潼関の戦いにみる曹操の心理変化
潼関の戦いを仕掛けた曹操の思惑と、その行動にみる曹操の心理変化についての考察。および潼関戦の詳細。
【韓遂と馬騰】
208年(建安13年)の「赤壁の戦い」から3年後の211年(建安16年)、
曹操は再び大きな戦いを迎える。
それは涼州の馬超、韓遂らの軍閥連合を相手にした「潼関の戦い」。
「潼関の戦い」は、三国志演義では、
父親の馬騰や、弟の馬休、馬鉄らを曹操によって殺された馬超が、
その復讐として、勃発することとなるのだが、
史実では全然違う。
史実のほうだと馬超、韓遂らが曹操に対して反旗を翻したとき、
父の馬騰はまだ生きていて、
馬超、韓遂が反逆をしたので、それを理由に、
曹操によって処刑されてしまう。
その頃、馬騰は朝廷に出仕し、衛尉となっていた。
三国志演義では、馬騰は劉備らと同じ、漢王朝に忠節を尽くす
忠臣となっているが、これも全く違い、
馬騰も韓遂も元々は漢王朝に対して主に長安以西の地で、
長らく叛乱行動を繰り広げていた、逆賊の反徒達だった。
というより、
状況次第で、官に味方したり、反乱を起こしたりなど、
コロコロと態度を変えていた。
馬騰も韓遂も当初の内は漢王朝の役人として仕えていた。
(涼州周辺地図)
韓遂は涼州金城郡の従事だったが、
184年(中平元年)に、先零羌および枹罕・河関の盗賊、
涼州義従の宋建、王国らが、
湟中義従胡の北宮伯玉、李文侯を擁立して漢王朝に反逆を起こすと、
いつの間にか韓遂は、新安県令の辺允と連れ立って彼ら賊徒達の仲間となり、
そして仲間となってからはむしろ自ら率先して、
州郡の焼き討ちや軍事侵攻を行った。
宋建、王国らは始め、金城郡にまでやってくると、偽って降伏を申し出、
韓遂、辺允らと会見を求めたという。
韓遂は断ったが、金城郡太守の陳懿が勧めたので会いにいくと、
そこで韓遂も辺允も見事に人質に取られてしまった。
太守の陳懿は逃れようとしたが捕まって殺されてしまう。
しかし韓遂、辺允の両人は宋建、王国らから説得を受けると、
承服して仲間となってしまうのだった。
そのころ韓遂は韓約という名前だったのだが、
朝廷から懸賞金を掛けられたお尋ね者となると、
名を変えて韓遂と名乗るようになった。
辺允もまた、辺允から辺章と改名。
※(『後漢書 董卓伝』注、献帝春秋)
「獻帝春秋曰:「涼州義從宋建、王國等反。
詐金城郡降,求見涼州大人故新安令邊允、從事韓約。約不見,
太守陳懿勸之使*(王)**[往]*,國等便劫質約等數十人。
金城亂,懿出,國等扶以到護羌營,殺之,
而釋約、允等。隴西以愛憎露布,冠約、允名以為賊,
州購約、允各千戶侯。約、允被購,
『約』改為『遂』,『允』改為『章』。」
(献帝春秋曰く:「涼州義従の宗建、王国らが反す。
偽って金城郡に降り、求見涼州の大人で故の新安令の辺(邊)允と、
従事の韓約に会見を求めた。韓約は見えず、
太守の陳懿はこれに使いすることを勧めたが、
王国らはすなわち韓約ら数十人を人質として劫奪した。
金城は乱(亂)れ、陳懿は城を出た。
王国らはたすけあって護羌営に至り、陳懿を殺した。
韓約、辺允らは説得された。
隴西では以って、韓約、辺允らに賊の名を冠し、
愛憎露布されるところとなった。
州では韓約、辺允らに各々千戸侯の懸賞金を掛け、
懸賞金を掛けられた韓約は名を改めて韓遂に、
辺允は辺章と改めた。)」
以降、彼らは涼州の各地で暴れ周り、官軍の追討も撃破して、
長安周辺の三輔地方にまで侵入を果たした。
一方、馬騰のほうはというと、
馬騰は実は、この184年(中平元年)に起きた宋建、王国らの反乱に際し、
