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官渡の戦いと曹操軍軍師達の活躍

官渡の戦いに参謀として従軍した賈詡の、戦場での動向と意外な

彼の功績について。

【曹操軍の軍師として官渡の戦いに従軍】


袁紹軍と曹操軍、双方による大決戦がまさに行われようとしていたその矢先、

賈詡は主の張繍を説得し、あえて弱小の曹操軍へと投降する道を選ぶ。


曹操軍は袁紹軍に兵糧切れのギリギリまで追い詰められるも、

最後の最後で逆転し、

鳥巣の敵兵糧集積陣地を襲って、

逆に敵のほうを兵糧切れにして撤退へと追い込んだ。


曹操軍では、袁紹の大軍を相手に不安を募らせる曹操に対し、

荀彧や郭嘉が曹操と袁紹の比較をして、

それで曹操のほうが断然に有利だと論理を展開して励まし、

曹操を最終的な勝者へと導いたが、

賈詡もまた曹操の軍中に付き従って、似たような言葉を曹操に掛けて

励ましていた。


因みに彼らがどのようなことを言ったかというと・・・、



《荀彧の言》


※(『三国志 荀彧伝』)

「自太祖之迎天子也,袁绍内怀不服。绍既并河朔,天下畏其强。

太祖方东忧吕布,南拒张绣,而绣败太祖军於宛。绍益骄,与太祖书,其辞悖慢。

太祖大怒,出入动静变於常,众皆谓以失利於张绣故也。

锺繇以问彧,彧曰:“公之聪明,必不追咎往事,殆有他虑。”

则见太祖问之,太祖乃以绍书示彧,曰:“今将讨不义,而力不敌,何如?”

彧曰:“古之成败者,诚有其才,虽弱必强,苟非其人,虽强易弱,

刘、项之存亡,足以观矣。

今与公争天下者,唯袁绍尔。绍貌外宽而内忌,任人而疑其心,公明达不拘,

唯才所宜,此度胜也。

绍迟重少决,失在后机,公能断大事,应变无方,此谋胜也。

绍御军宽缓,法令不立,士卒虽众,其实难用,

公法令既明,赏罚必行,士卒虽寡,皆争致死,此武胜也。

绍凭世资,从容饰智,以收名誉,故士之寡能好问者多归之,

公以至仁待人,推诚心不为虚美,行己谨俭,而与有功者无所吝惜,

故天下忠正效实之士咸原为用,此德胜也。

夫以四胜辅天子,扶义征伐,谁敢不从?绍之强其何能为!”

太祖悦。

(太祖(曹操)が自ら天子を迎えて以来、袁紹は内心では不服を

懐(怀)いていた。

袁紹が河朔(河北)を平定した後、天下の人々は其の強大さを畏れた。

太祖(曹操)は東(东)方に呂布を憂(忧)え、南に張繡を拒んでいた。

太祖(曹操)の軍が宛に於いて敗れたため、袁紹は益々驕(骄)り、

太祖(曹操)書(书)を与えたが、

其の辞は悖慢だった。

太祖(曹操)は大いに怒り、出入動(动)静、立ち居振る舞いが

平常とは変わっていった。

衆(众)は皆、謂った。それは張繡に敗れて利を失ったからだと。

鍾繇が訊ねると、荀彧は言った:“公(曹操)は聡明で、

過ぎ去った往時の咎を追うことはしない。

他に憂慮することがおありなのだろう。”

荀彧が太祖(曹操)に見えてこれを聞くと、太祖(曹操)は荀彧に

書を示して言った:

“今まさに不義の輩を討たんと欲しても、力では敵(敌)わない。

どうしたら良いだろうか?”と。

荀彧は言った:“昔の成敗の者達を見ますと、誠に才能を有す者ならば、

弱者と雖(虽)も必ず勝ち、

それは劉邦と項羽の存亡を観(观)ても足りるでしょう。

今、公(曹操)と天下を争う者は、唯袁紹のみ。

袁紹は外寛内忌、人に任せても其の心を疑う。公(曹操)は明達で拘らず、

唯才の宜する所。

これは度量で勝っているということなのです。

袁紹は遅(迟)重で決断力が少ない。後(后)機(机)を失ってしまう。

公(曹操)は大事の判断に有能で、

緊急の対処にあらゆる手を尽くさないことは無(无)い。

これは謀に勝っているということです。

袁紹は軍(军)を制御するのに寛緩で、法令は立たず、

士卒は大衆と雖も、難(难)用が一杯に詰まってしまっている。

公(曹操)は法令が明らかで、賞罰必行、士卒は少ないと雖も、

皆、死を争う。

これは武に勝っているということです。

袁紹は累世の残した資にもたれかかり、従容と知恵者を飾って、

それで名誉を収めております。

故に能力の少ない者が好んでこれに帰することが多いのです。

公(曹操)は至仁で人を待ち、己の行動は谨俭(勤倹)で、功有る者に与え、

惜しむ所が無い。

故に天下忠正の効寛(效实)の士は皆、

公(曹操)に用いられることを自ら望んでいる。

これは徳に勝っているということです。

以上、四つの点で勝り、天子をたすけるのですから、

征伐は必ず成功することでしょう。

袁紹の強大さが一体、何だというのでしょう!”と。

太祖(曹操)は悦んだ。)」




《郭嘉の言》


※(『三国志 郭嘉伝』注、「傅子」)

「傅子曰:太祖谓嘉曰:“本初拥冀州之众,青、并从之,地广兵强,而数为不逊。

吾欲讨之,力不敌,如何?”

