀物の三割近くが運搬中に劣化していると突き止めた。


十二歳で保存技術を改善し、倉庫ごとに異なっていた帳簿の様式を統一した。


十四歳になる頃には、彼女が提案した水運事業によって領内の輸送費は半分になっていた。


すべては、公爵家を守るため。


王国が崩壊しても領民が飢えぬようにするため。


そして必要であれば、王家との関係を切り、公爵領を一つの国として自立させるためだった。


ユリウスにも働きかけた。


彼が愚かだからと、最初から見捨てたわけではない。


少年時代のユリウスは、素直で明るい子供だった。


無知ではあったが、質問を恥じることはなかった。


リディアは隣で学び、間違いを指摘し、宿題を手伝った。


しかし、彼が十五歳になった頃から関係が変わり始めた。


「どうして君は、いつも私より先に答えるんだ」


「先に予習をしておりますから」


「私の婚約者なら、私を立てるべきだろう」


その日から、リディアは公の場で答えを控えるようになった。


するとユリウスは、彼女が知らないと思い込んだ。


「リディアは難しい問題が苦手なんだ」


周囲にそう語り始めた。


リディアは訂正しなかった。


訂正すれば、彼の自尊心を傷つけると知っていたからだ。


政務の課題も手伝った。


ユリウスが作成すべき報告書を代わりにまとめたこともある。


最初は感謝していた彼も、次第にそれを当然だと思うようになった。


「君は将来の王妃になるのだから、このくらいすべきだ」


王妃教育を受けながら、公爵家の仕事を行い、王子の課題まで肩代わりする。


リディアが睡眠時間を削っている間、ユリウスは狩りや夜会を楽しんでいた。


いつしか彼は、彼女の努力によって得られた成果まで、自分の功績だと信じるようになった。


そこへ現れたのがミレイユだった。


彼女はユリウスを褒めた。


何をしても素晴らしいと言った。


授業をさぼれば、自由な発想を持つ殿下は古い教育に縛られるべきではないと慰めた。


報告書の誤りを指摘されれば、リディアが嫉妬しているのだとささやいた。


ユリウスは、心地よい言葉を真実として選んだ。


その頃には、リディアも彼を救うことを諦めていた。


彼女の関心は、婚約解消後にどう公爵家を守るかへ移っていた。


ゲームの筋書きでは、卒業記念舞踏会において、リディアは突然断罪される。


証拠は必要ない。


ユリウスの言葉だけで、彼女は罪人になる。


だからリディアは、法務官を味方につけた。


騎士団長へ情報を渡した。


国王に舞踏会を見届けさせた。


ユリウスの告発を、一つずつ記録した。


そのすべてが計画どおりに進んだ。


ただ一点を除いて。


「なぜ、あなたがあそこにいらしたのですか」


舞踏会の翌朝。


エルグランド公爵邸の応接室で、リディアはアレクシスに尋ねた。


彼は青灰色の瞳を細めた。


「招待状を受け取ったからだ」


「どなたから?」


「君から」


「送っておりません」


「知っている」


アレクシスは平然と紅茶を口にする。


「私が持っていたのは、王立学園から各国大使へ送られた通常の招待状だ」


「では、なぜあの場面で?」


「君が追い詰められると知っていたからだ」


リディアは黙った。


アレクシスはテーブルの上に一冊の帳簿を置く。


それは三年前、ノルディアから小麦を輸入した際の記録だった。


「君はノルディアへ契約書の照合を依頼した。同時に、舞踏会当日は原本を持参するよう求めた」


「それは大使館宛ての要請です」


「私が大使だ」


「代理の方が来られると思っておりました」


「私では困るのか?」


「困りはしませんが」


視線をそらしたリディアに、アレクシスは小さく笑った。


二人が初めて会ったのは、三年前の凶作のときだった。


まだ十六歳だったリディアは、公爵家を代表してノルディアとの交渉に臨んだ。


ノルディア側の代表がアレクシスだった。


彼は若い令嬢だからと侮ることなく、対等な交渉相手として扱った。


価格、輸送路、関税、品質保証。


三日間の協議の末、両者が納得できる条件で契約は成立した。


別れ際に、アレクシスは言った。


「君は王妃になるそうだな」


「その予定です」


「残念だ」


「何がでしょう」


「いや。こちらの話だ」


当時は意味が分からなかった。


今になっても、分からないふりをしていた。


「リディア」


アレクシスが名を呼ぶ。


「君は自由になった」


「王家との婚約に関しては」


「何か問題が残っているのか」


「たくさんございます」


リディアは窓の外へ視線を向けた。


公爵邸の門前には、朝から馬車が次々と到着している。


昨日までユリウスに同調していた貴族たちが、言い訳と謝罪に訪れているのだ。


婚約破棄の現場で沈黙していた者。


リディアを悪女と呼んだ者。


公爵家の反逆に賛同した者。


一夜明けた途端、彼らは口をそろえて言う。


自分たちは王子にだまされていた。


公爵家への忠誠は変わらない。


「王国は、私を手放しません」


リディアは言った。


「正確には、エルグランド公爵家の財力を」


国王はユリウスを王太子候補から外すだろう。


だが、王家には第二王子がいる。


まだ十二歳の少年だ。


次に国王が何をするか、リディアには予想がついていた。


第二王子との婚約。


相手が変わるだけで、彼女は再び王家へ縛りつけられる。


「それなら、君のほうから王国を捨てればいい」


アレクシスは静かに言った。


「簡単におっしゃいますね」


「君なら、すでに準備しているだろう」


リディアの指が止まった。


「何のお話でしょう」


「エルグランド領の独立だ」


窓から差し込む朝日が、アレクシスの銀髪を照らしていた。


彼の表情に冗談の色はない。


「水運の整備、街道の拡張、備蓄制度、独自通貨の試験運用。君がこの十年で準備したものは、領地経営の範囲を超えている」


「独自通貨ではありません。商会間で使用する決済証書です」


「言い方の違いだ」


「決済証書に法貨としての強制力はございません」


「将来、通貨へ切り替える予定でも?」


リディアは答えなかった。


アレクシスは、想像以上に公爵領を調べている。


「君の父上は知っているのか?」


「もちろんです」


「国王は?」


「ご存じありません」


「反逆になるぞ」


「公爵領が正式に独立を宣言すれば、そうなるでしょう」


リディアは紅茶の水面を見つめた。


「ですが、その前に王国そのものを買い取れば、反逆にはなりません」


アレクシスは数秒間、沈黙した。


やがて楽しげに目を細めた。


「なるほど。だから君は面白い」


リディアの本当の計画。


それは独立ではなかった。


