潼関の戦いと、両軍それぞれの人物達の動向
潼関戦の詳細と、それに関わった人物達の動向について。
【潼関の戦い】
開戦は211年(建安16年)の3月。
しかし開戦当初の内はまだ、曹操自身は戦場には出て行かず、
曹仁を派遣して、
ひたすら専守防衛を命じて、潼関の相手をさせることに。
それからやっと、曹操自身が戦場に向かうのが、
開戦から4ヶ月も経った秋7月のことになるだが、
戦況もそこから一気に進展を迎える。
(潼関の戦い全図)
《武帝(曹操)紀の記述》
「十六年春正月,魏書曰:庚辰,天子報:減戶五千,分所讓三縣萬五千封三子,
植為平原侯,據為范陽侯,豹為饒陽侯,食邑各五千戶。
天子命公世子丕為五官中郎將,置官屬,為丞相副。
太原商曜等以大陵叛,遣夏侯淵、徐晃圍破之。
張魯據漢中,三月,遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。
是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。
遣曹仁討之。超等屯潼關,
公敕諸將:“關西兵精悍,堅壁勿與戰。”
秋七月,公西征,
〔魏書曰:議者多言“關西兵強,習長矛,非精選前鋒,則不可以當也”。
公謂諸將曰:“戰在我,非在賊也。賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之耳。”
與超等夾關而軍。公急持之,而潛遣徐晃、硃靈等夜渡蒲阪津,據河西為營。
公自潼關北渡,未濟,超赴船急戰。校尉丁斐因放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,
公乃得渡,
曹瞞傳曰:公將過河,前隊適渡,超等奄至,公猶坐胡床不起。
張郃等見事急,共引公入船。
河水急,比渡,流四五裏,超等騎追射之,矢下如雨。
諸將見軍敗,不知公所在,皆惶懼,至見,乃悲喜,或流涕。
公大笑曰:“今日幾為小賊所困乎!”〕
建安16年(211年)春正月。魏書に曰く:庚辰の日(12日)、天子は返書を出し、
五千戸を削減し、譲られた3県、1万5千戸を分割して三人の子に与えた。
曹植は平原侯となり、曹據は范陽侯に、曹豹は饒陽侯となって、
各々食邑は5千戸となった。
天子は公(曹操)の世継ぎである曹丕を五官中郎將となし、属(屬)官を置いて、
丞相の副とした。
太原の商曜らが、大陵で謀反を起こした。
曹操は夏侯淵、徐晃らを派遣してこれを包囲撃破した。
張魯が漢中を占拠していたので、211年3月、曹操は鍾繇を派遣して
これを討たせた。
公(曹操)は夏侯淵らに河東郡を出て鍾繇と会合させた。
このとき関中の諸将は、曹操が自分達を襲うとしているのだと疑い、
遂に馬超は韓遂、楊秋、李堪、成宜等と共に叛乱をした。
(曹操)が曹仁を派遣して彼らを討たせようとすると、馬超らは潼関に駐屯した。
公(曹操)は諸将に:“関西の兵は精悍なので、城壁を堅くして
敵と戦ってはならぬ。”と、詔勅を発した。
秋7月になって、公(曹操)自ら西征した。
〔『魏書』に書かれた記述によれば、
論者の多くがこのとき、「関西の兵は強く、長矛に習熟している。
こちらも精鋭の先鋒を選ばなければ、
敵に当たることは難しいでしょう」と、曹操に言った。
曹操は答えた。
「戦いの主導権は我々のほうにあり、敵にはない。
いくら連中が長矛に通じていようとも、
敵にその矛を使わせることなどさせない。諸君らはただ
観戦しておればよい」と。〕
そして曹操は潼関を挟んで馬超らと向かい合い、激しく対立するとともに、
一方で、徐晃、朱霊らを派遣して夜に蒲阪津を渡らせ、
黄河の西岸に陣営を築かせた。
次いで曹操自身も潼関から黄河を渡って北の対岸へと向かおうとした。
ところが曹操が未だ河を渡り切らぬ内に、馬超達がその船に向かって
攻撃を仕掛けてきた。