对曰:“刘、项之不敌,公所知也。

汉祖唯智胜;项羽虽强,终为所禽。嘉窃料之,绍有十败,公有十胜,虽兵强,

无能为也。

绍繁礼多仪,公体任自然,此道胜一也。

绍以逆动,公奉顺以率天下,此义胜二也。

汉末政失於宽,绍以宽济宽,故不摄,公纠之以猛而上下知制,此治胜三也。

绍外宽内忌,用人而疑之,所任唯亲戚子弟,公外易简而内机明,用人无疑,

唯才所宜,不间远近,

此度胜四也。

绍多谋少决,失在后事,公策得辄行,应变无穷,此谋胜五也。

绍因累世之资,高议揖让以收名誉,士之好言饰外者多归之,

公以至心待人,推诚而行,不为虚美,以俭率下,与有功者无所吝,

士之忠正远见而有实者皆原为用,

此德胜六也。

绍见人饥寒,恤念之形于颜色,其所不见,虑或不及也,所谓妇人之仁耳,

公於目前小事,时有所忽,至於大事,与四海接,恩之所加,皆过其望,

虽所不见,虑之所周,无不济也,此仁胜七也。

绍大臣争权,谗言惑乱,公御下以道,浸润不行,此明胜八也。

绍是非不可知,公所是进之以礼,所不是正之以法,此文胜九也。

绍好为虚势,不知兵要,公以少克众,用兵如神,军人恃之,敌人畏之,

此武胜十也。”

太祖笑曰:“如卿所言,孤何德以堪之也!”

嘉又曰:“绍方北击公孙瓚,可因其远征,东取吕布。不先取布,若绍为寇,

布为之援,此深害也。”

太祖曰:“然。”


