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赤壁の戦いと、軍師達の活躍

赤壁の戦いと、その戦いを巡る両軍の軍師達の活躍について。

【赤壁の戦い】


200年(建安5年)の官渡の戦いから8年後の208年(建安13年)、

曹操にとって彼の人生で官渡戦に並ぶ二つ目の大きな戦い、

現代にも有名な、「赤壁の戦い」を迎える。


三国志演義などを初めとした小説では、

80万~100万とも言われる大軍団を形成し、長江の大河を呉へと向かって

突き進んでいった曹操軍が、

わずか3~5万の周瑜率いる孫権軍に火計で敗れ去るという、

一大活劇に仕立て上げられているわけだが、

しかしまあ、実際にはそうでもなかったようだ。


先ず80万~100万という曹操軍の兵士数が、

これは現実的な数字として考えられない。


戦い方が変わってくる。

たった3~5万の敵に80~100万の兵を一ヶ所に集めて戦うなんてことはしない。


かつて昆陽の戦いで、およそ40万以上ともされる王莽軍の大軍が、

劉秀(後の光武帝)軍のわずか1万人足らずの兵の急襲により

撃破されたという実例も存在するように、

大軍というのは人数は多くても、

多ければ多いほど、その分、今度は部隊の統率が難しくなってくる。


それにもし3万という敵に80万の兵をぶつけたとして、

実際に敵と戦っている兵も3万くらいにしかならないのだから、

後の70万以上の味方の兵士達はその間、

何もせずにただ黙って突っ立っているだけにしかならない。

周瑜の軍がメチャクチャ強かったとしても、

先ず、10万以上の兵は同じ場所には必要がない。


曹操が荊州の領土を取って有利になった最大の点は、

曹操が荊州の地を取ったことで、

北と西の両方面から、呉へ多方面攻撃を掛けられるようになったことだ。


孫権軍が3万の軍勢を前線に送って迎え撃ってきたとして、

仮にその3万の敵を3万の兵で相手させれば、

曹操軍は別にそれ以上、無理に敵と戦わずとも

その場に引き付けておくだけで、

曹操軍ではその間に他の方面からそれぞれ数万ずつ、

ルートを分けて別々に呉領内へと侵攻させれば、

それで終わりだ。


実際、後の、晋が呉を滅ぼした戦いでは、

晋は呉領内に向かって、20万の軍勢を6路に分けて進軍させて降伏させている。

だから実数でいっても20万以上の兵力があれば、

もう呉は併呑できてしまう計算になってしまう。


「江表伝」では、曹操軍は合わせて22~24万という記載になっているが、

実際にはそれよりもさらに少なかっただろう。


だから20万以上の人数がいれば、

曹操はほぼ間違いなく孫権軍に勝利することができ、

そして多方面攻撃を仕掛けている。

しかし実際に曹操が進んだルートは荊州方面、

襄陽、江陵からの2ルートのみ。


詰まり曹操軍の進軍ルートが荊州一方面からしかなかったということ自体が、

実際には多方面攻撃を仕掛けられるほど、

曹操軍は大軍を率いてはいなかったという証にもなる。


その他、荊州以外の方面はといえば、

例えば赤壁の戦いから5年後の215年(建安20年)に行われた

孫権軍対曹操軍の戦いでも、

曹操軍の前線である揚州の合肥城には、

わずか7000人ほどの兵士しかいなかった。


だから赤壁の戦いにおいても、

曹操軍の人数は大軍ではあっても、孫権軍相手に100パーセント、

確実に勝利を得られるだけの人数まではいなかった。


“だから危ないから止めろ”と、

赤壁の会戦前に、

曹操に対して進言を行った人物がいた。


賈クだ。



※(『三国志 賈詡伝』)

「建安十三年,太祖破荆州,欲顺江东下。

诩谏曰:“明公昔破袁氏,今收汉南,威名远著,军势既大;

若乘旧楚之饶,以飨吏士,抚安百姓,使安土乐业,则可不劳众而江东稽服矣。”

