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『セーラー服と絵の具箱』

作者: 星 令奈
掲載日:2026/02/08

『思春期を乗り越えた少女の物語』

  『序章』


 白銀の静寂の中、鮮やかな緋色は雪面に倒れていた少女のベレー帽だった。


 事件は清南高校スキー教室の第三日目に起きた。早朝から純子が姿を消したことで教員たちは引率責任者の塚越教頭を中心にして学校と連絡をとりながら捜索願を道警に出すべきかどうかと逡巡していた。その判断が遅れていた理由は『入学前から問題児だった生徒の不祥事などによって今まで培ってきた進学校のイメージが損なわれてなるものか』と、頑なに主張していた古参の教員がいたからである。

 瀕死の純子を発見したのはバックカントリースキーに興じていた若者たちだった。彼らはすぐに救助を呼ぼうとしたが携帯電話には「圏外」としか表示されなかった。一人の女性がエマ―ジョンシートで純子を包んで体温低下を防いでいたとき、別のメンバーが「この子を見守っていてくれよ」と、言い残して斜面に飛び出していった。彼は視界が開けた丘に着くと、祈るような気持ちで電源のON・OFFを繰り返すことで、ついに一時的に通信が回復した。そのおかげで十数分後には山岳レスキュー隊によって純子は無事保護されたのであった。『北斗大学附属病院』に向かうドクターヘリの中では胃洗浄まで終えることができ、純子は凍傷すら負うこともなく特別病棟のベッドの上で回復を待つまでになった。その朝、純子が使った劇薬は中学生のときに理科室からくすねていたものだったが、教師たちはマスコミが食いついてきそうな情報は隠し通すことを申し合わせた。純子の自殺未遂は生徒達にも内密にされて彼女の家庭とも相談した結果、当面自宅待機をさせることになった。

 二年三組の担任の石井はショートホームルームの時間を使って

「加藤さんは体調の関係でしばらくお休みすることになりました」と、いつもの連絡事項のようにさりげなく伝えただけであったので、クラスメートだけでなく純子と同じ美術部員でさえも疑問を持つことはなかった。この時期は現三年生が『大学入試センター試験』を終えて国公立大学の二次試験や私大入試に向かっていた受験シーズンであり、二年生たちにとっては『次は自分たちの受験だ』という重圧が掛かり始めていた頃だったこともある。


『第一章 初恋』

 純子の中学校時代には苦いエピソードがあった。幼少時からのお受験コースで英明中学に入学後、二年生の時に新人教師の中田に初恋をした。その中田は地元の高校を卒業後、教員養成系ではハイレベルだと言われる文理大学理学部の出身だったので、それだけでも生徒の憧れの的だったのである。もっとも、この大学よりも入学偏差値の高い大学の学生たちは田舎の教師稼業などには見向きもしない、と言った方がこの大学へのより適切な評価であるが。


 色づいた葉も落ち切った晩秋の放課後だった

 中庭の暗い緑色に淀んだ池の傍らで純子は中田を待っていた

 数分も経ったであろうか

 職員室から渡り廊下にあらわれた白衣の彼に

 純子は自分の想いを込めた手紙を差し出した

 中田はそれを無言で受け取って

 理科室のある棟に戻っていった


  このことだけで済んでいれば、よくある少女の告白に過ぎなかったのだが、その後は二人にとって予想外の展開となった。中田は手紙を受け取ったことによって、教師として処分の対象になるのではないか、という不安を抱くばかりであって思春期の少女の気持ちを受け入れる心のゆとりなどはなかった。中田は悩んだ末にその手紙を学年主任に渡して相談したのだった。

 次の週の放課後、純子は担任の志村から誰もいない教室に呼び出されて丁寧に開封されたあとの封筒を見せられた。

「今日は呼び出してすまなかった。 君たちが若い男性教師にあこがれる気持ちはよく分かるのですが、私たちはどの生徒にも公平に接しなくてはいけないのです。今年の中田先生は担任こそ持っていませんが、理科教師として研修を積む時期であり、その上慣れないサッカー部のご指導や遠征の準備などで大変に忙しいのです。もちろん加藤さんのお気持ちは貴いものだと思いますよ。それから・・・」と志村は躊躇(ちゅうちょ)しつつも話を続けた。「先月、都内の教員が女子高校生にわいせつな行為をしたというニュースはご存知ですか。そんなわけで学校長からは『生徒との関係を疑われるような状況を作ってはいけない』という厳命が下っているのです。加藤さんのお手紙はとても良い文章だと思いますが、今回のことは忘れてもらえないだろうか」というごくあたりまえの生徒指導だった。

 純子は自分の手紙が何人の男に読まれたかと思うと、生まれて初めて顔から火が出るような恥ずかしさを感じた。そして中田への想いは深い恨みに反転して現実になっていく。

  理科室の薬品保管庫のカギは実験の授業後に必ず事務室のキーボックスに戻すべきものなのだが、一学期のある日、純子はそのカギを理科準備室の机に入れておくように、と中田から手渡されたことがあった。中田は空き時間を使って授業の範囲を超えた実験にも没頭していたので、そのカギは一日中手元にあった方が都合よかったのである。さらに中学校では必要としない劇物の瓶も薬品庫の奥に隠すように入っていたことにも純子は気づいていた。さて、新米教師というのはまず生徒を疑わないものであって、中田は過酷な復讐を受ける羽目になるとは夢にも思っていなかった。


 学校の期末テストの前後は各教科の担当者にとっては試験問題の作成と採点に追われる時期である。その後、学級担任は各教科担任から提供されたクラスの全科目の成績伝票をもとにして生徒一人ひとりの通信表などを作成することになる。学級担任は教科担任でもあるのだからいつにも増して多忙な時期なのだが、部活動の顧問はその指導を休むことはできず、教職員労働組合の係活動もなくなるわけではない。特に二学期末あれば、職員親睦会の幹事たちは忘年会会場の予約や出し物の準備を始めるころである。まさに一年を通して『教員免許がなくてもできることは一切いたしません』などとは言っていられないのが職員室の勤務実態なのである。教員たちにしてみれば、こんなにも多忙な時期に生徒には問題など起こされてほしくないのだが。


 年も押し迫った日の放課後だった。全校一斉に非常ベルが鳴り響き、消火栓の赤いランプが点滅した。職員室の防災モニターには『理科室』と表示され、防火管理者の塚越教頭が校内一斉放送のマイクに飛びついた。「理科室で火災発生、火災発生、先生方は消火器を持って理科室に急行してください」と懸命に繰り返した。

 出火原因は純子が薬品庫のカギを開けて『実験用燃料』を取り出して机の上や床に流し、固く丸めた古新聞紙に着火して廊下から理科室に投げ込んだのだった。幸いなことに消防隊の到着を待たずして教師たちによって小規模な室内損傷だけで消し止めることができた。当の本人は火傷一つ負わなかったが、スカートの裾には故意ではないかと思われる焦げた跡があり、その下にはショートパンツをはき、上にはTシャツまで仕込んでいたとは、いざとなれば制服の上下も脱ぎ棄てられる準備をしていたのだろうか。ストッパーのピンを抜いた消火器もすぐ傍に置かれていたそうだ。まさしく放火自殺に見せかけた理科教師へのとんでもない嫌がらせだった。中田は危険物の管理不足だとして厳重な注意を受け、翌年からは道内とはいえ遠距離にある公立校に非常勤講師として配属されることになった。それでも公立校への臨時任用という寛大な措置がとられた訳は『学校職員とPTA代表の親睦会』という宴席の折、『英明中』の教育振興会会長だった道議会議員の中島に植松校長が髪の毛も少なくなった頭を下げて頼み込んだおかげだったらしい。

 一方の純子は『現建造物等放火罪』に問われてもおかしくはなかったのだが、父親が道内の有力者と連携を取ったおかげで、警察からは未成年者の自殺未遂だったということだけで学校からも何のお咎めはなかった。父親の方は請求されるままに損害を償い、その原状回復工事も三学期の開始までには間に合わせることができた。さて、その後の純子はとんでもないことをしてしまった、という後悔の念で胸が押しつぶされそうになっていた。恋文を職員室で回覧されてしまったというおまけ付きの大失恋だったとはいえ、中田に対する思慕の情は今も強く残っていることに気付いたのだった。


  『第二章 発病』


 三年生の新学期になり純子は今まで通り登校して何事もなく帰宅している様に見えたが本人としては空漠とした毎日だった。何を見ても、聞いても、心が動くことはなかった。授業には出ていたがミニテストなどでの低迷ぶりは授業担当者から担任の志村には伝えられてはいた。しかし、ハイレベルな高校へより多くの合格者を送ることが至上命令だった志村にしてみれば、そんなことは取るに足らないことだった。志村は生徒の心のケアよりも自分の英語の授業が学習塾よりも劣るなどと、保護者から苦情が来ないようにと願うばかりの教師であり、当然、生徒からは持てないタイプだった。 五月の校内模擬試験のときだ。純子はシャーペンを持ったまま何ものかに憑かれたように動けなくなった。頭痛や腹痛をこらえているわけでもなかった。なにもできないのである。理由はわからないが、これ以上その場にいることができないような気分だった。自分自身がなにものかによって排除されるような気持ちに襲われていた。たまたま試験監督をしていた国語の毛塚は、進学志望校を決めるための重要な模擬試験であったので「大丈夫ですか。保健室で休みながらテストを続けてもいいのですよ」とそっと声をかけたが、純子は「私、なにも悪くありません」と言って席に居続けた。いつ試験が終わったのかも思い出せず雲の上にいるような気分だったが、その日は道を間違うこともなく無事に家にたどり着いていた。翌朝、純子は身支度をして通学バッグを持ったところまでは普通にできたのだが家から出られない不思議な気持ちになっていた。父も、パートの母も、姉の正美も、すでに出発していて最後にカギをかけて登校するのが純子のいつもの役目だったのだが、どうしても体が前に動かないのである。昨日のテストのときのように頭痛でもなく貧血気味でもなかった。学校をさぼりたいという理由もなかった。もしそういう気分になるとしたら去年の失恋の後だったろうに。今になってこんな精神状態になるとは。その動けない原因が自分でもわからなかった。学校に電話をすることはずる休みをするようで気が引けるから、というよりも電話をかけることすらだるくておっくうな感じに襲われていた。しかたなくベッドに横たわろうと思い、バッグをおいてシューズを脱いでフロアに上がろうとするときにはスムーズに体が動いていた。だからと言って『学校を休めてうれしい』などという安堵感は湧き上がってこなかった。

 純子は『どうしたんだろう私、どうして学校のほうに体が向かないの』と自問した。

 そのまま一日中自分の部屋からは出ずにぼんやりとして過ごしていた。バッグを開けても教科書や宿題に目を通す気にはならなかった、というよりもそういったこともおっくうな感じに包み込まれていた。


  この時の純子は、大脳が体に対して行動せよという命令を出せない状態だった。


 その日の欠席のことは家族に知られることはなかった。純子が隠したというよりも、言うことすら気だるかったのだ。翌日は土曜日だったが課外授業のある日だったので登校しようとして玄関に立つと昨日と同じような気分に襲われた。純子はいつものように歩いて数分のコンビニまで行ってドリンクを買ったときに登校できるかどうかを決めようとしてそこまでは行ったものの、やはり学校の向きには体が動かなかった。自宅に戻ってから『これは何かの病気かも知れないのかしら』と思ったものの、かかりつけの『内科』に関する病気でもないだろうし、大変な抵抗はあったが『精神科かしら」と思ってネットで調べたところ、どのクリニックにも『要予約』の添え書きがあった。そんなとき自宅から数分ほどの所に新しいクリニックができたことを思い出した。そこは『神経内科』が専門であり院長は慶応大学卒の神経内科の権威だそうだ、という評判を聞いたことがあった。いままでの純子には無関係な診療科目だったが『精神科』ではないだけに世間体も悪くなく、入りやすい気がした。それに純子自身は精神が不具合なわけでもなく、気持ちや神経が落ち着かない症状なのだから余計に『神経内科』の文字が刺さった。

 自宅を出たのは正午前だった。クリニックに着くと『受付は一二時三〇分まで』と書かれたプレートがあり、女性スタッフからは「正午を回っていますので時間外扱いになります」と言われた。時間外というのがどれだけの追加料金を指すのかもわからなかったが言うなりに待っていると、午前中の患者が終わるときだったので数分で診察室に呼ばれた。男性の院長は六十代くらいだろうか、役者でいえば『松平健』のようにどっしりとした体形であり、その所作も落ち着いていた。先ほどの不慣れそうな受付嬢もそうだったが、医師に付き添っている看護師たちの年齢からみても開業したばかりのクリニックであることがよく伝わってきた。

 医師が言うには「勉強もハードになってきた学年でしょうし心も不安定な時期ですから、とりあえず気持ちが落ち着くお薬を出しておきましょう。それでしばらく様子を見てください」という診断だった。 その帰り道、防災放送の訓練のための『Jアラート』が発せられた。

 純子は『どうせミサイルが落ちるのなら私の上に落ちてよ』と思うくらい鬱々とした気分だった。今の純子と同じような症状をもつ方々のサークルでは、こんな笑い話のような『うつ気分解消法』であっても、自分たちの症状をお互いに笑い飛ばすことでリラックスしているそうだから純子の思ったことも理解しがたくもない。

 実際によく聞く話として、電車への飛び込み自殺では数千人規模の利用客に迷惑をかけるだけでなくビジネス上の支障も起こしていることだろう。そんな事件の際、報道にはまず載らないことだが、飛び散った人体から異臭が漂う事故現場の後片付けをする作業員たちにしてみれば、死者を悼むような気持ちにはなれないという。残骸が細かい肉片程度になれば列車を走らせなくてはならない。しかしながら、うつ病のことを知らない人が「あなたは悪臭をまき散らす醜い自分の姿をさらしてまで多くの通勤客を困らせたいのですか」などと言って患者を問い詰めたとしても症状が回復するわけでもなく、本人にとっては上の空なのだ。 

  近年の『飛び込み自殺の名所』では最新型のドローンを使って自殺願望者特有の行動を監視しているという。自死に向かう人たちの気持ちを理解できない人が『監視小屋のおじさんたちは、いつの日か警察署長から表彰状をもらえることをワクワクして待っているのだろう』と悪意に曲解して重篤な症状の人に『あなたは、そんなおじさんたちの表彰状のために自殺の名所に行くのですか』などとからかったとしても、本人には自分を振り返る余裕などはないだろうし、あるいは他人事のようにしか思えないようだ。それがそういった追い詰められた人の感じ方なのである。

 こんなことを言う人たちは二十一世紀の新しい医学を知らないわけだから「古い人間だ」と笑われるのが落ちであるし、特に学校の教師などであったならば、こうした生徒の症状について十分に研修を積むべきなのである。

 純子の話に戻るが、連続して学校を休めることにはほっとしたが、週明けの火曜日、頭が荒縄で締め付けられるような痛みが襲ってきた。もちろん薬は飲んでいたが今までとは違う症状だった。

 純子はこのとき、自分は曖昧な『心の風邪』などではなくて、明らかに『肉体の神経の異常なのだ』と確信した。

 先週の『横田クリニック』に電話をすると院長が出てくれた。

「う~ん、実はあなたの場合、精神科の領域になるかもしれません。 大学病院に長く務めた先生がやっている『星愛クリニック』を受診してみたらどうですか。すぐに紹介状が書けないので申し訳ないですが、そこは予約制ではないから今日中に診てもらえるかもしれませんよ。 それに私もセカンドオピニオンが欲しかったところです」と丁寧に紹介された。検索してみると、大学病院のある新興住宅街のなかに開業したばかりのクリニックだった。不思議なことにその診療時間は『午後五時から午後十時まで』と載っていた。


  夕食後、純子はクラスメートの『遥香(はるか)』の家に行く、と言って自転車で家を出た。以前、遥香自身から自分も純子と同じような症状を持っていることを話してくれたことがあったので、自然に『はるか』の名前を使ったのかもしれない。 その夜の純子は、体はだるいものの病院に向かえる自分が不思議だった。『星愛クリニック』についたのは夜七時近かった。広い待合室には椅子やソファーはあったかもしれないが、ぐったりと横になった患者とその付き添いらしき人々で床が見えないほどの満員状態だった。もし患者たちが出血をしていたりうめき声を立てたりしていたならば、まさに野戦病院ではなかろうかと純子は眼をみはった。純子が診察室に入ると小柄な医師は社長室にあるようなどっしりとした横長の大型机を前にして背筋を伸ばして座っていた。診察室でありながら治療器具にあたるものは皆無だった。血圧測定の道具も電子カルテを映すモニターなどもなかった。つまり問診だけでの治療なのだろうと純子は思った。その医師は純子の数日間のようすをじっくりと聞いた後で、

「少し学校を休んだらどうですか。たしかに勉強も大事でしょうけれど、今のあなたにとっては、自分自身を休ませることが最大のミッションですよ」と言って、三週間休めるように『診断書』を書いてくれた。薬は今のものを飲みきるまでは様子を見るようにとのことだった。

 診察室を出た純子は『私ってそんなに重症なのかしら? 目の前でゴロゴロしている無気力な人間たちと同じわけはないわよね!』と思うと、今度は悔しさが噴き出してきて待合室の奥にあるトイレのドアを思いっきり蹴飛ばした。破損があれば弁償させられたかも知れないと、あとから思ったくらいの強烈なキックだった。診断書もバカにならない料金だった。手持ちの小遣いで足りたのはよかったが、これをどんなタイミングで母に見せたらよいのだろうかと上の空での帰り道だった。その夜、純子が帰宅したときは午後十時を過ぎていた。さすがに母親のさくらからは小言をいわれたがそれは背中で聞き流して自分の部屋に戻ったとき、姉の正美が突然入ってきた。

「純子! どこに行っていたの」

 そう怒鳴った直後の正美の目には、純子がたった今、机の上に投げ出した『聖愛クリニック』の封筒と、その上に押された『診断書』という黒々としたスタンプの文字が飛び込んできた。

「星愛クリニックって、精神科じゃない。マジ何なのよ」

「・・・・・・・」

「ほんとに最近どうしたのよ。夜だって電気をつけたままぼんやりしているし、なにか精神的にあったんじゃないの」

「・・・・・・・」

「あんたなんか心臓に毛が生えているくらいなんだから、普通の病気なんかじゃないわよね」と冗談ともとれるような言い方で正美が突っ込んできた。純子たち姉妹は厳しい父母のもとで育ったので純子にとっては姉の正美が一番心を許せる家族だった。純子はこの一週間の体調の異常さや気持ちの重さについて初めて医師以外の人に語り始めた。純子の話を聞き終わった正美は同じような症状でリストカットを繰り返したあげくに自ら命を絶ってしまった同級生たちがいたことを思い出した。一方、特に父は子どもの日常生活にも厳格な性格であり、都内の一流高校から東京大学法学部を経て、今では地方での官僚になっている。そんなエリートコースの人だった父には、純子の症状などは勉強から逃げたいという怠けものにしか映らないであろうと正美は思った。父親はあてにはならないものの、正美が同級生たちとの辛い死別のあとで精神衛生のパンフレット程度の物を読んでいたおかげで、この日が純子にとっての救済策の開始点となったのである。