(傅子曰く:太祖(曹操)は郭嘉に謂った:“本初(袁紹)が

冀州の軍を率いて押し寄せてきて、

青、并州を従わせようとしているが、地はひろく兵は強いうえ、

数々不遜な行為をはたらいている。

私はこれを討ちたいと欲しているが、力では敵わない。

どうしたら良いだろうか?”と。

対して郭嘉が言うに:“劉(刘)邦が項羽の敵ではなかったことは、

公の知るところです。

漢(汉)祖は唯、智において勝り、項羽は強かったと雖も、

終に擒となってしまう。

私がひそかにこれを考えまするに、袁紹には十の負けがあり、

公(曹操)には十の勝ちが有り、

袁紹が強いと雖も、どうすることもできないでしょう。

袁紹は繁礼多儀(仪)、公(曹操)は体任自然。

これが道に勝(胜)る第一の点。

袁紹は逆を以って動(动)かし、公(曹操)は天下を率いるに順を以って奉ずる。

これが义(義)に勝る第二の点。

漢の末期は寛に於いて失敗しましたが、

袁紹は寛を以って寛を救済しようとしている。だから政治を摂ることはできない。

しかし公(曹操)は猛を以ってこれを糾し、ゆえに上下に対しての

制御がきいている。

これが治に勝る第三の点。

袁紹は外寛内忌、人を用いるに之を疑い、唯、親戚(亲戚)の子弟を

任用するだけ。

公(曹操)は外は簡(简)易で機(机)を見るに明るく、

人を用いるに疑うこと無(无)し。

唯、才能を宜しくし、遠近(远近)を問(间)わない。

これが度量に勝る第四の点。

袁紹は謀が多く、決することが少ない。後の事を失う。

公(曹操)は策を得ればその度に行い、

変に応じ窮(穷)することが無(无)い。

これが謀に勝る第五の点。

袁紹は累世の資産に因り、高議(让)と謙譲(让)で名誉を収める。

外を飾った言を好む士は多く之に帰(归)しました。

公(曹操)は至心で人を待ち、誠を推して行われます。虚美を為さず、

倹(俭)で以って下を率い、

功有る者には惜しむこと無く与え、忠正で遠(远)くを見、

中身の詰まった者は皆、

公(曹操)の役に立つことを望んでいる。

これが徳に勝る第六の点。

袁紹は人の飢えや寒さを見ると、恤念の形を顔色にうかべるも、

見えない所については思慮や配慮が及ばない。所謂、婦人の仁のみ。

公(曹操)は目前の小事には、時に粗忽な所が有るも、大事に至っては、

四海に接し、

恩を加える所は、皆の望み以上に過(过)ぎるものとなっています。

見えない所と雖も、周りに配慮し、救済しないことは無い。

これが仁に勝る第七の点。

袁紹は大臣と権(权)力を争い、讒(谗)言で惑乱しています。

公(曹操)は道を以って下を制御し、浸潤(润)するほどの讒言は

行われていません。

これが明に勝る第八の点。

袁紹は是非がハッキリとしない。

公(曹操)は是なら礼を以って之を進(进)め、是でなければ

法を以って之を正す。

これが文に勝る第九の点。

袁紹は虚勢を好み、兵要を知らず。

公(曹操)は小を以って衆(众)に克ち、用兵は神の如し。

軍人は之を恃み、敵(敌)は之を畏れる。

これが武に勝る第十の点。

太祖(曹操)は笑って言った:“卿の言う所の賈詡ような、

そんな徳を私(孤)は持っているだろうか?”と。

郭嘉は又言った:“袁紹は北方に公孫サンを攻撃(击)をしていますが、

其の遠征に因り、

東に呂布を取るべきです。

もし我々が今、袁紹のほうを襲えば、呂布は之を助け、

この害は深いものとなります。”と。

太祖(曹操)は言った:“そのとおりだ”と。)」




《賈詡の言》


※(『三国志 賈詡伝』)

「袁绍围太祖於官渡,太祖粮方尽,问诩计焉出,

诩曰:“公明胜绍,勇胜绍,用人胜绍,决机胜绍,有此四胜而半年不定者,

但顾万全故也。

必决其机,须臾可定也。”太祖曰:“善。”乃并兵出,围击绍三十馀里营,

破之。

绍军大溃,河北平。

(袁紹が太祖(曹操)を官渡に於いて包囲(围)して、

太祖(曹操)の兵糧が尽きたとき、

賈クに計を質問した。

賈クは言った:“公(曹操)は明を以って袁紹に勝り、勇に勝り、用人に勝り、

この四つの面において勝りながら、半年がたってもいまだ

相手を平定できないのは、

ただ万全を尽くそうと慎重になりすぎているからです。

機(机)をとらえて決すれば、必ず平定することができるでしょう”と。

太祖(曹操)は:“善し”と言うと、すなわち兵を並(并)べて出撃し、

袁紹の三十余里の軍営(营)を包囲攻撃(击)し、之を破った。

袁紹軍は大潰(溃)し、河北は平定された。)」




・・・と。


三人共まったく同様のことを曹操に対して言っている。


しかし面白いのは、その内の誰も、方法論を語っていないところだ。(笑)


詰まり勝つべくもない、強大な袁紹軍をどう倒せばいいのか?と、

その具体的な方策を曹操は尋ねているのだが、

それが荀彧、郭嘉、賈詡の三人とも、その具体的な方法については語らず、

曹操は優れていて、袁紹はダメなヤツだからと、

だから勝てると、

そんな抽象的なことばかりしか答えを返さない。(笑)


しかしこれではそれこそ、まったく何の答えにもなっていない。


詰まりもう、厳密な数の計算をしてしまえば、

どうしたって袁紹軍には勝てないと、

そのことはハッキリしてしまって、厳としてその事実は

動かしようがなかったのだろう。


だからこれは言わば、彼らが曹操に対して、

“しょうがないけど、頑張れ”と言っているに過ぎないなのだが、(笑)

しかし実に不思議なことに、

結果は彼らの言った通りになった。


曹操が袁紹に勝った。


この官渡の戦いで最後、

曹操が袁紹に勝てた最大の要因は、

曹操軍が、鳥巣に築いていた敵の食料集積陣地を焼き払い、

それで袁紹軍がもはや戦争を継続できずに、撤退を遂げたことだったが、

だが始めの内は、それもどこにあるのか曹操軍ではまったくわからなかった。


が、

それを官渡の戦いの最中に、

袁紹軍から曹操軍へと内部リークする者が現れたのだ。


その人物こそが、後世にも有名な許攸だった。


許攸子遠。荊州南陽郡の出身で、

若い頃は袁紹や張邈らと“奔走の友”の契りを交わした仲だったという。

そうした縁からか、後に袁紹が董卓の下から出奔した際、

彼は逢紀らとともに袁紹の冀州入りに随行し、そのまま袁紹の参謀となった。


許攸は才識豊かな人物であったようだが、

しかしその人となりはあの袁術からさえ、


※(『三国志 荀攸伝』注、「漢末名士録」)

「许子远凶淫之人,性行不纯,

(許子遠は凶淫の人で、性格も行動も不純だ。)」などと、


酷評されるほどの人物だった。


そしてこの許攸が、官渡の戦いの最中、袁紹を裏切って曹操の下を訪れ、

輜重車両一万乗に上る袁紹軍の補給物資が集められた、

淳于瓊らの守備する故市・烏巣の

陣地を襲撃して奪えと、直接に進言を行った。

袁紹軍ではまさか敵にこの場所を知られることもないだろうと油断していたのか、

防備の兵力も十分ではなかったという。

(沮授が袁紹に対し、淳于瓊だけでなく、蒋奇を別将として派遣し、

曹操軍からの略奪に備えるべきだと進言していたが、袁紹は聞かなかった)