弱体化した王国を見捨てることでもない。


借金に沈むルーベンス王家から、徴税権、鉱山権、港湾管理権を合法的に買い取る。


行政権を少しずつ公爵家へ移し、形だけの王家を存続させたまま、実質的な国家運営を引き受ける。


王国を滅ぼさず、公爵領だけでもないすべての民を救うための計画だった。


「リディア。私は君に協力できる」


「代価は?」


「私と婚約してほしい」


あまりに簡潔な言葉に、リディアは目を瞬いた。


「政略結婚ということですか」


「最初は、そのほうが君も受け入れやすいだろう」


「最初は?」


「いずれ恋愛結婚だったと思わせる」


アレクシスは微笑んだ。


「私には自信がある」


リディアは十年間で初めて、返す言葉を見つけられなかった。


第三章 王家の請求書


予想どおり、三日後に王宮から使者が訪れた。


リディアと第二王子レオナードとの婚約を打診する書状を携えて。


「お断りいたします」


エルグランド公爵は、使者が口上を述べ終える前に答えた。


五十歳を過ぎてもなお猛禽のような鋭さを持つ父オズワルドは、娘より感情を隠すことが苦手だった。


使者の背後に国王がいなければ、その場で怒鳴りつけていたに違いない。


「しかし公爵閣下。これは王国の安定のためでございます」


「長女を罪人として拘束しようとした三日後に、別の王子へ嫁げと?」


「第一王子の行動は、陛下のご意志ではございません」


「陛下は息子の暴走を止められなかった」


「だからこそ、第二王子殿下とリディア様の婚姻によって信頼を回復したいと」


「我が家の信頼を回復するのは王家の責任だ。なぜ娘がそのために人生を差し出さねばならん」


使者は返答に窮した。


リディアは父の隣で、静かに書状を読んでいた。


国王は謝罪している。


だが、王家としての責任には一切触れていない。


ユリウス個人が誤っただけで、王家には非がないという立場だ。


婚約に伴う条件も、以前とほぼ同じだった。


エルグランド家は王家へ毎年一定額を献納する。


凶作や戦争の際には、備蓄食料を無償で提供する。


リディアの持参金は王家の資産とする。


王家が借金を抱えていることを考えれば、婚姻という名の救済要求だった。


「使者殿」


リディアは新しい書類を差し出した。


「こちらを陛下へお渡しください」


「これは?」


「王家に対する、エルグランド公爵家からの請求書でございます」


使者の顔が引きつる。


請求総額は金貨百八十万枚。


三年前の小麦輸入費。


公爵家が立て替えた王国軍の遠征費。


王都の下水道整備費。


ユリウスの外遊費。


王妃主催の慈善会へ提供した費用。


婚約者として王宮へ支払った献納金。


これまで王家は、公爵家の支出を忠誠の証として処理してきた。


リディアも婚約中は異議を唱えなかった。


しかし、その婚約はユリウス自身によって破棄された。


道義的な奉仕を続ける理由はない。


「ま、待ってください。これらは既に公爵家からの寄付として……」


「どの書類にも、寄付とは記載されておりません」


「しかし、返済期限もありません」


「ですから、改めて定めました」


請求書の下部には、期限が記されている。


一か月。


使者は青ざめた。


現在の王家に、金貨百八十万枚を一括で支払う余裕はない。


「支払いが困難な場合、分割にも応じます」


リディアは穏やかに続けた。


「担保をご用意いただければ」


「担保とは……」


「東部金山の採掘権。南部港湾の徴税権。王都商業区の管理権。この三つでいかがでしょう」


使者は答えなかった。


答えられるはずもない。


「婚約をお断りする代わりに、このような請求をなさるのですか」


「順序が逆です」


リディアの声から温度が消えた。


「婚約を破棄されたからこそ、精算をお願いしているのです」


その日の夕方、王家が困窮しているという噂が王都を駆け巡った。


リディアが流したものではない。


王宮から戻った使者が、酒場で愚痴をこぼしたらしい。


翌日には、王家へ貸し付けを行っていた商人たちが返済を求めて王宮へ押しかけた。


さらに翌日には、王家発行の債券価格が暴落した。


国王は緊急議会を招集し、エルグランド公爵を責めた。


「このようなときに請求を突きつければ、王国が混乱することは分かっていたはずだ!」


「返済を求められて困る借金を、なぜ重ねられたのです」


オズワルドの返答は単純だった。


「そもそも、エルグランド家から金を引き出せばよいと考え、財政改革を先送りしたのではございませんか」


「王家を侮辱するか!」


「事実の確認です」


議会の中央で、二人の視線がぶつかった。


国王は公爵家を処罰できない。


軍を動かすにも資金が必要で、その資金を公爵家が握っている。


王国軍の兵糧も、半分以上がエルグランド領の備蓄倉庫にある。


無理に奪おうとすれば、ノルディアが介入する可能性もあった。


アレクシスは舞踏会の翌日、ノルディア王国とエルグランド公爵家の新たな通商協定を発表している。


同時に、リディアとの婚約を希望していることも公言した。


「公爵家が外国と結託し、王家を脅迫している!」


国王派の貴族が叫んだ。


「婚約も協定も合法です」


リディアが答えた。


彼女は父の代理人として議会に出席していた。


第一王子に断罪された令嬢が、数日後には王国議会で財務について語っている。


その光景を不快に思う貴族もいた。


だが、数字で彼女に勝てる者はいなかった。


「公爵家が王国から離れれば、我が国は立ち行かない。それを知っていて、足元を見ているのだろう!」


「公爵家がなければ立ち行かない国家にしたのは、どなたでしょう」


「小娘が!」


「その小娘一人に財務を論破されるご自身を、まず恥じられてはいかがですか」


場内から、抑えきれない笑いが漏れる。


発言した伯爵は真っ赤になって座り込んだ。


リディアは議会全体を見渡した。


「王家の年間収入は、この十年間で二割減少しました。一方、支出は四割増加しております。特に王宮費は二倍です」


書記官が資料を配る。


「王家が国民から徴収した税のうち、道路、治水、防衛、救済に使われた割合は三割未満。残りの多くが、宮殿の改築と催事に消えています」


「王家の威厳を保つためだ!」


「飢えた民は、黄金の天井を見て満腹になりますか?」


誰も答えなかった。


「私は王政の廃止を求めているのではありません」


リディアは国王へ向き直る。


「必要なのは、王家の財産と国家財政を分離することです。徴税権を議会管理下へ移し、国家予算を公開する。王家には毎年、議会が定めた額を支給する。公爵家への債務は、権利譲渡によって返済していただきます」


