ep.4 言えなかった言葉
ある言葉が言えなかった老人のお話です。
よろしくお願いします。
今朝早く、天から妻にお迎えが来た。
妻が86年間の生涯を終える少し前、隣で寝ていた私はふと妻に名前を呼ばれたような気がして目が覚めた。寝ている妻と目が合うと、彼女は優しく私に微笑みかけ、
「三郎さん、今までずっとありがとう」
これが妻の最期の言葉となった。
それはまるで眠るように穏やかな死で、亡くなってからしばらくはあまり実感がわかなかった程だ。
悲しさよりも、寂しさの方が勝っていると思う。
家にいる気も起きず、私はゆったりと少し長めの散歩に出ることにした。
行くあてもなく歩いていたからか、少々疲れて来た頃ちょうど公園を見つけ、そのベンチに腰を下ろす。
思い返せば妻と最初に出会ったのは、大学の入学式前日。満開で美しい、樹齢百年を超える大きな桜の前だった。
「すみません、桜ヶ丘大学の入学式ってこちらであっていますか?」
壮大で美しい桜を見上げていたところ、突然後ろから声をかけられたのだ。
振り返った私の目に写ったのは、とても若くて美しい女性。桜の花びらが舞い散る中で凛と立っているその姿に、思わず見とれてしまっていた。
「え……あ、僕も今から向かう所なんですよ」
「まぁそうなんですか!もしかして、私と同じ新入生?」
頷くと、彼女は嬉しそうに笑った。
その彼女の笑顔に当時の私は、一目惚れをしたのだ。
その後、入学式の日にちを1日間違えていたことに気が付いた私達は、似たもの同士という事で、親近感がぐっと湧いたものだ。
そしてその年の夏、私は彼女に告白をする決心をした。
華やかな花火が上がるのを眺めながら、私は勇気を振り絞る。
「あ、あの由美子さん…僕、僕は…っ!!」
「三郎さん、好きです!付き合って下さい」
振り絞った勇気は空振りで、彼女に先に言われてしまった。
でも同じ気持ちであったことが、とても嬉しかったのをよく覚えている。
次こそはと決意を固めた卒業式の日。
私は彼女と出会ったあの桜の木の下に立っていた。
「三郎さん、お待たせ。改めて、お互い卒業おめでとう!」
「ーーー由美子さん、どうか僕と…」
「私と結婚して下さい!」
私のプロポーズの言葉は、またしても彼女に先を越されてしまった。
また、私の気持ちを伝えることができなかった……。
こうして月日は流れ、私達夫婦は幸せで充実した日々を過ごしてきた。少なくとも、私はそう感じている。
子供は立派に育ち、その子供も愛する人を見つけ、やがて孫が生まれた。
今の楽しみは、孫の成長を見守ることだ。
彼女への感謝の想いは募るばかりで、口下手な私はなかなか伝えることが出来ない。
そしてそのまま、今朝を迎えてしまったのだ。
「……なぜ私はもっと早く、彼女に伝えておかなかったんだ」
人気のしない朝の公園で、私の胸に押し寄せて来るのはーーー後悔。
ただ、それだけだ。
とうとう最期の最期まで、言えなかった感謝の言葉。
彼女はいつも優しい笑顔で、私と共に一度きりの人生を歩んでくれたのだ。
「なのに……なのに私は結局一言もーーー」
サァァァと公園の木々が風で優しくなびく。
その音が消える頃、私の目の前に一人の男性が立っていた。
次回、男と出会った老人が願うこととは…?