※(『三国志 袁詔伝』)

「会绍遣淳于琼等将兵万馀人北迎运车,

沮授说绍:“可遣将蒋奇别为支军於表,以断曹公之钞。”

绍复不从

(袁紹は淳于瓊らに一万余の軍兵で、輸送車を迎えに北へと派遣した。

沮授が袁紹に、「蒋奇を別に、淳于瓊ら軍の表周りを護衛する支えとして派遣し、

以って曹公(曹操)の略奪を断つべきです」と、説いたが、

袁紹はまた従わなかった)」



実は許攸は曹操とも旧知の間柄で、

それも曹操と面会した際、許攸は曹操に向かって彼の幼名である

“阿瞞”と呼びかけるほど、

かなり古くからの付き合いを持っていたらしい。


そして曹操はこの旧友のもたらした決定的な情報によって、

戦力では10対1とも言われた苦難の戦いを逆転勝ちで制するに至るのだが、

ただ許攸のほうは別に友人の曹操を助けようと思って、

貴重な情報をリークしたわけではなく、

彼は彼で、単に個人的に主君である袁紹と揉めて自分の立場を悪くしたため、

鞍替えをしてきただけだった。


許攸は官渡の戦いでも袁紹軍の参謀として加わっていたが、

しかし戦地で行った彼の助言が袁紹に退けられ、

それが許攸にとってかなりの不満となったらしい。

と、それと、

実はこの遠征中の間に、彼が本国に残していた家族が法を犯し、

審配に逮捕されるという事件が起こっていた。

放っておけば自分自身にまで、袁紹から責任追及の手が

伸びてくるかもわからなかった。

そんな諸事情から、

許攸はついに袁紹の下を去り、曹操へと投降する決意をしたのだった。



※(『三国志 武帝紀』注、「習鑿歯漢晋春秋」)

「習鑿齒漢晉春秋曰:許攸說紹曰:“公無與操相攻也。

急分諸軍持之,而徑從他道迎天子,則事立濟矣。”

紹不從,曰:“吾要當先圍取之。”攸怒。

(習鑿歯の漢晋春秋に曰く:許攸は説いて袁紹に曰く:

“公は曹操と攻め合うことはなさらないように。

急ぎ諸軍を分けて敵と対峙し、他の道を通って直に天子を

迎えられますようになされば、事は成立するでしょう。”と。

しかし袁紹は従わず。

曰く:“私は先に曹操のほうを囲んで取らねばならないのだ。”と。

許攸は怒った。)」



※(『三国志 武帝紀』)

「冬十月,紹遣車運穀,使淳於瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十裏。

紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。左右疑之,

荀攸、賈詡勸公。

公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。

公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。

左右或言“賊騎稍近,請分兵拒之”。

公怒曰: “賊在背後,乃白!”

士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。」

(冬十月、袁紹軍では車両を派遣して穀物を運ばせると、

淳于瓊ら五人の将に一万人余りを率いさせてそれを護送させ、

彼らは袁紹軍陣営の北四十里に宿営した。

袁紹の謀臣・許攸は財貨を貪っていたが、袁紹が彼を満足させることができず、

出奔してきて、そこで公(曹操)に淳于瓊らを襲撃せよと説いた。

左右の者は之を疑ったが、荀攸、賈詡は公(曹操)に勧めた。

公はそこで曹洪を守りに留め、自ら歩騎五千人を率いて夜住し、

ちょうど明け方に到着した。

淳于瓊らは遠望して公(曹操)の軍勢が少ないと見るや、陣の門外へと出てきた。

公(曹操)は之を急襲し、淳于瓊が退いて陣営を保とうとすると、

遂に之を攻めた。

袁紹は騎兵を派遣して淳于瓊を救援した。

曹操の左右の或る者が言った。“賊の騎兵が近付いてきています。

兵を分けて拒むべきです」と。

しかし公(曹操)は怒って、

「そんなことは賊が背後にまで迫ってきてから申せ!」と言った。

士卒は皆、必死に戦い、淳于瓊らを大破し、彼らを全て斬った。)



※(『三国志 武帝紀』注、「曹瞞伝」)

「曹瞞傳曰:公聞攸來,跣出迎之,撫掌笑曰:“(子卿遠)〔子遠,卿〕

來,吾事濟矣!”

既入坐,謂公曰:“袁氏軍盛,何以待之?今有幾糧乎?”

公曰:“尚可支一歲。”

攸曰:“無是,更言之!”又曰:“可支半歲。”

攸曰: “足下不欲破袁氏邪,何言之不實也!”

公曰:“向言戲之耳。其實可一月,為之柰何?”

