曹操の罠 ~曹操VS張繍~
曹操VS張繍の戦いと、その後、再びの和睦まで。
【曹操VS張繍、その後の戦い】
一旦は降伏をしながら、しかしその後、
曹操が自分を亡き者としようとしているとの情報を掴んだ張シュウは、
賈クの知恵も借り宛城にて曹操を襲撃。
曹操の長子の曹昴、弟の子の曹安民、武猛校尉の典韋といった者達を討ち取るも、
曹操本人の首を挙げるまでには至らなかった。
しかし舞陰にまで逃げた曹操を追って、張シュウは騎兵を率いて追撃を行う。
だがそれは曹操軍に撃退され、
張シュウは穣にまで敗走すると、そこで劉表軍と合流したという。
その後、両者の間でおよそ3年弱もの期間、
断続的な抗争が続けられることとなる。
「三国志張繍伝」には、
「太祖比年攻之,不克。(その後、曹操は毎年これを攻撃したが、
勝てなかった。)」などとしか、記されてはいなのだが、
以下、「三国志武帝紀」の方に書かれた記述を元に、
その後の両軍の行動を年表風に追っていくと・・・、
197年(建安2年)、春正月
曹操が荊州南陽郡の宛県に侵攻。
張繍は一度は降伏をするも、直ぐに離反をして曹操軍の陣営に襲撃を加える。
曹操は宛から同じ南陽郡の舞陰にまで逃れるも、
曹操の長子の曹昴、弟の子の曹安民、武猛校尉の典韋らが死亡。
しかし舞陰へと逃れた曹操を追って、
さらに張シュウが騎兵で襲撃を仕掛けてくる。
が、曹操は反撃してこれを撃退。
張シュウは南陽郡の穣県へと逃げ帰って、そこで劉表軍と合流。
袁術が淮南において帝を称したいと欲して、人を使わして呂布に告げさせたが、
呂布はその使者を収監し、文書とともに許の都へと送り付ける。
袁術は怒って呂布を攻撃したが、破れた。
(袁術の皇帝僭称自体は建安2年(197年)正月のこと)
197年(建安2年)、秋9月
袁術が豫州陳国に侵攻するも、曹操によって撃退され、袁術は一人で逃亡。
袁術配下の四将軍、橋ズイ・李豊・梁綱・楽就らが処刑される。
しかしその一方、
曹操が舞陰から許都へと引き上げた後、
南陽郡内、章陵県を始めとした諸県が再び張シュウに味方をして反乱。
曹操は曹洪を派遣して撃退に向かわせるも、不利となり、
南陽郡の葉県へと戻って陣を構えたが、
劉表、張シュウ軍のために度々侵害されるところとなった。
197年(建安2年)、冬11月
曹操が再び南征し、宛へと出兵。
淯水にて先の戦いで亡くなった将士達の祠を弔い、曹操が涙を流すと、
周囲の人々も皆、感動の涙に咽んだ
荊州南陽郡の湖陽県を根拠地としていた劉表軍の将・鄧済を攻撃して捕らえ、
湖陽県も降伏させた。
さらに舞陰県も攻めて降伏させる。
※(『三国志 武帝紀』)
「公之自舞陰還也,南陽、章陵諸縣複叛為繡,公遣曹洪擊之,不利,
還屯葉,數為繡、表所侵。
冬十一月,公自南征,至宛。
魏書曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,眾皆感慟。表將鄧濟據湖陽。
攻拔之,生擒濟,湖陽降。攻舞陰,下之。」
198年(建安3年)、春正月
曹操は許都へと戻り、初めて軍師祭酒を設ける。
198年(建安3年)、3月
曹操は穣県に張シュウを包囲する。
198年(建安3年)、夏5月
劉表が張シュウを救おうと援軍を差し向け、曹操軍の退路を遮断してしまう。
※(『三国志 武帝紀』)
「三年春正月,公還許,初置軍師祭酒。
三月,公圍張繡於穰。夏五月,劉表遣兵救繡,以絕軍後。」
呂布が再び袁術に味方して高順に劉備を攻撃させる。
曹操は劉備の救援に夏侯惇を派遣するも不利となり、
劉備は高順に敗れるところとなった。
198年(建安3年)、9月、
曹操は呂布を東征に出陣する。
198年(建安3年)、冬10月、
彭城を屠り、その相の侯諧を捕える。
198年(建安3年)、12月、
曹操は呂布を下邳に降し、斬首とする。
※(『三国志 武帝紀』)