太祖不从,军遂无利。

(建安十三年(208年)、太祖(曹操)は荊州を破り、

長江を順に東(东)下したいと欲した。

賈詡が諌めて言った:“明公(曹操)は昔、袁氏を破り、今は漢(汉)南を収め、

威名は遠(远)くまで著しく、軍勢は既に大きい。

若し旧楚の豊穣(饶)に乗り、吏士を響(飨)でもてなし、百姓の撫(抚)安し、

農業を東の地に安んじさせなさったのなら、江東は稽服し、

大軍を出兵させて煩わせる必要もないでしょう。”と。

しかし太祖(曹操)は従(从)わず、

軍は遂に利が無(无)かった。)」


と、

実際の発言はこうだが、

要するに今はまだ危ないと。


しかし数年、農産に励んで軍備の増強に努めさえすれば、

そのときにはもう、軍を出すまでもなく、

向こうのほうから降伏して来ざるを得ないだろうと。


実は賈クのこの発言は、官渡の戦いの前、弱小の曹操軍を相手に、

自らの大兵力を拠り所として強引な短期決戦に逸ろうとする袁紹に対し、

幕僚の沮授と田豊の行った諫言と全く同じ意味内容の発言だった。


そのとき沮授と田豊の二人は袁紹に、

公孫サンとの連年に渡る戦いで国が疲弊しているため、

先ずは外征はやめて農事に専念したほうがいいと進め、

またその一方で、武器、船舶を蓄え、

そしてそれと平行して曹操軍領内の各地に騎兵を送り込んで

ゲリラ戦でかく乱すれば、

後は戦わずとも2~3年の内に、確実に曹操を滅ぼすことができると。


袁紹は10万の大軍を従え、兵力では確かに曹操軍を圧倒していたが、

しかしいざ実戦となった場合、

戦上手の曹操相手でもあり、何が起こるかわからなかった。


いやもう、両軍での本格的な戦争となった場合、

確実に自軍のほうが負けるであろうと、

そう沮授と田豊の二人は判断をしていた。


沮授は官渡の戦いが開戦と決まると、

沮授は、


※(『三国志 袁紹伝』注、「献帝伝」)

「军之破败,在此举也。(我が軍の敗北は、この挙兵によって決まるのだ)」


と言い、

田豊もまた出兵前、主君の袁紹に向かって、


※(『三国志 袁紹伝』)

「今释庙胜之策,而决成败於一战,若不如志,悔无及也。

(今、廟議でめぐらす勝利の策を手放し、

勝敗を一戦で決めなさろうとしていますが、

もし思い通りにならなかった場合、後悔も及びませんぞ)」


などと忠告したりしていた。

そして袁紹軍と戦った曹操自身、


※(『三国志 袁紹伝』注、「先賢行状」)

「初,太祖闻丰不从戎,喜曰:“绍必败矣。”

及绍奔遁,复曰:“向使绍用田别驾计,尚未可知也。”