しかしそのとき校尉の丁斐が、賊軍の餌として、牛馬を放ったところ、
彼らはその馬を捕らえようと躍起になり、曹操はその難を逃れ、
無事に対岸へと渡り終えることができた。
〔『曹瞞伝』には、
曹操がまさに河を渡ろうとして、ちょうど前の隊が河を渡っていたとき、
馬超等が突如として襲いかかってきた。
しかし曹操は胡床に座ったまま、なお起きあがろうとはしなかった。
張郃等は事態の急迫を見て、共に曹操を船内へと引き入れた。
河水(黄河)の流れは急で、渡り終えた頃には、四・五里も流されていた。
馬超等が騎兵で追ってきて矢を射かけてきて、矢が雨のように降り注いだ。
諸将は軍が敗れたのを見て、また曹操がどこにいるのかさえわからず、
皆、恐慌した。
しかし曹操を発見するや、悲喜こもごも、涙を流す者さえあった。
曹操はそれを見て大笑いして言った。
「今日は小賊の為に、少しばかり困らされるところだったわ!」と。〕
循河為甬道而南。賊退,拒渭口,公乃多設疑兵,潛以舟載兵入渭,為浮橋,
夜,分兵結營于渭南。賊夜攻營,伏兵擊破之。超等屯渭南,
遣信求割河以西請和,公不許。
九月,進軍渡渭。
〔曹瞞傳曰:時公軍每渡渭,輒為超騎所衝突,營不得立,地又多沙,
不可築壘。
婁子伯說公曰:“今天寒,可起沙為城,以水灌之,可一夜而成。”
公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭。
或疑于時九月,水未應凍。
臣松之按魏書:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,
至此容可大寒邪!〕
それから曹操軍は黄河沿いに甬道を築きつつ、少しずつ南下をしていった。
賊は退き、渭口に曹操軍を拒もうとした。
すると曹操は多くの疑兵を設けるとともに、一方で密かに兵を船に乗せて
渭水へと入らせ、
浮橋を作らせ、夜、兵を分けて渭水の南岸に陣営を築かせた。
夜に賊軍が攻めてきたが、伏兵でこれを撃破した。
馬超等も渭水の南岸に駐屯したが、しかしするとここで何と、
彼等は曹操に対して書簡を送り、黄河以西の地を割譲することを条件に、
曹操との講和を要求してきた。しかし曹操は承知せず。
9月、曹操は軍を進めて渭水を渡った。
〔『曹瞞伝』によれば、
そのとき曹操軍では、渭水を渡ろうとするたび毎に、馬超の騎兵攻撃を受け、
陣営を立てられず、
また地面も砂が多く、防塁を築くことができなかった。
するとそこへ婁圭が曹操に、
「今は天候が寒いので、砂でも城として起こすことが可能です。
その砂に水をかければ、一夜にして城と成すことができるでしょう」と、
曹操はこれに従い、きめの細かい上質の絹の袋をたくさん作って水を運び、
夜の内に兵を渡河させて城を作り、夜明けごろには、城が出来上がった。
こうして曹操軍は渭水を渡ることができたのだと。
しかし或る人などは、9月では未だ、水が凍るほどの寒さではないと
疑念を呈している。
わたくし裴松之も『魏書』から考えるに、
曹操軍が潼関に到着したのが8月で、閏月に黄河を北へと渡った。
とすればその年の閏8月のことになるので、
その月でそんな寒さになるだろうか!〕
超等數挑戰,又不許;固請割地,求送任子,公用賈詡計,偽許之。
韓遂請與公相見,公與遂父同歲孝廉,又與遂同時儕輩,
於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。
既罷,超等問遂:“公何言?”遂曰:“無所言也。”超等疑之。
〔魏書曰:公後日複與遂等會語,諸將曰:“公與虜交語,不宜輕脫,
可為木行馬以為防遏。”
公然之。賊將見公,悉於馬上拜,秦、胡觀者,前後重遝,
公笑謂賊曰:“汝欲觀曹公邪?亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!”