 純子は正美からの「とりあえず休みなさいよ。お母さんには私がなんとか言っておくから」という声に初めて救いを得た思いをした。幼少時代に父母に甘えた経験の記憶も薄かった純子にとっては、いまは正美を信じるしかなかった。それほどこの数日間の自分は孤独感にさいなまれていたのだと改めて気づいたのであった。ちなみに精神科医が純子のような患者が来た時に最初に必ず聞くことは、その患者の弟や妹が生まれるまでにどれだけの期間があったかということである。それは生後いつまで母親の愛情を独占していたかということを尋ねているのだそうだ。純子には弟も妹もいなかったが、純子にとっては幼いころの母親からの愛情不足がこうした症状を引き起こした遠因になっていたのではなかろうか。実は純子が直感したように、純子の病は『心の風邪』などというとりとめもないようなものではなくて『神経細胞間の伝達物質の移動』において支障が発生することが一因ではないかということが発表されている。繰り返しになるが、そういうことを知らない古い時代の人々がうつ症状の人に対して無気力者だとか、さぼりたい奴だとか、寺に行って座禅でも組んで来い、などという言葉の暴力を発するのである。それが学校の指導者や職場の上司などからの暴言であれば今や社会問題になっていることであり、家庭内であってもそういう患者を軽蔑するようなことがあってはならない。だからこそ正美の存在は純子の命にとって最も重要だったのである。さて、正美にとっての問題は、父の長期出張が多いために家庭内は主に母が取り仕切っていたことから、とりあえず母のさくらにどうやってわからせるかであった。近年、日本は自殺大国と言われてきた。その原因が公開されるようになり、まさしく純子のような症状こそ自死の大きな原因になっていることが明らかになってきたのだが、それを生々しく母に伝えるべきだろうか。


 三時間もまどろんだであろうか、日の出が早くなった時期とはいえ、まだ夜も明けぬうちに母を起こした。ひと眠りしてすっきりした正美は母のさくらに数時間前の純子との会話をそのまま説明した。

「やっぱり・・・、あの子はそんな症状だったの。あなたたちが小さかったころ、仕事があった日には熱があっても自分たちだけで病院に行かせたこともあったわよね。純子は自分で治すしかないと思いこんでいるのかもしれない。いまさら気が付くなんてひどい母親だわ。どうしてもっと愛してあげられなかったのかしら」

 しばらく無言だったさくらが続けて「お父さんは仕事人間として勝ち残ってきたような人だから、きっと理解してもらえないでしょうね。夕べ、純子がはるかちゃんの家に行くといっていたからお相手のお母さんにご挨拶のメールを送ったのよ。そしたら『お宅の精神異常のサボり魔のことなど知りませんよ。はるかに近づけないでください』って、きつく言われたからどうしてだろうと思っていたの」

「そうだっんですか。娘さんにも同じような症状があるから、ママの安達(あだち)さんもピリピリしているのかもしれませんね」

 正美にとっては母がすんなりと理解してくれたことは良かったが、同時にやはり強い偏見はあるものだと身震いをした。純子の診断名は『双極性障害』であると正美も聞いていたのだが、この病名が分かれば家族からの援助が決定的にやりやすくなるわけでもない。まさに思春期の女子でもあるので最悪のケースは回避しなくてはならない。病気の根治は遠くとも病と共存していく心構えと周囲からの理解と援助の体制を作り上げなくてはいけないのだと正美はあらためて強く決意した。


 さて中学三年生の二学期ともなれば、多少の病気があろうとも進学や就職の準備を怠るわけにはいられない時期である。とりあえず『英明中』のを卒業させて、なんとか高校に入れなくてはならない。診断書をもらった時の三週間の欠席のあとからも純子の欠席日数は増えていったのだが、義務教育である中学校の場合には高等学校とは違って、その年度の欠席日数が多かったとしても、保護者が希望すれば進級や卒業が可能であることを正美は以前から知っていた。このことは念のために近くの中学に電話をして確かめておくという周到さもあった。そうなると高校入試のための五教科の学力を補っていけばよいのだが、気持ちの上での無理は絶対に禁物であり、刃物を持ちだすようなことはさせてはならなかった。これも正美が以前の冊子で読んでいた知識だった。この冊子の注意事項どおりに刃物やロープなどは純子に気づかれないように他の場所に隠した。純子の部屋は一階にあったので、さすがに『飛び降り自殺』までは考えにくかったし、純子の手前もあり、窓のカギを閉め切ることまでははばかられた。さらに正美は純子の通院のときはもちろんのこと、近所への買い物にもできる限り付き沿った。医師からは『急性期』から『回復期』に移行できそうな頃ではあるが、つねに誰かが見守っていることが大切だと助言されていたからだった。また純子が服用する薬の管理も正美は怠らなかった。最近では、こういった症状の人に対して良かれと思い『頑張ってね』などという言葉をかけることは返って患者を追い込むだけであることが広く知られてきた。そっとしておいてあげることが一番良いのだ。


 さて、高校受験の学力とは学校教育本来の学力ではなく、合否ラインを突破できる知識と技術である。純子の第一志望校だった「清南(しょうなん)高校」の合否ラインは高めに予想しても八〇%であり、大学受験でもそうだが競争倍率などよりもこの数字を越えることが受験勉強である。そこで純子の場合には得意な英語・国語で点数を稼がせて、理科と社会では合格集団の平均点を狙わせることにした。英語はイギリスに留学経験もあるさくらが指導したので発音問題一つとっても田舎の教師などとは比べものにはならないほどの高いレベルだったのから試験後の純子の感触では英語は満点だったそうだ。純子は自分でも短い小説を書いていたこともあり、いわゆる『行間も読める』受験生だったため入試問題の現代文を学ぶことは楽しみなくらいだったので、古文の練習問題をする少々する程度で十分であった。理科と社会については、読解力があり女子らしくこまめな努力ができる純子は教科書と参考書を傍らにおいて実戦問題を解きまくっていった。一方、元々苦手だったうえに欠席によりに遅れていた数学だが、これは学生時代から得意だった正美が引き受けて総合点の足を引っ張らないようにという方針で過去問題集から最頻出問題を使って対策をした。試験の最後に出題されがちな立体図形に『ピタゴラスの定理(三平方の定理)』を絡めてくるような難問は捨てることにしたが、その他の問題ではつまらないミスをしないように計算練習は毎日怠らなかった。もっとも純子が制限時間内で最後の問題にまでたどり着けることはなかっただろうけれど。

 そんな家族ぐるみの作戦が功を奏して純子は清南高校に見事に滑り込めたのであった。



  『第三章、 高校で暴力を受ける』


 高校入学後も純子の睡眠は不安定であり、ときおり大脳自体を締め付けるような激痛が襲ってくることがいまだによくあった。医師からは『気持ちを楽に持つように』と勧めてもらってはいるが、純子はそういうことでは治りそうもない病気だと思うようになってきていた上に、医師が処方する薬だって『気休め』にしか思えなかった。また、そういった症状の人に対して『リラックスしましょう』とか『些細なことは忘れましょう』とかいったアドバイスをしても効果などあるはずがない、とも。特に『強迫症状』を持つ患者に対して「割り切るしかないですよ」などという精神科医もいるが、それができれば薬などいらないはずだ。この『強迫症状』というのは、例えば家を出るときに、ガスの元栓は閉めたかな、裏口のカギは閉めたかな、などと『再度室内に戻って確かめろ』といった気持ちが何度も迫ってくるような症状であり、同じ行動を繰り返しさせられることになってしまう。他の例を上げると、タクシードライバーが『今、人を轢いたのではないか』などと気になってしかたなくなるような症状の出方もあるようだ。

 心身がけだるくて学校を休んだ日には、純子は終日なにもできずベッドにあおむけになってボンヤリとしているだけだった。たまたま観るつもりもなかったテレビをつけていると、その番組には渡邊という『うつ病』の男性が自分の事業を始めるための相談に来ていた。この番組はそういった新規事業家を援助するはずの番組だった。渡邊は全国展開をしているドラッグストアの役員をやっていたのだが、うつ症状を隠していたことが上司に知られて『クレーム対応係』に追いやられた挙句に長い休暇に入っていた。その渡邊が「週の内ほとんどは寝ていることが多くて、二日ほど何とか取引先と連絡を取っているような有様です」と話し始めたときだ。その日の相談を受ける立場だった織田信長のような顔つきの医師が、そういった症状についてはまったく無知であったのだろう。信長公でさえそこまで残酷ではないだろうという口調で「俺だって毎日寝ていたいよ‼」と、渡邊を馬鹿にして突き放していた。それは番組の演出だったのかもしれないのだが、純子の中には『渡邊さんは怠け者だから寝ているわけではない』と怒りが込み上げてきた。自分の経験からも『グーグーと寝ているのではなくて、起き上がる気力がないのです。むしろ、ぐっすり眠れたならばどんなに楽になれるだろうに』と、その『ドクター信長』に進言したかった。


 九月のある日、教室内でも三十六度近くに上がったほど残暑が厳しい午後だった。純子は授業中に具合が悪くなったために保健室に移動した。養護教諭の千崎から「加藤さん、ベッドで休んで回復したら冷房がよく効いている図書室で休むこともよいかもしれませんよ」と提案してくれた。千崎は近年大きな問題になっている青年期の心の疾患についても研修を受けていたので、この日の純子に対しても、周囲の生徒から遠ざけて一人にさせる方が良いと判断したのだった。次の時間も純子が一人で図書室にいたときだった。突然、体育教師の辻が入ってきた。辻は根性論・体罰主義の体育会系高校の出身だったうえに、教員になってからも指導していたバスケットボール部の生徒を殴ったことを自慢していたくらいだった。辻は「おい、お前!学校に来てまでさぼっているのか。一人だけエアコンにあたって気持ちいいだろうな」と言いながら、純子の首筋を掴んで他の教室の生徒から見えるように「お前たち、教室って暑いよな」と言いながら廊下を引き回したのだった。このときの純子は怖くて抵抗できなかったというよりも、それすらおっくうな気分だったし、正美たちにも伝えることも面倒な気分だった。 そんなわけで辻の悪行は管理職にも気づかれることはなかったようにも思えるが、暴力の噂が付きまとう教員が出世できるはずはない。 退職後の辻は再任用をされることもなく消えるように去っていったらしい。

  十数年後、純子は謝罪を求めて辻の家に電話をしたのだが、すでに七十歳近かった辻は「俺はそんなことは絶対にやっていない」と白を切るばかりだった。

 しかしながら純子が教育委員会に対して『うつ症状の生徒に対して、教員がこんな暴力を振るわないようにしてほしい』と訴えたおかげで、道全体でも『〝教員〟指導上の最重点事項』の一つとなり、管轄下の全小中学校や高校に通達され、教員の研修会の際には飲酒運転の禁止などともに周知徹底されるようになった。



『第四章 祐一との出会い』


 祐一はこの高校に入学してから初めて純子と知り合った。祐一は中学生の時に『僕が世界一安全な原子炉を作ってやる』という決意を抱き、その目標のために本人なりには深夜まで受験勉強をしていた工学部志望の生徒であった。二人とも幼いころから図画は好きだった。祐一は教育委員会主催の『図工・美術展』くらいには簡単に入選できる少年だった上に、一般の教科でもまじめに取り組むタイプだった。これは祐一の勝手な想像なのだが、純子もそんな小学校・中学校時代であったのだろうし美術だけでなく一般科目でも抜群の成績であって高校受験など人生の関門にすらならなかったのだろうと。

 実は祐一は高校入学後も中学時代の初恋相手だった麗子とのショッキングなエピソードが心の奥深くに残っていた。それは中学三年生の一月に突然開催されることになった『マラソン大会』のことからだった。これは年間行事予定にはなかった大会であったが、その年で退職となる橘田校長が、戦前の文部省からの『各学校で運動する行事を一つ持て』という方針を回顧したかのように『走るに勝る鍛錬なし』ということからだろう、いわゆる『退職前の置き土産』のために始めた行事だった。まさに受験シーズンの真っ最中での実施であり、特に三学年の担任たちは職員会議などで反対したに違いない。しかしそれまでもワンマンだった橘田校長によって押し切られてしまったようだ。このことを年内に聞かされた祐一は『逆にこれはチャンスかもしれない』と思いついた。それは祐一の高校受験に向けての成績は抜群だったので、担任からも「どこを受けても大丈夫です」というお墨付きをもらっていた上に、周囲の男子たちは練習をする余裕もなかった時期だったから、自分だけマラソンの練習をして上位に入れば麗子の気を惹くことができるのではないかと思ったのだった。目標は第三学年の男子二百五十人のうちの十番以内。それくらい頑張れば麗子に話しかけるきっかけが作れるだろうと考えた。それから毎日、放課後や夕食後、近くの小学校のグランドや夜間照明もない河川敷のサイクリングロードを一人で走った。後から思うと膝や腰などを痛めなかったことが不思議なくらいの練習量だった。後になって近所の人から聞いた話によると、祐一は昭和の時代に活躍した瀬古俊彦選手のような真剣な表情で走っていたそうだ。

 さて結果は、なんと十一位だった。『なんて僕にはスポーツ運がないんだろう』と祐一は嘆いたものの、美術部しかやってこなかった自分としては上々の順位だったわけだし、なんとか麗子に伝えようと考えた。中三のときには麗子とは違うクラスだったので、放課後の全校清掃の時間帯に階段の踊り場にあるモップなどを洗うための水道場で「僕、このあいだのマラソン大会で十一番だったんだけど」と一年ぶりに麗子に話しかけた。すると麗子からの返答は、掃除用具がぶつかる音やモップを洗う水の音にかき消されて途切れ途切れだったが、麗子は祐一をせせら笑うかのような表情で「一番だったら褒めてあげたのに」と一言だけを放った。このときの麗子の表情は祐一の脳裏に生涯にわたって焼きつくことになったのだが、中学を卒業したときにはこの麗子も同じ高校に進学していたことにすら気づかなかったくらい彼女の存在は遠くぼんやりとしていた。そんなわけで祐一は女生徒に対してはだれとどうということもないライトグレーな高校生活をはじめていたのである。

 一方、高校での授業のレベルは高くて進度も速かった。教師の中には数学の立川のように「僕は諸君がわかりにくいように教えているのだよ」などと平気で言い放ち、「梵字(ぼんじ)を勉強している」などと言う昭和の化石のような教師も残っていた。祐一はそんな教師にはかまわずに数学であれば駿台予備校のカリスマ講師の参考書で勉強を続けていたので学力の不安こそなかったが、一学期の終わりには勉強だけの高校生活では物足りなくなっていた。祐一の隣の席には、はきはきとものを言う小柄で目のぱっちりした女生徒がいて、彼女は美術部に所属していた。それが純子であり、祐一は彼女によって『この高校にも美術部があるのか』と意識するようになった。祐一は特に純子の魅力に惹かれたわけではなかったのだが、高校時代になにか集中することが欲しいと思いたち、夏休みが終わるころの火曜日の午後、新館の校舎の裏にある廃屋のような美術部の部室の軋んだ音を立てるドアをノックすることになったのである。


 進学校の美術部ではよくあることだが『豊かな創造活動を目指す』などということにはあまり重きを置かず、東京芸大や武蔵野美術大学をはじめとする美術系大学への進学強化の役割を担わざるを得なかった。この高校でも最近までは美大進学に熱心だった須田が長年美術部を手厚く指導していたが、祐一たちのころの美術教師だった浜本は放課後の部室にまで下りてくることはほとんどなかった。一昨年、そんなことに不満を抱いた生徒の一人で、今は都内で芸大浪人をしている吉岡が当時の三年生たちと美術準備室に乗り込んで「もっと部室で指導してください」とガチ談判をしたらしいが、浜本が言うには「選択科目の時間にも指導しているのだからそれで十分だ」ということだったらしい。祐一は中学時代から木炭デッサンや油彩画の経験が十分にあったおかげで、中途からの入部とはいえ高校入学時から始めた生徒たちと比べられても遜色のない腕前だったのである。そんなことから、美大志望ではない祐一にとっては、この部活動はのんびりとしたパステルイエローな時間だったのである。


 九月の学園祭の準備が始まるころ、新館四階の美術準備室から珍しく部室まで下りて来た浜本に部室の裏で喫煙していたところを見つかった部員がいたのだが、浜本からは「俺に見つかる場所では吸うなよ」の一言だったらしい。このことは純子から聞いたのだが「きっと生徒指導の先生から『野放しにしておくのもいい加減にしてください』とでも言われたのよ」と、どこ吹く風という口ぶりだった。祐一は、彼女の道具箱に大型のライターが入っていたことを気にしていた。そのライターはドラゴンのレリーフがある鈍いブロンズ色のものでガスを補填しながら使う重厚なものだった。薄暗い部室での制作中にも、祐一が隣の純子の道具箱を気にしていることを何事にも敏感な純子が気づかないはずはなかった。

「祐一君、そんなにこのライターが気になるの?」

「うん、まあね」

 純子は部室内の生徒たちが聞き耳を立てていることなどにはおかまいなく自慢げに話し始めた。

「これはね、同級生だった初男君の従姉のお土産なのよ」

「純子さんもタバコを吸うの?」

「ちがうわよ。絵の具のキャップが固くなって回せないときにキャップの下をあぶるためにもっているの。ところで、祐一君、あなたもタバコくらい吸うの?銘柄は?何ミリなの?」

 祐一が強がって「いろいろ試したけど今は八十五ミリくらいだよ」と、理系男子ぶって「ミリメートル」で返答したところまでは周りの部員たちも声を押し殺していたが、次の純子からの「あら、祐一君って超キツイの吸っているのね」には全員大爆笑だった。


  祐一は初男の従姉で鈴木という戦場カメラマンのニュースを聞いたことがあった。鈴木は地元の公立大学時代からの活動家であり、当時は反原発闘争の学生リーダーでもあった。大学中退後、大手新聞社の勤務を経て紛争地のイランに渡り、爆撃を受けた街中の風景を撮影して都内のギャラリーで発表していたことは祐一も地方紙で知っていた。祐一は『鈴木さんはきっと荒れ果てた町の露天商からこのライターを手に入れて、帰国後に初男に与えたものの、恵まれた家庭の気前の優しい初男だけあって、エキゾチックな事物には目がない純子にすぐに奪い取られてしまったのではないだろうか』と想像していた。純子は祐一に「紛争の絶えない国の空爆の下で、子どもや老人や障がいをお持ちの方々がどんなに怯えているのだろうかと、このライターを手にするたびに考えてしまうのよ」と話してくれたことがあった。そういった窮状にある人々への純子の思い入れは尋常なものではなかったのである。