攸曰:“公孤軍獨守,外無救援而糧穀已盡,此危急之日也。

今袁氏輜重有萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備;

今以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚,不過三日,袁氏自敗也。”

公大喜,乃選精銳步騎,皆用袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從間道出,

人抱束薪,

所曆道有問者,語之曰:“袁公恐曹操鈔略後軍,遣兵以益備。”

聞者信以為然,皆自若。既至,圍屯,大放火,營中驚亂。

大破之,盡燔其糧穀寶貨,

(『曹瞞伝』に言う。公は許攸がやって来たと聞くと、裸足で彼を出迎え、

手で撫でながら笑って言った。

“子卿が来たからには、我が事は済んだようなものだ!”と。

許攸は座りつつ、曹操に言った:

「袁氏の軍勢は盛強だが、之にどう対峙なさるおつもりか?

今兵糧はどれくらい有るのか?”と。

曹操は言った:“まだ一年は支えられるだろう”と。

許攸は言った:“そのようなことはございますまい。もう一度

おっしゃってください!”

曹操は言った:“いや、半年は支えられるだろう”

許攸は言った:“あなたは袁紹を破りたくはないのか!

どうして本当のことを言わないのか!”

曹操は言った:“いや、今までの言葉は戯言だ。実のところ一ヶ月分しかない。

これで一体どうすれば良いだろうか?”

許攸は言った:“あなたは孤立した軍で独(獨)りで守り、

外からの救援はなく、食糧も(盡)尽き、

進退は窮まり、之はまさに危急存亡のときだと言える。

袁氏の輜重車両一万余りは今、故市・烏巣に在りますが、

駐屯軍には厳重な警備がなく、

若し今軽兵で之を襲い、不意に、その集積物資を焼き払ってしまえば、

袁紹軍は三日も過ぎぬ内に自壊してしまうことでしょう”

公は大いに喜び、歩騎の精鋭を選び、皆袁紹軍の旗幟を用い、

馬の口には枚(声を漏らさないように口にくわえる木片)を噛ませて縛り、

夜に間道を通って出陣した。一人一人薪の束を抱え、道中で尋問する者が有れば、

「袁公は曹操が後軍を略奪することを恐れられ、

兵を派遣して守備を増強なさるのです」と語らせた。

それを聞いた者はその通りなのだろうと信じ、皆平然としていた。

曹操軍は到着するや屯営を包囲し、大いに火を放つと、

営中では驚いて混乱した。

曹操軍は之を大破し、

その糧穀・宝(寶)貨を焼(燔)き尽(盡)くした。)」



※(『三国志 荀攸伝』)

「会许攸来降,言绍遣淳于琼等将万馀兵迎运粮,将骄卒惰,可要击也。

众皆疑。唯攸与贾诩劝太祖。

太祖乃留攸及曹洪守。太祖自将攻破之,尽斩琼等。

绍将张郃、高览烧攻橹降,绍遂弃军走。

(ちょうど許攸が来て投降したとき、許攸は、袁紹は淳于瓊らに

一万余の兵を率いさせて、

運(运)ばれてきた兵糧を迎えに行かせたが、将は驕り卒は怠惰なので、

これを襲撃すべきだ、と言った。

しかし曹操軍の者達の多くはこれを疑った。

ただ荀攸と賈詡のみが太祖(曹操)に対し、許攸に与するべきだと説いた。

太祖(曹操)は荀攸および曹洪を留守にして、

太祖(曹操)自ら将として之を攻め破り、

ことごとく斬獲し尽くした。

袁紹軍の将の張郃と高覧は攻撃用の橹を焼いて投降をしてきた。

袁紹は遂に軍を棄(弃)てて走り去った。)」



※(『後漢書 袁紹伝』)

「許攸進曰:「曹操兵少而悉師拒我,許下余守埶必空弱。若分遣輕軍,

星行掩襲,許拔則操*(為)*成禽。如其未潰,可令首尾奔命,破之必也。」

紹又不能用。

會攸家犯法,審配收系之,攸不得志,遂奔曹操,

而說使襲取淳於瓊等,瓊等時宿在烏巢,去紹軍四十里。

操自將步騎五千人,夜往攻破瓊等,悉斬之。

(許攸が袁詔に進めて曰った:

「曹操の兵は少数であるにもかかわらずありったけの全軍で

我々を拒もうとしているため、

許城下の守りは必ずや空弱でありましょう。若し軽兵を分遣して、

夜襲を行えば、

許の都は抜かれ、すなわち曹操も擒の身と成ることでしょう。

もし彼らを潰すことができなくても、

首尾二方面から相手を奔命させることとなり、必ず之を

破ることができるでしょう。」と。

しかし袁紹は又も用いることができなかった。

さらにちょうどその頃、許攸の家の者が法を犯し、審配によって

逮捕される事件が発生した。

許攸は志を得ず、遂に曹操の下へと出奔した。

そしてそこで許攸は曹操に、淳于瓊等を襲って取るよう説いた。

淳于瓊等は烏巣に宿在し、袁紹の軍を去ること四十里の地点にいた。

曹操は自ら歩騎五千人を率い、夜往して淳于瓊等を攻め破り、

悉く之を斬った。)」



【未来の運命を見定める、知恵者達の目】


しかし許攸の投降は言ってみれば本人の気まぐれ、

まったくの不確定要素に過ぎなかったが、

しかし開戦前、許攸の家族が本国で審配や逢紀と衝突を起こすということは、

既に荀彧によって、ものの見事に予見されてしまっていた。


これは未だ官渡の戦いの開戦前、

しかしながらもはや袁紹軍と曹操軍の間で、

開戦は避けられないといった状況になったとき、

孔融はとても今の曹操軍の力では、強大な袁紹軍に敵う筈もないと、

厳しく追求をした。

しかしそれに答えて荀彧の言うには、

すなわち、袁紹が本国を離れて遠征を起こすことで、

現場だけでなく、国もとのほうでも家臣達の間で様々な揉め事や事件が噴出し、

それが袁紹軍の統率にも大きな影響を与えるに違いないと。

だから最後には絶対に我々のほうが勝つと、

そのような問答を行っていた。



※(『三国志 荀彧伝』)

「三年,太祖既破张绣,东禽吕布,定徐州,遂与袁绍相拒。

孔融谓彧曰:“绍地广兵强;田丰、许攸,智计之士也,为之谋;审配、逢纪,

尽忠之臣也,任其事;

颜良、文丑,勇冠三军,统其兵:殆难克乎!”

彧曰:“绍兵虽多而法不整。田丰刚而犯上,许攸贪而不治。

审配专而无谋,逢纪果而自用,

此二人留知后事,若攸家犯其法,必不能纵也,不纵,攸必为变。

颜良、文丑,一夫之勇耳,可一战而禽也。”

(建安三年(198年)、太祖(曹操)は既に張繡を破り、

東(东)に呂布を生け捕りにし、

遂に袁紹と対峙することとなった。

すると孔融が荀彧に言った:

“袁紹の領地は廣(广)くて兵は強い。田豊・許攸は智計の士で、

彼のために謀を立てている。

審配、逢紀も尽忠の臣で、その政治を任されている。

顔良、文醜の勇は三軍に冠たるもので、兵を統率している。

彼らに打ち克つなどとても困難なことだろう!”と。

しかし荀彧は:“袁紹の兵は多いとは雖も法が整わず、田豊は剛直で上を犯し、

許攸は貪欲で治まりがない。

審配は専(专)制的で謀無(无)く、逢紀は果断だが自分のことにしか用いない。

この二人が後方の事務を司っているのだから、もし許攸の家族が法を犯せば

放ってはおけず、

そうなれば許攸が必ず変事を起こすに違いない。

顔良、文醜は一夫の勇者にすぎない。

一戦で擒にすることができるだろう。”と。)」



と、

しかしそれが袁紹の直接の敗因にまで結びつくとは・・・・・。

が、


①袁紹が許攸の計を採用せずに退ける。


②許攸の家族が国もとで法を犯して逮捕される。


③自分の立場の危うさを感じた許攸が袁紹の下を出奔。


④許攸が曹操の下へと投降し、決定的な鳥巣の袁紹軍食料集積地の場所を

リーク。


⑤鳥巣襲撃。


⑥袁紹軍の撤退。


と・・・、

結局最後にはこうした、

純軍事的なこと以外の要素から、最終的な両軍の決着をつける勝因が

もたらされるという、

非常に意外な展開となってしまった。


だがそれも全て、開戦前、

荀彧が予想した通りの結果のままだった。



(『三国志 荀彧伝』)

「五年,与绍连战。太祖保官渡,绍围之。太祖军粮方尽,书与彧,议欲还许以引绍。

彧曰:“今军食虽少,未若楚、汉在荥阳、成皋间也。是时刘、项莫肯先退,

先退者势屈也。

公以十分居一之众,画地而守之,扼其喉而不得进,已半年矣。

情见势竭,必将有变,

此用奇之时,不可失也。”太祖乃住。

遂以奇兵袭绍别屯,斩其将淳于琼等,绍退走。

审配以许攸家不法,收其妻子,攸怒叛绍;颜良、文丑临阵授首;