(初め、太祖(曹操)は軍に田豊が従っていなことを聞くと、喜んで、

「袁紹は必ず敗れるだろう」と言い、

また、後に袁紹軍が実際に遁走するハメになったときも、

「もし袁紹が田豊の計を用いていれば、

どうなっていたかわからなかっただろうに)」


などとも語っていた。


とにかく大兵力で、数では敵を圧倒をしていたとしても、

実戦ではどう転ぶかもわからないといった、

官渡の戦いとはそんな戦争だった。


そしてまた赤壁の戦いも。


やはり同じ、

大軍で優勢は占めていても、まだまだわからない。

いや、むしろ危ないだろうと、

官渡の戦いの前、沮授と田豊の二人が袁紹に諫言したように、

赤壁の戦い前、賈クも曹操に対して忠告を行った。


しかし曹操はその言葉を聞かず、

強引に出兵し、

そして大敗を喫した。


詰まり、官渡の袁紹と、赤壁の曹操は、

両者で全く同じ過ちを犯している。


曹操は官渡の戦いで、目の前でまざまざと袁紹の失敗を見ていたというのに、

そんな袁紹と全く同じ間違いを自分で繰り返すという、

まさかの大失態を仕出かしたが、

しかしこれは逆に言って、

赤壁の戦いにおいて、孫権軍のほうでは官渡の戦いの際の曹操軍と同様、

相手が短期決戦に乗り込んできたという、その事実をこそ、

むしろ彼らのとっての僥倖だったろう。


難しい戦いにはなるだろうが、

それでももし相手に持久戦に持ち込まれてしまえば、

呉が生き残る可能性も、それこそ0パーセントのまま。

それが大幅に跳ね上がるのだから。


しかも孫権軍の総軍司令官を任された周瑜などは、

かつて官渡の戦いおいて、曹軍絶対不利と言われた戦いの中、

いや、必ず勝てると、曹操に対して進言をした、

荀彧、郭嘉、賈 詡らと同様、

彼もまた、208年に巻き起こった曹操軍との戦いにおいては、

開戦前、既に必勝の確信を抱くにまで至っていた。


だから周瑜は「三国志」の彼の本伝の中で、

「三国志演義」みたく、敵の大船団を見て驚きおののくどころか、

彼は曹操が荊州を平定して軍を本国に戻さず、

そのまま江東の地へと大軍を引き連れてやってきたと知るや、


「自ら死ににやってきた」と、ほくそ笑んだ。


「況操自送死,而可迎之耶?」(『三国志 周瑜伝』)


曹操は向こうからわざわざ自分で死ににやってきたというのに、

何でこちらから降伏してやる必要があるのだと、

そして周瑜は至って事務的に対処し、限られた自軍の兵を上手く指揮して、

曹操の大軍をものの見事に撃退してみせた。


一方この敗戦で、曹操本人が生きている間での、

魏の天下統一の可能性は無くなった。


どころか周瑜がそのまま生きていれば、

逆転して曹操を滅ぼしていたかもしれない。


周瑜は赤壁の戦勝の後、曹仁から江陵を奪い、

そして蜀へと侵攻し、漢中を滅ぼし、

そこからさらに孔明が行った北伐のように、関中方面へと進出しようとしていた。

孔明の北伐は単独だったが、

周瑜の計画では、その際には漢中、荊州、呉と、

三方面からの同時進行作戦だった。


実行されていれば曹操も防ぎ切ることはできなかったろう。


しかし実際にはその周瑜が死んでしまい、

それを代わりに劉備が引き継ぐことになるのだが、

アホみたいにモタモタと時間を掛け過ぎ、

劉備がやっと蜀の地を劉璋から奪ったときには、

もう曹操がそのすぐ真北の、漢中の地を五斗米道の張魯から

奪い取ってしまっていた。


しかも本当なら、

漢中を占拠した曹操がそのまま蜀の地へと南征していれば、

劉備もそのまま蜀を奪い返されていた。


そのときはまだ劉備も蜀を平定して日が浅く、

日にいくつもの問題事が発生して混乱の状態にあり、

漢中遠征に従っていた劉曄と司馬懿が揃って、


「今、蜀に攻め込めば勝てます」と、


曹操に向かって進言をしていた。


しかしこれも実に不思議なところなのだが、

何故か曹操は、


「隴を得て蜀を望まず」などと、わけのわからないことを言って、


蜀に攻め込むこともなく、

そのまま関中の都のほうへと引き返していってしまった。


だから曹操は、

負けるから攻め込むなと言われた赤壁の戦いを断行し、

逆に攻めれば勝てると言われた蜀遠征は行わずに

そのまま引き返すという、

軍師達の意見と反対の行動を二度したことになる。


が、

赤壁への出兵のほうに関しては、

いや、それでいいと、

言う人がいる。


正史「三国志」の注釈者の裴松之だ。


裴松之はそもそも、

賈クが赤壁の戦い前、曹操に対して忠告自体、

大きな間違いだと断言をする。


攻めて決して間違いではなかったと、

そして何もなければそのまま勝っていた筈だと。

負けたのはそのときたまたま不幸にも、東南の神風が吹いたため、

不慮の敗戦を被っただけだと。


以下、その弁。


※(『三国志 賈詡伝』)