 部員たちがそんな話をする場所は、カーテンで仕切られた部室内の一隅であった。ときには女子でも男子でも更衣室代わりにも使ってはいたのだが、どこから持ち込んだのかミニテーブルとソファーがあり、部員たちがとりとめもない雑談をするには格好の隠れ家のような場所だった。純子はさっきのような話のあと、その「雑談コーナー」に一人で半日以上も籠っていることがよくあった。後年のことになるが、祐一が(あるじ)をなくした浜本のアトリエを訪ねたとき、彼の妻の結乃(ゆの)の話によると『芸術家の卵の聖域』とでもいうべき美術部の部室にはなるべく出向かないようにしていたのだそうだ。このコーナーを浜本が残していたことを考えてみると、浜本の中には七〇年代に流行ったあるフォークソングの歌詞のように、恋人たちが喫茶店の奥に潜むようにして反戦活動家の曲に傾注していた場面への追憶があったのではなかろうか。また、生徒たちが芸術論議の真似事でもできるような場所があるべきだと思っていたのではなかったかと。


  この進学校では理系の定期テストはマークシート試験を意識して作られていて、解答は「ア」「イ」「ウ」「エ」からの選択問題だった。 純子の苦手な『数学』や『物理基礎』のテストのときには、左隣の祐一が自分の机の右隅に解答済の答案用紙をおいてくれていたので純子は視線を少しずらすだけですぐに写しとれたのである。試験監督が立川だったときには、入手したばかりのスマートフォンの使い方に苦戦しているのか、険しい表情で端末をいじっているだけで生徒の方はまったく見てはいなかったという『好条件』もあった。純子は祐一に頼るだけでなく、自分でもペンケースの内側に公式などを書きこんでおいていたのだが、いかんせんどの問題でどのように使うのかが理解出来ていなかった。

  どの高校でもそうだろうけれども、一〇〇点満点のうち三〇点以上を取らないと赤点となる。その後の補習や追試験などで単位が取得できればよいのだが場合によっては進級すら不可となる。理科の一科目である『生物基礎』は祐一が選択していなかったので純子は自力で切り抜けるしかなかった。あるときの試験でも四択で答える問題が二〇問あり各配点は五点、つまり六問以上を正解しないと赤点になってしまう。 純子が考えたことは「ア」「イ」「ウ」「エ」四個の選択肢が適当に正解に割り振られているとして、例えば全問「ウ」と答えておけば、二十問のうちの「四分の一」である五問が正解となり二十五点は取れるはずだ、ということを実際にやってみた。この『解き方』をすると考えることもないし、計算をすることもないのだから早々に解き終わって暇そうにしている純子の姿を試験監督だった細田先生が首をかしげながらチラ見していることくらいは純子も感じていた。純子は危機的状態になったときのほうがより強運を発揮できるタイプであったから、この『生物基礎』では、なんと七問を見事に『正解』して三十五点が取れた。しかしながらテスト後の最初の生物の授業では、いつも苦虫を噛み潰したような表情をしている森本先生が、さらに苦虫を飲み込んだような表情をして遠視用の眼鏡のフレーム越しに純子をじろりと見ながら答案を返してくださった。ちなみにこの『生物基礎』では純子はカンニングをしていない。純子に言わせれば、こんな手法で三十五点もとれるという出題方法に欠陥があるのだと、罪悪感などは皆無であった。ただ、このときは「ウ」だけを選んでいたので生物の教師に睨まれただけだったのだ。

 あらためて『期待値』を使って考えてみる。全二十問における正解の選択肢が、まったくランダムに散りばめられていた場合に、解答者側も二十問において無作為に四個の選択肢から選んだ場合には、一つの小問では「(5点)×(1/4)=1・25点」が期待できるので、全二十問では「(1・25点)×(20問)=25点」は取れるということになる。これは運が悪ければ全問不正解もあり得るという「ギャンブル解法」なのだが、受験生ならばまったく歯が立たない何個かの問題ではなんらかの記号を適当に選んでおくに違いない。ちなみに『大学入試センター』から依頼を受けているであろう『正解の選択肢隠しのプロ』の手による問題では、有名予備校の講師陣をも惑わせるような『誤選択肢』が巧妙に作られている年もあるようだ。

 一方、祐一は隣の席がだれであってもカンニングの視線を感じたときには『ハイどうぞ』と言わんばかりに記入済の解答用紙をその生徒の方にずらしてあげるという妙なボランティア精神をもっていた。選択授業で苦手だった世界史のテストのときにも、その親切をしてあげたために隣の席の生徒だけが単位を落としてしまい、授業担当者に泣きついていた光景もあった。きっとその生徒は平常点のほうも芳しくなかったに違いない。


『第五章 純子の制作のベクトル』


 HKテレビ主催の『全道教育美術展』は美大進学希望の生徒たちにとって、秋の大目標であった。この展覧会への応募は学校ごとにまとめて出品されて『道立中央美術館』ですべての作品が展示される。この公募展へは希望すれば誰でも出品できるのではなくて、各学年につき校長推薦をもらえた五名までが出品を許される。もっとも、こういった選考は校長が行うのではなく美術教師単独か、せいぜい学年主任が立ち会う程度の『校内選考』であったろう。しかしながら美大進学志望者にとっては学校長の推薦をもらうこと自体が第一関門であり、その後の本展で、『文部科学大臣賞』『教育長賞』『HKテレビ会長賞』などのビックタイトルに選ばれることは美大進学にむけて大きな自信を持てることになるのだった。いわば『美大への登竜門』だと言っても過言ではなかった。そんなわけで生来のんびり屋でお絵かきの延長のように入部した祐一などとは違って三年生の玉川や橋本たちの制作中の後ろ姿は殺気立っていた。彼らは市内の『菊又美術研究所』に毎週通い、夏休みなどには都内の「美大予備校」でデッサンや油彩画の実力に磨きをかけていた。

 しかしながら純子にとってみれば、こんな画塾で学ぶことは所詮『美大入試』を乗り越えるだけの訓練にしか過ぎなかった。例えば木炭デッサンでは明暗の『グラデーション』や『立体感の表現』を学び、油彩画では構図の取り方や『バルール(色価)』といった基本中の基本を習得することだけであって、独自の『創作活動』まではできないものだと純子は思っていた。純子は、多くの画学生のような既成路線に乗っていくだけのようなことを嫌うタイプであり、修練の仕方からしても純子らしい芸術のベクトルを持っていた。

 そんな純子が個人的な指導を受けるために選んだ場所は、地方では小規模な美術団体の役員であったが中央画壇では一会員程度だった千原という画家のアトリエだった。千原はまだ三十代前半ではあったが道内の高校の美術教師だったころに、高校美術教育界を牛耳る須田たちの派閥に嫌気がさして『自己都合』という名目で退職をしていたのであった。千原家の収入は妻の妃奈(ひな)が美容師の資格を持っていてパートタイム的にでもあっても勤めていたことと、千原自身も『四季彩会(しきさいかい)』という大人向けの絵画教室を指導していたので妻と二人で娘一人を養うくらいの収入はあったのである。千原には写実的な力量も十二分にあったうえに、近年では前衛芸術も取り込んで『心象風景』を創り上げようとしていた。また道内では千原の絵のファンも多く、毎年の個展では数枚も売れていた。一方、須田派たちは教員集団であっただけでなく、作家集団としても道内の美術界では政治的な力を持っていために、中央美術館が毎年シリーズとして開催していた『ふるさと作家展』では千原のことはなかなか取り上げてもらえなかった。そんなわけで道内では千原の味方は少なかったが、逆に純子は千原の一匹狼のような生き方にも憧れていたのだった。純子は千原の空いている時に自作への評価をしてもらえただけでなく、いろいろな話を聞かせてもらっていた。

  千原は純子の作家志望を受け入れていて、例えば『自分なりの構図法を一つでも持ちなさい」、「多くの種類のグレーを持っていることは画家の条件だ」、「デッサンの勉強にやり過ぎはないよ」といったように学校の授業を越えた指導を受けていた。

 他にも「青と黄色を混ぜると緑になるってことは小学生でも知っているよね。ところで、セルリアンブルーとレモンイエローを混ぜたときには若々しい緑ができるけれど、同じ青と黄色でもウルトラマリンブルーとカドミウムイエローを混ぜたときには鈍い緑になることは知っているかな?」などといった専門的な知識も与えてくれた。

 純子は「その緑色の話って、もっと聞かせてくださいよ」と興味深く尋ねた。

「色の三原色って、習ったでしょ。赤、青、黄色、そしてこの三色を混ぜるとどうなる」

「黒かな?」

「そうだね、でもそれは、あくまで理論上の混色の結果でしょ。じゃあ例えばいくつものチューブの色を混ぜたときにどんな色になった?」

「あっ、変な灰色になっちゃいましたね」

「そうだよね。黒にはならないけれど、彩度も明度も落ちて黒に近くなったってことだ。それが『実際の顔料』による多色混合の結果でしょ」

 千原は続けて「さっきのセルリアンブルーは理論上の色ではなくて実際の顔料による青色であって、この青色の中には黄色を見せる成分が入っている。一方のレモンイエローには黄色のほかに青を見せる成分が入っているから、この二色では、青と黄色の混合にしかならないので、鮮やかな黄緑になる」

「へぇ~、わたしの絵の具箱のセルリアンブルーでもいいんですか。『HUE』って、書いてあるけど」

「あっ、その絵の具はね。純色の材料はとても高いことから、いくつかの色を混ぜて作ったイミテーションの色を『HUE色(ヒューしょく)』って呼ぶんだよ。つまり、そのチューブの中身自体がすでに多色混合になっているから他の色との混ぜたときには感覚が全く違ってくるんだ。わたしは純色しか使わないけれどHUE色だけで広い面積を塗りたいときには安上がりでいいかもしれないね」

「そうなんですね。じゃあ、もう一つの鈍い緑は?」

「うん、同じことなんだけど、ウルトラマリンブルーには青のほかに赤が内在していて、カドミウムイエローには黄色のほかに赤が内在しているから・・・」

「あっ青と黄色と赤の三色混色になっちゃうんですね」

「そうだよ。さすがは純子さま」

「えへっ、でも中学校の先生が教えてくれたのは、色の三原色と減法混色のことだけでしたよ」

「そりゃ、先生たちも知っているだろうけど、週にたった二時間の授業でそこまで講義をしている余裕はないだろうし、生徒たちの中には美術を嫌いになっちゃう人もいるんじゃないかな」


 ある日、純子から「先生、自分の作風って、どうすれば完成できるんですか」と壮大な質問を投げかけたときだ。

「もう昔の歌だし、その歌い手も他界しちゃったけれど『もしもピアノが弾けたなら』という曲を知っている? 相手に伝えたいことはあるんだけど、その手段を持っていないということを歌っているんだよ。逆にもし、今の純子さんに東京藝大にトップで入れるようなデッサン力や、古今東西の芸術の歴史の知識、絵画の材料や技法などについての知識などの全てがあったとしましょう。そこで『では、あなたは何を表現したいのですか』と聞かれたら、どうします?」

「はっ、 あぁ?」

「確かに若いころは自分の感性だけで作品を作れることもあるようだよ。もしかしたらそれを才能と呼ぶのかもしれない。それも素晴らしいことだろうけれど、ある程度の芸術体験とか人生経験がないといくら技術や知識があったとしても自分らしい作品は創造できないように思うんだ」

「なんとなくわかります」

「私が高校美術界の派閥を嫌って退職したことは知っているよね。そしてその時『あぁ、自分はこういう生き方が好きなんだ』と気づいたことも自分を知る機会だったし、今のサークルを立ち上げる途中ではいろいろな勉強もしたし、いろいろな立場の人とお話や相談をしましたよ。 学生時代からの芸術の勉強に加えていろいろな人生経験も通じて感じたり判断したりしてきたことがまるで通奏低音のよう私の創作活動を支えてくれているように思えるんだ」

「通奏低音ですかぁ」

  そこへ妃奈が紅茶を持ってきてくれた。

 千原のほうから「実は妻も雇われスタイリストとして順調に見えるかもしれないけど、以前は自分でも美容院を持っていたこともあったんだ」

 妃奈が続けて「そうなのよ。不動産屋さんが勧めるままに居抜きのテナントをローン契約して店舗をオープンさせたんですけど、順調だったのは『オープンキャンペーン』のあった半年くらいの間だけでお客さんが定着してくれなかったの。もともと近くにはライバル店や最近出てきた一〇〇〇円カットの店も多かったわね。私の店の狭かった駐車場は、交通量の多い生活道路に面していて出入りが不便だったことも好かれなかった原因だったようなの」


 千原が「人生って真面目に生きようとしても大変なものだよ。『人生、三つの坂あり、上り坂、下り坂、まさか』っていうでしょう。純子さんも中学時代から病気になったりいろいろな苦労をしたりしたようだけど、いつかそれらの経験が純子さん自身も、純子さんの作風も強く大きく成長させてくれるはずだと一緒に信じよう!」

「じゃあ、自分の作風は慌てなくてもいいですよね」

「そうだよ。今の純子さんは絵で生計を立てているわけでもないでしょ」

 妃奈も「人生これからなんだからね」と励ましてくれた。

 千原が「ラテン語だけど『Festina lente ! (フェスティナ・レンテ)』っていう諺を知っている?『ゆっくり急げ!』って意味だよ」

「千原先生ってラテン語もできるんですか?」

「いや、これは予備校生のときに、講師の先生からサインしてもらった言葉で、その先生の参考書にも書いてあった言葉なんだ。その出版社の編集者は『急がば回れ』と同じ意味だと勘違いしていたけれど、意味は少し違うんだよ」

「どういうことですか」

「『急がば回れ』はね、『もののふの矢橋(やばせ)の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋』が元の歌で、東国の武士が京都に進軍するときには矢橋から渡し船に乗って琵琶湖をショートカットするように渡ったほうが早いのだけれども、比叡山からの強風に見舞われる恐れがあるから琵琶湖の南端の橋を目指したほうが時間はかかるが安全で行程の計算もできる、って意味」。

「へぇ、じゃあラテン語のほうは?」

「そうだね、私が訳すとしたら『確実な歩みこそ最も進歩は速い』かな」



  『第六章 大地震発生』


 三学期の期末テストが終わった金曜日の放課後のことである。部室の生徒たちも制作をお休みにしてリラックスしていた時間帯だった。その時、大きな揺れが部室を襲った。それぞれの携帯端末には緊急警報が鳴り響いた。『これは尋常な地震ではない』と誰もが感じた。東北地方の東海岸で大地震が起きたのだった。こちらでさえこの揺れだ、震源に近い街はどれほどだったのかと想像すらできなかった。校内に残っていた生徒たちは集会用のホールに集められた。その日は午後の授業はなかったので集まった生徒は五〇名ほどだった。天上から吊り下げられた大型テレビには上空からの被災地の映像が映し出された。 

 教師たちもホールに集まってきたころ、塚越教頭から「みなさん落ちつきましょう。教員たちが校内をパトロールしていますがここに来ていない生徒がいたら教えてください。今のところ破損個所は見られませんし水道も使えます。給湯室のボイラーも緊急停止しておりますし火災の心配もありません。防災センターからの情報によります地下鉄も速度を落として運行しているようです。幹線道路では樹木などの倒壊や大きな路面損傷などはないようです。ただし地盤が柔らかい地域は危険なようですから今後の情報に注意してください。みなさんはご自宅と連絡を取れますか?取れない方は各担任が連絡を取りますので前の方に移動してください。帰宅の際はできるだけ同じ地域の人と複数で帰ってください。帰るときにはホールの出口の名簿に氏名を書いていってください」といった説明や指示があった。

 すると練習中のグランドから来た野球部の主将の(たかし)が立ち上がって、

「教頭先生、僕たち野球部は練習が遅くなったときのために五つの帰宅グループがあります。今日もそのグループで帰っていいですか。よければ他の人も一緒に入ってください」と提案した。

 教頭が土屋校長の方に顔を向けると、校長の唇は『さすが庄志監督』と動いたようであり、土屋は隣の生徒指導主事に確認をしてから塚越教頭に指示を伝えた。

「それは頼もしいね。では各班に一人ずつ教員を配置しますが大木先生はお年寄りなので君たちが守ってあげてくださいね」

 それを聞いたキャプテンが「ご安心ください。ちょうどいい筋トレ代わりにおんぶしていきますよ」と力強く言うと、このやり取りにはホール全体からの大爆笑が起きた。当の大木先生はパイプ椅子に座ったまま白い無精ひげをヒクヒクさせているばかりであった。このときの大木先生は「俺の(うち)まで頼むぞ」と呟いていたそうだ。

 塚越教頭は庄志監督が指導する野球部では陰湿な上下関係などはなく、むしろ温かい結束があることを知っていたこともあり、こんなときこそ機転を利かせたユーモアで生徒たちの心を掌握できたのだろう。

 翌日からは大震災によって多数の死者や行方不明者が出たことが報道され、数日後にはその全容が分かるようになった。原子力発電所は大きな被害を受け、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展したことから、祐一は目に見えない放射能の恐ろしさをあらためて痛感し、今まで抱いていた原子力技術者への進路希望を考え直さざるを得なくなった。もっとも祐一のクラス担任にしてみれば祐一が『原子力工学科』のような難関学部で落とされてくるよりは、教員採用試験にでも『つぶしがきく』ごく普通の理学部でも目指してもらうことで、この高校からの現役進学者数を一人でも増やしたかったようだ。一方純子はその性格からも何とか援助したいと痛感し周囲の女生徒に相談を始めていた。不思議なことに自ら興味を持って活動することについてはそれを引き留めるような精神的な症状は表れなかった。 

 被災地からはこんな悲しいニュースもあった。まもなくその地域に大津波が予想されるという頃、海岸沿いの小さな町役場の職員だった真澄は、漁村の中をスピーカーを載せた軽ワゴン車を走らせて避難を呼びかけていた。真澄は高卒でこの町役場の職員となり、よく声が通ることから『防災危機管理課』に配属されていて、主な業務は『迷子老人捜索へのご協力』の町内放送だったが、小さい町でもあり半日もかからずに無事保護されていたものだった。真澄が地元のソフトボール部で活躍していたことから町民からも人気があり、真澄の放送が流れると狭い段々畑で働く人たちも「おっ、真澄ちゃんだな」とよく聴いてくれていたそうだ。真澄の高校時代の進路希望は医療系大学に進み『看護師』になることだったのだが、早めに家計を助けたいということから町役場の職員を選んでいた。

 その日の巡回コースの最後には、町の中心からは離れていて海岸に面している成田地区が残っていた。この地域からは登る傾斜はキツイにしてもすぐ裏の龍神山の中腹に階段で避難できることを真澄は知っていた。

