美少女動物園行きのバスを撮りに来たつもりだったが、気が付いたら美少女バスツアーに参加させられていた
自分は「美少女動物園」とかいう言葉が好きかもしれない。
あまり褒め言葉には使われない言葉だが、アンチのために使い倒す言葉でもないだろう。そもそも、発案者は「そういう作品に興味はないが、否定もしない」というスタンスだったはずだ。
女の子を出しておけばウケるみたいな風潮が有るのは、確かに事実なのだ。発案者は事実をそのまま言っただけ。
こういう作品が一般人から見て気持ち悪いのは分かるが、放っておいても無害な代物である。美少女自身は見せ物にされていることになんとも思っていないのだから、美少女動物園は誰かに迷惑をかけているわけではない。非実在青少年? クソ食らえ。
自分はそんな見せ物小屋に魅せられた一人だ。
ふと、とあることが気になった。
自分は動物園を楽しいと思ったことがない。美少女動物園は気に入っているのにだ。
気になって“動物園 楽しみ方”でググってみると、「ペットクリニック・ドットコム」というサイトの記事に目をひかれた。
“「あ、ライオンだ。オスとメス1頭ずつね。はい。じゃ、次トラ行こうか」と、単に動物がそこにいることを確認して回るだけでは、楽しさも半減です。見た動物の数が問題ではありません。”
目から鱗が落ちた。
確かに、動物園は「こんな数の動物達を見た」という事実を楽しむものだと思っていたところがある。休みが終わった後にクラスメートと語らう程度ならそれで十分だからだ。
しかし、見ること自体を楽しんでいたかと言われると判断に困る。
初めて見たワオキツネザル辺りにはわくわくしていたかもしれないが、飽きるほど映像を見たことがあるゾウなんかはチラッと見てそのまま素通りしたような記憶がある。楽しさ半減だったことは間違いない。
動物園は動物を檻に入れれば完成するものではない。客が動物に興味を持てるように工夫する必要がある。
猿を展示するなら軽々と動きまわることが出来るアスレチックが欲しいところだし、ペンギンの展示場所には素早く泳げるプールが必要だ。
それだけではない。真夏日に茹だっている猿の映像がニュースで流れるのはもはや風物詩だ。動きまわる猿を見せたいなら気温を下げてやる必要がある。
動物園というものは、想像以上に細やかな心配りの下に成り立っているんじゃなかろうか。
なろうにおけるハーレム作品のほとんどは、動物園と呼べないような気がしている。
確かに美少女は沢山出てくるが、とにかく多くのヒロインを出すことを重視しているようなイメージだ。
気分はまるでバスツアー。決められたとおりに、決められた時間だけ建物を見る。自由に見て回ることは許されない。
「(キャラ名)回」とかそういう表現を使っている人はまさにそういうつもりじゃないだろうか。そこでしかそのキャラの魅力は出ないのだろうか。
あるいは、物語に必要かどうかでキャラの要不要を考える人も居るだろう。物語に絡むことは確かに重要だが、キャラクターの価値はそれだけじゃないだろうと思う。
物語のために存在しているヒロインなんて、いつも通勤通学のために乗っているバスのようなものだ。必要なのは性能で、デザインはさほど問題にならない。
でも自分はそういう次元では生きていない。自分はあの黄色いツアーバスに乗りに来たんであって、バスツアーに参加するために来たんじゃない。ツアーの内容なんてどうだって良い。
まあ、本当に良いバスツアーはバスにも拘るものだから要らないお世話だろう。
京都の町中を青無地のバスで駆け回るツアーなんて情緒がない。原色ではなく彩度を落としたバスの方が京都の町並みを壊さなくて済むだろう。そういったところを失念する会社が最高のツアーを提供できるはずがない。
「美少女動物園」という言葉の語感は最悪だが、別に恥じることはない。ただのレッテルだ。しかも見方を変えれば褒め言葉にもなりうる。
ほぼ全ての視聴者が「あかんこれ」という感想を抱き、アンチが出来を褒めるという前代未聞の状態に陥った某アニメは、「素直に美少女動物園やっときゃ良かったのに」などと言われたらしい。
制作者の心意気や内容の高尚さなんて、読者は知ったことではない。見れるものに仕上がっていればそれで良いのだ。
「美少女動物園」を頭の隅に可能性の一つとして置いておくぐらいはしても罰は当たらないんじゃないだろうか。