中短編集:衝動的に(書いて)やった。反省はしていないがちょびっと後悔はしているかもしんない。
グルメな令嬢はふてくされる
拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
「レイミア・モルモリュケー・プルクラベスティーア、貴女との婚約を破棄……いや、解消させていただけないだろうか」
「フィーリウスさま!」
「……すまない」
愕然とした令嬢に、王族の一子は顔を背けたまま謝罪した。その白皙には苦渋の色が浮かんでいた。
「フィーリウスさま。至らぬわたくしが気のつかぬうちに、なにか不調法をいたしてしまったのでしょうか」
「いいえ、貴女は常に美しく、気高く、そして完璧な淑女でいらした」
「では、なぜ?なにゆえ翼が殿下の心に生え、わたくしのもとを飛び去ってしまわれたのでしょうか?」
貴婦人としての節度すら溢れる激情で溶け崩れかねぬ。
それでも、きゅっと握りしめた小さな拳二つとふるえる声を涙の防壁に、切々とレイミアは訴えた。
だが、フィーリウスは黙して答えぬ。その頬は蒼白なまま、硬質な線を描いたままだった。
「数々の欠点はあれども、わたくしは狭量ではないと自負しております」
それだけは、このセルサングィス王国に生きる誰にも否定のできないことだったろう。
レイミアはおのが領地と同数の孤児院を王都にうち建てていた。それも貴族によく見る、気まぐれな、ほんのいっときの善行ではない。フィーリウスが幼き頃からずっと、貧しき民がよりよく生きられるようにと、質素だが十分な食糧と清潔な布地を与え、衣服に仕立てる仕事をもたらし、最下層の生活者にすらみずから手を差し伸べる献身の淑女としてレイミアの名は知られていた。
「ですからフィーリウスさま。初めてお目にかかったときに申し上げましたとおり、殿下のお心が別の宿り木を見つけたのであれば、わたくしはその宿り木にもこの心を注ぎましょう。一本と言わず、何本でも」
寵を与える女性たちがいるのならば、その女性たちすら数を問わず愛そうという、じつになんとも心の広い発言に、だがフィーリウスの表情はますますこわばった。
「貴女のその寛大さには心から感謝している。だが、わたしには……」
「そんな……」
そよ風にも耐えぬ細い花枝の風情で、レイミアがふらりとよろめいた。だがフィーリウスは婚約者に指一本ふれようとはしなかった。
「重ねてすまないが、貴女と当家との盟約は、別の者に必ずや引き継がせる。だからその破棄だけは、思いとどまっていただきたい」
「……ずいぶん、勝手なことばかりをおっしゃいますのね」
「ああ、そうだ、わたしは勝手だ……っ」
不意に長身がぐらりと揺らいだ。
「フィーリウスさま!」
怨じた色も瞳から抜け落ち、人目があれば驚かせずにはいられなかったような速度で、淑女は冷たい婚約者の身に沿った。
「……まさか」
「ああ、貴女には腑甲斐ないところばかりを見せる羽目になってしまった」
「……かしこまりました」
目を伏せ、唇を噛んでいた令嬢はしずかに頷いた。
「殿下のご要望、確かに承りました。後日、新たな盟約者の方とお目にかかることをお待ちしております」
「面倒をかける。……なにか、わたしにできることはあるだろうか」
その静かな問いかけに、淑女の仮面がとうとう涙に溶けた。
「では、一つだけ。思い出に、最後の口づけを……!」
「…………」
「はしたないとはお思いでしょうが、どうか殿下との思い出を。わずかながらも、いただけないでしょうか」
レイミアの熱から逃げるように、フィーリウスは顔を背けた。
「……それだけは、容赦を、していただけないだろうか。どうか」
「……無理を申しました。申し訳、ございません」
悄然と淑女の礼をとるレイミアの、そのさびしげな微笑みを、最後の最後まで、フィーリウスは見ようとはしなかった。
「ただいま戻りました」
レイミアが自邸に戻ると、彼女を迎えたのは、家宰のダルクアルと侍女長のイアルクだけだった。
「お帰りなさいませ、レイミアさま。新たな盟約者と婚約者候補の選定に入られましたこと、お慶び申し上げます」
「……ありがとう、ダルクアル」