 真澄が「大津波が襲来します。龍神山方面に避難してください」、「海岸には絶対に近づかないでください」と繰り返して放送をしていた時だ。

 役場の指令室から「真澄さん引き返しなさい! もうすぐ津波が来るぞ!」と切迫した連絡がきた。

「まだ成田地区を残しています」

「そっちはもうかまうな。テレビでもラジオでも避難指示が出ているんだから大丈夫だ」

「いえ、お年寄りたちが避難行動を開始しているかが心配なんです」

「君が津波にのまれるぞ!」

「私はこの町の職員です。すべての住民の避難を確認するまでは帰れません」

 その後真澄からの声は戻らず、返信があったとしても受け取れる職員は皆無であった。


  三年生が始まる春休みになった。町役場の職員のニュースを聞いて以来、純子は部室の奥にこもり、ほぼ同世代の若い女性が自らの危険を返りみずして地域の人のために任務を全うしようとしたことに言葉に表せないほど胸を打たれていた。純子は真澄の意思を胸に秘め『自分も何かをやらなくてはいけないのだ』という固い決意をした。さらに同じ日本でありながらこんな被災地がある一方で『私たちは絵なんか描いていていいんだろうか』と自分自身に問いかけていた。町民のために最後まで生き抜いた職員のことを思えば思うほど、簡単に死ぬことを考えていた自分が情けなくなった。しかしながらあのときの自分は周囲のことなど考えられない症状だったのだと改めて振り返っていた。

 千原のアトリエで純子は尋ねた。

「先生、芸術家って自分の衝動を絵にしなくちゃいけないんですよね」

「うん、そういう衝動を素直に描いていけばいいんじゃないの。せっかく感じたことを作品にしないなんて、その人の感性は衰えていくのみだと私は思っている」

「ところで先生はあまり写実的には描きませんよね」 

「そうだね。例えば・・・」と言って、千原は本棚から一冊の本を取り出した。

「アメリカ軍が本格的にヴェトナム戦争に介入したころだよ。現地で取材した岡村昭彦さんのことを暮尾淳さんが書いた本なんだ」と、ページをめくり「ほら、見てごらん。岡村さんが撮ったこの拷問の写真を『LIFE誌』が取り上げたことで、軍隊の蛮行をアメリカ全土に伝えることができたんだ」

「坦坦とした日常業務のように拷問が行われているなんて」

「戦場ではこれがあたりまえの風景だったんだろうね」

「こんな恐ろしい場面は私には描けませんよ」

「そうだよね。こういった生々しい真実を言葉の壁を乗り越えて伝えることはフォトジャーナリストたちの仕事だろうけれど、絵画表現となるとそういった悲惨さや悲しみをオブラートに包むように芸術に昇華させることの方が多くの人々に共感されると思うんだ」

「そうなんですね」

「そうそう、でも写実的な描写力が高すぎるだけの絵描きの中には、美大卒業後にも写実の方向でしか描けない人もいるようだよ。ピカソも抜群の描写力を持っていたけれど、まるでそれを捨てるかのように『子どものように描きたい』と願ったからこそ、『ゲルニカ』という反戦を主張する傑作を作れたんじゃないの」

「あっ、その岡村さんって戦後に医師法違反で逮捕された人ですか」

  「そうだったね。でも彼はすでに罪を償っているんだし、誰だって失敗のあとの生き方のほうが重要じゃないのかい。岡村さんこそ命がけで戦争の現実を伝えてきたことでいまやとても高く評価されているだけでなくファンも多いそうだよ」

「私の同級生の従姉で鈴木さんという人もシリアの内戦を取材中に銃撃にあったんです。ご遺体が成田空港に届けられたニュースを見たこともありました」

「そんなこともあったよね。きっと戦場の真実を世界に伝えなきゃいけないっていう強い信念があったんだろうな」

「ところで私もそんな強い気持ちで震災の様子を描けるかしら」

「実は私も絵筆を持つものとして、あのときのことを残さねばならないと思って下絵くらいは何枚も描いているんだけど・・・」と、ため息混じりにアトリエの隅に立てかけてある数枚の中型のキャンバスを見つめた。

 千原は続けて「私には津波の光景や恐ろしさが実感できない上に、その光景を描けたとしても被害に遭われた方々に辛い記憶を蘇らせるだけだろうからどんな表現がいいかと試行錯誤するばかりだよ」

「私! 被災地に写生に行きたいです」

「う~ん、危険を伴うこともあるだろうから積極的には勧められないな」

「だったら先生が連れて行ってください!」

「もう、純子さんってどうしていきなりそうなるの。一介の女子高校生と花の万年青年が一緒に遠出なんか出来るわけがないでしょうに。今じゃ男性側も世間から疑われないようにしないとね。『瓜田に(くつ)を納れず(いれず)、李下に冠を正さず』っていう故事を知っているよね」

「どういう意味ですか」

「これはね、(うり)の畑に入ったりすると靴の紐がほどけたときに屈んでしまうから瓜を盗んでいるような疑いを掛けられる。同じように(すもも)の木の下で帽子を直すと李を盗んでいるように思われる。つまり疑われるようなことはやってはいけないという教えですよ」

「写生なんだからそれほどのこともないと思いますけど」

「あのね、今ではこの後に『女子高生と席を同じゅうせず』って続くんだよ」

「それじゃあ、私のようにとっても可愛いLJKを一人で震災地に行かせるんですか?」

「まったくもうキミは弁が立つよ」

「ところで、LJKのLってなに」

「高校三年生だから『ラストJK』のことですよ」

「へぇ~」

「じゃあ、先生と私と祐一ってどうかしら」

「なんで今度は祐一君が出てくるの?」

「先生が私に妙なことをしないように祐一に見張らせるの」

「ちょっとさあ、いきなり私を不審人物にするなよな。だったらキミと祐一君で行けばいいじゃないか」

「えっ、そんなことしたら今度は祐一と私の間を疑われるでしょ」

「ならもう、ご家族とか女友達とかとしかないでしょうに」

  しばらくして純子は「あ、今の私って、(そう)の状態だったかもしれません」と気が付いたことを口にした。

「う~ん、女性の体調のことを話すとセクハラになりやすいから私は言わないけれど、純子さんの猪突猛進型の性格からじゃないの?」

「えっ、そっちの方がハラスメントっぽいですけどね」

「そりゃ失礼した。最近はハラハラすることばかりだよな」


 その後、純子は部室に戻りカーテンの奥の部屋に久しぶりに来ていた陸上部の真貴子といつもの祐一に、千原との話を紹介した。

 真貴子が「いいんじゃないの~。お二人っていい仲に見えるし」

 純子「誤解しないでよ。祐一は数学と物理のテストのときの私の補助員でしかないの」

 祐一「僕はもてるタイプじゃないけれど相手は選びたいよ」

 真貴子「被災地に乗り込んで取材したいなんて、純子ってホントに直情直行型の性格よね」

 純子「それで何がいけないの。なんだか私、今までのうつ症状が晴れていくような気分なの」

 祐一「自分の性格を変えるっていうことは、純子さんが数学で満点を取るよりも大事業だなあ」

 純子「あら失礼ね」

 真貴子「純子の直情直行型は直せないけれど、それを実現させるプランを作ればいいのよ」

 祐一「そりゃそうだけど」

 そんなとき真貴子と同じように春から秋までは陸上部で走っているけれど暇なときには美術部に遊びに来ている直美が入ってきた。カーテンの外で話を聞いていた直美が言うには、

「だったら学生ボランティアとして現地に入って自分の目で見たり、休憩時間に簡単なスケッチしたりするっていいかもよ」

「学生ボランティア?」

「そうよ。『たんぽぽSVセンター』って知っているかしら? Sは『student』、 Vは『volunteer』、 ネットで検索してね」

 祐一「でも、自分だけ絵を描いていることなんかできるの?」

 直美「だからぁ、休憩時間とか、昼間の光景を覚えておいて夜の宿泊所でメモ的に描くしかないわよ。被災地に入れないよりはいいでしょ」

 純子「そんな手があったのね」

 直美「不規則正しい生活の芸術家様たちには無縁でしょうけれど、運動部みたいに早起きして活動したっていいんじゃないの。もちろん救援活動こそ最優先だしSVセンターからの注意のように被災者さんたちへの言葉かけだって気安く『頑張ってください』なんて言えないみたいよ。それに自分がケガをしたり病気になったりすれば本末転倒だから雪山登山に行くくらいの自己責任で出発してね」

 純子が「大丈夫よ、私、去年死に損なっているから」と何気なく言ったときだ。

 真貴子が声を張り上げて「ジュンコォ!その言い方って被災地ではぜえっ~たいにヤバいよ」

 純子はハッとした。激しい後悔の念が沸き起こり顔色も一瞬で変わった。つい先日真澄さんのニュースを聞いたばかりだったのに。

 直美は「純子ちゃんも反省することがあるんだね」

 しかしながら純子の症状をよくわかっている祐一は「被災地では問題になるくらい失礼な言い方だろうけれど、あのスキー教室のときのように大騒ぎしたことを今では客観的に笑い飛ばせるって、純子さんの心の病気はわりと回復したんじゃない」

 真貴子が「そういえばそうよねぇ。それよりもまたボランティアで学校を休んでも大丈夫?」

 これには直美が「何言っているのよ。純子ちゃんなんか欠席慣れしているでしょ」

 祐一「あああ、真実っていうのは言わないほうがよりよい人間関係を保てるかも」

 直美は笑いながら「ごめんなさいね、冗談よ。土日を絡めて他の日は『ボランティア休み』を申請すればいいと思うわ」

 普段はおとなしくて目立たないものの、実は沈着冷静で物知りな直美に三人は改めて感心した。

  純子が『たんぽぽSVセンター』に問い合わせてみると『学生ボランティアの受付は一般のボランティアによる救援活動が落ち着いたころから開始します』ということだそうで、まだ学生ボランティアを募集する目途は立っていなかった。もっともSVセンターが学生に期待していたことは被災地の様子やボランティア活動の大切さを母校や周囲の人々に伝えて欲しいということだったのだから。


 そんなことからまず募金活動をしようということになった。

 純子が「生徒総会で全校に呼び掛けましょう」と切り出した。

 祐一「それはいい。ただクラス単位での提案でないと議題に乗せてもらえないよ」

 純子「私のクラスからでいいでしょ」

 真貴子「ダメよ。今年の純子のクラスにはあの麗子がいるじゃない。きっと細案を提出しろとか、募金先の確かなことを示せとか、いろいろとうるさいことを言ってくるはず。麗子って人を不幸にする偏差値だけは七十越えなのよ。祐一君だって辛い目にあったんでしょ」

 純子「じゃ、どうすればいいの」

 真貴子「大丈夫よ。わたしと直美のクラスから提案すればいいだけよ。クラス委員長の小川君とは私と気が合うから話しやすいし、生徒会議長の玉木君は直美に興味があるようだから平安風美少女から玉木に『お願いっ」って頼んだら、麗子が出しそうな反対意見もうまくあしらってくれるんじゃないかしら。だからすぐに議事案を作ってね」

 祐一「あれ、玉木君って麗子と付き合っていたんじゃないの」

 真貴子「今は終わっているわ。玉木君なんかさ、麗子から『私よりも偏差値が低い男は不要』とか言われちゃったことをかなり根に持っているようだから好都合だわ」

 祐一「なるほどね。募金活動の提案まではうまくいきそうだ」

「そうそう『男子とハサミは使いよう』なのよねぇ」と直美が話を締めた。

 このとき純子と祐一は『美術部よりも陸上部のほうが頭はいいのかもしれない』と信じざるをえなかった。


  実は真貴子と直美にはこんなエピソードがあった。

 二人は中学時代には別々の陸上競技部で短距離走・中距離走のライバル関係にあったが、全国大会などではリレーのメンバーとして同じチームメイトだった。そして今は同じ高校のなかでのライバル同士である。直美が今も悔しがっているレースは中学三年生最後の『八〇〇m決勝レース』だ。

 直美が終盤までレースを引っ張っていたのだが最終コーナーに入り直美が1コースの中でもやや2コースよりに一瞬だけ膨らんだときだった。それまで直美にぴたりと追従してきていた真貴子が直美の左内側から飛び跳ねるように軽々と抜き去っていったのだった。もし真貴子が直美の右から抜こうとしたら、当然警戒していた直美は肘を右に振ってそれを妨害しただろう。『陸上界の格闘技』とも言われる『八〇〇ⅿ競争』での真貴子の『イン抜き』は、いまや中学陸上界では伝説のレースになっている。

  このように最後までライバル選手に追従する走法といえば、 かつて早大・SB食品で大活躍をした瀬古利彦選手が有名だ。『福岡国際マラソン』などで恩師・中村清監督から授けられた作戦により、ゴールのある陸上競技場のトラックまでは一流企業の兄弟選手や黒人選手にひたすら追従して走り、最後のコーナーから天性のスパート能力によって初めて先頭に飛び出してゴールするというシーンは競技場内やTVの前の日本人にとって『水戸黄門』のラストシーンのように痛快であり大いに沸き立ったものだった。しかしそんな手法で抜かれた選手のほうはたまったものではないのである。つまり直美のなかでは中学時代のあの忌々しい悔しさはいまだに拭い去れないでいた。

 

  さて、生徒総会当日での『震災への募金(案)』は、一つも反対意見などは出されずに可決された。もっとも生徒会の予算を使う活動でもなかったし、『被災者の救援』といういわば『錦の御旗』を掲げていたような提案だったのだから。その決定を受けて美術部ではすぐに『募金箱作り』にとりかかった。そういった工作となると、小学生の頃からプロフェッショナルだったような美術部員たちであるからユニークな募金箱が次々と出来上がった。中にはデザインに凝り過ぎて『コインを取り出す穴』を開け忘れた『募金箱』もできてしまった。岡本太郎風に言えば『募金を引き渡さない募金箱』であろうか。

 いよいよ 実際の募金活動が始まった。校内での活動場所は、昼は食堂の前、下校時は生徒玄関だった。活動開始から三日ほど経った昼休みのことである。渡り廊下の方から「大変だ、大変だ」という声が響いてきた。そちらを見ると真貴子と直美が渡り廊下の方から直角に曲がって本館の廊下に入り、純子たちがいる食堂に向かう直線コースの『廊下を走るな』という掲示の前を全力疾走してきた。直美がその直線コースのセンターライン上に位置を取り、真貴子はその左側を並走していたときだ。突然、直美が左にじわっと幅寄せをすると真貴子の前には花瓶が乗った学習机が迫ってきた。真貴子はやむを得ず一瞬スピードを緩めて直美の後ろにつかざるを得なかった。

 直美が先に着いて「勝った!」と叫ぶと、

「この、卑きょう者!」

「作戦勝ちよ。真貴子は足で走るけど私は頭で走るの」

 隣にいたブラバンの磨美が、

「直美ちゃんって中学時代のリベンジをしたのね」

 こんな風に、走ることについては今もライバル同士の二人だった。

  そこにいた陸上部で砲丸投げの『希美(のぞみ)』が「『廊下を走るな』って貼ってあったでしょ」と軽くたしなめたのだが、直美からは「学校の規則っていうのはね、普通の法律と違ってどれだけ破ればどれほど怒られるかってことまでは細かくは決められていないから一度は誰かが破ってみるべきなのよ」と返ってきた。

 祐一「妙な理屈だよなぁ、で、なにが大変なの」

 直美「あっ、そうだった。実は嫌らしいうわさが広まっているのよ」

 真貴子「どこからかわからないけれど、この募金活動は自分たちの推薦入試の好材料にするつもりだとか、募金は美術部の絵の具代になるとかっていううわさなの」

 純子「きっと出所は麗子よ。どうして私がやることって光が差さないのかしら」

 希美「何言っているの。純子には『ひかり』は差さなくても『のぞみ』がいるじゃない」

 みんなからも「のぞみはある!」と『こだま』のように返ってきたが道内ではシャレにも車両にもならない。

 そのとき直美が「う~んとね。森田健作さん流に『出る杭は打たれるけれど出過ぎた杭は打たれない』で、行きましょう」と、不思議なことを言いだすと、「何のこと?」と純子が聞き返した。それに直美が答えて「募金活動を広めて、広めて、広めて、広めて、広めていくのよ。まず校長先生に話して権威付けをしてから職員会議に出してもらって学校全体の活動にしちゃうことが重要ね。それから職員室にも募金箱を置いてもらって、学校の周囲にもお願いするのよ。コンビニとか、自分たちの塾とか、スポーツ用品店とか、画材店、楽器店、ファミレス、カラオケハウスとかよ」

 純子「私が募金の代表として校長先生に掛け合うわ」

 真貴子「それはちょっとヤバいんじゃないの」

「なんで?」

「純ちゃんは、昔からいろいろあったでしょ。校長先生もなにかと心配しているんじゃないかしら」

 直美「こういう事務的で形式的なことは、やっぱり祐一君が適任よ」

 純子「じゃあ、職員室は」

 真貴子「直美と希美だね」

 祐一「なぜこの二人」

「お嬢さま系女子やぽっちゃり系女子は、ホントにもう、おやじ受けするのよ」

 それを聞いた祐一は言いたいこともあったが『触らぬ女神(めがみ)にたたりなし』とつぶやいた。

 その日のうちに祐一は校長室を訪ねた。土屋校長は「おぅキミか。よくやってくれているね。ホントはここの教職員もなんらかのアクションを起こさなくてはいけないと思っていたんだよ。まあ、ここだけの話だが校長から新しい提案などをすると『上司からの強制だ』などと言って突っかかってくる活動家の教員もいるんでねぇ、わたしは控えているしかなかったんですよ。でも今は生徒からの依頼があったわけだから私も動けますよ。この学校には「安道会(あんどかい)」という教師たちの親睦会があってね、私が形式的な名誉会長だから『安道会』の幹事に頼んでおきますよ」

 祐一「校長先生ありがとうございます。あと、ちょっと相談してもいいですか」

 土屋「もちろんいいよ。ちょうど暇なんだ」

 祐一「実はぼくたちの活動のことを自分の推薦入学のためだろうとか、美術部の予算にするんだろうとかいうウワサを立てられているんです」

 土屋「まあまあ、君たちの俗語だったら『あるある』ってことだな。人が何かの活動をしようすると必ずって言っていいほどだれかが批判してくるものでしょ。しかも自分とは無関係なことなのに。逆にその人たちはどんな活動をしているのかなと、疑問に思うことがあるでしょ」

 祐一「そう言われればそうですね」

 土屋「次が肝心なのだけどね。人からの批判はそれを言ったその人のものであって、自分のものじゃないんだよ。 もう一つ、君にプレゼントしたい言葉なんだけども誤解しやすい諺として『情けは人の為ならず』って聞いたことはあるよね。これは人のためにやっていたことが回り回って自分を助けてくれることになりますよ、という意味が正しい」