「臣松之以为诩之此谋,未合当时之宜。

于时韩、马之徒尚狼顾关右,魏武不得安坐郢都以威怀吴会,亦已明矣。

彼荆州者,孙、刘之所必争也。荆人服刘主之雄姿,惮孙权之武略,

为日既久,诚非曹氏诸将所能抗御。故曹仁守江陵,败不旋踵,

何抚安之得行,稽服之可期?

将此既新平江、汉,威慑扬、越,资刘表水战之具,藉荆楚楫棹之手,

实震荡之良会,廓定之大机。

不乘此取吴,将安俟哉?至於赤壁之败,盖有运数。

实由疾疫大兴,以损凌厉之锋,凯风自南,用成焚如之势。天实为之,岂人事哉?

然则魏武之东下,非失算也。诩之此规,为无当矣。

魏武后克平张鲁,蜀中一日数十惊,刘备虽斩之而不能止,由不用刘晔之计,

以失席卷之会,

斤石既差,悔无所及,即亦此事之类也。

世咸谓刘计为是,即愈见贾言之非也。


(わたくし裴松之は賈詡の此の謀は、とても時宜に適ったものではないと考える。

当時、韓遂、馬超の徒は尚も関(关)右の地で狼のごとく振り返り

中原を狙っており、

魏武(曹操)は郢都(荊州)に安座することを得ず、

威を呉の地方にしめすことなどはとても不可能なことだった。

荊州は孫権、劉備の争う土地で、荊州の者達は劉備の雄姿に服し、

孫権の武略に憚ること、既に日は久しく、

誠に曹氏は諸侯を制御することができなくなり、

故に江陵を守った曹仁は、敗れたのだ。

これでどうして、彼らを撫安し、稽服させる期待など持てるであろうか?

(曹操が)長江と漢水に挟まれた地域(荊州)を新たに平定し、

揚(扬)州や越州に威を懼(慑)れさせているこのときに、

劉表の水戦の用具を資とし、荆楚の水夫の手をかりて軍を進めることは、

まことに江南の地を震撼させて、平定をするための、

絶好の機(机)会だったのだ。

この機会に呉を乗っ取らずに、一体いつの機会を待つというのか?

赤壁の敗戦は、蓋し運(运)命というほかないであろう。

実際、疾疫が大いに興(兴)り、鋭利な鉾先を損ない、

南風が吹き、燃え盛る炎の勢いを助長した。

まさに天がこうしたのである。

これが人間の責任だなどと言えるであろうか?

