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彷徨い人  作者: 糸玉鬼火
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序章

新米看護師の朝は早い。

寝る前にスマートホンでセットしておいた不快な目覚まし音がけたたましく部屋に鳴り響く。

時刻は午前六時。これがいつもの起床時間だ。七時間睡眠からの目覚めである。

ベッドのそばに飾られているカーテンからはわずかに光がさしている。

比較的例年より暖かった冬ももう終わったこの時期、太陽が昇ってくる時間も早くなった。

まだ疲れの残る倦怠感溢れる身体をを起こし、スマートホンを操作して甲高く未だにピピピと鳴り続ける電子音を止めた。大きく伸びをする。

その後、身体中に送られる酸素と血の巡りを感じながら冷蔵庫に向かった。

昨日仕事帰りに近所のスーパーで安売りの食パンを二袋買い冷凍保存していたのだ。

冷蔵室からはペットボトルに入ったお茶を取り出して一口の水分補給。

身体中にキンっと冷たいお茶が染み渡る。

冷凍室からはカチコチに凍った冷凍食パンを取り出してそのままトースターで焼く。

トーストが出来上がるまでの間に用を足し、洗面台で顔を洗った。

タオルで顔を拭き終わるとちょうどトーストが焼きあがった音がした。

綺麗な焼き目がついている。美しい。

これがその日の仕事を決めるといっても過言ではないのだ。

昨日はノロノロと動いていたせいで少し焦げてしまっていた。

おかげで仕事でミスをし、先輩に注意されるハメになったのだが、今日は大丈夫そうだ。

ただのジンクスだが、自分にとっては、一日の最初を飾るうえでの重要なルーチンワークだった。

大事な儀式である。

焼きあがったトーストにマーガリンを薄く塗り、朝食をとる。

テレビは見ない。男の一人暮らし。黙ってもそもそとトーストを口に運んだ。

おかずはないシンプルな朝食だった。

トーストを置くために使っていたお皿を流し台に持っていき、出勤の準備をする。

女性ならここからお化粧タイムが始まるのだろうけど、自分は男なのでそんな時間はない。

ものの十分ほどで準備が終わった。我ながら早い。

各所のカギの戸締りチェックも問題なかった。準備完了。

動きやすいスニーカーを履き、外に出た。

家賃三万円のボロアパート、その二階。

ビュンと風が吹いた。まだわずかに残る冷たさが心地よい。

ちょうどいい季節になったものだと感じる。

ボロボロに錆びた階段を降り、一階の駐車スペースに止めてある原付に跨った。

就職祝いに両親に買ってもらったスクーターだ。

ヘルメットを装着し、手袋も忘れない。

左手に巻いた腕時計を確認。現時刻午前六時四十五分。

本日は晴天なり。

いざ出発だ。


新米看護師の朝は早い。

とは言いつつ、しかしながらそれは新米看護師故の早起きであり、シフトで定められた勤務開始時間は八時十五分だ。

安全運転で順調にバイクを走らせればおよそ三十分ほどで到着する距離に勤務先の病院はある。

なので、およそ七時十五分前後には着く計算だ。

こんな一時間近く前から出勤するのには、勿論理由がある。

まだまだ多くのことを勉強、もとい仕事の前準備をしなければならない新米看護師たちは始業時間よりもかなり早い時間から出勤する。

その日担当する患者さんたちのカルテや引継ぎ用の記録を見て、その情報を頭に叩き込む必要があるからだ。

情報といってもその中身は千差万別であり、患者さんたちそれぞれに特化した内容になっている。

そこには病状だけでない、様々な個人情報が記載されている。

看護師に求められるのはいわば患者さんたちのためのケアであり、医師の先生方のような医療行為ではない。

過去の通院歴、服用している薬の種類だけに留まらず、家族構成、健康に対する意識や価値観、普段の生活から考えられる持病(食生活なら高血圧や糖尿病の可能性、立ち仕事なら足腰に長年負荷がかかっていたなど)、患者さん本人の性格までを把握し、それぞれの患者さんたちにあった接し方、ケアについて事前に把握し想定する必要があるからだ。

この莫大な情報をピカピカの新米看護師がすぐに全部把握しろというのは土台無理な話である。

なのでこうして新米看護師達は先輩たちより早く出勤して情報の抜き取りを行っているのだ。

ベテランの先輩看護師さんたちはもう慣れたもので、一通り目を通すだけでカルテを把握することができるためか、そこまで早い時間に出勤をする人はいない。実に手慣れたものである。

長い車列に巻き込まれることなく、かつすり抜けも当然行わずに安全運転で順調にバイクを走らせて二十分。

そして見えてきた。ここが春からお世話になっている勤務先。

〇〇市立聖林(せいりん)病院だ。


〇〇市立聖林病院。

ここは自分が物心ついた頃には既に建っていたところで、過去に自分の祖父がお世話になったこともある大病院だ。

看護専門学校に在籍していた学生時代、自分はこの病院で研修を行っていた。

そう考えると就職前からの長いお付き合いである。たかだが一年半程ではあるけれど。

看護学生当時は朝早くから研修三昧で先輩看護師たちにしごかれ、帰ってきてからは睡眠時間を削りに削って毎日記録をつけなければならず、慣れない環境と日々のストレスで体力は削られ精神は擦り切れ、毎日の睡眠時間は約四時間。

そんな地獄のような研修期間はざっと一年以上。苦楽を共にした病院である。

決して他意はない。

研修生がしんどい思いをしているのはどこも同じだ。自分だけではないし、この病院に限った話ではない。

自分が子どもの頃からある病院なので、当然築二十年以上は過ぎている病院だが、院内を見渡すと流石に新築当然の綺麗さは失われているように思える。

大体四十年ぐらいだろうか?

適当な数字を上げてみたがその正確さに自信と責任を持つことはできない。今度調べておこう。

病院関係専用の駐輪場にスクーターを止め、関係者専用の通用口から中に入る。

出入り口には警備員さんが常駐している。日々のあいさつは欠かさない。

「おはようございます」

おはようございますー、という朝から気怠さを感じさせるおじさん警備員さんのあいさつを流しつつ、まずはロッカールームに向かう。

ロッカールームに着くと、背負っていたリュックサックを下ろし、着替えを始める。

ちなみに制服を自宅で洗濯して持ってくる、というようなことはない。

看護師用の制服は毎回専門の業者がクリーニングをしてくれている。

そして出勤してきた職員は指定された場所に置かれたクリーニング済みの制服の山の中から、自分の制服を探し出すのだ。

一々自宅に持ち帰って洗濯する必要はないので、一人暮らしの人間にとってはとてもありがたい。

一人暮らしを始めたばかりで生活力が欠如している自分にとっては特にありがたい。

仕事の精度、技術の向上は勿論であるが、生活力の向上も急務ではあるのだ。

そそくさと着替えを終え、ロッカーの鏡で身だしなみをチェック。

目の下にできている隈が気になるところではあるが、そこは空元気でカバーしよう。

今日も一日頑張るぞ、なんてやる気に満ちた感想を抱くには疲労感が少々気になるところではあるが、もう時間である。

そしてこれが、自分にとって、最後の日常になるなんて、この時は思いもしなかったのだ―――


なんて。

いかにも伏線じみた思わせぶりな思春期の高校生のようなことを考えながら、配属された病棟に向かうのだった。


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