胡前後大觀。
又列鐵騎五千為十重陳,精光耀日,賊益震懼。〕
他日,公又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。
公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、
李堪等。
遂、超等走涼州,楊秋奔安定,關中平。
それからも馬超等はたびたび戦いを挑んできたが、
すると今度は自分達で人質を差し出すからと、
やはり土地を割譲して欲しいとの要請を行ってきた。
しかし曹操は許さず。
が、曹操はそこで賈詡の計略を用い、偽りの許可を与えることに。
すると韓遂が曹操と会見したいと申し入れきて、二人で会見を行うことに。
曹操は韓遂の父と同じ年の孝廉で、又同じ時期に挙兵をした仲間でもあった。
このとき、互いに馬を交えてしばらくの間、語り合ったが、
軍事のことには言及せず、
ただ都での古い話などをして、手を打って笑い、歓談をした。
韓遂が戻ると、馬超等が韓遂に訊ねた、
「曹操は何を言っていたのか?」と。
韓遂はただ「曹操は別に何も言わなかった」と答えたが、
馬超等は韓遂を疑った。
〔『魏書』によれば、
曹操は後日、また韓遂と会って言葉を交わすこととなった。
諸将は言った、
「公(曹操)は敵と言葉を交わすのですから、
軽はずみなことをなさるべきではありません。
馬止めの木柵を作って防いでおいたほうがいいです」と。
曹操はそれを承知した。
賊将は曹操と対面すると、皆、馬上で拝礼した。
秦(関中)や、異民族の見物人が周囲にたくさんひしめき合った。
曹操は笑いながら彼らに向かって言った。
「お前達はこの私を見たいのか?この私だって勿論、普通の人間だ。
四つの目や二つの口があるわけではない。ただ知恵が多いだけだ」と、
胡の異民族達は前後に重なって曹操を見た。
また曹操は鉄騎五千を十重に並べ、その光景は日の光に燦然と輝き、
賊はますます懼れおののいた。〕
別の日、曹操はまた韓遂に書簡を送ったが、
多くの所が黒いしるしが付けられたりして改竄され、
(都合が悪い部分を他の者達に見せまいとして)あたかも韓遂がそのように
改定したように見えた。
これにより、馬超等はますます韓遂を疑うようになった。
それから曹操は期日を決めて彼らと会戦をした。
先ず軽兵で挑みかけ、ややしばらくしてから、今度は虎騎を放って挟撃し、
敵を大破した。
成宜、李堪等を斬った。
韓遂、馬超等は涼州へと遁走し、楊秋は安定に奔り、
こうして関中は平定された。
諸將或問公曰:“初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東擊馮翊而反守潼關,
引日而後北渡,何也?”
公曰:“賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸津,則西河未可渡,
吾故盛兵向潼關;
賊悉眾南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後引軍北渡,
賊不能與吾爭西河者,以有二將之軍也。
連車樹柵,為甬道而南,
〔臣松之案:漢高祖二年,與楚戰滎陽京、索之間,築甬道屬河以取敖倉粟。
應劭曰:“恐敵鈔輜重,故築垣牆如街巷也。”
今魏武不築垣牆,但連車樹柵以扞兩面。〕
既為不可勝,且以示弱。
渡渭為堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不為營壘而求割地。
吾順言許之,所以從其意,使自安而不為備,因畜士卒之力,一旦擊之,
所謂疾雷不及掩耳,
兵之變化,固非一道也。”
始,賊每一部到,公輒有喜色。賊破之後,諸將問其故。
公答曰:“關中長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也。
今皆來集,其眾雖多,莫相歸服,軍無適主,一舉可滅,為功差易,
吾是以喜。”
(諸将の内、ある者が曹操に問い尋ねた。
「初め、賊が潼関を守っていたとき、渭水の北の道は空いていたのに、
河東を進んで馮翊郡を攻撃せずに返って潼関で敵と直接向かい合い、後日、また日時を置いてから