「『情けは人の為ならず』ってそういう意味だったんですね」

「君たちはこういった活動を通して教室ではできない勉強をぜひやってください。明日の職員朝礼で全職員に募金のことは伝えておくから祐一君たちもがんばって!」

 直美と希美は職員室の塚越教頭を訪ねた。

「おお、おふたりさん。生徒総会のことは聞いていますよ」

 直美「先生、職員室のなかで募金活動をしてもいいですか」

 教頭「うん、そういう活動は素晴らしいのですよ。ただ、先生たちの机の上はみなさんの個人情報ばかりなんでね、この中を回られると困るんだけどわたし机の横に募金箱を置いたらどうですか。わたしが離席するときには事務室の金庫に入れておくし、毎日下校時刻になったらキミたちが受け取りに来てよ。あと、明後日は給料日だから先生たちの財布の紐も緩むはずだと期待しましょう。わたしも一枚だけど」とすぐに募金をしてくれた。

 真貴子はクラスメートの磨美と学校周辺のショップや学習塾を回って募金活動をした。

 最初に入ったコンビニ店の中込店長からは「募金だって、 そういった依頼を一回でも許すと他からも来て困るからダメだよ」と冷たく断られてしまった。しかしながら磨美が通っている『蒼天塾』の滑川(なめかわ)塾長からは「磨美さんたち頑張っていますね。私もなにかしたかったんですが、こういった募金活動ですら詐欺のような団体があるらしくてね。でも清南高校さんだったら安心だ」

「塾長先生ありがとうございます」

「いやいや、いつも高いお月謝をいただいているからね」

 真貴子と磨美はこういった活動への反応っていろいろと違うんだなと思った。 その一週間後、この塾は外部からの初めてとなる募金額を磨美にゆだねてくれた。滑川塾長はその日のうちに家庭への『メールだより』を使って保護者にも呼びかけてくれていたのだった。


 募金活動は2週間目に入ったが食堂の前に純子の姿はなかった。その日の純子には朝から大脳を締め付けるようなあの痛みが襲ってきていたのだった。そのことを知っている麗子たちが食堂前に現れた。麗子は食券を買う生徒たちの雑踏の中であっても周囲に聞こえるような大きな声で「あら、純子さんって自分は学校を休んでもお金を集めさせているね」と連れてきていた真由美に話しかけた。真由美も嫌らしい笑い顔を見せながら「純子って、今日の全校清掃作業をサボりたかったんでしょ。あんな子でも水汲みくらいはさせられたのに」と、これも周囲に聞こえるようにつぶやいた。これには祐一や真貴子たちはムッとしたが、彼らは土屋校長から『周囲からの悪口は相手にするな。言い返したほうが悪い印象を持たれてしまうぞ』とすでに諭されていた。

 するとその日から参加していた野球部の優虎(ゆうこ)が大きな声で「みなさ~~ん、募金に協力を頂いている『蒼天塾』からのプチPRをさせていただきます。この塾からはすでに一万円近いご寄付を頂いています。蒼天塾ではただ今『新規生徒募集キャンペーン』実施中です。他の塾から乗り換える場合にはなんと入学料は免除、もし今の塾との間に違約金が発生すれば蒼天塾が負担します。その上、通常コースの受講生であれば都内の駒場ブースにいる現役東大生から小さな塾ではなかなか対応できない『理系数学』や『基礎ではない理科』や『地歴公民』などの学習相談をなんと六〇分二七五〇円で受けられます。詳しくは『塾選びネット』をご覧ください。なお、これは募金をもらっている関係でギブアンドテイクの宣伝でした。お許しくださ~~い」

 真貴子「ちょっとさ、塾の宣伝は校内ではグレーだったかも」

 しかし直美は「さすがは優虎君ね」

 直美は続けて「真貴子さあ、麗子の家が家族経営の塾だって知っていた?」

 真貴子「?」

 直美「麗子の家はね。昔はからお父さんとお母さんがやっていた小学生・中学生対象の『はつらつ塾』っていう塾だったのよ。今はお年寄りのお母さんが一人でやっているけれど、最近の塾のようなシステムは導入できない上に大学入試にはまったく対応できていないのよ」

 祐一「多分、麗子さんのお母さんからだろうけど先月の新聞に匿名の投書があったよ。『当時の子どもさんたちが立派に成人してくれて、今ではいろいろな場所で活躍していると思うとうれしい限りです。最近は娘にも手伝ってもらっています』ということだったけど絶対に麗子さんの塾だよ」

 真貴子「なるほどね。でっ、自分の娘の教育だけは失敗したってことだわ」

 祐一「優虎君は、関西から始まっていまや全国制覇できるくらいの規模になった『蒼天塾チェーン』の経営戦略を知っていて協力したってことだよ。『日輪塾』でも同じようなキャンペーンをやっているから大手塾の拡大戦略みたいなものだよね」

 直美「それもそうだけど優虎君のホントの狙いは麗子の口封じだったんでしょ。このまま図に乗っていると、こっちからはいつでも口コミで叩いてやるってことまで暗示したんだから、麗子にしてみたら精神面でも経営面でも痛烈な打撃を受けたでしょうね」

 優虎「麗子先生の教え方はねぇ。球心(きゅうじ)の弟から聞いたんだけど、麗子自身が小中学校時代優等生だったからさ、自分では分かっているけれど生徒への教え方はまったく知らないっていうタイプなんだって。例えば三角形の合同の証明問題でも『丸暗記してきなさい』って厳しく言うだけだったってよ」

 スマホで検索をしていた希美が「『塾選びネット』なんか出てこないわよ」と言うと、

 優虎「出てきたら不思議だよ。今僕が思いついただけだから」

 希美「??」

「麗子はスマホなんか持っていないだろう。勉強の邪魔にならないように親に買ってもらえないでいるんだ。だからすぐには検索できないし、逆に検索しても『すぐには見つけられなかった』ということのほうが心理的には圧力がかかってこないかい」

 祐一「その程度で十分だよ。麗子さんのなかには塾の家の子ならば一番できるはずだっていう自分から自分への圧力や、親からの過剰な期待があったと思うんだよね。だけど今は偏差値は六十くらいでパッとしないわけだから、内心いらいらして誰かを攻撃したくなっているんじゃないのかな。みんなはどう思う?」

 希美「そうよね。だれだってエピソードはもっているものよ」

 直美「みんなから心配してもらえる純子ちゃんはまだいい方かもね。麗子さんのように誰からも気づいてもらえない圧迫感を持った人へのケアってもっと難しいのかも」

 祐一「ところで東大生がたかだか二七五〇円で六〇分も教えてくれるの?」

 磨美「バイトの東大生には時給五〇〇〇円くらいは出しているそうよ。その部分は赤字だろうけれど、新規塾生集めの目玉でしょうからね」

 次の日、純子が登校してきたところで会計係の放送部の裕子が今の募金金額を報告した。

 内訳は、職員の親睦会からは『赤い羽根共同募金』に協力するときと同じで『五〇〇〇円』、職員室からは『九八五〇円』、外部の塾や店舗などからは『一二四五〇円』、生徒の募金箱からは『二二五九円』であり、今のところ合計は約三万円だった。最初の目標は「十万円」だったからまだまだだったし生徒からの募金金額をもっと伸ばしたかった。


 そのとき真貴子が「美術部ってさ、学園祭のときに『七宝焼き(しっぽうやき)』の模擬店が大好評だったじゃない。あれって保護者にも受けていたわよね」

 希美「そうそう、お金をもらうだけじゃなくて自分たちも稼がなきゃ」

 直美「今の募金額の一部を材料費に使って、七宝焼きの売り上げの全部を募金に当てたら」

 純子「なるほど」

 祐一「あの七宝焼きは作る方も楽しいんだよ」

 純子「じゃあ、今日の放課後三時半に美術室で会いましょう」

 この『七宝焼き』とは、金・銀・真珠・瑠璃(るり)・・・など、七つの宝物のように美しいことからつけられた名前である。これから美術部で作ろうとしている七宝焼きは、例えばブローチであれば楕円形の銅板の上にガラス質の釉薬を載せて専用の電気炉で焼成するという工芸の分野になる。

 技法としては、

 ・単純に一色のガラス質の釉薬を盛って焼く手法。

 ・その釉薬の上に『フリット』というガラスの小粒をのせて焼く手法。

 ・釉薬が溶け始めるころに、先端が九十度に曲がった細い金属棒で、釉薬面をかき混ぜてマーブル模様を作る手法。

 ・一度目は例えば白い不透明釉薬を乗せて八〇〇℃で焼き、次はその上にブルーの透明釉薬を乗せて今度は九〇〇℃で焼くと、下にあった白い釉薬がまるで窯変天目のように白い斑点になって浮き上がってくる『噴釉(ふんゆう)七宝』と呼ばれる技法などがある。

  どれも焼成時間は数十秒程度であるが少しでも取り出すタイミングが遅れると釉薬は緩いマグマのようになって流れ落ちてしまう。その時は銅板ごと水のなかに付けると、焼けたガラスは粉々になって銅板から離れ落ちてくれるから銅板を磨き直せば再利用ができる。生徒たち、特に女生徒には人気の工芸であったから今回も材料費さえ出せば自分のためのブローチなども作ってもよいとしたので、みんなはどんな授業よりも真剣に集中して作業を始めていた。ブローチの他、子ども用に例えばアンパンマンなどが描ける円盤タイプのバッジ、ネクタイピンなど、その土台となる金属部品もセットされているので銅板部分を取り出して釉薬を乗せて焼けばよいのである。

 数十秒間で焼くタイミングを掴むためには何回も練習をしておかなくてはならないが、今回の焼成役は祐一が受け持っていて、すでに数点の試作品を焼いてコツを掴んでいた。電気炉の中に入れられた作品の釉薬が熱せられて赤くなり炉内と同じ色になる一瞬が取り出すタイミングである。さらに先ほどの技法の組み合わせもマスターできていた。作業は滞りなく進み、美術部の他の生徒たちも参加してくれたおかげで、初めの二~三日で五〇個近く仕上がってきていたが、電気炉が一台では焼成工程が遅れ気味になってきていた。

 祐一が「もう一台、電気炉があるといいんだけどな」と純子に聞くと

「これ一台しかないのよ」

「電気炉って内側のニクロム線が重要な部品なんだけど、連続使用によって劣化することも心配なんだ」

「劣化って?」

「七宝焼きの場合その都度扉を開けるから次に八〇〇℃や九〇〇℃に上げていくにも時間がかかってくるような気がする」

「そうよね。それに焼く係がもう一人いたほうがもっとたくさんできるわよね」

「この電気炉って、いいものは一五万円くらいするんだけど美術科の備品で購入してもらえないかな」

 するとすぐに純子が「じゃあ、わたしが浜本先生に頼んでみる」と言って、隣の準備室でたばこをくわえながら絵筆をもっている浜本に聞きに行った。

「隣で見ていたけど、普段の授業でもあんなに目を輝かせて取り組んでほしいものだよな」と笑いながら「ところで募金活動の名称はあるのかい」と逆に尋ねてきた。

 純子は「そういえば・・・。みんなに聞いてみます」と言って美術室に戻り作業中のみんなに投げかけてみた。


「復興を願うのだから、不死鳥!フェニックスだね」

「それいいけどありがちじゃない」

「じゃ、フェニックス・ファイターズ」

「う~ん、プロ野球じゃないのよね」

「Fってさ、関数F(x)みたいなのは避けたいけど、フレンドのFっていいじゃない。トモダチ作戦もあったし」

「友達かぁ、被災地には同じ高校生もいるんだよな。アメリカ軍がトモダチ作戦を展開してくれたんだから、こちらは『フレンズ』とか『チーム・フレンズ』とか、さっぱりと名付けてもいいよな」

 そこへ、ヤニ臭い空気に続いて浜本が入ってきた。

「活動の名前ってその中身がすぐに伝わったほうがいいんだよ」

「じゃ、フレンズ募金かな」

「ちょっと待って、同じ名前がないか検索しよう」

「似たような名前はヒットしたけど・・・」

「そのグループからお許しがもらえれば『フレンズ募金』にしようぜ」

 浜本は「いい名前じゃないか。ところで、募金してくれた人たちに許可をとって廊下に名前を貼り出したら協力者も増えるんじゃない?」

「それはいいかもですね」

「私も進路指導部のことで裕子さんに全校放送をして欲しいことがあるから、ついでに頼んでおくよ」

「えっ、浜本先生って進路係だったんですか」

「そうだけど、なにかおかしいのか?」

「似合わないっていうか、らしくないっていうか」

「あっ、そっ。保健指導係にでもなったら、たばこも吸えないだろ。この際だから言っておくけどね、みんなは自分の担任を選べないけれど、教師だって自分のクラスや係を選べないんだよ。

 ところで純子さんはさっき何の用事で来たんだい」

「あっ、七宝焼きの電気炉をもう一台買って欲しいんですよ」

「そうだなあ・・・。今の炉は十年前のものだから新規購入の対象になるんだけど、今年度の予算の使い道はもう決まっているから。まあ、何とかしてみるよ」

 その翌々日の放課後のことだった。いつもの『成都総合画材店』の専務さんが四階の美術室にまで最新型の『デジタル式・自動温度調節器付き電気炉』を配達してくださった。学校の備品であれば普通は事務室で受け取るべきものなのだが、どうして直接、美術室にまで搬入してくれたのだろうか。その荷物には焼成時に使う各種の道具だけでなく、高価な『釉薬十二色セット』も同梱されていた。

 純子は「学校の備品って、こんなに早く届くんですか」と意外な気持ちで専務に尋ねると、専務は手元の端末を確認してから「え~と、電気炉と道具のセットは、浜本先生ご自身からのご注文です。釉薬セットは母の美江からのサービスです。『フレンズ募金』のみなさん、頑張ってください! 当店でも募金箱を置かせてもらっていますよ」

 最新型の電気炉がこんなにも早く届き、しかも高額な釉薬までいただけるとは。そこにいた生徒たちからは「ありがとうございます!」という言葉以外にはなかった。目を潤ませていた女生徒もいたくらいだった。この電気炉のことは、浜本が六月のボーナスを見込んで画材店には後払いにしてもらい、メーカーには大至急扱いで発注してもらったとのことだった。電気炉がもう一台が到着したことから、二人目の焼成係は純子が磨美を指名した。

 祐一が磨美に「始めは十回くらい失敗してもいいよ、それが練習だからね。それよりも自分が火傷をしないようにしてね」と懇切丁寧に教えている姿は、周囲からはなんとなく『いい感じ』にみえた。実は、純子はこの二人のある光景を見ていたので磨美を祐一に近づけたのだった。祐一というのは子どもの頃からの読書量のおかげでテスト勉強をしなくても国語では高得点を取れるという羨ましいタイプだった。一年生の終わりの『校内模擬テストの成績優秀者発表』のとき、その掲示板で国語のトップ3に入った自分の名前を見ている祐一の姿を、やや離れた柱の陰から磨美がじっと見つめていたことを純子は知っていた。一方、祐一にはこんな思い出もあった。

 磨美から「ねぇ祐一君さあ。ブラバンと美術部でどっちが大変だと思う?」と中庭のベンチで聞かれたときだ。

 祐一は「そりゃブラバンでしょ。日曜日だって豊平川の緑地でトランペットの練習をしている人もいるじゃないか」

 磨美は「そうじゃなくって、ブラバンは毎年定期演奏会をやるけど、もし変な音をだしても一瞬で消えるじゃない。でも美術部の展覧会は下手な絵を出すと一週間は飾られるからブラバンのほうが楽だと思うの」

 祐一「・・・・・」

 その時の祐一は磨美からの淡い気持ちに気づくことはできなかったのだが、人生の苦難を味わったのち、もし傍にいてくれるだけでホッとするような磨美が自分の伴侶になっていてくれていたらと、後戻りできない学生時代を懐かしむこともある。


 さて、磨美はクラリネットを上手にこなす指先をもった奏者であったから、七宝焼きの焼成作業は周囲の予想以上に速く上達をした。これで焼成体制も強化されて七宝焼きはますます大量に生み出されていった。校内での募金額はさほど伸びてはいなかったが、放課後に数回も実施した「七宝焼き販売会」では、「飛ぶように売れる」とは、まさにこのことだった。デザインについても保護者の方々からリクエストをいただけるほどになっていた。販売当日には学校に用事の無い保護者達も来校してくださって、二個、三個・・と買っていただけた。原価「三〇〇円~五〇〇円」のものが「一〇〇〇円~二〇〇〇円」で大いに売れたのだから大成功だったのだ。

  さて来年度の大学入試に向けて『校長推薦を希望する生徒・保護者』と進路指導教員との懇談会が各教室で実施される日になった。この懇談会の目的はその生徒の学業成績のほかに、学生としての人柄、日ごろのボランティア活動の経験、進学後の抱負、さらには将来の希望などを聴取して校長推薦のための基礎資料を作ることである。

「ピン・ポン・パン・ポン」と全校にチャイムが響き渡り裕子の放送が始まった。

「保護者の皆様、懇談会へのご出席お疲れ様です。懇談会の会場は本館三階の各ホームルームとなっております。教室前の廊下の椅子で順番にお待ちください。なお、遅れた方がいらっしゃる場合には、あとの方の繰り上げもございます。面接時間は約二〇分間を予定しております」に続いて、「もう一点、校長先生をはじめとして、全校の先生方や生徒の皆さんに御礼のご連絡をいたします。震災の復興を援助する『フレンズ募金』へのご協力誠にありがとうございます。つきましては先日から本館の階段の壁にご賛同くださった生徒さんのお名前をリアルタイムで張り出しております。引き続きご協力のほどをよろしくお願いいたします」、これが浜本が裕子に依頼した放送文だった。

 この放送を学校長推薦を取りたい保護者たちに聞かせるように懇談会当日に流したことで、非常に敏感に、あるいは大きな誤解をもって反応してくださった保護者様たちがいた。ある方は数千円を寄付してくださり、当然自分の子どもの名前での寄付だった。浜本先生は『先生』だけあって、やはり生徒たちよりも巧妙な策士であった。こうして純子たちは『フレンズ募金』や『七宝焼きの販売』によって現時点で十数万円を得ることができた。純子はこの募金額を虎の子のように抱えて被災地に向かうことになり、一方、募金自体は祐一のリードでさらに続けられていった。


  七宝焼きの作業がすべて終わった日だった。 道具の片付けや床掃除が終わり、机も椅子も元通りになおした美術室には西日が差し込んでガランとしていた。そこには純子と祐一の二人だけが残っていた