「呂布複為袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利。備為順所敗。
九月,公東征布。
冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊。大破之,
獲其驍將成廉。
追至城下,布恐,欲降。陳宮等沮其計,求救於術,勸布出戰,戰又敗,
乃還固守,攻之不下。
時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸、郭嘉計,遂決泗、沂水以灌城。
月餘,布將宋憲、魏續等執陳宮,舉城降,生禽布、宮,皆殺之。」
・・・と、
このような感じ。
(洛陽、長安周辺地図)
張シュウは奮闘し、劉表軍とも連携して何度も曹操軍を撃退しているが、
それにはやはり、軍師として賈クが大きな役割を果たしていたことは
間違いないだろう。
しかし198年(建安3年)の夏5月に、曹操軍は最大のピンチを迎える。
そのとき曹操軍は張シュウを穣城に包囲していたが、北方に急変が持ち上がり、
そのため曹操は張シュウの攻略を諦めて軍を撤退させることとなった。
しかしそこに劉表の援軍が現れて、撤退する曹操軍の退路を
遮断してしまうのだった。
後に曹操自らが“吾死地戦”と語ったほどの危機的状況だったが、
が、曹操はこのピンチを実にユニークな作戦で切り抜けることに成功する。
「献体春秋」によれば、
このとき袁紹から寝返った兵卒が曹操の下へとやってきて、
「田豊が袁紹に、早く今、許都を襲って、
天子を擁し諸侯に号令を掛けよと進言致しております」と、告げてきたため、
それで曹操は大慌てで張シュウ軍に対する包囲を解いて、
都へと引き返すことになったのだという。
しかし軍は撤退行動が最も難しい。
当然その隙を、敵が放っておく筈がない。
曹操軍は執拗に迫る、張シュウ軍の追撃部隊に背後を脅かされ、
そのため曹操軍では敵の襲撃を警戒しながら、
少しずつしか軍を前へと進めていくことができなくなってしまった。
だがもし本当に袁紹軍が許都へと
軍事侵攻をしてきているのであれば・・・、
急がねば曹操軍は滅亡だ。
が、こんな窮地にも関わらず、曹操は都の荀彧に対し、
「賊が追ってきて我が軍は日に数里しか進むことができないが、
私には策がある。
軍が安衆(荊州南陽郡)に到達する頃には、
必ず張シュウ軍を破っているだろう」と、手紙を書き送ると、
そのまま軍を進めていった。
そしていざ、曹操軍が安衆にまで到着してみると、
既にそこには張シュウ、劉表の連合軍が要害に陣を構えて
待ち受けてしまっていたという。
曹操軍はついに前後を敵に囲まれ、まさに袋の鼠へと追い込まれる。
が、
ここで曹操は一計を巡らし、
先ずは夜通しで要害の地に穴を掘って、そこに輜重車両を隠し入れると、
奇兵を設けて埋伏した。
そしてその翌朝、
敵が曹操の軍を見てみると、そこには人が殆ど誰もいなくなってしまっていた。
彼らは皆、曹操軍の兵士達が、敵の包囲に恐れをなして逃げ出したのだと思い、
すぐさま曹操軍の陣地へと向かって進撃を開始すると、
そこへ突如、
曹操軍の歩兵と騎兵が現れ、
結局、張シュウ、劉表連合軍は大破されてしまうのだった。
※(『三国志 武帝紀』注、献帝春秋)
「獻帝春秋曰:袁紹叛卒詣公雲:“田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,
四海可指麾而定。”
公乃解繡圍。公將引還,繡兵來,公軍不得進,連營稍前。
公與荀彧書曰:“賊來追吾,雖日行數裏,吾策之,到安眾,破繡必矣。”
到安眾,繡與表兵合守險,公軍前後受敵。公乃夜鑿險為地道,悉過輜重,設奇兵。
會明,賊謂公為遁也,悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻,大破之。
秋七月,公還許。
荀彧問公:“前以策賊必破,何也?”