彼は涼州刺史の耿鄙から、反乱討伐のために集められた義勇兵の一人だった。
それで馬騰は持ち前の武勇を活かし、
活躍して軍司馬にまで取り立てられるのだが、
しかし主人だった涼州刺史の耿鄙が部下の裏切りに遭って殺害されてしまうと、
馬騰もまた韓遂や辺章らと同じようにして、
賊徒達の仲間となってしまったw
最終的にこの大叛乱は、189年(中平6年)に、
朝廷から討伐の総司令官に任命された左将軍・皇甫嵩の手によって
鎮圧をされるのだが、
韓遂、馬騰は生き残り、引き続き長安周辺の関中内に居座って勢力を保ち続けた。
しかし生き残りはしたものの、やがて彼らは互いに権力を巡って殺し合い、
彼らの部曲もバラバラに分乖してしまったという。
「遂等稍爭權利,更相殺害,其諸部曲並各分乖。」(『後漢書』董卓伝)
董卓亡き後、王允を攻め殺して長安を奪取した李傕、郭汜、樊稠らも、
互いに仲間割れを起こして激しく争い合ったが、
これは彼ら西域の豪族達に共通する習性だった。
とにかく身内同士、仲間同士で非常に仲が悪く、
ややもすれば、直ぐに仲間割れを起こして互いに血みどろの闘争へと
突入してしまう。
韓遂と馬騰もまた、彼らは長安で李傕らが朝廷の実験を握ると、
韓遂は鎮西将軍に任じられて金城へと帰還し、
馬騰は征西将軍に任じられて郿城に駐屯を命じられるが、
馬騰が先ず、李傕らの覆滅を企てて挙兵。
すると韓遂も金城から出てきて李傕らと戦争となるが大敗。
やむなく一時、二人揃って涼州へと帰還し、そこで韓遂と馬騰は
義兄弟の契りを結ぶ。
それで初めは内は非常に仲良くしていたのだが、
それがどういう理由か一転して不仲に陥り、
以降は互いに仇敵を憎むかのごとくに攻撃をし合って、
韓遂はとうとう馬騰の妻子まで殺害。
それからはもう、何度も戦って決して和解することはなかったという。
※(『三国志 馬超伝』注、典略)
「會三輔亂,不復來東,而與鎮西將軍韓遂結為異姓兄弟,始甚相親,
後轉以部曲相侵入,更為讎敵。
騰攻遂,遂走,合眾還攻騰,殺騰妻子,連兵不解。
(たまたま三輔が動乱に陥ったため、再び東方へは戻らず、
馬騰は鎮西将軍の韓遂と結んで義兄弟となった。
始めは相親しむこと甚だしかったが、後に転じて部曲で互い侵入し合い、
仇(讎)敵のようになった。
馬騰は韓遂を攻めると韓遂は敗走したが、韓遂は戻って合衆して馬騰を攻めた。
韓遂は馬騰の妻子を殺し、兵を連ねて和解はしなかった)」
が、
そんな二人だったが、
後に再び和解する。(笑)
彼らを和解させたのは、曹操によって司隷校尉・持節・督関中諸軍として
任命を受け、
韓遂、馬騰を始めとした関中、西域の軍閥対策を任された鍾繇。
鍾繇は長安に着任すると、馬騰・韓遂らに文書を送るなどして徐々に懐柔し、
両者を和解させると、
馬騰・韓遂の両人から、それぞれの子息を朝廷に参朝させることにも成功。
すると彼らはこれまでの反乱から一転、曹操のために、
袁尚の命で高幹・郭援らの起こした河東郡での反乱にも協力して、
反乱鎮圧に軍勢を動員して戦った。
韓遂は征西将軍、馬騰は征南将軍に任じられ、
そうして一応はまた、彼らは漢王朝の臣下の身分に収まることとなった。
曹操は彼がまだ呂布や張繍と戦っていた頃、
韓遂・馬騰らの動向を心配して荀彧に相談をしていた。
荀彧はその問いに、こう答えた。
※(『三国志』荀彧伝)
「彧曰:“不先取吕布,河北亦未易图也。”
太祖曰:“然。吾所惑者,又恐绍侵扰关中,乱羌、胡,南诱蜀汉,
是我独以兗、豫抗天下六分之五也。
为将奈何?”