「余から国を奪うというのか」


「陛下個人の財産と、国家は同一ではございません」


その考え自体が、この国では新しかった。


国民が払う税は、国王の金。


土地も鉱山も港も、すべて国王の所有物。


長い間、そう信じられてきた。


だが、国王がすべてを所有するのであれば、失敗の責任もすべて国王が負わねばならない。


豊作の功績だけを王家のものとし、凶作の責任を領主へ押しつけることは許されない。


「陛下」


リディアは最後の書類を差し出した。


「改革案を受け入れてくださるのであれば、公爵家は債務の利息を放棄いたします。五年間の返済猶予にも応じましょう」


「拒絶した場合は?」


「一か月後、契約に基づいて王家資産の差し押さえを申し立てます」


「誰が王家を裁く!」


国王の問いに、法務官が立ち上がった。


「王国法でございます、陛下」


国王は法務官をにらんだ。


しかし、彼を罷免することはできなかった。


罷免すれば、法の上に王家があると認めることになる。


議会の空気は、既にリディアへ傾いていた。


彼女は王家を滅ぼそうとしているのではない。


むしろ、滅亡を防ぐために最後の機会を与えている。


それを理解できる者は少なくなかった。


「採決を」


宰相が宣言した。


王家の財政改革案。


賛成百二十六。


反対四十一。


棄権十三。


改革案は可決された。


国王は、震える手で承認書へ署名した。


ペン先が紙をひっかき、黒い染みを作る。


リディアはその署名を見届け、深く礼をした。


「王国のための英断に、心より感謝申し上げます」


国王は答えなかった。


彼はこの日、多くの権利を失った。


だが、王国そのものは救われた。


歴史書には後に、この採決がルーベンス王国の転換点だったと記されることになる。


ただし、ユリウスにとっては違った。


幽閉先で議会の決定を聞いた彼は、壁に杯を投げつけた。


「リディアが、私から国を奪った!」


彼は最後まで理解していなかった。


国は彼のものではない。


王太子候補の地位を失った今は、なおさらだった。


第四章 偽りの聖女


ミレイユの取り調べは、難航していた。


彼女は虚偽告発の証拠を突きつけられても、すべて他人のせいにした。


教科書の件はナイジェルが勝手に行った。


菓子については店員にだまされた。


階段から落ちたのは事実だが、侍女が嘘をついている。


ユリウスに近づいたのも、彼から強引に迫られたからだ。


だが、法務官は彼女の言葉を一つずつ崩していった。


やがて、奇妙な事実が判明する。


「ミレイユは、未来の出来事を知っていたようです」


法務官から報告を受けたリディアは、驚かなかった。


やはり、と思っただけだ。


「具体的には?」


「三年前の凶作、昨年の王都火災、陛下の落馬事故。いずれも発生前に周囲へ予言めいた言葉を口にしています」


「ほかには?」


「第一王子殿下へ、ご自分は女神に選ばれた聖女であると告げていました。悪しき公爵令嬢を倒せば、王国に永遠の繁栄が訪れるとも」


物語を知っている。


おそらくミレイユも転生者なのだ。


ただし、彼女が知っているのは一作目だけなのだろう。


だからリディアを断罪すれば幸福になれると信じた。


物語の終幕から始まる、本当の地獄を知らない。


「彼女と話をさせてください」


翌日、リディアは王都監獄を訪れた。


ミレイユは個室に収容されていた。


罪が確定していないため環境は悪くないが、舞踏会で見た華やかな姿とは別人だった。


桃色の髪は乱れ、目の下には濃い影がある。


鉄格子の向こうにリディアを見つけるなり、ミレイユは立ち上がった。


「あなたも転生者なのでしょう」


挨拶もなく、彼女は言った。


リディアは看守を遠ざけてから、用意された椅子に腰かけた。


「なぜ、そう思うのですか」


「悪役令嬢があんなことをするはずがないからよ」


ミレイユは鉄格子に指をかけた。


「本来のリディアは、私をいじめて、ユリウスに嫌われて、処刑される。それが正しい物語なのに」


「正しい?」


「そうよ。私は主人公よ。ユリウスと結ばれて王妃になるの。あなたは私の幸福を邪魔する悪役だった」


「あなたの幸福のためなら、私や家族が処刑されても構わないと?」


「だって、物語の登場人物でしょう!」


その答えを聞き、リディアは胸の奥が冷えていくのを感じた。


ミレイユにとって、この世界は物語のままだ。


人間が生きている場所ではない。


「あなたも好きに筋書きを変えたじゃない!」


ミレイユが訴える。


「自分だけ助かろうとして、公爵家の力で私を陥れた!」


「私は、あなたに何もしないという選択肢を与えていました」


「私が何もしなければ、ユリウスはあなたと結婚した!」


「別の方と幸せになる道もあったでしょう」


「攻略対象以外の男なんて価値がない!」


ミレイユはそう吐き捨てた。


リディアは彼女を眺める。


前世の自分も、画面の向こうではユリウスたちを攻略対象と呼んでいた。


決められた選択肢を選び、好感度を上げ、結末を楽しんだ。


けれど、ここにいる人々は一人ずつ意思を持っている。


公爵家の使用人も、街の商人も、畑を耕す農民も。


名前も顔もある。


幸福も、悲しみもある。


「一つ、あなたに教えて差し上げます」


リディアは立ち上がった。


「この物語には、続編がありました」