  「祐一君、私、生きていてよかった。あんなに大勢の人が協力してくれるなんて」

  「よかったね。生きていて」

 純子の目を見たとき、祐一のほうが涙ぐんだ。

  純子から「ほら」、とティッシュペーパーを箱ごと渡された

  涙を拭いて鼻もかんだ祐一は 「純子さん、もうすぐ被災地に行くんだよね」

  「うん」

  「元気で帰ってきてよ」

  「わかった。私、もう死なないから」



  『第七章 実留との出会い』


 純子にとって被災地に向かう準備を始める段階になった。実は浜本の趣味は家族で低山に行ってミニキャンプを楽しむことだったので二人の娘である高二の奈々と中一の実奈に、その経験を生かして、純子の準備を手伝わせることにした。純子が知らなければならなかったことは、宿泊のことや、食事や服装の準備、ボランティア保険などのことだった。奈々と実奈は純子をつれて本格的な登山用品ショップ『ユピテル』の西山店長に相談に出かけた。

 西山からは「フレンズ募金は当店でもやっていますよ。それでついに純子さんが被災地に行くんですね。ところで、ボランティアのための宿泊所の状況で装備は大きく違ってくると思いますが、あの被害状況だったら近くにはボランティアのための施設はないでしょう」と聞かれたので、純子は「どういうことですか?」と聞き返した。

 奈々「つまり、旅館があるとか、それともテントやシュラフまで必要かってことよ」

 純子「?」

 実奈「SVセンターの画像を見たら校庭みたいな空き地にテント張っているよ」

 西山「テントならばここにもありますけど、高価なものだから浜本先生のものをお借りしたらいかがですか。そして今後、何回も使うようだったらその時に買えばいいと思いますよ」

 奈々「いいわよ。パパには頼んでおくし、私たちのシュラフやマットも貸してあげる」

 実奈「食料だけどさっきの画像ではボラの人は持ち込むみたいよ」

 西山「食事ですよね。このショップを訪ねてくださったことはとても嬉しいのですが、被災地ボランティアって荷物を背負って山を登るわけじゃないでしょ。登山家たちは少しでも荷物の軽量化をする方向でテント選びをするし、レトルト食品一つとっても軽いものを選ぶんですよ。でも被災地ボランティアだったら、う~~ん、どうなのかな。野営地までバスや電車で運ぶときだけが荷物になるだけだから装備が多少膨らむことはあまり考えなくてもいいのかもね。ただ自己完結するっていう姿勢は被災地ボランティアも登山者と同じでしょうかね」

 純子「それでどんな食べ物がいいんですか」

 西山「ここにある『アルファ米』はいろいろな味があって『非常食』としても有名でしょう。水かお湯を入れるだけで作れるしボリュームもあってすごく美味しいですよ。乾燥スープもお勧めですね。私のお勧めは『柚子胡椒味の卵スープ』です。ピリッとして疲れも忘れますよ。ミニボトルの調味料とかがあってもいいかも知れません。他にはカロリーメイトやチーズ、インスタントラーメンのほかに、お好みで塩飴、ドライフルーツ、チョコレート、バナナなどはよく持っていきます。こちらの棚もご覧ください。少し高いけれど『けんちんうどん』や『ボロネーゼ』はパッケージからしておいしそうでしょ。ただ、山に行くときはこんなものでも重さがあるから登山家は持っていきませんが、ボランティアさんの作業の後のお楽しみだとしたらいいものなのかなぁ。調理器具のバーナーをお持ちでなければクッカーとのセット商品をお勧めします。テントの張り方も煮炊きの方法も絶対に練習してから出発してくださいね。あと、ボランティアのための救護所もあるようだけど『ファーストエイドキット』くらいは持っていったらいいですよ。他には『ヘルメット』は当然だし、目を守る『防塵用ゴーグル』や『目薬』ですね。作業のときの埃は大敵でしょう。マスクも『防塵用』でしょうね。『ヘッドライト』は作業に必要かどうか。他には携帯電話の『予備電源』、作業のための『手袋』は防水性のものと二重にできるようにしてスペアもね。テント内の照明も必要でしょう。そんな風にいろいろあるけれど、借りられるものはできるだけお借りしたらどうですか」

 実奈「バックパックも私たちのものを貸してあげるよ」

 純子「ところでどんな服を着ていけばいいんですか」

 西山「こちらの列に『レイヤー』が吊るしてあります。下着になるTシャツは、吸汗速乾性を重視して選んでください。少し高いかもしれないけれど、肌に密着するものだからね。重ね着のことを『レイヤリング』って言いますが、被災地ボランティアだったら現地の作業の状況にもよるでしょうかね。一番の上着は、寒さ凌ぎだけだったら、毎年使っている秋冬用のオーバーでもいいんでしょうけれどね。今回は『作業着』なんだから私たちのような山屋(やまや)に聞くよりも、SVセンターに作業内容を相談したほうがいいんじゃないですかね。ただ、夜間の冷え込みには絶対に油断しないようにしてください」

 純子がその上着類を見てみるとシンプルな色合いにも関わらず上品な美しさを兼ね備えたジャケットばかりだった。高額ではあったが被災地での作業よりも通学用に買えたらいいなと思うほど気に入ってしまった。

 西山は「シューズですが被災地での作業だったら、つま先に鉄板が入っていて足を守ってくれるものが絶対にいいですよ。『ヘルメット』もここにもありますが『防塵用のゴーグル』や『マスク』も『シューズ』も、やっぱり、作業用品専門のショップが便利ですよ。 近くの『万歳建材センター』だったらホントになんでもありますよ。それから女性同士の奈々ちゃんと実奈ちゃんに相談したほうがいいこともあるでしょうね」

 実奈が「やっぱり、日焼け止めよ。お風呂は入れないだろうから体拭きシートとドライシャンプーがいいわ。それとキッチンペーパーがあるとお水数滴で使ったクッカーをふき取れて使い捨てにできるわよ」

 再度『たんぽぽSVセンター』の『よくある質問欄』を読んでみると、道具は作業に適したものを貸してくれるようだし、『ボランティア保険』は現地との往復の事故もカバーしていて数百円で済むようだった。


 さて、テントを張ったり野外で食事を作ったりする練習は、浜本の自宅の庭ですることになった。土曜日の午後、まず浜本家のリビングで奈々・実奈といっしょに、ごく一般的なテントの張り方ではあったが指導用のビデオを観ることから始めた。庭に出てからの実技指導は奈々が行い、実奈がスマホの動画を一時停止させながら見せた。

 その順番は、まず地面の石を除き、グランドシートの上にテント本体を開き、よくしなる二本のポールによってテントを立ち上げて、テントの四隅をペグで止めて、フライシートをかぶせて終る。

 純子「風があると大変そうね」

 奈々「特にテントの入口を風上に向けないようにね」

 次は、コンロとして使うバーナーの組み立てと調理方法だった。とりあえずインスタントラーメンを作ってみると初めてにも関わらず美味しく調理できた。


 その後は夜間までテントの中で過ごす予定だったが、浜本の妻の結乃(ゆの)が浜本家自慢の豪華ビーフカレーを作ってくれて、鮮魚店からは刺身の盛り合わせを買ってきてくれただけでなく、いつもの中村酒店からはビールとジュースまで配達してもらって家族で純子をもてなしてくれた。浜本とすればソロキャンプの練習とはかけ離れてきたが『冷えたビールもきたことだし悪くないな』ということで純子のための臨時壮行会となった。

 食後は実奈が純子とテントの中で過ごすことになった。これは一応、夜間の寒さへの対応のためであった。実奈としたら新しいお姉さんが来てくれたような嬉しさに溢れていた。

「ねぇねぇ、高校受験って大変なの?」

「先生は怖くない?」

「私も美術部に入れる?」と矢継ぎ早に聞いてきた。

 純子も妹ができたような気持ちになり、今までとは違う満ち足りた時間だった。純子自身、この実奈との関わり合いの時こそ、自分の症状は本当に好転してきていたときだったのだと、あとになって気づいたのだった。それは周囲からの自分への働きかけを本当に素直に受け入れられるようになっていたからだった。


 さて、浜本にとっては自宅の庭とはいえ二人を見守らないでいることはできなかった。そこで純子の学年担当ではなかったが同じ進路指導係であり高校時代の登山部の後輩だった天児(あまこ)先生を呼びつけて、ベランダで将棋を指しながらガラス越しに二人を見守ることにした。純子はこのときに、被災地ボランティアの経験もある天児から、今回は登山の立場よりも被災地支援がしやすい立場から装備を見直したほうがよいだろう、というアドバイスをもらえた。

 実はその日、中村酒店のご主人が注文を受けた飲み物だけでなく「先生、貴重なワインが入りましたよ、生徒さんの出陣式として飲んでください」と言って高級ワインを紅白の一升瓶で持ってきてくれていたのだった。浜本家ではお酒だけでなくお中元やお歳暮などの発送でも中村酒店を使っていて、浜本が職場の宴会の幹事のときには中村酒店が納入している居酒屋を必ず使うので、今回は酒店からの『お心遣い』であった。特に教員たちの宴会の酒量は多いから余計にお得意様だったのある。

  浜本は天児に向かって「おい、才のない天才児の天児君、こういうルールはどうだ。ワインは同じ大きさのこのグラスで飲もう、そして自分の手番のときはグラスに手を付けないというのはどうかな」

 これはいつものような長考を天児にさせないための臨時ルールであったのだが、浜本のほうが高校の先輩になるしワインも嫌いではない天児は渋々承知した。

 純子が室内の化粧室を借りてテントへの戻り際に、二人の対局を観戦したときだった。すでに浜本が天児を追い詰めている局面であることは純子にもわかった。しかしながら浜本が銀を打った直後から形勢は逆転し白星は天児に付いた。浜本の投了直後に天児が純子を振り返って「私の方が詰んでいたでしょ」と聞くと、純子は即座に「はい」と答えてから、浜本の方を向いて「先生、あそこでは金を先に打つのよ」

 浜本「うん?・・・あっそうか。金が先だったのか。後輩相手に詰み筋を見逃したのは初めてだ」

 天児は「先輩、飲み過ぎましたね。香車もふらつきそうでしたよ」とニンマリ笑った。

 浜本と天児は純子に多少でも棋力があることには驚いたが、浜本は悔しさで、天児は学生時代からの先輩に勝った喜びで、二人にとっては純子の力量どころではなかった。

 以前のことだが、純子は心の病から逃れたくて暗中模索の中で見つけた『新書』から、自分のような症状を直すためには『詰将棋』に集中することが良いと知ったことがあった。手元の木の板に八十一マスの将棋盤を描いて、おもちゃの駒セットを買って『目指せ八冠・異次元の詰将棋』というテキストに沿って一人で駒を並べていた。しかし今回はその成果だったというよりも純子の観察眼の勝利だった。浜本の駒台には『金』と『銀』が一枚ずつあった。浜本は珍しく長考に入り浜本の指は駒台の空中で迷っていた。しかも天児がその様子を食い入るように注視していたことも純子は見逃していなかった。それで純子は、緊迫した局面で『銀』でダメだったのだから『金打ち』が正解だと、当てずっぽうに言っただけだったということが正しいようだ。

  その『新書』には『超短距離ダッシュ』の勧めも紹介されてあった。『超短距離』というくらいだから、例えば家と近所との往復などのときに、数mほど猛ダッシュをするようなことだった。その時は少なくとも血流が増してよどんだ気持ちが吹き飛ぶような気がした。

 その夜、実奈たちの従妹である小学生の『実留(みる)』と、近所の『結奈(ゆな)』もテントにやってきていた。すでにテント内を仕切っていた実奈は、ボッチ芸人のソロキャンプに憧れていて、キャンプで焚火をすることは当然だと思っていたから四人で焚火を囲むことになった。

 そして四人は実留が持ってきた去年の花火まで楽しみ始めた。特に「線香花火」はたくさん余っていた。純子はカドミウムレッドの小さな火球がぽとりと落ちるのを見ながら「線香花火って、夏の終わりのように寂しいものね」とつぶやいた。

 すると実留が「おねえちゃん、この花火はそれだけの燃料しかもらっていないのよ! でも、最後まで輝いて生き切ったじゃない!」

 純子はハッとして実留を見つめたが返す言葉はなかった。

 迎えが早く来たので実留が先に帰った後だった。結奈が純子に、実留の脳には進行性の腫瘍があり視神経を圧迫していることをそっと教えてくれた。しかも成長とともに行った開頭手術は一回だけではなく、数年後には命をとるか最期まで視力を残すか、という決断を実留自身がしなくてはならないことになるのだと。


 夜十時になった頃、運転免許を取ったばかりの正美が純子を迎えに来た。正美は保育園から幼い我が子を受け取る母親のように、浜本からその日の純子の様子をよく聞いて丁寧に頭を下げて帰っていった。純子と実奈たちとの交流の様子を聞いた正美は、純子の症状はだいぶ落ち着いてきたように思えたので、ようやく安心して被災地に送り出せる気持ちになれた。純子のキャンプ体験は、夜は一〇時まで、次の日は朝八時からというのが、浜本が土屋校長から許可を得た時の条件だった。これでキャンプ体験の一日目が終わった。翌日はテントの撤収や周囲の片付けの練習だったが、純子はもう一度テントを張って再びたたむ練習をした。純子にしてみれば被災地の救援に行く自分がたかだかテント張りくらいで周囲の足手まといになってはいけないのだと責任感もますます高まっていたのだった。



  『第八章 被災地』


 夏休みが近くなったころ、純子は『たんぽぽSVセンター』のチャーターバスで被災地のボランティア受付センターに向かった。その途中、ついに惨状が広がる被災地を見渡せるときが来た。ビルの上に観光船が乗り上げ、広い道路にも路地にも、横転したクルマや家屋の廃材が大量に残っていた。いや、廃材と言っては失礼になるだろう。津波の直前までは家族が住んでいて、子どもの帰りを待っていた団らんの溢れる家屋の建築部材だったのだから。人影は見えなかったが被災地の方々の絶望感がずしんと伝わってきた。今回の数十人のボランティアたちはSVセンターの第一陣でもあった。受付をして胸に大きい名札を付けた。そこに並ぶボランティアたちの表情は、どこの行列でも見たことのない悲壮感にも近い真剣そのものの表情だった。そして純子が『フレンズ募金』で集めたお金を『募金受付所』に届けて受領書をもらうときだった。受付の二〇代らしき女性の胸の名札は、半分裏返っていて苗字までは読めなかったが『・・ますみ』とだけ目に入った。『まさか』、とは思ったが生徒会に届けなくてはならない大切な『募金受領書』をバックにしまうことで純子は緊張していた。

  その第一日目の後は、ボランティア活動を始められるかどうかという意思確認も兼ねたような問診での健康診断と、センター長からの短いオリエンテーションだった。受付のテーブルのおかれていた大型テントの中には被災地の写真が細い紐で吊り下げられていた。

 『小雪舞う中、崩れはてた家屋に向かって合掌している黒い袈裟の僧侶』

 『青い毛布に身を包み、廃墟となった街を後ろにしてじっと海を見つめる若い女性』

 『亡くなった我が子を泣き叫びながら抱きかかえている母親』

 この三枚だけでも今回の惨状を伝えるには十分すぎた。


  現地での二日目、いよいよボランティア活動の初日になった。純子たちに与えられた仕事は数名のグループで汚泥に浸かった家屋の洗浄をすることだった。洗浄といっても女子高生にできることは雑巾で壁や家具を拭いたり小さいバケツで汚泥を運び出したりすることくらいだったが復興への協力には違いなかった。作業中の純子の上着は天児からのアドバイスを受けて『動きやすくて防水性のあるもの』にしていたし、足の先に鉄板の入ったシューズを履いていったので安心して作業に集中できた。

 午前中の作業時間の終了が近づき、箸と絵筆しか持ったことのない純子はだいぶ疲れてきていたころだ。この周辺の住人だったのだろうか、エプロンをかけた女性二人と八〇歳近い老婆が差し入れだとして『おにぎり』を山のように持ってきてくださった。しかも温かいお茶と漬物までついていた。学生たちは「えっ、もらっていいんですか。被災地の人たちの食料ではないのですか」と驚いた。しかし女性たちは「大丈夫ですよ。おかげさまで、お米や飲料水はだいぶ足りてきているんです。それに、ボランティアさんたちこそ、腹が減っては援助もできぬ、でしょ」

 数名のボランティアたちは「ありがとうございます」と言いながら手袋をとっただけの手を次々とおにぎりに伸ばした。まさに見事な食べっぷりだった。そのとき、その老婆が、じぃ~と純子を見つめて「遠くから来たんだべ。ありがとな。ありがとな。ケガしねで帰ってな」と目を潤ませて話しかけてきた。「まるで孫が海から戻ってきてけだみてだなあ。おめさんの姿見れただけでよかった。ありがとな」

 その老婆の姿をみて、また言葉を聞いて、純子だけでなく他のボランティアたちも胸を打たれた。学生の誰もが今回の災害の非情さをあらためて痛感した。純子には返す言葉はなかったが『自殺未遂までした、こんな私なのに、来ただけでもよかったんだ』と生涯忘れられない出会いになった。

  その後、午後一時までは休憩の時間であった。SVセンターの人がハンドメガホンを使って「疲れがある人は午後はマイペースでよいので家具などの拭き取り作業をしてください。時にはストレッチや屈伸運動をするといいですよ」と呼び掛けて回っていた。そして三時からの一五分間の小休憩を経て四時半には作業を終了した。

 純子は疲れてはいたが、自分は被災地のスケッチ来たんだと思うと元気が蘇ってくるところは、さすが生れついての美術部と言えるだろう。美術部っていうのは不規則正しい生活から多少の睡眠不足であろうとも、キャンバスに向かって筆を持てばシャキンとするものなのだ。その前に、キャンプの楽しみの食事だ。その日のメニューはレトルトの『ボロネーゼ』と『柚子胡椒味の卵スープ』であった。この量でも純子には充分であり、ここでは実奈たちから横取りされることもなく、作業の疲れもあったので今までにはなかった至福の食事時間だった。


 純子が絵を描くために持ち込んでいた道具は、祐一が貸してくれた固形水彩絵の具入りのミニパレットのほかに、絵筆、水入れ、画用鉛筆、色鉛筆、ミニスケッチブックなどのほかに、速乾性のアクリル絵の具とアクリル用のキャンバス数枚だった。描画用の水はここについたときから空き缶に泥水を貯めておいたのですでに上水がきれいに澄んでいた。純子がアクリル絵の具とキャンバスまで持ってきていたということは、帰宅後の制作の資料にするような『鉛筆画に淡彩』などというスケッチだけで終わるのではなく、現地で本格的な制作ができる準備までしてきていたということになる。その夜から制作は始まった。純子の作品は千原の教えのとおり『悲しみや悲惨さをオブラートに包むように芸術に昇華させることの方が多くの人々の共感を呼ぶのだろう』という方向であり、純子の考えている『目に見えるものだけを描いていてもなんになるんだ』という作品群だった。