彧曰:“关中将帅以十数,莫能相一,唯韩遂、马超最强。彼见山东方争,
必各拥众自保。
今若抚以恩德,遣使连和,相持虽不能久安,比公安定山东,足以不动。
锺繇可属以西事。则公无忧矣。”
(荀彧は言った:“先に吕布を取らなければ、河北に易きを
求めることはできませんぞ。”と。
太祖(曹操)は:“わかっている。しかし私を惑わす者は袁紹で、
彼が关中(関中)に侵攻して掻き乱し、羌、胡の異民族に反乱を促し、
南の蜀漢(汉)にまで誘いの手を伸ばすこと。
こうなれば、私は兗州と豫州の二州だけで、天下の6分の5を相手に
戦わなければならなくなってしまう。
そうなれば、一体どうすればいいのか?”と言った。
すると荀彧は:“关中には十数以上の将帥(帅)達がおりますが、
とても一つにまとまることはありません。ただその中で韓遂と馬超が最強ですが、
彼らは山東(东)の争いを見ても、何もせず、
黙って各々自分達の勢力の擁保に努めようとすることでしょう。
今もし使者を遣って連(连)和させ、恩徳で以って慰撫(抚)なされば、
久しく安んじさせることはできずとも、
山東を安定させるころまでは、彼らの動きを封じることは可能でしょう。
鍾繇に西のことをお任せになれば、
すなわち公(曹操)に憂(忧)いなど無(无)くなるでしょう”と答えた。)」
こうして曹操は荀彧の助言に従って鍾繇を登用し、
曹操が呂布や張繍、袁紹を相手に戦っている最中に邪魔されないよう、
韓遂、馬騰らの西域対策を任せることとなったのだった。
それから曹操が袁氏を下して冀州を平定した後、
208年(建安13年)、
いよいよ荊州の劉表征伐へと乗り出すこととなった際、
曹操はその南征にあたって、韓遂、馬騰らが動き出すことを警戒し、
鍾繇と共に関中以西の対策を任せていた張既を派遣し、
部曲を解散させて郷里へと帰還するよう、説得をさせた。
馬騰は渋っていたが、やがて、
※(『三国志 馬超伝』注、「典略」)
「十(五)[三]年,徵為衛尉,騰自見年老,遂入宿衛。
(建安13年(208年)、馬騰は衛尉として徴されると、自らの年の老いを見て、
遂に入朝して衛尉となった)」
と、説得に応じ、
馬騰は朝廷に召されて衛尉となり、馬超の弟・馬休は奉車都尉に、
馬鉄は騎都尉に任じられ、
彼らの一族郎党も皆、冀州魏郡の鄴県に移住したが、
ただ一人、馬超だけは関中に残ることとなった。
しかしそれから3年後の211年(建安16年)、
未だ関中に残っていた馬超が、
西域諸侯の韓遂、楊秋、李堪、成宜らと結託して叛乱を起こしたため、
翌212年(建安17年)の5月、
曹操が潼関の戦いを経て彼らを撃ち破った後、
馬騰は子の馬休・馬鉄ら共に、三族皆殺しの刑に処されたという。
【曹操が潼関の戦いを仕掛けた真意】
さてしかし、馬超は韓遂らと語らって曹操に反乱を起こしたが、
そもそもその反乱の動機は何だったのか?
それは曹操の起こしたアクションが原因だった。
曹操が何をしたのか?