「続編?」


「リディアの処刑から五年後、ルーベンス王国は滅亡します」


ミレイユの表情が凍りついた。


「嘘よ」


「三年間の凶作で、王国の食料価格は五倍に上昇します。エルグランド公爵家の備蓄制度とノルディアとの輸入契約が失われるからです」


「そんな……」


「国境では戦争が始まります。王国軍への補給を担っていた公爵家がなくなり、兵士たちは飢えて逃亡します」


「ユリウスが何とかするわ」


「彼は軍事費を増やすため国民へ重税を課します。ミレイユ王妃は毎週のように舞踏会を開き、民衆の怒りを買います」


「私はそんなことしない!」


「攻略対象との特別な場面を再現するため、あなたは莫大な金を使うのです」


ミレイユは後ずさった。


「最後に王都で暴動が起こり、あなたとユリウスは逃亡します。そして、国境近くの村で捕らえられる」


「結末は?」


リディアは答えなかった。


沈黙だけで十分だった。


「嫌……」


ミレイユの唇が震える。


「そんなの、知らない。私は知らなかったのよ!」


「知らなければ、何をしても許されるのですか」


「だって私は、幸福になりたかっただけ!」


「私もです」


リディアは静かに答えた。


「私の家族も、領民も、誰もが幸福に生きる権利を持っています。あなた一人の物語のために犠牲になる理由はありません」


「待って!」


立ち去ろうとするリディアへ、ミレイユが手を伸ばす。


「私を助けて。あなたならできるでしょう?」


「なぜ、私が?」


「同じ転生者じゃない!」


「だからこそです」


リディアは振り返らなかった。


「この世界が現実だと理解する機会は、私たち双方にありました」


ミレイユはその機会を捨てた。


自分は主人公だから許されると信じ、他人の人生を踏みにじった。


彼女は厳正な裁判を受ける。


公爵令嬢を陥れたからではない。


証拠を捏造し、虚偽の告発を行い、王族を利用して他人を殺そうとしたからだ。


「あなたは物語の主人公ではありません」


リディアは最後に告げた。


「私も、悪役令嬢ではありません。私たちはただ、自分の選択に責任を負う一人の人間です」


鉄扉が閉じる。


廊下に出ると、アレクシスが壁にもたれて待っていた。


「聞いていたのですか」


「続編のところから」


「信じますか?」


「君が前世を持つという話か」


リディアは足を止めた。


「驚かないのですね」


「君は七歳を境に別人のように聡明になった。説明としては納得できる」


「普通は、もっと疑うものでは?」


「疑ったところで、君が君であることは変わらない」


アレクシスは歩き出した。


リディアもその隣へ並ぶ。


「私は前世で、この世界を物語として見ていました」


「そうか」


「あなたも、登場人物でした」


「私は攻略できたのか?」


予想外の質問に、リディアは足をもつれさせかけた。


「登場は続編からです」


「それでは、君は私を攻略していない?」


「続編は恋愛物語ではありませんでしたので」


「残念だ」


アレクシスは本気で落胆したような顔をする。


「ですが、一番人気の人物でした」


リディアが付け加えると、彼は満足げにうなずいた。


「あまり驚かないでください」


「君が選ぶ程度には魅力的だと思っていた」


「私は選んでおりません」


「いずれ選ぶ」


その自信はどこから来るのだろう。


けれど不思議と、不快ではなかった。


薄暗い監獄を出ると、明るい日差しが降り注いでいた。


アレクシスが手を差し出す。


段差を下りるための、形式的な仕草。


リディアは少し迷い、その手を取った。


彼の手は思っていたより温かかった。


第五章 捨てられた王子の反乱


財政改革から二か月後。


王国経済は、予想以上の速さで安定を取り戻していた。


リディアは東部金山へ監査官を派遣し、不正に採掘権を独占していた業者を排除した。


南部港湾では複雑だった関税を一本化し、貨物検査に要する日数を短縮した。


商船の入港数は一か月で三割増えた。


王都商業区の露店税も引き下げた。


税率は下がったにもかかわらず、無許可営業が減ったことで税収は増加した。


国家予算は議会で公開され、王宮の晩餐会は週三回から月二回になった。


王妃は当初、不満をあらわにした。


だが、リディアが晩餐会一回分の費用で孤児院三棟を一年間運営できると示すと、何も言えなくなった。


国民の間では、リディアを「鉄の公女」と呼ぶ者が増えた。


悪女という意味ではない。


無駄を断ち切り、不正を許さないという敬称だった。


しかし、すべてが順調なわけではなかった。


改革によって利益を失った者たちがいる。


王家との癒着で富を得ていた貴族。


関税をごまかしていた商人。


そして、王位継承権を失い、北の離宮へ幽閉されたユリウス。


彼らはリディアを共通の敵として結びついた。


「旧王太子派が兵を集めています」


深夜。


公爵邸の執務室へ入ってきたアレクシスが報告書を差し出した。


リディアは眠気を追い払うように目元を押さえる。


「規模は?」


「確認できただけで千二百。傭兵を含めれば二千を超える」


「目的は王都の制圧ですか」


「表向きは、外国に操られた悪女から国王を救うための義勇軍だ」


「悪女という呼び名は便利ですね」


リディアは報告書に目を通した。


資金提供者の一覧。


