2話 湖
アリーアは久しぶりに森の小さな家に帰ってきた。学院の近くのアパートメントとは違って、人の気配がない。ただ小鳥の声が聞こえ、木々の葉の擦れあう音が聞こえ、遠くの川のせせらぎが聞こえる空間。エルフの彼女にとって、やはり森の家は落ち着いた。テーブルに温かいココアを置き、椅子に腰掛け、フッと息を吐き、預言のことは忘れようとした。なのに、アリーアはあの本を渇望していた。預言はまるで彼女の内から溢れる言葉のようだった。
一瞬、記憶が飛んだような気がした。こんな事は初めてだ。ふと…アリーアは目の前の物を見て驚くと言うより、恐ろしくなった。今彼女の目の前にあるのは王立高等学院の図書館と同じ装丁が施されている本。あの預言書、訳がわからない。こんな不気味な物は即刻学院に返したいと思いながら、もうすっかり暗くなった森を眺めた。返すのは明日にして、とりあえずは考えるのをやめよう。彼女は1人眠りについた。もう疲れた…もう無理…。
やっぱり、熟睡できなかったのか、深夜に目が覚めた。窓を開けると冷たい空気が部屋の中に入り込んでくる。アリーアはこの静けさと安らぎを森に来てから享受していなかったことに気づいた。今は、教職を追われたことによるショック状態にあるのだと思うことにした。彼女はストールを首に巻いて家の外に出ると、蛍だろうか、もう、こんなに寒いのに…と不思議に思いながら、小さな光が飛び交っているのを見つめた。空は晴れ渡り、星がよく見える。どうりで冷えるはずだ。都会にいた頃は、星を見上げるなんてなかった。彼女の情熱を捧げた教師生活、あんなに好きだった図書館通いが、あの本との出会いによってあっという間に壊れた。後悔はないと言えば嘘になる。それでも彼女は無意識のうちにあの預言書を選んだ。きっと理由があるはず。きっとこれから、その理由がわかるはず…。
森のこんな所に道が…今まで気づかなかった細い道を辿ってみた。しばらく歩くと、視界が開けた。湖があったなんて…。その湖は神のために用意された祭壇のように荘厳な静けさに包まれ、空に輝く星々の神々しい光で水面が照らし出されている、と思った。いや、星々の光ではない。一人の青年が虹色の光で辺りを明るく照らしているのだ。青年は透き通るような肌。銀色の髪。細く長い手足。神殿に飾られている彫刻のような端正な顔だち。しかも遠くからでもわかるほど、不思議な色の瞳。そして何より…悲しいほど儚げだった。
彼は湖のそばに落ちていた細い棒を拾うと、静かに湖に入っていった。アリーアは驚いたが次の瞬間、彼が顔をあげた時には棒の先に魚を仕留めていた。彼は岸に上がって座り込むと、近くの木にかけていた布を肩から羽織り、再び彼の手から虹色の光を放ち、その光を魚に当てた。プスプスプスと魚の焼ける音と匂いがしてきた。その音と匂いでこれは幻想ではない、現実なのだとアリーアにまるで訴えているかのようだった。彼は今度は片手を掲げ虹色の光を放つと風が吹き、落ち葉を足元に集めた。無頓着にその上に横たわった。それが彼の寝床なのだろう。ここは獣や魔物が出る森の中、いくらなんでも無防備すぎる。注意しに行こうかと迷ったが、次に放たれた虹色の光は彼の周りに結界を作り出していた。彼は今までこうして自分を守ってきたのだろうか。この瞬間の静寂、荘厳さにアリーアは小指すら動かすことはできず、ただ彼を見つめていた。結界があるとわかっても尚、留まっていた。いや、何かが起こった時に彼を守るためだと自分に言い聞かせて、そこに留まっていた。
辺りが明るくなってきた頃、森の動物たちが彼の結界の周りに集まってきた。彼を起こしているのだろうか。彼は結界を解き、動物たちに触れると少し優しい顔になっていたが、あの儚さはそのままだった。アリーアにとってその光景はまるで宗教画を観ているようだった。その神聖な光景の中に自分が出ていってはいけないと思った。彼は本当に美しいだけではなかった。華奢に見えた体は均整のとれた筋肉に包まれていた。
そして、今気づいた。肩から布を羽織っただけの青年の均整のとれた身体を綺麗だと思って見惚れている自分に。えっ!




