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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

断末魔

作者: 八代 秀一

 鳴き声のするほうへ、そろり、そろり。

抜き足差し足でクヌギの木の根元に忍び寄り、一気に虫取り網を振り下ろす。


 ジジジジジジジッ。


 が、アブラゼミは寸でのところで虫取り網をひらりとかわし、突き抜けるような夏空の向こうへと飛び去って行ってしまう。


「残念、逃げられちゃったわね」


 悄然と肩を落とした息子の頭を麦わら帽子越しに撫でながら母親は言った。

が、蝉も短い一生を虫籠の中で過ごすなんて真っ平御免だろうから、捕まらなくて良かったというのが母親の本音ではあったが、当の息子は諦めがつかないらしく、すぐにまた虫取り網を構えて、鳴き声を頼りに次の獲物を探し始める。


 本当にどうして男の子はこんなに虫が好きなのかしら。

女の母親には、虫なんてどれもゴキブリにしか見えないのだが――。


 日も暮れかけた帰り道。

肩から下げた虫籠を誇らしげに眺める息子に向かって母親が言った。


「たくさん捕まえたわね。でも、そんなにたくさんは飼えないでしょう。逃がしてあげたらどう?」


「嫌だよ。せっかく捕まえたのに」


 息子の返事はにべもない。

当然か、彼にしてみれば丸一日汗だくになって捕まえた戦利品なのだから。


「そうね。でも蝉さんは長い間、暗い土の中でじっと我慢して、ようやく地上に出て来られたのよ。坊や、知っている? 蝉さんは地上ではたった七日間しか生きられないのよ。それなのに、その短い一生を狭い虫籠の中で過ごさなくちゃならないなんて可哀想でしょ?」


 息子は母親の顔をじっと覗き込み、長い黙考の後に再び虫籠に視線を落とした。

アブラゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシ。

たくさんの種類の蝉が窮屈そうに、格子状の虫籠の壁に張り付いている。


「きっと蝉さんだって、自由に空を飛び回り、たくさんお友達と遊びたいはずよ。ほら、その証拠にお外で自由に生きている蝉さんたちはあんなに楽しそうに鳴いているじゃない」


 夕日に影を強めた街路樹では、今も蝉たちが我先にと大声を張り上げている。

夏の暑さに拍車をかける、生命力に満ち満ちた大合唱。

けれども、その賑々しさとは対照的に息子は汗ばんだ髪を寂しげに揺らして、


「違うよ、ママ。蝉さんたちはみんな、楽しくて鳴いているわけじゃないんだよ。むしろ、暑くて、苦しくて、誰かに助けて欲しくて泣いているんだ。だから、僕がこうして蝉さんたちを助けてあげているんじゃないか」


 一瞬、息子が何を言っているのかわからなかった。


 ――暑くて、苦しくて、助けを求めている? 蝉たちが?


「そんなわけないじゃない。七年もの間、土の中で我慢して、ようやく地上に出て来られたのよ。嬉しいならいざ知らず、苦しいだなんて……」


 すると、息子は目に見えて落胆したとばかりに長大息を漏らして、


「確かに土の中にいた時は、蝉さんたちもそう思っていたかもしれない。でもね、現実は違ったんだ。夏の日差しは身を焼くように熱く、苦しく、餌だって思うように見つかるわけじゃない。その上、外の世界はどこもかしこも外敵ばかり。こんなことなら大人しく土の中で暮らしていればよかった。どうして七年も我慢したのに、最後の最後にこんなに苦しい思いをしなきゃならないんだって、僕には蝉さんたちがそう叫んでいるように聞こえるよ」


「それは坊やの勝手な解釈でしょ。蝉さんたちはそうは思っていないかもしれないじゃない」


「そうだね。だから、蝉さんにとって外の世界が楽しんでいるっていうのも、ママの勝手な解釈。蝉さんたちの気持ちは蝉さんたち本人にしかわからない。でもね、ママ。もう一度だけよく耳を澄まして聞いてみて欲しいんだ。ママには本当にあの声が、楽しい、楽しいって喜んでいるように聞こえるの?」


 言われてみれば、確かに鼓膜が張り裂けんばかりの蝉の鳴き声は楽しさや嬉しさからは程遠い。

むしろ必死さや切迫感といったものを感じなくもなかったが、まさか長い地中での生活を終えて、ようやく日の目を見た一生の晴れ舞台が、夏の陽射しに身を焼かれる阿鼻叫喚の地獄だったなんて、そんなのあまりではないか。

何より子供の教育上に良くないに決まっている。


「そうね。もしかしたら坊やの言う通りなのかもしれない。でもね、やっぱりママは蝉さんたちが一生で最後の七日間を地上で楽しく暮らしているって思いたいわ」


 すると息子はいよいよ愛想が尽きたとばかりに鼻哂して、母親の言葉をそっくりそのまま足元に転がった別の誰かに伝えるように、「だってよ」と吐き捨てたのである。


転瞬、地面でひっくり返っていた蝉の死骸が、はたと息を吹き返したように絶叫し、ねずみ花火よろしく、くるくると回転して暴れ狂う。


 命の残り火を散らすようにのたうち回るアブラゼミの今わの際。

夏の終わりの風物詩――俗にいうセミファイナル、もとい蝉爆弾というやつだ。


 驚いた母親は踏鞴を踏み、あわや足元に迫ったアブラゼミから及び腰で逃げ惑う。

するとそんな母親の腕を掴み、息子が噛んで含めるようにこう言ったのである。


「ちゃんと見届けて上げようよ。ママが言ったんでしょ。蝉さんたちは地上に出てきて幸せだったんだって。だったら、ちゃんと見届けてあげようよ。これがママの言う、幸福な七日間を終えた蝉さんたちの最後の姿だよ」

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