深々と一礼したダルクアルが婉曲的に婚約解消を言祝ぐ。その心遣いにレイミアの心はほんのりと暖かみを感じた。
王宮の深奥での会話すら、無駄に使う者の姿など見えぬこの屋敷裡でなされたことのように、ダルクアルとイアルクがすでに聞き知っていたことには驚きもしなかったが。
「レイミア様。勝手ではございますが、次なる盟約者、婚約者としてふさわしいと思われる方々のお名前をまとめたものを、お部屋に用意してございます。御心痛限りなしとは拝察申し上げますが、悲しみは新たな喜びにこそ溶かしうると申します。なにとぞ、フィーリウス様よりもレイミア様にふさわしいお方をお定め下さいますよう」
「わかりました、イアルク。……二人には苦労をかけます」
「とんでもないことにございます」
「……のちほどフィーリウス様には最後の書状を送ります。用意を」
「かしこまりました」
その夜、レイミアの自室から灯りが消えることはなかった。
レイミアとフィーリウスとの婚約解消が公表されるやいなや、レイミアの屋敷には多くの書状が届けられた。
王族からのものも少なくはないが、王家の血を引く高位の貴族からのものは驚くほどに多かった。みずから釣書持参でレイミアの屋敷を訪うものすらあったほどだ。
だが内容はどれもこれも、彼女の愛を乞う求愛者からの恋文ではなかった。
いかに美辞麗句を並べ立て、レイミアの美貌を称えようとも、書状の送り手たちが望むものは、レイミアのあらたな盟約者として、そして婚約者としての地位であった。
しかし、レイミアのまなざしに、それを嘆く色はなかった。
もともと王侯貴族の婚姻とは、すべからく家と家との間に結ばれる誓約。血に血を絡ませ、さらに強固な結びつきを作るためのものだからだ。
とはいえ――
「やはり、条件に合う方というのは少ないものね」
レイミアはあえかに吐息をついた。
レイミアが相手に求めるのは、フィーリウスと同等、あるいはそれ以上にセルサングィス王家の血を色濃く継いでいることが最大にして最低必要条件だった。多少の年の差などはどうでもよい。
「でも、望みを上げるならば、そう、ときめきを多少なりとも感じられるお方であればよろしいのだけれど……」
「レイミア様はいまだに夢見がちでおられますね」
「イアルク」
レイミアがかるく腹心を睨んだとき、ノックの音がした。
「失礼をいたします」
「ダルクアル。何か」
戸口へと進み出たイアルクを制して、レイミアが直接問う。
「先触れのない、アルキドゥクス大公の書状を携えたお客様がおいでになりました」
「まああ」
イアルクは柳眉を逆立てた。
貴族の訪問はあらかじめ日時を約し、先触れののちに当人がゆるゆると訪れるものだ。
このように突然、なんの知らせもなく令嬢を訪うとは。
「あまりにも非礼でありましょう。ダルクアル、なぜお引き取りを願わないのです」
「ですが、門前払いにするには問題があるかと。アルキドゥクス大公のご体面にもかかわります」
「ダルクアル」
ふたりの小声での言い合いは、主によって中断された。
「アルキドゥクス大公の書状とは?」
「こちらにお預かりをしてまいりました」
プルクラベスティーア一門の宰領を行う家宰というよりも、レイミアただ一人に仕える執事のような――彼にとってはどちらにしても代わりはないのかもしれないが――手際でダルクアルが開封した書状を、イアルクは主のもとへ運んだ。
「……なるほど。これではお目にかからなければならぬお方のようです」
応接間に入ったレイミアを見るなり、破顔して立ち上がったのは、異国風の顔だちをした男性だった。
「初めてお目にかかります。レイミア・モルモリュケー・プルクラベスティーアと申します」
「ああ、レイミア様。ようやくお会いすることがかないました喜びに、この胸から血潮が音立て沸き立つ思いにございます。テラエメリタ王国はオドラータクミヌム公爵が一子、アークレピペルと申します」
風変わりな礼に込められた熱はひどく高く、レイミアはまたたきに戸惑いを隠した。
「オドラータクミヌム公子さま」
「どうかアークレピペルとお呼びください。セルサングィス王国の令嬢、レイミア様のお口から伺えば、ありふれた我が名の響きも天上の調べのように感じられてなりません」
「まあ」