田丰以谏见诛:皆如彧所策。

(建安五年(200年)、袁紹と連戦する。太祖(曹操)は官渡を保ち、

袁紹はこれを囲んだ。

太祖(曹操)は軍糧が尽き、書を荀彧に与え、議して許に帰還し

袁紹を引き込みたいと欲した。

荀彧は言った:“今軍の食は少ないと雖も、

未だ楚、漢が滎陽と成皋で対戦していたときほどではございません。

このとき、劉邦と項羽はどちらも先に退こうとはしませんでした。

先に退いたほうが屈従を強いられてしまうからです。

公(曹操)は敵の十分の一の軍勢で、領地を画して之を守り、

敵の喉下をしっかりと掴みながら進(进)むを得ず、すでに半年にもなります。

情勢が明らかになり勢いが尽きれば、必ず変事が起こるに違いありません。

このときこそ奇策を用いるときで、決して逃してはなりません。”と。

太祖(曹操)はすなわち思い止まった。

遂に奇兵で袁紹の別屯を襲(袭)い、将の淳于瓊らを斬(斩)った。

袁紹は退走した。

審配は許攸の家族の不法に、その妻子を逮捕し、許攸は怒って袁紹に叛き、

顔良と文醜は陣(阵)に臨(临)んで首を授け、

田豊は袁紹に諫言をして誅された。

皆、荀彧の予言した通りとなった)」



が、

確かに最後には、曹操軍は劇的な大逆転サヨナラ勝利を

モノにすることができたが、

しかしそれまでの対戦中、曹操軍では、

局地戦ではうまく猛将の顔良や文醜を討ち取るなど善戦したものの、

全体においては、袁紹軍の巨大戦力と物量の前に押しまくられ、

曹操軍は殆ど敗戦寸前だった。


実際、許攸の投降がなければ曹操軍はそのまま敗れ去っていただろう。


しかし最後にはその決定的な幸運を、曹操は掴んで勝利を手にすることができた。


それとさらに今一つ。

曹操が袁紹と戦っていた際、

その間、南方の孫策がどのような動きを示してくるか、

これが曹操軍にとって非常に厄介な問題だった。


もし曹操が袁紹と戦いっている間を孫策に攻め込まれなどしたら、

これもどうなっていたかわからなかった。


そして現実に、孫策は北上すべく、軍を動かそうとしていた。


が、

この問題についても、開戦前に郭嘉が、

大丈夫だからと、曹操に太鼓判を押していた。


もし孫策がこのときに兵を起こせば、

おそらく暗殺者の手にでもかかって命を落とすだろうと・・・。



※(『三国志 郭嘉伝』)

「孙策转斗千里,尽有江东,闻太祖与袁绍相持於官渡,将渡江北袭许。众闻皆惧,

嘉料之曰:“策新并江东,所诛皆英豪雄杰,能得人死力者也。

然策轻而无备,虽有百万之众,无异於独行中原也。若刺客伏起,一人之敌耳。

以吾观之,必死於匹夫之手。”策临江未济,果为许贡客所杀。

(孫策は千里の間に臨(转)み、江東を有し尽くし、

太祖(曹操)と袁紹が官渡に於いて対峙したと聞くと、

まさに長江を北に渡って許都を襲(袭)おうとした。

人々はこれを聞いて皆、懼れた。

しかし郭嘉は予想して言った:“孫策は新たに江東を平定したばかりで、

彼が誅した者は皆、人に死力を尽くさせる、英雄豪傑(杰)達ばかりでした。

然れど孫策は備(备)え無(无)く軽はずみで、百万の軍勢を有すと雖も、

異(异)なる人もなく一人で中原を行くようなもの。

もしいきなり刺客が現れて襲われでもすれば、たった一人の敵でしかありません。

私が観(观)るところ、必ず匹夫の手にかかって死ぬでしょう。”と。

孫策は長江に臨(临)んで未だ渡らぬ内に、

果たして許貢の刺客によって殺されるところとなった。)」



しかし命を落とすだろうとか言われても、(笑)

そんな保障はどこにもなかったが、

あるいは郭嘉が直接に暗殺の手を密かに回していたのだろうか?


ただとにかく結果に関しては、その通りの結果となってしまった。


全て曹操の抱える優秀な参謀達の読み通り。


この辺りはもう、

何か物事の運命を左右するような時の“流れ”、

あるいは“勢い”といったものなのか。

荀彧、荀攸、郭嘉、賈詡らといった具眼の知恵者達は皆、

等しくその未来の運命を見定めてしまっていた。


しかし凡人などにはとてもわからない。


あくまで可能性の問題なので、

そうなる可能性が高いとは言えても、

必ずそうなるとまでは、客観的判断からはとても言えなかった。


曹操にさえ、わからなかった。


曹操は無論、凡人などではなかったが、

が、彼は一面で非常に合理的で、

そして兵法の専門家だった。


この場合、軍事の専門家だからこそ、

計算すればもう、一発で勝敗の結果がわかってしまうのだ。


“いや、自分なら勝てる”と、


そう思う一方で、

反面では、いくら頑張って倒しても倒しても、

まったく衰えを見せない敵の圧倒的物量の前に、

自身、心が挫かれそうになることも一度や二度ではなかったろう。


実際曹操は両軍の戦争が長引くにつれ、袁紹軍の重囲に

とてもこれ以上は持たないと、

官渡の城を放棄して、

許都にまで撤退して戦い直したいなどと弱気の手紙を荀彧にまで書き送っている。


それがいざ、敵の大軍を相手に戦って抱いた、

彼の正直な心情だったのだろう。


が、荀彧はそんな曹操に対し、決して引いてはならないと、引けば負けだと、

激励の返答を送り返して、今一度曹操の奮起を促したが、

しかし敵を倒すための具体的な方策については何も無しと・・・。


唯一つ、

荀彧は手紙で曹操に対し、

頑張って戦場で曹操が粘っていれば、

必ず何か、“変事”が持ち上がるに違いないと。

そのときを見逃さず、機を捉えて行動を起こせと、

そう書き送っていた。


そしてまさにその直後、

“変事”が起こった。


すなわち許攸の投降。


曹操はその機会を見逃さず、

許攸のもたらした敵補給基地の場所へと急襲をかけて

軍需物資の一切を焼き払って、

敵を黄河の北岸に撃退することに成功した。


ただそこで一つ気になるのが、

一番初めに見た、

荀彧、郭嘉、賈詡ら三人が曹操に与えた助言の内、

賈詡の進言のみが、

少し具体的な事柄について言及しているような点が見受けられるということ。


それは、


※(『三国志 賈詡伝』)

