まだ、何も始まってない
ミルセ達のアジトは、人目に付かない森の奥深くにあり、簡易結界で
保護しているので (その結界が、マジックミラーの役目を果たしている為)
見ただけでは、気付かれない様になっていた。
そのアジトの広場で今日も朝早くから、ミルセと手下達が、鍛錬に励んでいた。
「お前が、最後か」「このまま、私から誰も一本も取れずに終わるのか?」
「お願いします!」「気合い入れて、頑張ります」
手下の一人が、木の剣を握りしめてミルセと向き合うと
二、三度呼吸をしながら、ジリジリ間合いを詰めるが
なかなか、踏み込めずにいた。
男は身長百九十センチ近くある巨体で、百八十に満たないミルセを
見下ろす形で、腕のリーチも遥かに長く、この位置からであれば
ミルセは届かない。それも分かっている、分かってはいるが
それでも、握りしめた木の剣を振り下ろせない。
それは、勝てない…と、男の本能がそう言っているからだった。
「どうした?こっちからいこうか?」
男はミルセの声に、ビクッと反応すると唇を噛み締めて
覚悟を決めた。
「てぇやあ〜」
せめて一矢報いたい。その思いを胸に秘めて男は華麗な足捌きで、
ミルセとの距離を一気に縮めて、木の剣を振り下ろした。
振り下ろした木の剣は、ミルセの顔の目前に迫り、その速度に
対応出来なかったのかミルセは、その場に立ち竦んでいた。
勝てた!男は思った。
周りで見ていた手下達も、同じ気持ちだった。
いくら姉さんでも、あれは避けられない!
だが振り下ろされた木の剣が切ったのは、ミルセの幻像だった…
「え?」
振り下ろした木の剣は空を切り、勢い余って男は、前のめりに倒れた。
「残念だったな」
男は立ち上がり、砂を払うと深くお辞儀をした。
「有難う御座いました」
物陰から一部始終見ていたセルアルは、ミルセの強さに深い感銘を受けた。
自分も強くなりたいとそう思ったが、それは、ほんの心の迷い
こんな細い体で強くなれる訳が無い。
あの人は言葉にしないと伝わらない、そう言ってたけど言葉にしても
意味が無い。だって、どうしようもないじゃ無いか。
セルアルは、見つからない様に立ち上がって、歩き出した。
「セルアルはもっと飯を食べて、肉を付けろ!」
「うわ」「びっくりした!」「気付いてたの?」
セルアルが振り向くと、ミルセがニヤリと笑っていた。
「ね、ねぇ」
言葉はそこで途切れて、拳を握りしめている右手は、微かに震えて
目をギュッと閉じると、意を決して口を開いた。
「僕も強くなれる?」
「う〜ん」「私に聞かれても、困るかな」
「やっぱり」「僕じゃあ、無理だよね」
「どうしてそう思う?」
「だって力も弱いし体だって、こんなに…」
「だから、どうしてそう思う?」「まだ、何もしてないだろ?」
「まだ何も始まってさえないのに、諦めるならそれもいいだろ」
そう言い残して立ち去った、ミルセの後ろ姿をジッと見た後
セルアルは、空を見上げた。そうだ、僕はまだ何もしてない!
有難う!ミルセ!
そして翌日、ミルセ達の鍛錬に参加するのかと思ったが、
昨日と同じく、ただジッと見ていた。
時々、まるで復習するかの様に、攻撃を捌く格好をしたり
拳を突き出しては、器用に腰を捻って、蹴りに繋げたりと
一人黙々と、セルアルなりに鍛錬に励んでいた。
セルアルが鍛錬に加わる事は、一度も無いまま一年が過ぎたある日。
「水が全然無いよ〜今日の水汲み当番は誰だい?」
「ちょっと待って下さいね」「え〜今日は・・・と」
その時、交代でアジトの周辺を見廻りしていた、
手下の一人が、血だらけで帰って来た…
「おい!どうした何があったの?」
「ガ、ガイア・ウルフ数体に、お、襲われまして」
「逃げ帰るのが、精一杯でした」「す、すいやせん」
「馬鹿野郎!」「それでいいんだよ!おい早く治療してやれ!」
「セルアル!お前も、治療手伝ってやれ」「セルアル?居ないのか?」
その時、嫌な予感がした…まさか今日の当番は・・・
「お待たせしました」「今日の水汲み当番、セルアルでした」
「うわ!どうしたんですか!」
「ガイア・ウルフにやられたらしい」「お前らコイツの治療を頼む」
「私は、セルアルを探してくる!」
ミルセは森の中に入ると、木を登り枝から枝へと、飛び移りながら
セルアルの姿を探した。
水汲み場の湖迄、アジトからそう距離は無い、だから大丈夫だろうと
思ったが、ウルフのしかも希少種がこんな森に…
奴らは暗い洞窟を好み、陽の下に出てくる事は無い筈なのに
セルアル、どうか無事でいてくれ!
ミルセはセルアルの元へと、急いだのだった。