セルサングィス王国の貴族にしては大仰なアークレピペルの仕草は、多少の滑稽みを帯びてレイミアをほほえませた。それゆえイアルクは口をつぐんで静かに控えた。強すぎる好意の表情に夾雑物はほぼなく、自身が主がために書き上げた次の婚約者候補の中に、確かにオドラータクミヌム公子の名が入っていたからでもある。
だがレイミアの微笑は、公子の行動にかき消された。
「レイミア様。わたくしの拙速をお許しください。時はあまりないのです」
せっかちにもアークレピペルは、レイミアが椅子にかけるのも待たず進み出て、うやうやしく片膝をついたのだ。
「わたくしがあなたを恋うることを――乞うることもお許しください。わたくしにあなたの口づけをたまわりたい」
「無礼な!いくら公子といえども、横紙破りにもほどがございますぞ!」
割って入ろうとした忠実な家宰を、レイミアは繊手を上げてとどめた。
「わたくしの口づけを受けるということ。その意味をわかっておられて、そのようにおっしゃるのですか?」
「ええ」
アークレピペルの目が強く光った。
「わたくしはあなたが欲しい。レイミア・モルモリュケー・プルクラベスティーアというセルサングィス王国の令嬢が欲しい。かなうことなら、この場からテラエメリタ王国へ攫っていってしまいたいほどに欲しい。……ですが、それが叶わぬまぼろし、夢にもえがけぬ愚かなこととも承知いたしております。ですから、せめて、どうか。レイミア様の口づけの思い出だけでも、頂戴できないでしょうか」
「わたくしの口づけは、セルサングィス王族の血を引く者へのみ与えるものです」
「ああ」
拒絶の言葉に公子は微笑んだ。
「でしたら、問題はございますまい。わたくしの母は、セルサングィス王国の姫です」
「そうでしたか。シナスマロセ様の……」
レイミアはためらった。それ以上拒絶されまいと公子はさらに距離をつめ、さらに熱烈にかき口説いた。
「わたくしをどうぞお試し下さい。さあ」
長らく扉から漏れ聞こえた嬌声がようやく止み、顔を赤らめたレイミアが口元を抑えたまま応接間を出たのは、その後どれほど時が経ってからのことだったろうか。
夜闇に包まれたレイミアの屋敷は、新たな賓客を迎えた。
「アルキドゥクス大公御自らのお迎えとは」
「レイミア様にご迷惑をおかけすることになりましたのでね。そのくらいはと」
「迷惑とおわかりでしたら最初からなさらなければよいものを」
「あいかわらず手厳しい」
一人言のていで、しかし聞こえるように呟いたイアルクの棘ある言葉に、うっすらと大公は笑んだだけだった。
一介の使用人に接する大貴族の態度としては、あまりにも寛容にすぎただろう。
「申し訳ない。ですがどうしてもと願われたのでね。おかげでテラメエリタとの交渉ではずいぶんと有利になりました。セルサングィス王国の国益が守られたのも、レイミア様のおかげかと」
レイミアはぷいと横を向いた。
王族の血を引くアルキドゥクス大公サツレヤは有能な、だがそれゆえに油断のならぬ『旧友』だった。
陶然とした表情のまま、幸せそうに気を失った公子が運び出されることなど誰も気に留めなかった。注意を払わねばならぬ事はいくらでもあったからだ。
「アルキドゥクス大公。フィーリウス様が婚約解消を申し出られたのも、あなたの策ですわね」
「これはまた」
大公は底の見えぬ笑みを返した。
「どこにそのような証などございましたかな?」
「証がないのがあなたのなした証でしょう。どこまで探っても大公お一人どころか大公家とのつながりすら見つからないように隠滅されるのがあなたのやり方ですもの」
「と、糾弾はなされた」
大公は肩をすくめてみせた。
「ですが、曲がりなりにも裁きの場にわたくしを引き出すのであれば、今少し証拠をお探しになられた方がよろしいかと存じます。公平なる裁判官の得心を得るには、証拠、証人というものが必要になりましょう」
「……だからあなたは性悪公などと呼ばれるのです」
「その悪名は、レイミア『嬢』のかわいらしいお口からしか聞いたことがないのですが?」
「その呼び方をしないでと申しておりますのに」
むうと憤懣を表に出した令嬢の様子に、思わず笑みをこぼした大公は話題を変えた。