渭水の北岸へと渡ったのは何故でしょうか?」と。
すると曹操は「賊が潼関を守っていたとき、もし私が河東郡へと入れば、
賊は必ず引き上げて諸津(“津”は渡し場のこと)の守りを
固めてしまっていただろう。
そうなれば黄河の西へは渡れなくなってしまう。
だから私は盛んに兵を潼関に向かわせて敵の目をそこに引き付けようとしたのだ。
その結果、賊は大軍で渭水の南岸を守り、黄河の西のほうの防備が
手薄となった。
それ故、徐晃、朱霊の二将は思いのままに黄河の西岸を
占拠することができたのだ。
その後で私も軍を引率して黄河の北岸へと渡ったが、
そのとき賊軍側が我々と争い、
黄河の西岸を奪い取ることができなかったのは、
既に徐晃、朱霊の二将がそこにいたからだ。
そしてそこからさらに、車を連ね柵を樹えながら甬道を築きつつ
南のほうへ向かって下っていったのも、
とても我々が相手に勝てないと、弱勢を見せつけて敵の油断を
誘いたかったからだ。
〔わたくし裴松之が調べるに、漢の高祖(劉邦)の二年、
漢が楚の項羽と滎陽、京県、索県の間で戦ったとき、
甬道を築いて黄河にまでつなぎ、そこから敖倉の食料を取り寄せた。
『後漢書』応劭の注釈には、
“敵が輜重を奪いに来ることを恐れ、そのため街の路地のように
垣塀を築いた。”とあり、
しかし今回の戦いで、魏武(曹操)は垣塀を築かず、ただ車を連ね、
木柵を立てて甬道の両面を守ったのだ。〕
渭水を渡って堅塁を築き、敵が襲ってきてもこちらからは出なかったのは、
彼らを慢心させるためだ。
そのため敵はこちらを舐めて、自分達では陣営を築くこともせず、
強気に我々に対し、領地の割譲を求めてきたのだ。
私はそのまま彼らに応じて許可を与えた。私が彼らの意に従ってやったのは、
彼らを安心させて備えをさせないためだ。
そうして士卒の力を蓄え、一気に攻撃へと転ずる。
いわゆる“急な雷鳴は耳を蔽う暇がない”というヤツだ。
兵略の変化とは、もとより一つの方法だけではない。”と。
始め、賊軍が一部隊ずつ到着するごとに、曹操は喜色を浮かべて喜んだ。
賊軍が敗れ去って後、その理由を曹操に尋ねた。
曹操は答えた。
「関中は遠距離にある。もし賊が各自に険阻な地に立てこもって抵抗をすれば、
一年や二年ではとても平定はできない。
が、その敵が今、皆同じ場所へと一堂に寄り集まってきたのだ。
確かにその人数は多いといえども、互いのまとまりに欠け、
また適当な大将の存在もないとなれば、
一撃の内に滅ぼすことも可能だ。
功もやや得易くなる。私はそれを喜んだのだ」と。)
《徐晃伝の記述》
「韩遂、马超等反关右,遣晃屯汾阴以抚河东,赐牛酒,令上先人墓。
太祖至潼关,恐不得渡,召问晃。晃曰:“公盛兵於此,而贼不复别守蒲阪,
知其无谋也。
今假臣精兵渡蒲坂津,为军先置,以截其里,贼可擒也。”
太祖曰:“善。”使晃以步骑四千人渡津。作堑栅未成,
贼梁兴夜将步骑五千馀人攻晃,晃击走之,
太祖军得渡。遂破超等,使晃与夏侯渊平隃麋、汧诸氐,与太祖会安定。
太祖还鄴,使晃与夏侯渊平鄜、夏阳馀贼,斩梁兴,降三千馀户。
(韓遂・馬超らが関右(关右、陜西省西部)で反乱を起こすと、
曹操は、徐晃を派遣して汾陰(汾阴)に駐屯させて河東を鎮撫させ、
牛と酒を下賜して先人の墓に上げさせた。
太祖(曹操)は潼関に至ったが、(黄河を)渡ることができないのではと恐れ、
徐晃を召して聞いた。
徐晃は言った:“公がこの地で兵を盛んになさっておられるのに、
賊は別働隊を派遣して蒲阪の守りを奪回しようともせず、
その智謀の無さを知ることができます。
今わたしに精兵をお貸しいただければ、蒲阪津を渡り、
軍の為に先に陣を設置し、賊の背後を遮断致しましょう。
賊共は生け捕りになるばかりです。”
太祖(曹操)は言った:“善し。”と。
徐晃は歩騎四千人で津を渡らせた。塹壕や防柵が未だ完成しないうち、
賊の梁興(梁兴)が夜、歩騎五千人余りを率いて徐晃を攻撃したが、
徐晃はこれを撃(击)って敗走させた。
太祖(曹操)の軍勢は黄河を渡ることができ、遂に馬超らを破った。
太祖(曹操)は徐晃と夏侯淵に隃麋、汧の諸々の氐族を平定させ、
太祖(曹操)と安定で会合した。