武器の購入記録。


兵が集まっている場所。


公爵家の諜報網が既に調べ上げている。


「国王陛下は?」


「ユリウスを説得するため、使者を送るつもりらしい」


「間に合いません」


「私もそう思う」


リディアは地図を広げた。


北の離宮から王都へ入る道は三本。


最短の中央街道は王国軍が封鎖できる。


西の山道は大軍に向かない。


残るのは、エルグランド領に沿って延びる東街道だ。


「ユリウス殿下は、こちらを通るでしょう」


「公爵家の兵をおびき寄せ、衝突したところでリディアが王族を殺そうとしたと宣伝するつもりか」


「おそらく」


ユリウス自身が考えた策とは思えない。


背後に誰かいる。


リディアは資金提供者の名前を指で追った。


その中の一つで手が止まる。


「ベルローズ男爵」


ミレイユの父。


娘が有罪判決を受けたあと、彼はリディアを逆恨みしていた。


だが、貧しい男爵家に二千人の兵を支える資金はない。


「男爵の口座を調べてください」


「既に調べた」


アレクシスが別の紙を置く。


男爵の口座には一か月前、大量の金が振り込まれていた。


送り主は南方の商人。


その商人をたどると、さらに別の商会が現れる。


最終的な出資者は。


「帝国ですか」


南の大国、ガルディア帝国。


ルーベンス王国の混乱に乗じ、港を手に入れようとしている。


ユリウスを王位に戻す見返りとして、南部港湾の永久租借権を要求したのだろう。


「ユリウス殿下は、この条件をご存じなのでしょうか」


「知っていても、理解はしていないだろう」


ここで軍を動かせば、帝国の思惑どおりになる。


内乱が起きれば王国は疲弊し、帝国は治安維持を名目に介入できる。


「戦わずに終わらせます」


リディアは言った。


「方法があるのか?」


「兵士の大半は傭兵です。彼らはユリウス殿下への忠誠ではなく、報酬のために動いています」


「その報酬を止める?」


「いいえ」


リディアはペンを取り、命令書へ署名した。


「こちらが雇います」


翌朝、公爵家は布告を出した。


旧王太子軍への参加を予定している傭兵について、契約金の倍額でエルグランド領の街道警備員として雇用する。


罪には問わない。


武器を持参した者には、買い取り代金も支払う。


条件は一つ。


三日以内に、指定された駐屯地へ出頭すること。


その日のうちに三百人が離反した。


翌日には七百人。


三日目、ユリウスのもとに残った兵は、貴族家の私兵を中心とする四百人ほどになっていた。


それでもユリウスは進軍を命じた。


「二千の兵はどうしたのです!」


ベルローズ男爵が叫ぶ。


「卑劣なリディアが金で奪った!」


ユリウスは馬上で吐き捨てた。


「やはり、あの女は金にしか興味がない悪女だ!」


倍額で敵兵を引き抜かれた当人が言うと、説得力があった。


残った兵士の士気は低い。


進軍すれば反逆罪。


逃げても雇用期限は過ぎている。


彼らが迷っているうちに、王国騎士団が前方を塞いだ。


後方にはエルグランド公爵軍。


挟み撃ちにされた旧王太子軍は、一戦も交えずに包囲された。


「ユリウス殿下」


白馬に乗ったリディアが、騎士たちの間から進み出る。


「武器を捨て、投降してください」


「悪女め!」


ユリウスは剣を抜いた。


「私の王位を奪い、国を外国へ売り渡した魔女!」


「外国へ港を売ろうとしたのは、殿下ではございませんか」


リディアが手を上げる。


兵士たちが、巨大な板を立てた。


そこにはユリウスと帝国商人が交わした契約書が拡大して貼られている。


南部港湾の永久租借。


帝国軍の国内駐留。


鉱山収益の五割譲渡。


見返りは、ユリウスの王位復帰支援だった。


同行していた貴族たちが騒然となる。


「聞いていないぞ!」


「港を渡すなど!」


「これは偽物だ!」


ユリウスは叫んだ。


だが、契約書の末尾には彼自身の署名がある。


「殿下は署名の際、契約内容を読まれましたか」


リディアの問いに、ユリウスは答えない。


読んでいなかったのだ。


帝国の使者から「王位を奪還するための支援契約」としか聞かされていない。


「ベルローズ男爵!」


ユリウスが振り返る。


「お前は何を私に署名させた!」


「殿下のためです!」


「私をだましたのか!」


「だましたのはリディアです! あの女がすべてを奪ったから、このような手段を取るしかなかった!」


「私は、殿下から何も奪っておりません」


リディアの声が響く。


「婚約を捨てたのも、王位継承権を失ったのも、国を売り渡す契約へ署名したのも、すべて殿下ご自身です」


「黙れ!」


「誰かに言われたから。誰かにだまされたから。誰かが自分を評価しなかったから」


リディアは真っすぐユリウスを見つめた。


かつては、彼と国を支えていこうと思っていた。


未熟でも、いつか立派な王になれると信じたこともあった。


その思いは今、完全に消えていた。


「殿下は一度も、ご自身の選択に責任を持たれなかった」


「私が悪いと言うのか」


「はい」


リディアは迷わず答えた。


「あなたが選び、あなたが署名し、あなたが命じた。ですから、その責任を取るのもあなたです」


ユリウスは周りを見た。


味方であるはずの兵たちは、武器を下ろし始めている。


貴族たちは彼から距離を取っていた。