「ところで、かの公子はいかがでしたか」
「……香りに騙され、ワインと思って口に含んだら、香辛料をたっぷり入れた、匂いの強いチーズソースを熱したようなものでした。とてもとても濃厚すぎて、喉に絡みついて飲み込むことすら叶わず。早逝にお気をつけなさるようにと」
そっぽを向いたまま、それでも律儀に問いに答える令嬢の姿にサツレヤは微笑んだ。
「かないますならば、その旨をレイミア様のお名前で書状にていただきたいのですが」
「……ダルクアル」
「かしこまりました」
旧知の家宰に目を向けながら大公は問うた。
「直々のお筆は頂戴できませんか」
「ええ。セルサングィス王家への心づくしですもの。あれは」
レイミア・モルモリュケー・プルクラベスティーアは、『セルサングィスの令嬢』と呼ばれてはいるものの、正確にいうならば貴族ではない。定命の人間ですらない。
彼女は、このセルサングィス王国の建国に力を貸した吸血姫である。
数百余年も前、建国王パルマエにレイミアは惚れ込んだ。
生涯にわたりつねに謙虚で、憧れた高みに手を届かせる努力を弛まなかった、その人柄にではない。星霜に洗われ、甘くおさない少女のように頼りなく愛らしかったものが、みるみる青年の力強い美しさに、そして燻し銀の美丈夫へと変わっていった、その容貌にでもない。
彼女が愛でたのも、陶然と酔ったのも、パルマエの、その血の味にだったと言い伝えられている。
レイミアはプルクラベスティーア一族の力をもって、パルマエの建国を支援した。建国王はそのレイミアの助力に深く感謝し、一つの盟約を行った。
おのが血を愛しみ、味方してくれた吸血姫に、我が血同様に我が子々孫々の血もまた、彼女が望んだときに差し出すと。
レイミアは歓喜したという。人の一生は吸血姫の視座からは須臾の儚さ。パルマエの血はわずか数十年しか味わえぬ美味と諦めていたからだと。
それを末永く味わえる喜びに、彼女は建国王へ一つの盟約を送った。パルマエの子孫の血のある限り、パルマエが一生をかけ、作り上げたこのセルサングィス王国を守ることを。
建国史が伝える逸話がまことか否か。今この世にあってそを知る者はレイミアのみ。
とはいえ、レイミアに面と向かって真偽を問うような者などいはしないのだが。
建国王パルマエの盟約。それはセルサングィス王国にとって最大の愚行でもあり、最高の善政でもあったといえよう。
レイミアは、パルマエの子孫たる王族の繁栄と安寧を守るため、国が揺らぐことを望まない。
ゆえに、彼女は国をひそかに内側より支え続けた。
彼女はパルマエから与えられた自領内のみならず、王の領地の中でも最も重要な王都にも、領地より得られる収益の多くを注いだ。孤児院は不作や事故という不運に沈む者を救い上げ、教育を施し、高い能力のある人材を集め、その忠誠を得るためのものだ。けして洗脳の場所でもつまみ食い用のおやつ確保のためでもないと理解されている。
レイミアは美食家ではあるが大食漢ではないのだ。
「……かの公子は、一つの賭けだったのですよ」
「賭け?」
「ええ、あなたがかの公子の血を気に入ってくださるならば、なんとしても彼をセルサングィス王国に取り込むつもりでした」
王国の繁栄とは裏腹に、セルサングィスの王族は少しずつ衰微していた。
もちろん、レイミアが王族たちの血を吸い尽くしたがためのことではない。
パルマエとの盟約にのっとり、レイミアは王族と重代の取り決めを結んでいる。
一度当代お気に入りの血を持つと彼女が見極めた者は、パルマエの盟約者と呼ばれた。
盟約者は、男性なら婚約者として、女性なら義妹として、レイミアの庇護下に置かれることになる。
レイミアは、彼らからのみ血を受ける、というものだ。
吸血の負担に身体が耐え得ぬと判断すれば、どちらからでもその関係を解消することもできる。
このような、冷笑的に見れば人道的ともいえる取り決めが定められたのも、レイミアが美食家だったためだという。
レイミアは血の味にうるさい。パルマエの血を至上のものとする彼女は、自然、王族の血の濃さすら舌で見極めることができたという。
ましてや健康状態を感じ取れないわけもない。