太祖は鄴に還り、徐晃と夏侯淵に鄜、夏陽の賊の残党を平定させると、
彼らは梁興を斬り、三千戸余りを降服させた。)」
《馬超伝の記述》
「超既統眾,遂與韓遂合從,及楊秋、李堪、成宜等相結,進軍至潼關。
曹公與遂、超單馬會語,超負其多力,陰欲突前捉曹公,
曹公左右將許褚瞋目盻之,超乃不敢動。
曹公用賈詡謀,離間超、遂,更相猜疑,軍以大敗。
山陽公載記曰:初,曹公軍在蒲阪,欲西渡,
超謂韓遂曰:「宜於渭北拒之,不過二十日,河東穀盡,彼必走矣。」
遂曰:「可聽令渡,蹙於河中,顧不快耶!」超計不得施。
曹公聞之曰:「馬兒不死,吾無葬地也。」
超走保諸戎,曹公追至安定,會北方有事,引軍東還。」
(馬超は既に軍勢を統率していたが、遂に韓遂と合従し、
および楊秋、李堪、成宜らとも相結び、軍を進めて潼関まで到達した。
曹公(曹操)が韓遂、馬超と単馬で会語すると、馬超は自負する武力を頼みに、
密かに曹公の前へと突進して捉えようと欲したが、
曹公の左右の将の許褚が目を怒らせて睨んでいたため、
馬超は敢えて動こうとはしなかった。
曹公は賈詡の謀を用いて馬超と韓遂を離間させ、猜疑しあうようにしたため、
馬超らの軍勢は大敗した。
山陽公載記に曰く:初めて、曹公の軍が蒲阪に在したとき、
曹公は黄河を西に渡ろうとした。
馬超は韓遂に言った:「宜しく渭水の北岸でこれを防ぐべきだ。
二十日も過ぎず、河東の糧穀は尽き、彼は必ず敗走するに違いない。」
韓遂は言った:「敵が河を渡るのに任せ、黄河の中に追い詰めるのも
愉快ではないか!」と。
馬超の計が実施されることはなかった。
曹公はそれを聞いて言った:「馬家の子倅が死なねば、
私には埋葬する土地もないのだ。」
馬超は逃走したが諸々の戎族たちの下で身を保った。
曹公は追撃して安定にまで至ったが、ちょうど北方で変事が有り、
軍を引いて東に還った。)
「典略曰:建安十六年,超與關中諸將
侯選、程銀、李堪、張橫、梁興、成宜、馬玩、楊秋、韓遂等,凡十部,俱反,
其眾十萬,同據河、潼,建列營陳。是歲,曹公西徵,與超等戰於河、渭之交,超等敗走。
超至安定,遂奔涼州。詔收滅超家屬。超複敗於隴上。
後奔漢中,
(「典略」に曰く:建安十六年(211年)、馬超は関中の諸将、
侯選、程銀、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋、韓遂らと組み、
その凡そ十部が全て反乱を起こした。
その軍勢十万は、黄河・潼関を拠り所に、陣営を並べて建設した。
この歳、曹公は西征し、馬超らと黄河、渭水の交わる辺りで戦い、馬超らは敗走した。
馬超は安定にまで至り、韓遂は涼州に奔った。詔勅が下って馬超の家族は滅ぼされた。
馬超はまた隴上で敗れ、後に漢中へと奔った。)」
(潼関の戦い全図)
現在の潼关(関)古城から蒲津渡遺址まで、およそ42.0 km、
徒歩で8 時間 42 分 の距離。
蒲津渡遺址から、徐晃が初めに派遣されていたという汾陰(汾阴)県が、
現在の山西省運城市万栄県の南西部の辺りで、
そこまでがおよそ71.5 km、徒歩で14 時間 37 分 の距離。
戦場となった周辺一帯の場所を現在の地図で追ってみると、
意外なほど広範囲に広がっていたことがわかる。
潼関から蒲阪津まででも40 kmほどの距離。
(潼関の戦い拡大図)
それと潼関の右隣に一本の細い河が流れているが、
これがどうも潼水という河らしく、
そして潼関はその河の西岸に築かれている。
詰まりこれをみると、
馬超、韓遂ら関中十部の反乱軍は、
潼関を中心ポイントに黄河から潼水まで、南北に長く、
縦に貫く河川を防衛ラインとして、
その西側に立って、東側から攻めてくる曹操軍に対して
対抗していたものと思われる。
戦後の曹操と諸将達との間の会話からも、
馮翊郡のほうにも敵の存在が確認できる。
だから反乱軍の敵は、何も潼関のただ一ヶ所だけに
存在していたわけではなかった。
ちなみに黄河の河というのは、潼関の真上のほうのところで垂直に折れ曲がり、
L字型の河となっている。
(「河」の字の「可」に、“カギ状に曲がる”という意味がある。
だから大昔「河」一字の表記で、それで黄河のことを表していた。