ベルローズ男爵さえ、逃げ道を探している。


「私は王子だぞ」


かすれた声が漏れる。


「私に逆らえば、全員処刑してやる」


誰も動かなかった。


「父上に命じて、お前たちの家を取り潰す!」


沈黙。


「私は王になる男だ!」


その言葉に答えたのは、王国騎士団長だった。


「いいえ。あなたは国家反逆の容疑者です」


騎士たちが進み出る。


ユリウスは剣を振り上げた。


しかし、その腕をベルローズ男爵がつかんだ。


「お許しください、殿下」


男爵はユリウスを馬から引きずり下ろした。


「私は脅されて、仕方なく従ったのです!」


「貴様!」


地面へ落ちたユリウスの剣を、別の兵士が蹴り飛ばす。


男爵は投降の証しとして両手を上げた。


つい先ほどまで担いでいた主君を、自ら差し出して。


ユリウスは呆然と地面に座り込んだ。


彼が選んだ人々は、最後には誰一人として残らなかった。


「リディア」


ユリウスが顔を上げる。


「私は間違っていた」


今さら、彼は言った。


「君を愛していたんだ。ミレイユに惑わされて、気づけなかっただけだ」


リディアは何も感じなかった。


怒りも、悲しみもない。


ただ、その言葉を聞くために昔の自分がどれほど努力していたかを思い出した。


「もう一度、やり直そう」


ユリウスが手を伸ばす。


「君がそばにいてくれれば、私は立派な王になれる。君の望む改革も認めよう。だから、私を助けてくれ」


昔なら、手を取ったかもしれない。


彼が成長することを信じ、また支えようとしたかもしれない。


けれど今のリディアは知っている。


人は、他人によって立派にしてもらうものではない。


自ら学び、自ら責任を引き受けなければならない。


「私がいなければ王になれない方は、私がいても王にはなれません」


リディアは馬上から彼を見下ろした。


「さようなら、ユリウス殿下」


それが、彼女が彼へかけた最後の言葉だった。


第六章 悪役の判決


ユリウスとベルローズ男爵の裁判は、公開で行われた。


罪状は国家反逆、外国勢力との共謀、違法な兵の招集、王都への武力侵攻未遂。


ユリウスは当初、王族としての免責を主張した。


しかし、財政改革の際に成立した新法では、王族であっても国家への反逆は免責されない。


皮肉にも、その法律へ最終的に署名したのは国王だった。


「私は王位を取り戻そうとしただけだ!」


ユリウスは法廷で叫んだ。


「王位は殿下の所有物ではありません」


裁判長が答える。


「継承候補から外れた時点で、取り戻すという主張は成立しません」


帝国との契約については、内容を理解していなかったと訴えた。


それも認められなかった。


「知らずに署名したことは、契約が存在しない理由にはなりません」


かつてユリウスがリディアの反証に対し、証拠など関係ないと言い放った記録も提出された。


法廷に集まった国民は、それを聞いて失笑した。


判決は王籍剥奪と終身幽閉。


死刑を求める声もあったが、リディアが反対した。


殺せば彼を殉教者として利用する者が現れる。


生きたまま、自分の過ちと向き合わせる。


それが王国にとって最も安全な選択だった。


ベルローズ男爵は爵位と領地を没収され、北部鉱山で二十年の労役に就くことになった。


ミレイユには、修道院での終身奉仕が命じられた。


ただし、貴族令嬢が名目だけ修道院へ入り、優雅に暮らすようなものではない。


辺境の救護院で、病人や孤児を支える仕事をする。


拒否すれば投獄。


働きによっては、十年後に再審を受けられる。


「どうして私だけ!」


判決を聞いたミレイユは泣き叫んだ。


「リディアだって、未来を知っていたのに! 知識を使ってお金持ちになったじゃない!」


「知識を持つことは罪ではありません」


裁判長は淡々と答えた。


「あなたが裁かれているのは、他者へ危害を加えた行為についてです」


「主人公は私なのよ!」


「法の前では、すべての人間が等しく一人の当事者です」


ミレイユは連れ出された。


廊下にいたリディアと、一瞬だけ目が合う。


「覚えていなさい!」


彼女は叫んだ。


「私は絶対に、あなたより幸せになるから!」


リディアは小さくうなずいた。


「そうなるよう、お祈りしております」


予想外の返事に、ミレイユが黙る。


「幸福になることは、誰かを不幸にすることではありません」


ミレイユは何も言わず、うつむいた。


いつか彼女が理解する日は来るだろうか。


来ないかもしれない。


それでも、リディアにできるのは機会を残すことだけだった。


法廷を出ると、アレクシスが待っていた。


「甘い判決だと思うか?」


リディアは尋ねた。


「君にしては甘い」


「やはり?」


「だが、悪くない」


二人は並んで歩いた。


王都の中央広場では、市場が開かれている。


果物を売る声。


走り回る子供たち。


焼きたてのパンの香り。


物語では、数年後に暴動の炎に包まれるはずだった場所だ。


今の王都に、その兆しはない。


倉庫には十分な小麦がある。


パンの価格は安定している。


公開された国家予算によって、税の使途を誰もが知ることができる。


南部港には外国の商船が集まり、新たな雇用を生み出している。


未来は変わった。


少なくとも、リディアが知っている筋書きからは外れている。


「怖くはないのか」