王族の血を愛する彼女は吸血のたびに、より血の味を良くするため、健康になるためのアドバイスを盟約者に送るようになった。
それがいつしか通例となっており、そして王族の長寿と健康を保つ秘訣となっていった。
盟約者の列からは健康を損ねた者がいち早く弾かれたが、こぞってレイミアに血を飲んでもらいたがった王族が相争い、盟約者が目まぐるしく入れ替わったこともあったという。
だが、王族に異変が起きた。
いつしかレイミアのアドバイスも益なく、一回一回はきわめて微量なはずの吸血に、数ヶ月ですら耐え得ぬ者も見られるようになったのだ。
パルマエの血を引くと自負する者たちは、この国の危機に慌てふためいた。
盟約者が途絶えては、レイミアの守護は消え失せる。
弥縫策が議論され、つぎつぎと手が打たれた。
王家も貴族も子を多く成そうと躍起になった。わずかでもいいから親から子へ、兄姉から弟妹へと時を稼ぎ、盟約を保ち続けようと。
かつてパルマエの盟約者となった者たちが再び呼び寄せられ、レイミアのもとへと送られたこともあった。
だが、そこで障壁となったのが、レイミアが美食家であったことだった。
子を多く成さんと王族の血を引かぬ者に産ませた庶子も、ひとたび血を味わったかつての盟約者にも口をつける価値はない。ワインを香りづけに振った水も、開栓した飲み残しのワインをとりあつめたものにも用はないと彼女は一蹴したのだった。
かろうじて当代でレイミアの口に合ったのは、せめて純血を保った子を設けようと、ひそかに近親のまじわりにて生まれたフィーリウスただ一人。
ということになっている。
「わたしに策があるとおっしゃるならば、レイミア、あなたにも策がおありなのでしょう?」
無言で見返す吸血姫の様子に、大公はすいと目をすがめた。
「フィーリウスに最後まで口づけをねだられたと伺った。あなたがいじましいほど執着するさまを見せれば、盟約者から外れたとしても、彼の価値は――利用価値も含めてのことでしょうが――まだそれなりに残る。それを狙っての愁嘆場だったのでしょう?わたしの時と同様に。ですが」
今レイミアに盟約を求める者たちは、盟約者をフィーリウスと定める際にいらぬと弾かれた者。
かつてならば、レイミアが最初から相手にするわけもない者たちばかりだ。
「すでに今や、パルマエの後裔、その血を伝えるセルサングィス王家とは、ただの虚名と成り果てた。現王陛下ですらレイミア、あなたからご覧になれば、水で薄めたワインのようなものでしょう。それもいかに元が芳醇な一杯であろうと、時の大海に散じれば、ただの海水となんら選ぶことのない潮の味。塩辛いだけで、酔うこともできぬのではありませんか?」
レイミアは答えぬ。
「ならばいっそのこと、異国の貴族とはいえ、その国の王族の血も、そしてパルマエの血も引く彼を取り込み、盟約をつなごうと考えたのですよ」
「……パルマエの残り香に惹かれてつい口にしてしまったとはいえ、わたくしが彼を気に入りすぎて、パルマエに与えた盟約同様、テラエメリタ王国にも庇護を与えようとするとは思いませんでしたの?」
かつてのパルマエの盟約者は、上目遣いで見上げるレイミアに笑みを見せた。
「それくらいの自由はさしあげたかったのですよ」
むろん、異国の公子を取り籠めえなかった時の危険は百も承知だ。だがあの情熱過多で分別僅少な公子が、おのが器もわきまえずセルサングィス王国の玉座を睨もうが、テラエメリタ王国そのものが、公子を操り人形にセルサングィス王国を狙おうが構うものか。それくらい真っ向から打ちひしげねば、アルキドゥクス大公の名が廃る。
そのためならばレイミアの存在すら駆け引きに使おう。
だがその一方で、レイミアに自由をと願う心もまた真実。
病弱だった自分を婚約者として庇護し、こまごまと気を配り健康な身体に戻してくれた美しい令嬢に。
再び盟約者となれと、父母に、きょうだいに、同じ血を引く者たちに突き出された自分を、貶すふりで救ってくれた少女に。
パルマエの盟約者は氷に彫刻を施したグラスに注がれたワインのようなものと、注がれたその一瞬にしか価値はないのだと冷然と言い捨てることで、醜い責任の押し付け合いから庇ってくれた、強き無冠の女王に。