黄河は初めは澄んだ河で、後に黄色くに濁って「黄河」という名前に変わる)
そして潼関の真上の辺りから、そのまま西に向かって、
急に細くなるのが渭水、渭河になる。
知らないと混乱するのだが、
だから初め、黄河の南岸にいた曹操軍が、そこから北の対岸へと渡って北上し、
そして蒲阪津からまた、今度は黄河の“西岸”に向かって
渡っていくといったような、ややこしい表記が出てくる。
そして曹操軍は蒲阪津から黄河を跨いでその西側に上陸し、
そこから甬道という防御柵を築きながら、
再び潼関に向かって少しずつ南下をしていく。
馬超、韓遂らはその曹操軍を、渭口という場所で迎え撃った。
渭口というのは黄河と渭水の合流地点の場所で、
最終的に曹操軍と反乱軍との間で行われた会戦も、その渭口の付近だった。
地図の潼関の上のところに、青い矢印で「馬超刺曹古槐遺址」という
ポイントを指しているが、
ここは現在、潼関の戦いで、馬超が逃げる曹操を槍で刺したという、
その跡の、史跡として残されている場所だとのこと。
古槐とはそのとき馬超が曹操を刺そうとして、外れて近くの木に
突き刺さしてしまった、そのエンジュの木のこと。
しかし馬超が曹操を刺したというのも、これは『三国志演義』の作り話なので、
その木が史跡として残されているのはおかしい。(笑)
が、
その「馬超刺曹古槐遺址」という場所が、
曹操と馬超、韓遂らが実際の会戦を行った、
大体の場所だということにもなるのだろうか。
だが「馬超刺曹古槐遺址」は、潼関とは潼水の河を挟んでその東岸の場所。
そこで両軍の会戦が行われたとすると、
曹操軍は一度、蒲阪津まで北上して黄河を西に渡り、
そこから南下をして、
結局また、元の場所へと戻ってきたことになってしまう。
甬道を築きながら南下して戻ってくる曹操軍を、
馬超達が迎え撃ったのが黄河と渭水の合流地点の渭口という場所で、
「馬超刺曹古槐遺址」もその点では、渭口ということになるが、
だから同じ渭口でも、始めは潼水の東岸に布陣していた曹操軍が、
グーンと大回りをして、黄河を西に渡り、
そして渭水の南岸、そして潼水の西岸の場所まで、
詰まり徐晃が「以截其里(以ってその内側を遮断する)」と言っていた、
馬超、韓遂ら立て籠もる潼関の背後へと回り込んできたということなのだろう。
【戦いの決着】
しかし結局、曹操軍が黄河と渭水の両河を渡って、
彼らが潼関と涼州の間を結ぶ拠点を遮断したことで、
その時点でもう、勝負は決まってしまった。
だから曹操軍に潼関の西にまで回り込まれた途端、
韓遂、馬超らは曹操に対し自分達のほうから和睦を申し入れてきている。
戦争の開始が211年の3月。
曹操はとにかく固く守ることだけを命じて曹仁を派遣。
そしてそれから、曹操自身が親征を行うのが秋の7月。
9月にはもう、曹操自身が渭水を南に渡って潼関の西にまで出て、
布陣を完了したが、
それよりも前、曹操軍の先遣部隊が同様に、
潼関の西に陣地を構築し始めた段階で、韓遂、馬超らは
和睦を申し入れてきている。
曹操軍が黄河と潼水を結ぶ南北のライン、
それと黄河と渭水を結ぶ東西のライン。
この二つの防衛線を突破することで、
涼州方面の反乱軍の本国と、および潼関で戦う馬超らの軍と、
その間を結ぶ糧道が断ち切られてしまったのだろう。
これで潼関の反乱軍は本国と断ち切られて孤立する格好となってしまった。
だから211年の3月から始まって、秋の7月までは何の進展もなかった戦況が、
その7月に曹操がやってきて黄河の西岸、渭水の南岸にまで軍を
深く侵入させると、
ものの二ヶ月もしない内に、
反乱軍は自分達のほうから曹操に対して和睦を申し込んできた。
しかし勿論、曹操はこれを許さず。
元々彼らを野戦で叩いて、数減らしをするのが目的だったため、
曹操はそのまま、後がなくなって潼関から飛び出してきた敵軍を伏兵で
撃破して完勝。
敵が難攻の潼関の要塞に籠られたままでは、曹操としても攻略は難しい。
そのため曹操軍では何とかして、彼らを城から誘き出すためにも、
潼関の敵と涼州の本国とを結ぶ間の道を遮断してしまうことが
必要だったのだろう。
そしてそのための渡河行動が、