然るに魏武(曹操)の東(东)下は、失策ではない。

賈詡の此の曹操への助言こそが、妥当ではないのだ。

魏武(曹操)が後年(建安20年、215年)、張魯を平定したとき、

蜀中では一日数十もの事件や混乱が発生し、劉備(刘备)と雖も、

これを断ち切ることはできなかった。

しかし(曹操はそのとき、今このまま蜀に軍を進めれば

蜀を攻め取ることができると言った)劉曄(刘晔)の計を

採用しなかったため、

益州の地を席巻する機会を失ってしまった。

目算が外れてしまった後で、いくら後悔しても及ばないものだ。

これはまた、私が先ほどまで述べてきたことと同類の失敗だ。

世の人々が劉曄の計が正しかったと肯定している以上、

賈詡が曹操へ述べた助言が間違っているということは、

いよいよハッキリとしてくることだろう)」



裴松之の見方では、

劉曄が曹操に漢中へ攻め込めといった計は正しいが、

賈クが曹操に赤壁へは攻め込むなといった計は大間違いになるらしい。


しかし何故、賈クの計のほうだけが間違いになるのかといえば、

それは裴松之が賈クのことが大嫌いだから。


それも嫌いなんてものじゃない、

それこそ最低の人間のクズくらいにまで思っている。


何で裴松之に賈クが人間のクズに見えるのかというと、

裴松之が名分論の人だから。


物事の善悪を全て、

儒教上の倫理的な価値基準によって裁断し、白黒をつけようとする。


正史「三国志」の作者の陳寿は、

荀彧と荀攸、そして賈クの三人を同じ伝の中にまとめ、

この三人を“同列”としたが、

それに対し裴松之は、

賈クを荀彧、荀攸と同じに並べるなど論外だとした。

むしろ程昱や郭嘉と同じ範疇の人間だと。


程昱はかつて、エン州が呂布や陳宮、張バク・張趙兄弟らに乗っ取られた際、

呂布側に妻子一族を人質に取られていた笵城の靳允に対し、

人質を捨てて曹操に味方するように説得をしたことがあったのだが、

しかしこれは父母に対する孝行を至上の理念とする、

儒教の教義に逆らう背徳の行動だった。

そして郭嘉また、

日頃より、その素行の悪さを何度も糾弾され続けた問題児だ。


その辺りのところは、

陳寿が述べた、荀彧、荀攸、賈クへの評と、

裴松之が述べた、荀彧、荀攸、賈クへの評とを比べてみると、

よりハッキリとしてくる。



《三国志荀彧荀攸賈詡伝における、陳寿の評》


※(『三国志』巻10、魏書十、荀彧荀攸賈詡伝)

「评曰:荀彧清秀通雅,有王佐之风,然机鉴先识,未能充其志也。

荀攸、贾诩,庶乎算无遗策,经达权变,

其良、平之亚欤!

(陳寿の評に曰く:荀彧は清秀で通雅、王佐の風有り。

然れども機(机)を鑑(鉴)て、先を識(识)るちからをもちながら、

未だ其の志を充たすには能わず。

荀彧、荀攸、賈詡は、算してほとんど遺策が無(无)く、

権(权)変に経達(达)していた。

其れ、張良、陳平に並ぶか。)」



《三国志荀彧荀攸賈詡伝における、陳寿の評を踏まえた上での、裴松之の評》


※(『三国志』巻10、魏書十、荀彧荀攸賈詡伝)

「世之论者,多讥彧协规魏氏,以倾汉祚;君臣易位,实彧之由。

虽晚节立异,无救运移;功既违义,识亦疚焉。陈氏此评,盖亦同乎世识。

臣松之以为斯言之作,诚未得其远大者也。彧岂不知魏武之志气,

非衰汉之贞臣哉?

良以于时王道既微,横流已极,雄豪虎视,人怀异心,不有拨乱之资,仗顺之略,

则汉室之亡忽诸,黔首之类殄矣。夫欲翼赞时英,一匡屯运,

非斯人之与而谁与哉?

是故经纶急病,若救身首,用能动于嶮中,至于大亨,苍生蒙舟航之接,

刘宗延二纪之祚,

岂非荀生之本图,仁恕之远致乎?及至霸业既隆,翦汉迹著,然后亡身殉节,

以申素情,

全大正於当年,布诚心於百代,可谓任重道远,志行义立。谓之未充,其殆诬欤!