彼女がたとえ血に染まっていようと、満ち足りた心からの笑みを浮かばせるためならば、サツレヤはセルサングィス王国すら惜しむものではなかった。
「レイミア。今でも、わたしはあなたにとって過去の飲み残しやもしれません。ですがそれでもあなたを案じさせていただきたいのです」
「サツレヤ」
レイミアはとまどうように大公を見返した。
サツレヤは今でこそつねに何重にもはかりごとをめぐらす、腹の底が知れぬ人物であるが、幼い頃は――幼い頃もやはり、策謀に向かぬ清廉潔白な気質というわけではなかった。
それが順当に年の功を経て、たっぷりと泥にも闇にも血にもその手を汚してきているのだから、そうそう真情を明かすことなどないはず、なのだが。
「わたくしたちは儚き民なのです。いずれはレイミア、あなたを、あなただけをこの世に残したまま、去らねばならぬ刹那の幻影。……ですから、どうかわたくしの力の及ぶ今のうちにお選びください。時に薄められ、水と選ぶところのなくなりつつあるワインをお飲み続けになるか。それともお好みではないかもしれぬ味に舌を慣らそうとお試しになるか」
だから、なぜそうも妙にいさぎよく自分の地位も、名誉も、安寧も地に投げ捨て省みぬような真似ができるのか。
誘いを何度かけても大伯母のイアルクのように、レイミアの眷属になることを肯んじなかった大公と。
何度文句を言ってもお嬢ちゃん扱いをやめず、ガラス細工の人形でもあるかのように守り続けようとした建国王の姿が。
隠然たるものとはいえ一介の王族よりもはるかに大きな権威をふるう、人ではない強き種であると知りながら、外見同様ただの令嬢に対するかのように、賛辞と庇護を無造作に差し出してきた、かつての盟約者たちの姿が。
重なってしまってしかたがないではないか。
「……ひどいひとたち」
うつむいた吸血姫は泣きそうな子どものように呟いた。
「あなたたちはそんなところまでひどくパルマエに似ているのだもの。血の味が変わりゆくとて、どうしてこの盟約を破棄などできましょう」
そう、時をともにした人間の、血の味より人間性にこそ耽溺するレイミアにとって、セルサングィス王家はやはり手放すことなどできはしない。
人であった時も、人ならぬ身となった後も。
変わらぬ態度で壊れ物扱いをしてくるのに腹が立つあまり、この国を永劫に守ってあげると約定を押しつけた相手のやさしさと。
ふざけるなよ、じゃあこっちは子孫の血まで永遠にくれてやるからな、返品不許可だと乱暴に怒鳴られ笑い合った、あの日々のよすがなのだから。
命名小ネタ 本文書くより命名ネタを探すのに時間がかかるというね……。
・レイミア=ラミア
・モルモリュケー=モルモ、モルモン、モルモリュケ 女性型の吸血モンスター
・プルクラベスティーア=プルクラ(美しい)+ベスティア(獣)
・フィーリウス=フィーリウス・レーギス(王の子、王子)
・セルサングィス=セルウス(奴隷)+サングィス(血)
・ダルクアル=アルカード同様ドラキュラのアナグラム
・イアルク=カーミラのアナグラム。吸血鬼の命名法に沿ってみた。
・アルキドゥクス=大公
・テラエメリタ=ターメリックのラテン語源。「素晴らしい大地に育ち生まれたもの」という意味。らしい。
・オドラータクミヌム=オドラータ(匂いが強い)+クミヌム(クミン)
・アークレピペル=アークレ(辛い)+(胡椒)
つまり公子はカレー味チーズフォンデュソース。
「加齢臭がするようなおっさんの首に噛みついてしまった美少女吸血鬼」なんてもんをネタにしてしまったので、それはいくらなんでもと「カレー臭がするようなおっさんの首(略)」に変更したせい。
おかげで作者脳内では、公子は、「スパイシーな歌って踊り出しそうな濃い顔のおっさん」という、なんともわけのわからん残念すぎるイメージに。
それを踏まえてもう一度本文を読むと、たぶん笑う。
・シナスマロセ=シナスマ(ピンクペッパーの一種の種属名)+ロセ(薔薇。ピンクペッパーをフランス語でpoivre rose=薔薇胡椒というところから)現王の又従姉妹の一人、というイメージ。
・サツレヤ サボリー(セイボリー)という香辛料の語源。「半獣神お気に入りの媚薬」という意味。らしい。
・パルマエ 栄冠