公曰:“虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知勝矣。”」
【“孔明の罠”ならぬ、“曹操の罠”】
曹操軍の見事な奇襲攻撃による大逆転勝利。
しかし曹操の最も得意としていた兵法は、この伏兵を用いた奇襲攻撃で、
曹操はそれまでの彼の戦いでも、この伏兵による奇襲作戦を至る所で頻繁に使い、
数々の戦勝をものにしてきた。
「太祖要擊眭固」(192年、対黒山賊)
「遂設奇伏、晝夜會戰、戰輒禽獲、賊乃退走。」(192年、対青州黄巾賊)
「時太祖兵少、設伏、縱奇兵擊、大破之。」(195年、対呂布戦)
「到安衆、繡與表兵合守險、公軍前後受敵。
公乃夜鑿險爲地道、悉過輜重、設奇兵。
會明、賊謂公爲遁也、悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻、大破之。」
(198年、対張繍・劉表戦)
「夜、分兵結營于渭南。賊夜攻營、伏兵擊破之。」(211年、対馬超・韓遂戦)
※(『三國志 武帝(曹操)紀』より)
やたら目につくのは“要撃(待ち伏せ攻撃)”、
“奇兵”、“伏兵”といった言葉で、
だからマンガ『横山光輝三国志』で非常に有名な、
いわゆる“孔明の罠”と呼ばれる兵法は、
実は史上の曹操が最も得意として、頻繁に用いられた兵法だった。
だがそうした場面において、
中には兵を隠すに適した場所が無いケースだって、当然あっただろう。
詰まり安衆の戦いで曹操が穴を掘ったのも、
それは要するに、そこに兵士達を埋伏させる、適当な場所が
無かったからに違いない。
だからわざわざ自分達で穴を掘ってまでして隠した。
そうして自分の必勝パターンを作り出してみせた。
だから曹操が分類し、まとめ上げたとされる、
現存する孫子の兵法書(『魏武注孫子』)に書かれている、
「戦いは、正を以って合し、奇を以って勝つ。
(戰者、以正合、以奇勝。) 」といった言葉も、
詰まり彼の伏兵戦術を表しているのだろう。
曹操は、特に彼のキャリアの初期においては、
寡兵で、より大きな戦力を持つ相手と戦うことが多かった。
そこで先ずは、今の自分達でも攻略可能な、
手頃な敵の城なり陣地なりを攻めたてる。
そうするとその攻められた仲間を助けようと、本命の敵が本拠から
飛び出してやってくるので、
そこを伏兵で待ち受けて、撃破してしまう。
ただ警戒心の強い相手には中々この兵法も通用しにくいが、
安衆の戦いでも、
賈クが曹操の兵略を警戒して、張シュウに助言を与えたエピソードが
残されている。
※(『三国志 賈詡伝』)
「太祖比征之,一朝引军退,绣自追之。
诩谓绣曰:“不可追也,追必败。”绣不从,进兵交战,大败而还。
诩谓绣曰:“促更追之,更战必胜。”绣谢曰:“不用公言,以至於此。
今已败,奈何复追?”
诩曰:“兵势有变,亟往必利。”绣信之,遂收散卒赴追,大战,果以胜还。
问诩曰:“绣以精兵追退军,而公曰必败;退以败卒击胜兵,而公曰必剋。
悉如公言,何其反而皆验也?”