臣松之以为列传之体,以事类相从。

张子房青云之士,诚非陈平之伦。然汉之谋臣,良、平而已。

若不共列,则馀无所附,故前史合之,盖其宜也。

魏氏如诩之俦,其比幸多,诩不编程、郭之篇,而与二荀并列;失其类矣。

且攸、诩之为人,其犹夜光之与蒸烛乎!其照虽均,质则异焉。

今荀、贾之评,共同一称,尤失区别之宜也。


(世の論(论)者は、多く荀彧が魏氏を協(协)規したことで、

以って漢を傾け、

君と臣の地位が改易させられたのは荀彧のせいだとし、

晩節(晚节)は(魏の簒奪に)異を立てたと雖も(虽)、

王朝の命運(运)の推移を救うまでは無(无)く、

彼の功績自体が既に義(义)を違(违)え、

亦、彼自身、内心そのことにじくじたる思いを抱いていたと判断して、

あざける(讥)が、

しかし陳氏の此の評は、そうした世の見識に同調しているように思われる。

わたくし裴松之は、これらの言が作られたのは、

誠にかの者の、遠(远)大さを理解し得ていないからだと考える。

しかし魏武(曹操)に、衰えた漢の貞臣のままでいる気のなかったことくらい、

荀彧がわからなかったはずがない。

当時はたいへん、既に王道は衰微し、横流が極(极)まり、

英雄豪傑は虎視耽耽と隙を窺い、人々は二心を懐(怀)き、

もし撥(拨)乱反正の資質を有さず、

時勢にしたがった計略に頼らなかったのならば、

すなわち漢室の諸侯は忽ち滅亡し、黔首(人民、庶民)の類(类)は

滅び尽くしてしまうだろう。

そもそも時(时)代の英雄を翼賛したいと欲し、

行き詰まった世運(运)をたださんとするなら、

この人(曹操)と与せず、一体誰と与するというのか?

これゆえ経倫(纶)急病に、わが身を救うのごとく、

この険難な中に行動(动)をしたため、

大享に至ることができのだ。

そうしてまた、苍生(庶民、民百姓)は舟航に接して助け上げられ、

劉宗(漢王朝)は二紀(24年間、建安元年から黄初元年、

文帝即位までの期間)の間、

命脈を延ばすことができたのだ。

これこそ荀彧の本当の意図(图)で、

彼の仁愛が遠(远)くにまでおよんだということなのではないか?

ところが魏の覇業(霸业)が隆盛に及び、

曹操が漢王朝を滅亡させようとする野心が明らかになったため、

以って荀彧は平素の心情を顕にし、

その年に於いて大いに正義を全うし、百代に誠心を示そうとしたのだ。

それは遠(远)い道のりに重い荷を背負い、正義(义)を行い

志を立てたと謂えるだろう。

“未だ其の志を充たすには能わず”などとは、殆ど荀彧に対しての

誣告も同然ではないか!

また、

わたくし裴松之が考えるに、そもそも列伝(列传)の体裁とは、

相い類似した者同士をまとめてあつかうもので、

張子房は青雲(云)の志を持った人物で、まったく陳平などと同類の者ではない。

しかしながら漢の謀臣は張良と、陳平しかいない。

もし彼らを同列に扱わないのなら、他に付随できる列伝が存在しない。

それ故、前史(漢書)において両者を同じ列伝の中に合わせて記載したのは、

おそらくは単に便宜上、そうしたまでのことだと考えられる。

しかし魏王朝において賈詡のような者と同類の者は、幸いにも多い。

賈詡を程昱や郭嘉の伝と同じところに編纂せず、二荀と同列に扱ったことは、

類別を誤っている。

且つ、荀攸と賈詡の人となりは、

夜の月の光と蒸烛(麻や苧﹑竹木等で作ったたいまつ)の光ほどかけ離れている!