この潼関の戦いではやはり、最も重大な作戦ポイントになっていたに違いない。
【賈詡の離間の計】
この潼関の戦いには賈詡が従軍していて、
韓遂、馬超らが孤立して和睦を申し入れてきた際、曹操に対し、
偽りの許可を与えて、彼らを離反させてしまうのがいいと進言し、
実行している。
史書にはこの賈詡の離間の計で、
賊軍が撃ち破られたとも書かれたりしているのだが、
しかし彼らは曹操との対戦中に、
バラバラになって、互いに内紛を始めて崩壊したわけではないので、
賈詡の計が潼関戦の直接の勝因だったとは言えない。
ただそうなると、では何で、賈詡は敵との対戦途中に、
そんな謀略を仕掛けたのだろうかと、疑問も生じるところなのだが、
が、これは恐らく敵を撃ち破った後のことを考えての措置なのではないか。
たとえ敵を野戦で上手く撃破したとしても、
一人残らず根絶やしにできるというわけではない。
彼らの大半はまた、散り散りに涼州の故郷へと戻っていってしまうだろうが、
そのときに再び、彼らの間で大同団結をされないよう、
賈詡が謀略を用いて、彼らの間の不仲を作りだそうとしたのではないか。
そしてバラバラバになった敵を一つずつ、個別に鎮圧していくと。
【韓遂の不穏な動向】
それともう一つ気になるのが、韓遂の存在。
今回の潼関の戦いで、勝敗の分け目となった最大のポイントは蒲阪津で、
ここの守備をおろそかにしていたため、
馬超、韓遂らの軍閥連合は敗北に至ってしまった。
徐晃は「敵は蒲阪津に別働隊を送って守備していない。
これは彼らの無知の証だ」と曹操に進言し、
いち早く蒲阪津を押さえ、
そしてそこから曹操軍は黄河の西岸へと渡り、
賊軍の防衛ラインを突破していった。
逆に涼州、関中軍側のほうでは馬超が、
「渭水の北岸で蒲阪津から渡ってこようとする曹操軍を防ぐべきだ。
そうすれば二十日もせず、河東の糧穀が尽きて
曹操は撤退するしかなくなる」と、そう主張していたのだが、
それを何故か、韓遂に却下されてしまう。
「連中が河の中で溺れるのを見るも一興じゃないか」と。
自分達で蒲阪津の対岸で待って、上陸してくる敵を追い落とすのなら、
敵は河で溺れるかもしれないが、
だからそうしようという馬超の提言を退けて、
曹操軍の兵士達が黄河の河の中で溺れるはずがない。
馬超のその策を実行していれば、本当に曹操軍も退けることができていたのか、
その成否の可能性は良くわからないが、
韓遂が馬超に返した言葉はどうにもおかしい。
やがて賈詡の離間の計に嵌められて、
韓遂は馬超から疑われて仲違いするに至るのだが、
この辺りはどうも、
韓遂は一体、何を考えていたのか・・・。
だからあるいは、賈詡もそうした面を踏まえて、
韓遂に対しての離間の策が有効だとの考えを持ったのかもしれない。
元々韓遂という人物は、非常に白黒定からぬ、
腹に一物を抱え込んだような灰色の男で、
184年に巻き起こった涼州大乱の際も、
この乱は皇甫嵩の討伐によってほぼ鎮圧をされるのだが、
すると韓遂はその負け戦の責任をトップの王国に擦り付けて殺害。
そしてまた別に、今度は元信都県令だった漢陽郡の閻忠を首領として
迎え入れようと画策する。
しかし閻忠は病死してしまい、それでまたその代わりとして、
韓遂が再び探して、新たな反乱軍の総帥としてリクルートしてきたのが、
他ならぬ、元涼州金城郡軍司馬の馬騰だったのだ。
このようにして韓遂とは常に誰か、自分以外の第三者を叛乱軍の№1として
推戴し、
自らはその№2として、影から叛乱運動を操り、
そして都合が悪くなれば、そのトップに責任を擦り付けて、
自分は明哲保身を決め込むという・・・。
そんなことを繰り返してきていた男だったのだ。
だから今回の潼関の戦いでもそうだ。
韓遂はいつもと同じように、自分は№2として、
トップを年若い馬超のほうに押し付け、反乱軍の総帥に据えていた。
だからあるいは韓遂が、本当に裏で曹操と結んでいたなんてことも、
考えられないわけではないが、
しかしもしも負けそうになったら、
馬超に責任を被せて、自分だけ助かろうとしていた可能性は、
非常に高かったと言えるだろう。
【河東郡太守・杜畿の功績と、河東郡の軍糧供給】
「河東郡の糧穀が尽きれば、