「诩曰:“公明胜绍,勇胜绍,用人胜绍,决机胜绍,有此四胜而半年不定者,

但顾万全故也。

必决其机,须臾可定也。”太祖曰:“善。”乃并兵出,围击绍三十馀里营,

破之。

绍军大溃,河北平。

(賈クは言った:“公(曹操)は明を以って袁紹に勝り、勇に勝り、用人に勝り、

この四つの面において勝りながら、半年がたってもいまだ相手を

平定できないのは、

ただ万全を尽くそうと慎重になりすぎているからです。

機(机)をとらえて決すれば、必ず平定することができるでしょう”と。

太祖(曹操)は:“善し”と言うと、すなわち兵を並(并)べて出撃し、

袁紹の三十余里の軍営(营)を包囲攻撃(击)し、之を破った。

袁紹軍は大潰(溃)し、河北は平定された。)」


といった、この一文の記述。


賈詡はこのとき曹操に対し、曹操が今、戦争に勝てないのは、

曹操自身が慎重になりすぎているからだと言った。


詰まり曹操は慎重になっている。

何にか?


それは恐らく許攸の投降だろう。


曹操は、許攸が投降をしてきたと聞くと、大はしゃぎで彼を迎え入れ、

そして“これでもう何も心配は要らない。

勝ったも同然だ”といったようなことを語っていたが、

しかし初めに許攸が投降をしてきて、曹操に淳于瓊の陣地を襲撃しろと勧めた際、

曹操軍の諸将は皆、激しく疑った。



※(『三国志 荀攸伝』)

「会许攸来降,言绍遣淳于琼等将万馀兵迎运粮,将骄卒惰,可要击也。

众皆疑。唯攸与贾诩劝太祖。

太祖乃留攸及曹洪守。太祖自将攻破之,尽斩琼等。

绍将张郃、高览烧攻橹降,绍遂弃军走。

(ちょうど許攸が来て投降したとき、許攸は、袁紹は淳于瓊らに

一万余の兵を率いさせて、

運(运)ばれてきた兵糧を迎えに行かせたが、将は驕り卒は怠惰なので、

これを襲撃すべきだ、と言った。

しかし曹操軍の者達の多くはこれを疑った。

ただ荀攸と賈詡のみが太祖(曹操)に対し、許攸に与するべきだと説いた。

太祖(曹操)は荀攸および曹洪を留守にして、

太祖(曹操)自ら将として之を攻め破り、

ことごとく斬獲し尽くした。

袁紹軍の将の張郃と高覧は攻撃用の橹を焼いて投降をしてきた。

袁紹は遂に軍を棄(弃)てて走り去った。)」



しかし荀攸と賈詡だけは曹操に対し、許攸の言葉通りに、

淳于瓊の陣地を攻撃するように勧めた。


が、元より許攸がどのような人物であるのか、

それを考えれば諸将が疑うのは当然だろう。


下手をすれば、これは袁紹軍の罠である可能性も非常に高かったのだ。


そしてそれは勿論、曹操も。


何せ後にはその曹操自身が、この許攸という人物の傲慢さを憎んで、

自ら誅殺してしまっているのだから。

許攸がどのような人物であったかくらい、十分にわかりきっていたことだろう。


とても世間一般的に、信用のできる人物などではない。

しかもこの大事な場面で。


そんな人物の言葉に、

自らと国の運命を左右するようなバクチができるのか・・・。


曹操は激しく悩んだに違いない。


荀攸と賈詡は曹操に大丈夫だと言ったが、

それでも曹操自身、恐らくは中々踏ん切りがつかず、

それで暫くの間、行動に踏み出せず、ずっと迷い続けていたのではないか。


だからそこで賈詡が、

曹操に向かって、あなたが勝利を得られないのは慎重になりすぎているからだと、

そう苦言を呈したのではないか。


そしてまさにチャンスを掴むのは今だと、

今行けと、

そう言って、曹操に対し最後の一押しをして送り出したのではないか。


と、

そしてそう考えれば、

賈詡はこの曹操と袁紹、両者を巡る天下分け目の戦いに、

かなり決定的となる、

最後の助言を曹操に与え、

そして曹操に、その後までつながる勝者の道を切り開いて与えたことになる。


裴松之は賈詡に対し、“こんなヤツがいたから・・・”など酷評を加えているが、

裴松之が曹操の業績を評価するなら、

この辺りはもう少し、考え直されてもいいところだろう。(笑)




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