照らすということでは均しいと雖も、質(质)は異(异)なる。

今、陳寿が賈詡と二荀の評を同一に称賛しているのは、

適切な区別からおおきく逸脱していまっている。)」




先ず初めに、

当時、荀彧に対して、

曹操は詰まるところ、漢を滅ぼしてそれに取って代わろうとした簒奪者であり、

荀彧にしたところで結局はまた、

その片棒を担いだ人間じゃないかとの批判に対し、

裴松之は荀彧をかばう。


しかしその論評はかなり乱暴。


漢王朝など、本当はもっと早く滅んでいてもおかしくはなかったのに、

荀彧のおかげで24年も寿命が延びたじゃないかとw

だから彼が漢王朝を滅ぼしたのではなく、延命させたのだと。


裴松之は曹操にしても、荀彧にしても、

みんな漢王朝の臣下だとの立場から、

彼らの取った行動の是非や、人物の善悪について論じようとしている。


裴松之自身、王朝に仕える廷臣の身分なので、

その立場から外れることは肯定できないのだろう。


しかし一々そんな、勿体ぶった名文論を気にしながら曹操や荀彧を擁護せずとも、

元より漢王朝の滅亡は漢王朝の自滅だ。


漢末の争乱は漢王朝の悪政が原因であり、

もしその混乱を収める者が現れれば、

その時点でもう、漢王朝の滅亡も確定的となってしまう。

漢王朝の皇帝や貴族達はもし内乱が収まったとなれば、

すぐにまた自分達で欲を出し、内乱鎮圧に功績のあった者達から、

容赦なくその恩禄を奪い取っていくだろう。

実際に黄巾の乱の平定後、そうしたことは行われたのだ。


だからそんなことはわかり切ったことだった。

わかっている以上、もう二度と、

そんな王朝に政治の実権を返すことなどないだろう。

返してもどうせまた内乱に逆戻りなのだから。


一人、曹操のような英雄が現れて大功を成せば、

後はもう放っておいても自然な流れとして、

王朝の交代という結末にしかならない。


裴松之が賈詡を激しく嫌うのは、

董卓の暗殺の成功し、大奸を誅殺して漢室を救った王允を、

また賈詡が、李傕、郭汜ら旧董卓の部曲将達を率いて長安を襲撃し、

再び元の凄惨な状態に戻してしまったと、

そのことが最大の理由となっている。



※(『三国志 賈詡伝』)

「臣松之以为传称“仁人之言,其利溥哉”!然则不仁之言,理必反是。

夫仁功难著,而乱源易成,是故有祸机一发而殃流百世者矣。

当是时,元恶既枭,天地始开,致使厉阶重结,大梗殷流,邦国遘殄悴之哀,

黎民婴周馀之酷,

岂不由贾诩片言乎?诩之罪也,一何大哉!

自古兆乱,未有如此之甚。

(わたくし裴松之が思いますに、

“仁者の言は、その利がひろい”などと称え伝えられておりますが、

然れども不仁者の言の理は必ずこれに反する。

それ仁者の功は著われ難(难)く、騒乱の源は成立し易い。

それ故、禍(祸)の機(机)会が一度、發(发)っせられれば、

その災(殃)いは百世の者にまで伝わり広がっていってしまう。

まさにこの時(时)、元悪(董卓)は既に梟首され、天地が開(开)き始めたのに、

災(厉)いの階(阶)を結び重ね、

邦国を滅び痩せ衰える悲しみに逅いまみえさせ、

黎民を周末の酷い目に遭わせたのは、

賈詡の片言のせいではないか?賈詡の罪の何と大きなことか!

古えり乱の兆しとなったもので、

これほど甚だしいものは未だかつてあったことがない)」



賈詡の長安襲撃では確かにまた、長安には再び災いと混乱が

招き寄せられたかもしれないが、

しかしその一方でまた、何もしなければそのまま殺されていた筈の、

多くの命も救われていた。

李傕、郭汜らの対処に関しては、

事前に彼らの暴発を未然に防ぐための方案なども出されていたのだが、

王允がそれを悉く撥ね付けた。

だから彼らを決起せざるを得ない、そこまでの窮地に追い込んだのも、

それは王允自身の責任だった。


賈詡の行動は常に、

どうすればより、人の流す流血の量を少なく、

できるだけ最小限に抑えることができるかという、

それが彼にとっての最大のテーマとなっている。

だから賈詡が軍事力を行使する場合、

それはどうしてもそうするしか逃げようのない、手立てが無い、追い詰められた、

緊急避難的なシチュエーションでの場合が殆どだ。

それ以外ならば外交と謀略で対処する。


しかし当時の倫理観や名分論に照らし合わせて、

賈詡の取った、特に長安での行動は正義にはならなかった。

が、それは勿論、事を起こすにあたって、

賈詡本人もハッキリと自覚していたことだったろう。

その上で実行した。


ただ裴松之はそんな賈詡の長安襲撃クーデターに対し、

モラルの観点から厳しく責め立てつつ、

しかしその一方で漢から魏へ、

王朝簒奪の実態に関しての論評といったような問題となると、

“しょうがない”と、

そこは途端に事後承認になる。


裴松之自身、初めは東晋の官吏として仕えながら、

後、420年、東晋最後の恭帝から禅譲を受けて(事実上の簒奪)