曹操軍は20日もしない内に撤退を遂げるだろう」などと、
馬超は語っていたが、
今回の潼関の戦いで、曹操軍の軍糧の負担を、
一手に担っていたのが裕福だった河東郡で、
その地の太守が、最近では割りに有名になった杜畿という人物だった。
当時は天下の争乱の影響から、どの郡県も破壊され、
荒廃が激しかったというのだが、河東郡ではこの杜畿の手により、
どの郡よりも真っ先に回復し、多くの備蓄を積み上げるまでになった。
※(『三国志 杜畿伝』)
「韩遂、马超之叛也,弘农、冯翊多举县邑以应之。河东虽与贼接,民无异心。
太祖西征至蒲阪,与贼夹渭为军,军食一仰河东。及贼破,馀畜二十馀万斛。
太祖下令曰:“河东太守杜畿,孔子所谓‘禹,吾无间然矣’。
增秩中二千石。”
太祖征汉中,遣五千人运,运者自率勉曰:“人生有一死,不可负我府君。”
终无一人逃亡,其得人心如此。
(韓遂、馬超らが叛乱を起こすと、弘農、馮翊では県や邑を挙げて、
これに応じる者が多かった。
河東郡は賊と接していたが、民に異(异)心は無(无)かった。
太祖(曹操)は西征して蒲阪に至ると、賊軍と渭水を挟んで向かい合ったが、
軍食は一に河東郡に仰いだ。
賊が敗れた後でなお、20余万斛も蓄えに余りがあった。
太祖(曹操)は命令を下して言った:“河東郡太守の杜畿は、孔子の残した、
“禹については、非のうちどころがない”との言葉と同じだ。
中二千石に俸禄を加増せよ”と。
太祖(曹操)が漢(汉)中へ遠征すると、河東軍では5千人を派遣して
運送の労役をさせたが、
運送に当たっていた者達は皆、自ら率先して努力し、
“人生には一つの死が有るが、せめて我が府君(杜畿)に
迷惑が掛かるようなことはしまい”と、
遂に一人の逃亡者も出さなかった。
杜畿が人心を得ていたのはこれほどであった。)」
曹操自身が潼関に出兵したのが秋の7月で、
戦争終了がそれから2ヶ月後の9月。
しかし戦争が終結してなお、河東郡では20万斛以上の穀物が余っていたと。
後漢代の1斛を19.8リットルで計算。
20万斛だと396万リットル。
1食に米1合(約0.18リットル)、1日3合((約0.54リットル))が
成人一人の概ねの消費量なので、
兵士1人だけなら7333333日分。(笑)
兵士1万人で、733日分。およそ2年分。
兵士2万人で、366日分。およそ1年分。
兵士3万人で、244日分。およそ8ヶ月分。
兵士4万人で、183日分。およそ6ヶ月分。
兵士5万人で、146日分。およそ5ヶ月分。
兵士6万人で、122日分。およそ4ヶ月分。
兵士7万人で、104日分。およそ3ヶ月分。
兵士8万人で、 91日分。およそ3ヶ月分。
兵士9万人で、 81日分。およそ2ヶ月分。
兵士10万人で、73日分。およそ2ヶ月分。
・・・と、
戦争が終わってもまだ、20万斛も残っているというのは、
かなり驚異的な数字だ。
逆に馬超の言った、
「20日もしない内に河東郡の軍糧が切れる」といった言葉から考えてみた場合、
曹操は30万人以上の兵を潼関に持ち込んだ計算になる。
しかし30万人もいれば、曹操は赤壁で勝っているだろう。
『馬超伝』内の「典略」の記述によれば、
潼関戦時の馬超、韓遂連合軍の兵力は10万人。
しかし曹操軍の兵力は不明。
『衛覬伝』内の「魏書」には、この戦いを平定して、
曹操軍には5桁の死者が出たと書かれている。
※(『三国志 衛覬伝』注、「魏書」)
「兵始进而关右大叛,太祖自亲征,仅乃平之,死者万计。
(兵が進軍を始めると、関右(关右、関中・関西)は大反乱を起こした。
太祖(曹操)は自ら親征し、これを平定したが、
死者は万を計上した。)」
しかし馬超、韓遂らの軍勢にしても、
10万を超える大軍を抱えつつ、6ヶ月もの長期戦を戦い抜くというのも、
かなり無理があるようにも思える。
いっそ全部、大体10分の1くらいにしてちょうどいいようにも感じられるのだが、
ただ潼関の戦いが終わって、その後の漢中攻めでも、
同じように河東郡では軍糧の供給を受け持っていたらしいことから、
相当な備蓄があったのは間違いないとして、
しかしこの20万斛以上も残っていたという杜畿伝の記述は、
果たしてどこまでの信憑性があるのか・・・。