 その夜に現地で初めて仕上げた作品である。


  澄んだコバルトブルーの夜空には無数の星々

  それらが小さな雪に変わって降ってくる

  やがて小さな十字になり、それはだんだんと大きくなってくる

  あるときは大小二個の十字が寄り添い、またあるときはいくつかが集まっている

  その十字は十字架にも見えてきた

  それらには繭玉のような純白の光りが寄り添っている

  もう一個二個などといってはいけない

  お一人の御霊(みたま)、お二人の御霊・・・なのだ

  寄り添う御霊たちは、母と子であろうか、ご家族や仲間たちであろうか

  星々が御霊に変わり大河のように地上に降りてくる

  いや、御霊が降りてくるのではない

  地上で打ちひしがれた御霊たちが天に召されていく光景であろう


  純子はこの絵に『鎮魂歌(レクイエム)』と名付けた。


 現地に来て三日目、作業の二日目になった。純子のその日の仕事は、SVセンターのベテランの人とペアになって与えられたエリアを回り、洗浄作業が必要な家屋に優先順位をつけて作業日程を組み立てるための調査に変わった。作業内容の変更の訳は、SVセンターの担当者が昨日の純子の疲労具合をみて事務的な仕事のほうがよいだろうと判断したからだった。純子は初老の男性の平田さんが判断したことをシートに書いていけばよかった。午前十時に休憩時間になったとき、平田が「純子さん、昨日の疲れは残っていないかい」と気遣ってくれた。

「あっ、まあまあですよ」

「そうかい、役場のボランティア対応係の真澄ちゃんがあんたの疲労具合を考慮してくれて、今日は私の補助員になってもらったんだ」

 純子は受付のときに見た『ますみ』という名札を思い出してはっとした。

「平田さん、もしかして、ますみさんって・・・」

「ああ、こちらでは伝説のようになっている真澄さんだよ」

「どんなことがあったんですか」

「あの子は津波が来た日、町役場の職員として成田地区に向かって避難を呼び掛けに行っていたんだ。幸い成田の人たちは裏山の展望台にまで逃げていたので全員が助かったんだけれど、真澄さんは乗っていた軽ワゴン車ごと津波に押されて稲荷神社の境内の大きなクスノキにぶち当たってその木に引っ掛かっていたんだけれど、幸いなことに軽い打撲症程度で命は助かったんだよ」

「よかっ・・・・」と、純子は言葉が続かなかった。

 平田はさらに「そのクスノキは五年くらい前に落雷によって二つに割かれてしまった大木でね。折れた太い枝が地面につくほどだったんだ。参拝客の通行の邪魔になってきたから伐採してしまおうという意見もあったんだけど、次の年にはなんと新緑を付けて夏になると神社の入口からは本殿が隠れて見えなくなってしまうほど葉が生い茂ったんだ」

「すごい生命力ですね」

「それでこれは本物の御神木に違いないということで補強作業をして神事も執り行って、地域の守り神のように尊ばれていたんだ。その上、今年はそのクスノキのおかげで避難放送を続けた真澄さんが津波にさらわれずに助かったことから『森の女神(めがみ)様』って呼ばれるようになったってわけ」

「それで、真澄さんには後遺症とかはないんですか」

「女性のことだから深くは知らないが元気そうだよ。ただ・・・」

「ただって?」

「真澄さんのご両親は残念なことになってしまったんだよね。私の幼なじみ達もどこかに消えちゃちゃってさ」

「でも、真澄さんはあんなに明るく働いていますよね」

「そりゃ、あの子の使命感の強さだよ。今回の大災害ではもっとつらい思いをしている人々がいっぱいいるし、日本中からボランティアさんが来てくださっているんだから『明るく迎えなきゃ』ってね」

「平田さん、私、そのクスノキの神社に行きたいです」

「そっか、じゃあ昼休み返上でもいいかい。私のオフロード車で行って、そこでおにぎりを食べようか」

「よろしくお願いします」

「ヘルメットは持ってきてよ。シートベルトはしっかり締めてね。車ごと転落する可能性もあるから」


 二人の乗ったクルマは海岸沿いの道から分かれて坂を上ると十分ほどで『稲荷神社』の境内についた。そこまでの道は真澄が成田地区に避難を呼びかけるために通ったコースでもあった。もし真澄が町役場からの撤退指示通りにそのコースを引き返していたならば、再度海岸近くまで下りたわけだからまともに津波にのまれ引き潮によって海中に連れ去られていたかもしれなかった。この道路自体は仮にではあるがすでに復旧していて、周囲には新緑が生い茂っていたが、その先の岸壁には家屋の部材だろうか、壊れた漁船の骨組みだろうか、多数の木材が押し寄せていた。

  『稲荷神社』につくと純子はおにぎり二個を飲み込むように昼食を済ませて、すぐにミニスケッチブックと画用鉛筆で『割けたクスノキ』や周囲の本殿などの下描きをして、祐一が貸してくれたミニパレットの水彩絵の具でササっと彩色を施した。平田は純子のおにぎりを食べる速さと絵を描く速さに見とれるばかりで、自分の食事も忘れてぽかんと口を開けていた。

 純子は水筒の水を一口ごくっと飲み干して「平田さん描けましたよ」と、たった今できたスケッチ三枚を平田に見せた。

 平田は「おっ、こりゃ上手だね」と、やはりぽかんと口を開けるばかりだった。


 『稲荷神社』から作業現場に返ってくるとちょうど午後の活動開始時刻だった。午後の業務は平田と純子の息が合ってきたこともあり順調に進んだ。作業が終わるとよく歩いた疲れは残っていたが、実奈のお勧めだったウエットシートで体を拭き、着替えを済ませると心身ともにさっぱりとした。そして今夜の楽しみの夕食は、郵便局で売っていたレトルトの『北の富士カレー』だった。このカレーは一度コッヘルに移して温めてからパックのご飯に乗せると、具だくさんの立派なカレーライスができた。もちろん福神漬けも忘れてはいなかった。片付けは実奈が勧めてくれたキッチンペーパーに数滴の水を付けて拭きとるだけだった。このときに純子は、このキッチンペーパーは油絵のパレット掃除にも使えるな、と気がついた。


 その夜に描き上げた被災地での二作目はこんな絵だった。落雷で割けたクスノキからイメージを得た純子は、バーミリオンを基調とした下地をつくってから描き始めた。


 大木がブルーグレーの枝を大きく広げている

 しかしその枝たちは苦しみに悶えるように曲がりくねり

 あるものは中空の冷たい白い月を捉えようとしている


 純子は助かった真澄のことだけでなく津波の中で苦しんだ人々のことも想っていた。

 その絵を一息に描き上げたあと、純子はテントの外に出て澄んだ夜空を見上げて「なんて、きれいなんだろう」と呟いた。しかしすぐに、この街では煙を出す工場もなくなってしまったし、道路を埋め尽くしていた自動車もなくなったからなのだ、という悲しい理由に気づいた。この絵には『龍神山の守り神』と名付けた。


 そんな午後八時頃だった。平田と真澄が純子のテントにやってきた。

 真澄は「純子さん、稲荷神社にお参りしてくださったそうね。うれしかったわ」

 平田が「純子さんの画力にはホントに感服しているのですよ。そんなわけで明日は純子さんにとってはこちらでの最終日ですが自由にスケッチをしてもらえませんか」

 真澄「それでお願いがあるのです。純子さんの原画を五枚ほど貸してくださらないでしょうか。家に帰ってから仕上げたものでもいいですよ」

 純子は突然のことだったので「えっ、わたしの絵をですか?」

 真澄が続けて「純子さんの絵をもとにして、五枚セットの絵葉書を作って売り出したいのです。それは、被災地の様子を写真ではなくて、画家の心眼で見た風景を多くの人に見てもらいたいからなのです。もちろんその収益は被災地の援助に使いますから」とのことだった。

 平田から「よかったら今夜の絵を見せてくれませんか」と言われ、たった今テントの中で完成していた『身悶えているようなクスノキ』の絵を見せた。

 すると真澄が「あぁ、私を助けてくださったクスノキ様だわ。この樹も苦しんでいたのね」、とストレートに感情移入をしていることがはっきりと伝わってきた。このとき純子は『絵をビジネスにしていても、絵を感じようともしない人たち』とは違って、真澄さんは『絵がホントにわかる人』だと直感した。純子は二人に「明後日は帰り支度をするだけですから、明日の午前中は平田さんのお車で何か所か回っていただけませんか。描き切れないときにはペン画だけでもスケッチします。そして午後はテントで作品を作らせてください」

 二人は顔を合わせて「もちろん、それでお願いします」

 純子はいわば『被災地画家』とでもいう待遇を受けることになった。


 活動の三日目になった。純子がレトルト食品と缶詰で朝食を済ませ、スケッチセットの点検も終わった頃、平田がやってきた。

「純子さん、おはようございます。いよいよだね」

「よろしくお願いします」

「体調で気になることはないかい」

「はい、夕べ足を揉んでシップを貼ったら、らくちんになりました」

「じゃあ、また私のクルマで出来る範囲を巡りましょう。純子さんの描く場所に合わせてクルマを移動させますから遠慮しないで私におっしゃってくださいよ」


 平田のクルマの前には、真澄の他にも何人かのセンターの人が見送りに来てくれていた。純子は「絵描きって、いいな」とちょっと得意げになったのだが、そんないい気分はすぐに吹っ飛んだ。クルマで巡る先はさらに胸を押しつぶさんばかりの光景が続いた。

 初めに下りたところはここに来るときにも見ていたのだが、ビルの上に乗って船首も船尾も空中に飛び出している観光船、陸で衝突している三艘の大型船、幹線道路に横たわった漁船、 津波の引き潮の際、海まで戻れずに堤防の上に乗ってしまった作業船・・・

 純子は右手には鉛筆、左手には数本の色鉛筆とミニスケッチブックをもって、猛烈な勢いでその光景を写し始めていた。彩色も施した超連続スケッチだった。平田はいままで誰にも感じたことはなかった鬼気迫るオーラを純子の後ろ姿に見た。

 そこへ純子から

「平田さん、このあとも陸に乗り上げている船があったら写真を撮ってあとでいいので私の端末に送信しておいてもらえませんか」と、文字にすれば『お願いをする文体』ではあるが、平田には軍隊の上官からの命令を受けているような強さを感じた。また純子の表情が明らかに変容していることにも驚いた。それは純子の眼の集中力が上がっている証拠だった。その場でのスケッチは十五分ほどで終わり、さらにクルマを進めることにした。平田は移動の途中でも純子からの指示があれば、立ち位置を変えたり、角度を変えたりして何度もシャッターを押した。まさに今日は平田が純子の部下だった。


 次に純子が降りた場所は、崩れかかった家、半分だけを失った家、コンクリートの中の鉄筋が剥き出しになり飴のように曲げられているビル、辛うじて立ってはいるものの壁板や窓が津波に奪われた建物などが見えるところだった。

 純子はあるとき、小さなビニール袋を出して色鉛筆を削った。ビニール袋は微風を受けて揺れるのでゴミ袋としては扱いにくそうだった。

 平田は「削りカスは地面に落とせばいいですよ」と気楽に言ったつもりだったのだが、純子は「ここでは多くの人々が命を奪われて、この土地の下にはご遺体が隠れているかもしれないのでしょう。いわば聖域ではないですか」

 平田は、はっとした。

 人を想うことでは敏感過ぎる純子は『自分の足元にも行方不明の方が埋もれているのかしら、いまは適度に荒れている海のかなたにも』と思うと、『自分は大変なところで絵を描いているんだ』という重責で押しつぶされそうになっていた。純子はさらに平田に「私には霊と会話できるような能力はないのですけど、身近な人が亡くなるときには肩がグウ~ンと重くなるんです。まるでその人が私の肩を踏み台にされて天に召されていくように思っています」

 言葉を返せないでいる平田にはかまわずに「わたし、この地域に入って今までに増してそんな重さを感じているんです。だからと言って私の命が摩耗するとかという不安感はなくて、わたしからは『私のところに来てくださったんですね。これからあなたの行く世界はこわい所ではないですよ』といって送り出してあげるような気持ちでいるんです」

 平田は、芸術家とはそういうインスピレーションを持ちながら描いているのかと、自分から見れば孫のような少女に向かって問い返す言葉はやはり見つからなかった。その後も平田は純子が指し示す方向にクルマを走らせて無事にキャンプ地に純子を戻すことだけに集中した。

 そして午後一時近くになった頃、ふたりはキャンプ地に戻った。純子は平田に丁寧に頭を下げてすぐに自分のテントに戻っていった。平田は慌てて純子におにぎりを渡しに行った。


 午後から夜間にかけて描いた三作目はこんな絵だった。


 穏やかなエメラルドグリーンの海

 金波銀波のしぶきが輝いている

 沈みかけた家の屋根がいくつも浮いている

 柔らかいレモンイエローの空には虹色のパステルトーンがはじけ飛んでいる

  天上界からはファンファーレも聞こえてくるようだ 

 大きな太陽の前を立派な船が美しい旗を掲げて堂々と横切っていく

 この船は古代の人々を洪水から救った「ノアの箱舟」に違いない

 太陽にはうっすらと真澄の笑顔がみえている


 まさに復興を祈願しての純子の力強いエールを込めた傑作だった。題名は磨美たちのブラバンの演奏会で聴いたことのあるエルガーから『威風堂々』とした。


 次の絵はここでの四作目になる。

 シルバーホワイトとセルリアンブルーにレモンイエローを少量混ぜて作ったさわやかなライトブルーを天空に塗った。純子のいちばん好きな柔らかいブルーだった。


 船たちが積み重なって大きなピラミッドのようになっている

  漁船もあれば、観光船もある、クレーンを積んだ作業船もある

  色とりどりの船たち

  カーニバルのような華やかさ

  船たちはみな空に向かって発進しようしている

  上空には銀色の星が大きく誇らしげに輝き

  カラフルな閃光を発している


  もしこの絵の色合いが鈍くて暗ければ船たちの墓場に見えたかもしれない。純子の願いは船たちの蘇りではなかった。この船たちを使って生計を立てていた人々、家族と楽しい思い出を作った人々、港の風景として大切にしてきた人々が、復興に向けて再発進するのだという偉業への賛美だった。


 最後の五枚目は、この日ふと目に入った人の姿がモチーフだった。 倒壊した家の玄関があったところなのだろう。その上り段の前で一人の女性がうずくまって顔を伏せ、家に向かって手を合わせていた。後ろの人は夫であろうか、彼女の両肩を抱くように慰めていた。家の中で亡くなったお子さんのことをお二人で供養していたのではないだろうか。どうしようもない悲しみの光景だった。

 純子は被災地の細かい砂をスプーンの裏を使って、被害に遭った方々を祈るような気持ちを込めてさらに細かく砕いてから、イエローオーカーの絵の具に混ぜて、ペンティングナイフでこってりとキャンパスに塗り込んで砂混じりの地塗りをした。そしてその上に屈みこんで祈っている女性だけを、シルエットのように黒々と描いた。題名は『祈る人』とする他はなかった。

 こんな単純な色の組み合わせであっても、純子がマチエールをしっかりと作って力強く描けた訳は、純子が千原から山口県の『香月泰男先生』のことを聞いていたからであり、さらに純子は香月画伯の下地を再現してみたことがあったからだった。

 香月画伯は終戦後もシベリアに抑留され、厳寒の中での過酷な強制労働のために疲れ果てて死んでいった戦友たちの『死に顔』を描いてあげていたという。そんな香月先生の精神が純子にも内在していたのかも知れない。また香月作品の構図からも影響を受けていた。暗いイエローオーカーを背景として『黒い太陽』だけを大きく描いた作品(一九六一年)の印象が、今の純子に蘇ってきていた。

 これで五枚の絵ができた。すぐにでも平田や真澄に見せたかったのだが、最後の絵はまだ絵具が固まっていなかった。それでまだ午後九時前でもあったので二人を呼びに行くことにした。平田はすでに休んでいたが、真澄が温かいミルクティーをもって来てくれた。真澄は五枚を丁寧に眺めながら「やっぱりすごい絵描きさんがここに来てくださったってことよね」と最高の評価をしてくれた。

 真澄は続けて「明日(あした)、写真家を呼んでこのお作品を撮らせてもらっていいかしら。こちらによく来る新聞社のカメラマンだから純子さんの出発までには来てくれるかもしれないわ」とその場で新聞社に電話をした。すると『朝一番でそちらに向かう』ということと、『撮影機材や照明器具』も持ってくるとのことだった。

 純子は「ホントに私の絵が印刷されて広まっていくんですよね」と、嬉しい驚きを隠しきれなかった。

 真澄が「純子さんにはご苦労をお掛けしましたね。ありがとうございました。私もうれしいですよ」と答えたあと、二人はお互いにねぎらい合うように笑顔で見つめ合った。


 真澄が続けて「平田さんから聞いたんですけど、純子さんは私のことを心配してくれていたんだって」と話しかけてきた。

「本当によかったですね」

「純子さんとはいったんはお別れだけど、またお友達と来てくださいね。ところで純子さんは高校を卒業したらやっぱり芸術学部に進むのかしら」

「あ~~、まだなんとも決めていないんです。真澄さんのように町役場のスタッフとか、安定した仕事も魅力だし」

「そうね。公務員っていうのは女性の身分や権利が保障されていて、産休や育休の制度もしっかりしているから、やる気のある人にはいいと思うけど・・・」

 純子は真澄の迷いを敏感に感じた。

 すると真澄は「実はわたし元々の夢だった看護師になろうと思うの」

「どこの学校に行くんですか」

「この町は大好きだけど、関東に行ってみたいっていう憧れもあるのよ」

「じゃあ、東京ですか?」

「ううん、東京は物価が高いから南に下っても茨城どまりね。東京にもすぐ遊びに行けるし」

「その大学の看護学部って入試に数学があるんですか」

「正式には看護学類っていうんだけど数学は一次試験だけよ」

  純子は『数学の負担が少ない』ということだけには興味をもったので、もう少し聞きたくなったので「三年間通うんですか」と尋ねると、

  「看護の世界は学ぶことが多すぎて、もうだいぶ昔から四年制なの」

 純子の『せっかく公務員の仕事があるのに、また勉強しなくちゃならないなんて・・・』とでも言いたげな表情が真澄に分かったのだろうか。

  「私にはもう両親はいないの。今までは親のために地元に残ったんだけど親がいなくなったからじゃなくって、専門的な知識や技術を身につけて、もっと大勢の方々の手助けを目指したほうが私の人生に悔いが残らないと思い始めたからなのよ。それに『森の女神(めがみ)様』とか聞いているでしょ、私のことも『女神様』と一緒に妙に有名になっちゃたから田舎ではやりにくくって」

  純子は真澄の話を聞いたおかげで『自分の人生に悔いを残さない進路を選ぶこと』を前向きに考えることができるようになった。このことは純子の症状はだいぶ回復してきたという(あかし)でもあった。