曹操は赤壁の戦いに敗れて後、それから3年後の211年(建安16年)、
その年の3月に、曹操は鍾繇と夏侯淵に対し漢中の張魯の討伐を命じた。
すると馬超・韓遂らは自分達が攻められるのではないかと疑心暗鬼に陥り、
それが彼らの反乱の直接の引き金となった。
※(『三国志 魏書、武帝紀』)
「張魯據漢中,三月,遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。
是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。
遣曹仁討之。超等屯潼關,
(張魯が漢中を占拠していたので、211年3月、曹操は鍾繇を派遣して
これを討たせた。
公(曹操)は夏侯淵らに河東郡を出て鍾繇と会合させた。
このとき関中の諸将は、曹操が自分達を襲うとしているのだと疑い、
遂に馬超は韓遂、楊秋、李堪、成宜等と共に叛乱をした。
(曹操)が曹仁を派遣して彼らを討たせようとすると、
馬超らは潼関に駐屯した。)」
・・・と、
詰まり曹操は漢中の張魯を攻めようとしただけなのだが、
それを馬超達が勝手に誤解して、
反逆をするという結果になってしまったと。
が、
しかし実はその、曹操が漢中の張魯を攻めようとした行為に対し、
もしそんなことをすれば、馬超達が疑心暗鬼に陥って
反乱を起こしてしまうだろうと、
事前に曹操に向かって警告を発していた人がいた。
それは高柔という人物。
高柔は袁紹の甥である高幹の族子の一人だったが、
曹操が袁氏を平定するとそのまま曹操に仕え、重用された。
この高柔という人物は、
彼が并州刺史の高幹に招かれるよりも前、まだ郷里の兗州陳留郡にいたころ、
その兗州内で、曹操とは親友の関係だった陳留郡太守の張邈が、
呂布や陳宮らと共に徐州遠征中の曹操の留守を狙って乗っ取りを企てた際、
高柔は何と、事前にそのクーデターを予見し、
だけでなく巻き添えにならないよう、
一族を連れてエン州から脱出してしまうなど、
非常に卓越した識見の持ち主だった。
そしてそんな高柔が、
漢中の張魯討伐をしようとした曹操の行動を見て、
またしても不穏な動きを察知し、曹操に忠告を行ったのだった。
※(『三国志 高柔伝』)
「太祖欲遣锺繇等讨张鲁,柔谏,以为今猥遣大兵,西有韩遂、马超,
谓为己举,将相扇动作逆,
宜先招集三辅,三辅苟平,汉中可传檄而定也。繇入关,遂、超等果反。
(太祖(曹操)は張魯を討つべく、鍾繇らを派遣しようとしたが、高柔が諌めた。
“もし今、みだりに多くの兵を派遣すれば、西に有る韓遂・馬超らは
自分達を討伐するための挙兵だと思い込み、
互いに扇動(动)し合って反逆を起こすでしょう。
よろしく先に三輔(長安を含んだ東部の京兆尹、
北部の左馮翊、
西部の右扶風の地域)を招集すべきで、
もし三輔が平定されれば、漢(汉)中は檄文を飛ばすだけで
平定できるでしょう”と。
鍾繇が关の地へと入ると、はたして馬超らは離反した。)」
・・・と、
そうするとこれは、
賈詡の進言を無視して大敗を喫した赤壁の戦いと同様、
曹操の仕出かした失敗だったのか?
が、
赤壁の戦いと違って曹操は馬超、韓遂らを戦争で撃破した後、
“これは初めから、わざと馬超、韓遂らを決起させて、
まとめて彼らを撃ち破る作戦だったのだ”ということを言っているのだ。
※(『三国志 武帝紀』)
「始,賊每一部到,公輒有喜色。賊破之後,諸將問其故。
公答曰:“關中長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也。
今皆來集,其眾雖多,莫相歸服,軍無適主,一舉可滅,為功差易,
吾是以喜。”
(始め、賊軍が一部隊ずつ到着するごとに、曹操は喜色を浮かべて喜んだ。
賊軍が敗れ去って後、その理由を曹操に尋ねた。
曹操は答えた。
“関中は遠距離にある。もし賊が各自に険阻な地に立てこもって抵抗をすれば、
一年や二年ではとても平定はできない。
が、その敵が今、皆同じ場所へと一堂に寄り集まってきたのだ。
確かにその人数は多いといえども、互いのまとまりに欠け、
また適当な大将の存在もないとなれば、
一撃の内に滅ぼすことも可能だ。功もやや得易くなる。
私はそれを喜んだのだ”と。)」
赤壁の戦いでも曹操は、
“自分から船を焼いて撤退したのだ”というようなことを言っているが、
赤壁戦は明らかな敗北で、これは曹操の負け惜しみ。
なので潼関の戦いでもやはり同様に、本当は高柔の言う通りだったのだが、
負け惜しみで“あれは作戦だった”と、
曹操が言ったとも取れる。
しかし潼関の戦いでは赤壁と違って曹操軍は大勝利を収め、
少なくとも失敗ではない。
曹操にとって倒したかった本当の敵が漢中の張魯ではなく、
関西異民族の軍閥連合だったとするならば、
実際これは曹操の、計算された行動だったということになる。
しかし一つだけ腑に落ちないのは、
それなら高柔がわざわざ、先に三輔を平定してから漢中を制圧しろなどと、
そんなことを助言するだろうか・・・?