アレクシスが尋ねた。


「何がです?」


「君が知らない未来だ」


リディアは考える。


以前は、未来を知っていることが強みだと思っていた。


何が起こるかを知り、先回りして対処する。


けれど物語から外れた今、彼女にも先は見えない。


「少しだけ」


正直に答える。


「ですが、安心もしております」


「なぜ?」


「もう、決められた役割を演じなくてよいからです」


悪役令嬢として死ぬ運命も。


完璧な王太子妃として、無能な夫を支える人生も。


すべて消えた。


「それなら」


アレクシスが足を止めた。


中央広場の噴水前。


多くの人が行き交う場所で、彼はリディアの前へ片膝をついた。


周囲が静まり返る。


「何をなさっているのですか」


「求婚だ」


「なぜ、この場所で?」


「密室だと政略だと思われる」


「実際、政略的な意味もあるでしょう」


「ある」


アレクシスはあっさり認めた。


「ノルディアとエルグランド家が結びつけば、北部の通商は安定する。ルーベンスへの帝国の介入も防げる。国家にとって有益な婚姻だ」


「それでは、やはり政略結婚です」


「だが、私が君を妻に望む理由はそれだけではない」


彼は指輪を取り出した。


大きな宝石ではない。


深い青色の石を、銀の細工が包んでいる。


内側には、小さな文字が刻まれていた。


「何と書かれているのですか」


「対等な契約を」


三年前。


二人が小麦の輸入について交渉を終えたとき、リディアが最後に言った言葉だった。


どうか、これは一方が他方へ恵みを与える契約ではなく、対等な二国が助け合う契約として記録してほしい。


アレクシスは覚えていた。


「私は君を守るとは約束しない」


彼は言った。


「君には、自分を守る力がある」


リディアはまばたきをする。


「君を幸せにするとも約束しない。君の幸福を、私一人が決めるべきではないからだ」


「では、何を約束してくださるのですか」


「君が戦うときは隣に立つ。君が迷うときは意見を言う。私が間違えれば、君に止めてもらう」


アレクシスは彼女を見上げた。


「共に生き、共に考え、互いの選択を尊重する。それを約束する」


胸の奥に、ゆっくりと温かいものが広がった。


十年間、リディアは誰かを支えることを求められてきた。


王子を支え、王家を支え、王国を支える。


疲れても、弱音を吐くことは許されなかった。


アレクシスは、彼女へ寄りかかろうとはしない。


代わりに、隣へ立つと言う。


「一つ、条件がございます」


リディアは答えた。


「何でも言ってくれ」


「ノルディアへ嫁いだとしても、私はルーベンスの改革に関わり続けます」


「もちろんだ」


「公爵家の相続権も放棄しません」


「君の権利だ」


「子供が生まれた場合、ノルディアとエルグランドのどちらを継ぐかは、本人の意思を尊重します」


「同意する」


「それから」


リディアは少しだけ意地悪く微笑んだ。


「私の仕事を勝手に肩代わりしないでくださいませ」


アレクシスは眉を上げた。


「手伝うのも駄目か?」


「相談してからにしてください」


「分かった」


「本当に?」


「契約書を作ってもいい」


「そこまでなさらなくても結構です」


リディアは差し出された指輪を受け取った。


「求婚を、お受けいたします」


広場から歓声が上がる。


誰かが花を投げた。


それをきっかけに、商人も、市民も、通りかかった子供たちも、一斉に拍手を始めた。


リディアは頬が熱くなるのを感じた。


断罪の大広間では、数百人の視線を浴びても平然としていられたのに。


「人前でする必要がございましたか?」


「君が断りにくくなる」


「卑怯です」


「君なら、断りたければ千人の前でも断るだろう」


そのとおりだった。


リディアは笑った。


誰かに見せるための、計算された微笑みではない。


心からの笑顔だった。


終章 王国を買い戻した令嬢


五年後。


ルーベンス王国は、立憲王政国家として新たな時代を迎えていた。


国王は国家の象徴であり、行政は議会が選出した内閣によって行われる。


税率と国家予算は公開され、王族も法に従う。


エルグランド公爵家は王国最大の金融機関と物流網を運営していたが、独占を避けるため、利益の一部を公共事業へ還元した。


街道が整備され、上下水道が都市部から地方へ広がった。


各領地に学校が設けられ、平民も一定の試験を通れば官僚になれるようになった。


「鉄の公女」と呼ばれたリディアは、今では王国初の財務大臣である。


同時に、ノルディア王国の第二王子妃でもあった。


二国で暮らすため、ひと月の半分はルーベンス、残りはノルディアで過ごす。


忙しさは以前と変わらない。


しかし、夜中まで一人で書類を抱えることはなくなった。


「リディア」


執務室の扉が開き、アレクシスが顔を出す。


「夕食の時間だ」


「あと少しです」


「その台詞は一時間前にも聞いた」


「一時間前とは状況が変わりました」


「どのように?」


「書類が三枚減りました」


机の上には、まだ二十枚以上残っている。


アレクシスは向かいの椅子に座り、その一枚を取った。


「手伝わない約束でしょう」


「相談している。手伝ってもいいか?」


リディアは書類から顔を上げた。


「夕食後なら」


「夕食後は休む時間だ」


「ですが」