 翌朝、純子はキャンプ地での最後の朝食をとった。無事に作業を終えられたという開放感があったのだろう。純子は楽しみのために残しておいた板チョコをバリっとかじってセーラー服姿の薬師丸ひろ子さんのように思わず「快感っ」と叫んでいた。

 テントをたたみ始めたころだった。真澄が石川というカメラマンとアシスタントを連れてきた。石川は「初めまして。加藤先生のお作品は大切に撮らせていただきます、よろしくお願いします」

 純子はついに『先生』になっていた。撮影自体はアシスタントとともにSVセンターのプレハブ小屋の中で小一時間ほどで終了した。 五枚の作品は一枚ずつ丁寧に薄い紙に包まれて純子に戻された。

 石川は「まだ撮ったばかりで編集もできていませんが、今の画像でよければ先生の端末に送りましょうか」

「えっ、ありがとうございます」


 そして被災地との別れの時がきた。真澄や平田や新聞社の人に見送られて純子は最寄り駅に向かうバスに乗った。双方ともにガラス越しに最後まで手を振り合った。

 純子は大きく揺れる車内で目を閉じて上を向き、この五日間に見たことや出会った人々のことを静かに振り返っていた。ボランティアを受けいれてくださった方々はみんな本当に親切でやさしかった。しかしながら今も窓の外に広がる地域では三万人近い人々が亡くなったり、負傷したり、行方不明になったりしていることはどうしようもない重すぎる真実だった。それだけでなく、ボランティアたちは見ることはできなかったが、避難生活を余儀なくされている方々に対して今後も長く続くことになる支援の困難さについても純子は聞いていた。

 その時の純子の心境は、まるで『弦楽のためのアダージョ』が流れる中、軍用ヘリコプターで最前線から後方の本隊に帰っていく新兵の眼下、両手を上げて見送っている味方もいるが、そこは今まさに仲間たちの戦闘がくり広げられているエリアであり、一人だけ辛くやるせない気持ちのまま戦場を去っていく戦争映画のあの主人公に似ていたのかもしれない。もちろん戦闘員と被災地支援者とではまったく違うものではあるが、純子はただ一人この戦いのような場から離れていく自分に対して被災者の方々に申し訳ないような孤独感を持った。純子はみんなといっしょにここでもっと活動をしたかったのだと、あらためて気づいた。



  『第九章 純子とフレンズ』


 駅のホームには真貴子と直美が待ち構えていた。二人は奪い合うように純子の荷物を持ってくれた。階段を上がって改札を出ると、祐一や磨美、希美、優虎たちの他、姉の正美や塚越教頭の姿もあった。希美から花束を渡されたときに大きな拍手が起こった。

 祐一が「純子さん、お疲れ様」と声をかけると、

 さすがの純子も少し日に焼けた顔で大粒の涙を一個こぼした。

 塚越からは「加藤さん、体調はいかがですか」と言葉をかけられた。

「ちょっとは疲れてはいますけど、もっと大変な人たちが頑張っているって・・・」 と、今度は泣きじゃくりながら答えた。

「そうですか。安心しましたよ、本当にお疲れ様」

 塚越教頭は、あのスキー教室のときから心配していた純子が十八歳という危険な年齢を乗り越えてここまで成長してくれたかと思うと、定年近くになって初めて『自分は教員にさせてもらったのだ』と感じた。みんなは純子を見つめるばかりであった。彼らの思いは、純子への慰労というよりも尊敬に近かった。そのとき祐一が買ってきたばかりのスヌーピーのハンカチをそっと純子に手渡した。


 さて、純子が被災地に行っていて留守をしていた間の『フレンズ募金』の活動のことだ。祐一が中心になって募金の範囲を広める一方で、募金をくださった方々に丁寧なお礼状を書いて届けていた。また、純子の『被災地ボランティア報告会』を一学期の終業式のあとに行ったらどうか、という土屋からの提案に応じての準備を進めていた。『フレンズ』としても、全校の先生方や生徒や保護者の皆さんへの御礼をどこかで言わなければいけないと思っていたのである。その報告会の学校側の担当は『ボランティア活動も生徒の外部への進路』なのだからという、こじつけのような理由で進路指導係の浜本に任された。これは浜本と『フレンズ』との絆を土屋校長がよくわかっていたからに違いない。もっとも浜本のことだったので『フレンズ』には「みんなでやって」の一言だったが。生徒側のリーダーは事務的なことなので、やはり祐一がすることになった。祐一は直美や真貴子たちの話を聞きながら、純子の報告会とはいえ、純子にはいまだに残るかもしれない症状からして、発表の前面に立たせることは避けたほうが良いのではないかということを重要視して、司会進行と純子の代弁を放送部の裕子に任せることにした。

 内容の一つ目は、募金金額や、いただいた方々の発表と御礼。

 二つ目は、『たんぽぽSVセンター』でも宣伝しているように、学生たちが応援に来てくれるだけでも喜んでもらえること、被災地でのボランティア活動は年単位で、根気よく、自分自身が燃え尽きないようにして参加して欲しいこと。

 三つ目として、純子の撮ってきた写真や描いたスケッチをスクリーンに映しながら、純子の原稿を裕子が流暢に読み上げた。純子の装備の紹介のときだった。特にレトルト食品のカラフルでおいしそうな画像には会場から「おぉ~」という歓声が上がった。



  『終章』


 高校生活最後の夏休みになり純子は祐一と部室の奥で話し込んでいた。それはお互いの進路のことだった。

 祐一から「純子さんはあれだけの才能があるんだから、やっぱり芸術学部にいくの?」

「う~ん、絵は大好きだけど、二浪も三浪もして、美大なんかに行きたくないわよ」

「そうだよね。多浪って青春時代の感性の無駄遣いだと思うんだよね」

「じゃあ、祐一君は? 理系なんでしょ」

「うっ、うん、もともとは原子力発電の技術者希望だったんだけど」

「原発っていまはホントに嫌われちゃたね」

「でも原発自体は全国で稼働しているわけだから・・・」と考え込んでしまった。

「じゃあ、具体的にどんな仕事をしたいの」

「一口に原子力関係って言っても工学系、物理系、放射線管理系 電気系があるそうなんだ。他にも、自治体のなかで避難計画を作っておくことも重要だから僕でもできそうな仕事があるかもしれない」

「祐一君はまじめだから公務員向きかもね。いっそ国家公務員を狙ってみたら?」

   純子はようやく症状が回復してきた頃であり、祐一にとっては原子力発電所が電源喪失によって大事故を起こしたことから、二人とも卒業後についてはこれから考え直さなくてはならない立場だった。二人は純子が被災地で食べきれなかった『アルファ米』の『ドライカレー』と『えびピラフ』を選んで昼食をとることにした。

 純子から「毎日、新鮮なお水とご飯があるってそれだけでも幸せなのよね」

 祐一は「そっか、そうだよね。純子さんの貴重な体験だよ」

 突然祐一が「僕たちって、もしかして『自分のためだけの進路』を考えていないかな?」

「どういうこと。それじゃいけないの?」

「つまり、自分を生かすっていうことは、自分をどう殺すかっていうことじゃないのかな」

「自分を殺すですって!」

「びっくりさせたけど『自分を社会に捧げる』っていうこと」

「祐一君のこと初めて尊敬する」

「校長室に入った時に『滅私奉公(めっしほうこう)』っていう古い額があったんだよ」

「なんかすごい言葉。さすが文系型の理系よね」

「これはね『自分の願望の追求よりも社会のために尽くせ』っていう意味だと思うよ」

 そこへ『アルファ米』の香りを嗅ぎつけたかのように直美と真貴子が入ってきた。

「ふたりとも、受験勉強しなくていいの」

「あっ残りの食料ってまだあるじゃない」 と言って遠慮なく食べ始めた。

「おっカロリーメイトもある」と、ますます純子のバックのなかを減らしていった。

  そこへ希美と磨美も遊びにやってきた。二人は特にバーナーとコッヘルをしげしげと興味深く眺めていたので、部室内で『けんちん汁』を作ってみることにした。この美術部の奥は、いまや『フレンズ募金』の仲間たちのコーナーであった。

 そこで祐一から「直美さんたちは卒業したらどうするの」

 直美は「スポーツ関係のビジネスっていい感じでしょ。スポーツを楽しんでもらって自分の収入にもしたいの。だからもう十月にはスポーツ専門学校に申し込むつもりよ」

 それを聞いた祐一は「さすがに直美さんはしっかりしているよね」

 真貴子からは「じゃあ、もう走らないの」

「そうじゃないけど、走るだけじゃ稼げないでしょ。真貴子こそどうするの」

「インカレでも直美と競り合いたかったけど、そうでなかったら教育学部から体育の先生になって『何かのスポーツを一生続けたい』っていう生徒をたくさん育てたいと思っているの。それにスポーツ指導では暴力主義がいまだに横行しているでしょ、辻みたいな暴力教師を排除する学校にしたいのよ」

 祐一と純子は二人の話の中に『社会への貢献』という気持ちを感じ取った。

 真貴子が「で、お二人はどうするの」と聞いてきたのだが、二人には沈黙が続いた。


 純子が突然、「私、看護師になる」と言い出した。

「えぇ~~」

「看護学部って入試に数学あるんじゃない」

「卒業するとき国家試験に受からなきゃ四年間が無駄になるのよ」

「実習が忙しすぎてバイトなんかできないみたいだよ」

「つまり、遊べる学部じゃないってことよ」

「看護師って大病院なんかに勤めると休む暇もないし結婚相手も見つけられないみたいよ」 などと、部室内は、純子は引き留める声で溢れた。

 純子からは「人を助けたいのよ。専門の知識と技術をもって」と、真澄の言葉がそのまま口に出てきていた。

 祐一「そっかあ、やっぱりそれは純子さんが被災地を見てきたからだよね」

 真貴子「それはすごい希望だけど、数学はどうするのよ、数学は」

 純子には背後霊のようにどこまでも「数学」がついてきているようだ。

 直美が「どこ受けるの」

「茨城の看護学類ってとこ」

「なに、そのガクルイって」

「被災地で真澄さんから聞いたのよ」

「学類って紫峰大学(しほうだいがく)のことじゃないの」

「準旧帝大クラスでしょ」

 純子「それって、レベルが高いってこと?」

「決まってるじゃない。身の丈に合った大学っていうのを考えたほうがいいわよ」

 そこへ直美が「受験科目はホームページで調べて、難易度はパスナビで調べたら」と言うと、

 祐一が「この学類って、一次は九五〇点満点のうち、数学は二〇〇点だから「二十一%の比率」。二次も合わせた総合点は千七百五十点満点のうち、数学は二〇〇点のままだから「十一%」に下がる。一次では①の地歴公民重視型と、➁の理科重視型から選べて、二次でも「国語型」か「理科型」の選択ができる。外国語は一次と二次の両方合わせて五〇〇点で、面接が三〇〇点だよ。だから純子さんにあった受験パタンを選べばいいんだよ」

「そうなんだ。じゃあ度胸のある純子は面接満点だね」

「英語の配点がデカいけど、純子のママって英会話教室でバイトしていなかったっけ」

「パスナビだと一次試験の最低ラインは七十五%って出たわ」

「足切りは四倍だから、もっと詳しい情報は予備校がいいんじゃないの」

 最後に祐一が「一次試験の数学だけだったら、いまからの過去問対策で全体の足を引っ張らないようにしておいて、純子さんが得意な国語・英語・地歴公民で逃げ切るっていう作戦はどうかな。それに基礎理科なんかは一般教養みたいなものでしょ」

「やってみればいいんじゃない」

「すぐに模擬試験の申し込みだね」

「センター試験パックは河合塾がいいわよ。なんといっても過去問を解きまくること」

「それでも足りないところを祐一君が教えてあげたら」

 純子の進路は突然具体化した。まるで明日からは正看護師のようだった。

 純子としては、今までの『真澄さんのようになりたい』が、『なれるかもしれない』に変わり、『もしかしたら、真澄さんと同じ病院に勤務できるかもしれない』と思うと直情直行型の性格がブルドーザーのように後押しを始めた。一方、そのときの純子から見ればフィールド外にいるような直美と真貴子だが、『純子に進路を決めさせた』という満足感に溢れてますます携帯食料の片付けは進んだ。


 次も真貴子から「祐一君はどうするの。やっぱ、原発屋なの」と聞いてきた。

 祐一は「エネルギーを持たない日本にとって原子力発電はいまのところ必要だし、それによって人々の生活や産業も成立しているわけだから・・」と、純子に聞かれたときと同じように戸惑いながら答えたものの、祐一の中には、原発災害の驚きがぬぐい切れないでいた。

 それとともに純子が被災地で得た記憶と純子の今の決意が祐一に寄り添ってきていた。

「僕は医者になることにする」

「えぇ~、今度は医学部かよ」

「たしかに祐一君はできる頭だけど、医学部って神みたいな受験生がいくところよ」

「それに私立だったらいくらかかるかわかんないよ」

「祐一君の(うち)って、お金持ちなの」

「いや、しがないサラリーマンだよ」

「じゃあ国公立の医学部だけど、東大受験みたいなものよ」

「地元だったら下宿代もいらないし交通費も安いかも」

「そういう問題じゃなくって入学試験の難易度のこと」

 祐一は「ホントは、子どものころから医師になりたかったんだ。でも、すごく難しいって聞いていたからそれだけで諦めていたことに今気づいたよ。夏前に進路指導の浜本先生に相談した時、『青春時代に分かれ道に来た時には、より困難なほうを選ぶべきだ。人生の選択肢に上げた以上はやってみたいからなんだし、挑戦すらしなかったら、きっと悔いは残るだろうね』だって。アントニオ猪木さんの『道』のビデオも見せてくれたよ」


  『道』


  この道を行けば

  どうなるものか

  危ぶむなかれ

  危ぶめば道はなし

  踏み出せば、

  その一歩が道となり

  その一歩が道となる

  迷わず行けよ

  行けばわかるさ


 みんなは祐一が暗誦した『道』を静かに聞いていた。

 そして、純子と祐一は夢中に勉強してついに希望した道に進んでいった。

 大学卒業後の純子は、上品に言えば不測の事態が起こっても落ち着いていられるタイプだからということからであり、ズバリ言えば、なんといっても度胸があるということから、病棟での経験を積んだ後、必要な資格を得て緊急時に対応する『ドクターヘリ』に乗ることになった。いわゆる『フライトナース』として今度は純子が患者のいる現場に急行する立場になっていった。

 一方、祐一は地元の「北斗大学医学部」に「緊急医療従事可能枠」として進学し、卒業後は国内や海外での災害発生時に派遣されることになった。

 卒業式の後の祝賀会でのことだった。北斗大学医学部の「海外緊急医療援助隊」の編成リーダーであり、それまで、総務省や他大学や各病院との連絡調整役を長年やってきた蛭田教授は定年のためにこの年度末をもって、その任務からようやく解かれるときだった。自分の研究や学生を指導しながらの『医療援助隊のマネジメント』は、神経をすり減らす業務ばかりだった。まさに医師免許がなくてもできる仕事ばかりに忙殺されていた。そんなことからだろう少量のお酒ですでにほろ酔いとなっていた蛭田が「みんなぁ、卒業証書だけはなくすなよ」と周囲の笑いを取っていたころだ。祐一がお礼の挨拶のために近づくと、「祐一君、君が被災地のために『フレンズ募金』をまとめ上げたことは知っているよ。海外でも君の手腕に期待しているからね。さあ、乾杯しよう」と祝ってくれた。実は祐一は入学試験とき、一般教科だけでは合否ラインを上回ってはいなかった。一方、蛭田はその時の入試委員長であり面接官も兼ねていた。これ以上は誰にも明かせないことだが、まさに『情けは人の為ならず』の良いお話である。

  この卒業パーティーは、次第に蛭田教授の『お疲れ様パーティー』に変わっていった。それは卒業生たちが蛭田教授の長年の業績の貴さや、苦闘ぶりを十分知っていたからだった。また、蛭田は幼少のころから苦労を重ねてきただけあって学生への面倒見もとても良かったのだ。卒業生たちからは、次々と「先生! お疲れ様でした」、「先生の笑顔、忘れませ~ん」、「ホントにありがとうございましたぁ」、という歓声に溢れ、お酒も注がれる中で蛭田も初めて『医学部の先生』として終えることができた気がした。


 さて『フレンズ』の他の生徒たちもそれぞれの道に進んだが、美術部と陸上部の卒業生たちを中心にした同窓会は年に一度は開かれた。そしてその会の万年事務長は、やはり海外に行っていないときの祐一だった。


  ~~「了」~~


 

 あらためまして、東日本大震災や能登半島地震などの大災害で被害に遭われた方々へ謹んでお見舞いを申し上げます。また、小説内の「真澄」のモデルにさせていただいた「宮城県南三陸町職員の遠藤未希さん」のご冥福を心よりお祈り申し上げます。「真澄」とは、大学2年生になるときの春休みに自ら命を絶った私の学生時代の同級生の名前です。彼女も医療従事者を目指していたのです。

 さて、この小説は渡辺淳一先生の『阿寒に果つ』を読んだことがきっかけでした。渡辺先生のその小説の中の主人公である『時任純子』は、当時の北海道で『天才少女画家』として高く評価されていた『加清純子さん』でした。加清純子さんは高校卒業を控えた一九五二年(昭和二十七年)、突如この世の画壇から去ってしまったのですが、わたしは『純子さん』を平成・令和の時代に蘇らせるためにこの小説を書き続けていました。私の小説内で、医学的な知識で正しいことは主治医からのご教示のおかげであり、医学的知識に限らず誤った知識は私が自分で調べたり勝手に考えたりしたものです。また、この小説はフィクションであり登場する人物や学校などはすべて架空のものでございます。

 お読みいただきましてありがとうございました


  ~~お世話になった方々(順不同にてお許しください)~~

 東京都新宿区『ピースボート災害支援センター様』

 札幌市『小竹美術様』

 札幌市『北海道画廊様』

 札幌市役所建設局『みどりの推進部・みどりの管理課様』

 国立大学法人筑波大学 「教育推進部入試課様」・「芸術系様』

 北海道の方々


 福島県の方々

 数学や理科の先生方

 そのほか多くのみなさんありがとうございました。


 ~~参考にした書籍~~

『阿寒に果つ』渡辺淳一 著 (講談社)

『うつ時々、躁 私自信を取り戻す』 海空 るり 著(岩波ブックレットNo.992)

『家族のためのうつ病』(別冊NHK、今日の健康)

『カメラは私の武器だった きみは、アキヒコ・オカムラを知っているか』暮尾淳 著 (ほるぷ出版)

『油絵・分かりやすい混色教室・オリジナルカラーをつくろう』鈴木輝實 著 (グラフィック社)

 *『第七章』で主人公・純子が読んだとされる『新書』 につきましては、筆者は自分の記憶をたどってみたのですが、その出版社も書名も探すことができませんでした。


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