詰まりどういうことかと言うと、
通常、高柔らのような智謀の士が自分達の立場で考えて、
“普通ならこうするであろう”といった戦略なり戦術なり、
そういったベーシックな基本路線に対し、
曹操がそれと反対するような行動を取ろうとしたのではないかと。
だから荀彧がかつて曹操に助言したように、
別に無理に戦おうとしなければ、
依然、馬超、韓遂らを、そのまま懐柔して黙らせておくことは
可能だったのではないか?
なので、それこそ馬超、韓遂らのほうは、そのまま放っておいて、
後回しで構わなかった。
優先すべきはやはり漢中。そして蜀。
だから高柔が、“あれ・・・?”と思って、
曹操に問い質した。
しかし確認してみたが、
曹操はハッキリ、“いや、これでいいんだ”と。
“漢中の張魯なんか目じゃない。
それよりも馬超、韓遂らの存在のほうが問題だ”と。
後にはその漢中の張魯も攻め滅ぼすことになるのだが、
その際に劉曄や司馬懿は、このまま続けて、次は蜀へと攻め込むべしと、
曹操に進言を行った。
しかし曹操は、
「隴を得て蜀を望まず」などと言って、蜀を平定したばかりで不安定な
劉備を攻めず、引き返してしまう。
すると今度は劉備のほうから逆に漢中を攻められて、
曹操は漢中を失うことになるのだが、
しかしその頃の曹操はもう、
蜀や漢中の領有に、それを欲しているような感じではなかった。
曹操は赤壁の大敗で、
これで彼一代での天下統一の可能性はほぼ尽きた。
おそらく曹操は、その赤壁の敗戦で、
もはや自身の手による天下統一に関しては、
自分で見切りを付けてしまったのではないか。
後に魏が蜀を滅ぼしたのが263年。
しかしまだ呉は残っていて、
それから晋が呉を攻め滅ぼしたのが280年。
17年もかかっている。
だからもし曹操が劉曄や司馬懿の進め通りに蜀まで取っていたとして、
曹操による蜀の制圧が215年で、
曹操60歳のとき。
それから呉の制圧に単純計算で17年かかるとして、
曹操は77歳まで生きていなければならないが、
曹操は220年に、65歳で病死してしまう。
赤壁の戦い以前と以後で、
明らかに曹操は変わる。
いや、厳密にはもっとそれよりも前に、
どこか曹操の内面で、変容を生じたのではないかと思しきところがあるのだが、
それと今一つ、『衛覬伝』内の「魏書」には、
※(『三国志 衛覬伝』注、「魏書」)
「魏书曰:初,汉朝迁移,台阁旧事散乱。自都许之后,渐有纲纪,
觊以古义多所正定。
是时关西诸将,外虽怀附,内未可信。
司隶校尉锺繇求以三千兵入关,外讬讨张鲁,内以胁取质任。
太祖使荀彧问觊,觊以为“西方诸将,皆竖夫屈起,无雄天下意,苟安乐目前而已。
今国家厚加爵号,得其所志,非有大故,不忧为变也。宜为后图。
若以兵入关中,当讨张鲁,鲁在深山,道径不通,彼必疑之;
一相惊动,地险众强,殆难为虑!”