「財務大臣が倒れれば、王国の損失になる」


「王子殿下が一日中、外交会議をしていたことも存じておりますよ」


「私は午後に昼寝をした」


「大人が堂々と言うことではありません」


「必要な休息を取れない大人より賢明だ」


言い返せない。


リディアはため息をつき、ペンを置いた。


「夕食にいたしましょう」


「よろしい」


アレクシスが満足げに立ち上がる。


結婚して四年。


彼は宣言どおり、リディアを無条件に甘やかしはしなかった。


間違っていると思えば反対し、無理をしていれば仕事を止める。


リディアも同じだった。


意見がぶつかることもある。


一晩中議論したこともある。


それでも、どちらかが一方的に従うことはなかった。


対等な契約を。


指輪の内側に刻まれた言葉は、今も二人の関係を示している。


食堂へ向かう途中、侍従が一通の手紙を届けに来た。


差出人は、北東部救護院。


ミレイユからだった。


彼女は修道院での生活を続けている。


最初の一年は仕事を拒否し、何度も脱走を試みた。


しかし、ある冬に流行病が発生した際、偶然にも前世の衛生知識が役立った。


手洗いと煮沸の徹底。


病人の隔離。


清潔な布の使用。


彼女の提案によって多くの命が救われた。


それからミレイユは少しずつ変わった。


今では救護院で子供たちに読み書きを教え、医師の補助もしているという。


手紙には、短い言葉が記されていた。


あのとき私が欲しかったのは、幸福ではなく、主人公という証明だったのだと思います。


ここでは誰も私を主人公とは呼びません。


でも、私の名前を呼んでくれる子供たちがいます。


十年後の再審を受けるかどうかは、まだ決めていません。


ただ、今度は自分で決めます。


リディアは手紙を折りたたんだ。


「返事を書くのか?」


アレクシスが尋ねる。


「ええ。夕食後に」


「仕事ではないのか」


「友人への手紙です」


「友人?」


「本人には、まだ言いませんけれど」


リディアは窓の外を見た。


夕暮れの王都に、家々の灯がともり始めている。


ユリウスは現在も西の塔に幽閉されていた。


初めの二年間は、毎月のように王位復帰を求める手紙を書いた。


三年目から数が減り、今では庭仕事と読書をして静かに暮らしているという。


父である前国王は既に退位し、離宮で穏やかな余生を送っている。


第二王子だったレオナードが新国王となった。


彼は幼い頃から、自分が何を知らないかを認められる少年だった。


即位後も専門家の意見を聞き、間違えれば謝罪する。


完璧な王ではない。


だからこそ、臣下と共に国をつくる王になった。


物語の中では名前しか登場しなかった少年が、今は王国の未来を担っている。


誰もが、物語の中心になる可能性を持っていたのだ。


「リディア」


アレクシスに呼ばれ、彼女は振り返る。


「今度は何でしょう」


「幸せか?」


あまりに直接的な問いに、リディアは笑った。


「確認なさるのですか」


「契約の履行状況を」


「私を幸せにするとは約束していなかったでしょう」


「君が幸せでなければ、共に生きるという契約が不完全になる」


「では、あなたは?」


「幸せだ」


即答だった。


「君が私を選んだ日から、毎日」


照れもせずに言うところが、ずるい。


リディアは彼の手を取った。


「私も幸せです」


それは、誰かを蹴落として手に入れた幸福ではない。


決められた役割を演じて与えられた報酬でもない。


間違いながら、選びながら、自分の手で築いたものだ。


かつて、リディアは悪役令嬢と呼ばれた。


国を惑わす悪女。


主人公の恋を妨げる障害。


処刑されるためだけに存在する人物。


けれど彼女は断罪の舞台で泣かなかった。


許しを請わず、逃げもせず、自分に向けられた罪を一つずつ退けた。


そして、自分を捨てた王家から権利を買い取り、滅びるはずだった王国を救った。


歴史書には、彼女についてさまざまな評価が残されている。


冷酷な改革者。


稀代の財務家。


二国の架け橋。


王国を買い戻した公女。


ただし、どの歴史書にも記されていない事実が一つだけあった。


彼女は別に、英雄になりたかったわけではない。


物語の主人公になりたかったわけでもない。


愛する家族と領民を守り、自分自身の人生を生きたかった。


ただ、それだけだった。


「ところで、リディア」


食堂の扉を開けながら、アレクシスが言う。


「今日の料理はアーモンドを使っているらしい」


「私はアレルギーではありませんよ」


「知っている。念のため確認した」


「確認は大切です」


二人は顔を見合わせて笑った。


証拠など関係ないと叫んだ王子は、自らの言葉で破滅した。


自分だけが主人公だと信じた少女は、名もなき人々の中で自分の名前を見つけた。


そして悪役令嬢と決めつけられたリディアは、自ら選んだ人と並び、自ら変えた未来を歩いていく。


断罪されたはずの夜から始まった、彼女の本当の物語。


その結末を決める筋書きは、もうどこにもない。


明日何が起こるかは、リディアにも分からない。


だからこそ、彼女は微笑む。


誰にも書かれていない明日を、自分たちで選べるのだから。


完

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