宋王朝を開いた劉裕に従い、宋の臣下となるなど、

だから名文論などといっても、

彼ら王朝に仕える官僚達にとっては、

いざ自分達が仕える主が変わった場合の自己弁護のような面もあり、

だから裴松之が賈詡の行動を口やかましく追及できるのも、

それは例えば袁術の皇帝僭称が容赦なく叩かれるのと同じで、

要はそういった、

自分達が安心して攻撃できるポジションの事柄だったから。


逆に自分達に都合の悪い問題に関しては、急に論議の歯切れが悪くなる。


倫理観なら倫理観で、名分論なら名分論で、

その面だけで評価の全てが統一されているのなら、

まだ態度としてハッキリとしているが、

しかし現実はそうもいかず、

裴松之の評は結局、この場合ではこうだが、この場合ではまた別だと、

いいように評価の基準を使い分けている。


そのため論評はガタガタ。


だから裴松之の行った注釈の仕事は高く評価できても、

この辺りの人物評などは全くアテにならない。

特に賈詡に対しての論評などは、支離滅裂過ぎて問題外。


しかし一般に官僚とは、

決められた法律や規則に従って、その決まり通りに、

ただ自分に与えられた仕事や役務を、

淡々とこなしていくだけなのかと思いきや、

実は意外にそうではなく、

官僚とは、自己や集団を覆う、非常に強い、

理念や感情によって動くものらしい。


だから裴松之が肯定した曹操の赤壁の進軍などにしても、

彼の意見は予想される実際の戦闘内容とも無関係に、

ただ自分の嫌いな相手と同じ考えだけにはしたくないと、

その反対行動として出てきている。


だからもし裴松之みたいな考えの人間が、

仮に戦争の司令官として任命されたような場合、

それこそ軍を全滅させて戻ってくることもあるだろう。


しかしそこまでさせてなお、

“あれはたまたま天気が悪かっただけ。風で炎が巻き上げられて、

疫病まで発生し、運がなかっただけ。

自分達の取った行動には何の間違いもないのだから”だとか・・・。


周瑜は疫病のことは事前に予測していたし、また東南の風にしても、

東南の風の正体は、いわゆる偏西風だとも言われますが、

周瑜は208年の赤壁の戦いよりも以前の、199年(建安4年)。

同じ長江流域の夏口で孫策と共に黄祖を破った戦いで、

風上から火計を使って敵を追い落とすという戦いを実際にやっていた。

しかもその時期も、後に行われた赤壁の戦いと全く同じ、

冬の12月のことだった。

だから周瑜がその時期の東南の風発生を、経験的に知っていた可能性も高い。

まして陸戦を得意とする中原の兵が苦手な軍船に乗り換えて、

自分達の得意な水船で戦いを挑んだところで、

対等の勝負にさえならないとも語っていた。


それに裴松之が語るように、

本当に客観的にも、軍事作戦上、賈詡の進言した計が

間違ったものであったのなら、

赤壁の大敗後、

211年(建安16年)に行われた、馬超・韓遂らとの潼関の戦いに、

軍事専門家である曹操が、賈詡をそのまま参謀として従軍させるなどありえない。


牽強付会もいいところだが、

しかしそこまで裴松之は、

賈詡が右なら自分は左だというくらい、

それほど相手のことを嫌っていたのだろう。


仮に同じ組織内で官僚同士がこのような対立をしてしまっては・・・、

これは今回のテーマとは関係のないことながら、

それとはまた別に、重要な意味合いを持ってくる問題のように思える。






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