彧以觊议呈太祖。太祖初善之,而以繇自典其任,遂从繇议。
兵始进而关右大叛,太祖自亲征,仅乃平之,死者万计。
太祖悔不从觊议,由是益重觊。
(魏書に曰く:初めて、漢王朝が長安に遷都したとき、
台閣僚の旧い事例は散乱してしまった。
(曹操が)許に都を置いて以後、だんだんと綱紀ができあがったが、
衛覬は古義(义)に従い、正定するところが多かった。
このとき関西の諸将は、外面的には懐き服従していたが、内実はまだ信用できなかった。
司隷校尉の鍾繇は3千の兵で関中へと入ると、表向きは張魯討伐にかこつけ、
内実は脅(胁)迫して、諸将から人質(质任)を取りたいと求めた。
太祖(曹操)は荀彧を派遣して衛覬に相談をさせた。
衛覬は、“西方の諸将は皆、豎夫が屈起しただけで、
天下に雄意を示そうとする気などはなく、一時的に目前の安楽を求めているだけなのです。
今、国家が手厚く、爵号を与えますならば、その希望を叶えることになり、
大故も、憂(忧)変もないでしょう。
宜しく将来に、手を打たれればよろしいでしょう。
もし兵を持って関中に入れば、当然、張魯を討つことになりますが、
張魯は深い山にあり、道も通じず、彼ら諸将はきっと疑惑を抱くことになるでしょう。
一度、驚動(惊动)しますれば、土地は険しく軍勢は強力ですから、
殆ど考えて手を打つことも難しくなるでしょう!”と。
荀彧は衛覬の意見を太祖(曹操)に上程し、太祖(曹操)もこれを善しとしたが、
しかし鍾繇にその職務を任せていたため、
結局は鍾繇の意見に従った。
兵が進軍を始めると、関右(关右、関中・関西)は大反乱を起こした。
太祖(曹操)は自ら親征し、これを平定したが、
死者は万を計上した。
太祖(曹操)は衛覬の意見に従わなかったことを後悔した。
そのことからますます衛覬を尊重した)」
と、
このように書かれている。
やはり馬超、韓遂らの始末は後回しでいいと。
しかしこれをみると、漢中の張魯討伐自体が、
実は関中・関西軍閥連合の人質を取るための策略だったということにされている。
そして曹操も事後の心配から、その案の実行には否定的だったとも。
が、だとすると戦後の曹操の、
「あれは連中を一手に誘い出すための策略だった」という言葉と矛盾してくる。
やはり順番とすれば、高柔の言っていた三輔の平定から、漢中の併呑。
そして蜀への侵攻という順序が、手順としては正しいのではないか。
「衛覬伝」の内容に従えば、馬超、韓遂らの反乱は、
鍾繇が推進した彼の計略によって引き起こされた事態だったということになり、
曹操もそうなるかもしれないという結果は危惧しつつも、
“それならばまあ、それでも・・・”と。
とすればこれは、曹操が漢中、および蜀の領有に消極的だったという、
そのことの一つの証左ともなりそうなところだが、
ただそうなると今度はまた別に、
では鍾繇は、彼はどうして高柔や衛覬が指摘したような
危険性を予知できなかったのか?という疑問が生じてくる。
いや、
高柔や衛覬にわかって、鍾繇にそんなことがわからぬはずがない。
しかし曹操は、“これは鍾繇が立てた策だから”なんてことを自分で言っている。
本当に鍾繇が立てた策だったのか・・・?
『衛覬伝』では、鍾繇が進言をしてきた献策について、
曹操がどういうわけか荀彧を派遣して、
そして当人の鍾繇でもなく、別の衛覬などに、
その献策の良否について相談をさせている。
何故、曹操は荀彧が目の前にいて、
彼に相談をしないのか?
これはおかしい。
荀彧に聞けば、そんなことは一発でわかる。
というより、
逆にこの場面に、荀彧が出てきたということのほうに、
意味があるのかもしれない。
詰まりこれは、
後に曹操が自分自身で「あれは敢えて馬超、韓遂らに、
反乱を起こさせるために仕組んだ策略だった」と、語っているがごとくに、
始めから曹操本人の考え出した計略だったのではないか。
そしてその計の実行を、曹操が自分で鍾繇に命じた。
しかし漢中や蜀への侵攻を前に、先に西域の異民族連合を敵に回せば、
そちらのほうに手を取られて南方への進出を阻害される。
順序としては逆になってしまう。
なので先ず高柔など、それに気付いた者が曹操に進言を行う。
しかし曹操は動かず、何もしようとしない。
それで仕方なく、今度は幕僚筆頭の荀彧が、
曹操に対してその行動の真意を確かめるというようなことと
なったのではないか。
しかしそれは元より、曹操本人が考え出したこと。
そのため曹操は荀彧に対しての誤魔化し、言い繕いとして、
「あれは鍾繇の策で、彼に西域対策は全て任せてあるから」などと
いうようなことに、したのではないか。
また荀彧に聞かず、彼をわざわざ衛覬のところにまで相談に行かせたという、
これもおかしいのだが、
だがこれも、
要は曹操が、鍾繇に直接、荀彧を会わせたくなかったからとか。
もし鍾繇に荀彧を会わせてしまうと、荀彧と同郷で彼とは非常に親しい鍾繇が、
荀彧から説得されてしまう危険性も出てきかねない。
・・・と、
そんな可能性もまあ、考えられなくもない。