诩曰:“此易知耳。将军虽善用兵,非曹公敌也。军虽新退,曹公必自断后;
追兵虽精,将既不敌,彼士亦锐,故知必败。
曹公攻将军无失策,力未尽而退,必国内有故;
已破将军,必轻军速进,纵留诸将断后,诸将虽勇,亦非将军敌,
故虽用败兵而战必胜也。”绣乃服。
(太祖(曹操)は近頃、張シュウ征伐に出ていたが、
一朝にして軍を引き下がらせた。
張シュウは自らこれを追った。
すると賈クが張シュウに向かって言った:“追ってはなりません。
追えば必ず敗れます”と。
しかし張シュウは従わず、兵を進(进)めて、交戦するも、大敗して還ってきた。
賈クは張シュウに言った:“急いで敵を追撃しなおすのです。
今度の戦いには必ず勝てるでしょう”と。
張シュウは賈クに謝って:“あなたの言に従わなかったばかりに、
このような結果となった。
しかし今は既に敗れてしまった後だというのに、
何故また追撃しろなどと言うのか?”
賈クは:“兵勢には変化が有るので、今急いで向かえば必ず有利になる”と。
張シュウはこれを信じ、散逸した兵を収めて追撃に赴き、大いに戦い、
果たして勝って還ることができた。
張シュウは賈クに問(问)いて:“私は精兵で撤退する敵を追ったのに、
あなたは必ず敗れると言った。
しかし一度敵に敗退して逃げ帰った後、
今度はその敗れた兵卒を率いて、勝(胜)ち誇る敵兵を
攻撃(击)したというのに、あなたは必ず克てると言った。
何れもあなたの言葉通りになったが、
しかしどうしてこんなアベコベの反対のことをして、
その予言が当たるのか?”。
賈クは言った:“これはわかり易いことです。
将軍は用兵に優れると雖(虽)も、曹公には敵(敌)いません。
曹操軍は新たに撤退を始めたといえども、
必ず曹公自らが殿軍を務めているに違いなく、
たとえ精兵の軍で追ったとしても、将は敵(敌)わず、敵兵士もまた精鋭で、
故に必ず敗れると思ったのです”と。
曹公は今回、我が領土へと侵攻するに当たって、失策も無(无)く、
未だ力を出し尽くさない内に撤退を遂げたのですから、
その理由は必ず、何か国内に問題が持ち上がったのでしょう。
将軍を破った後は必ず軍を軽(轻)装にして速く進(进)むでしょうから、
たとえ諸将を後軍に残し、その将達が勇猛であったとしても、
張将軍の敵ではありません。
故に敗兵を用いた戦いでも、必ず勝てると考えたのです”と。
張シュウはこれに感服した。)」
さて、しかしその後、許都へと無事に引き返した曹操軍だったが、
結局、袁紹軍は攻めてこなかった。
三国志武帝紀補注の、献帝春秋には、
田豊が袁紹に許都を襲うように勧めたとあるのだが、
しかし実際に田豊が袁紹に許都を襲うように進言をしたのは、
徐州刺史の車胄を殺害し、同地で曹操に反逆をした劉備の討伐のため、
曹操自身が東征したとき、200年(建安5年)のことなので、
これは恐らく誤りだろう。
だから賈ク自身も語っていた、
安衆の戦いの前、南陽郡の穣城に張シュウを包囲していた曹操軍が突如、
何の失策も無く、包囲を解いて撤退を始めるきっかけとなった、
その、“本国に起こった異変(「必国内有故」)”とは、
おそらくは『三国志武帝紀』内にも記された、
「呂布複為袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利。備為順所敗。」との、
呂布が再び袁術と組んで反逆し、小沛の劉備を高順を送って攻撃を加えたという、
多分そちらの一件のほうだろう。
【敵対から再びの和睦へ】
そうしてその後、
198年(建安3年)内に曹操は先ず、徐州の呂布を滅ぼし、
翌の199年(建安4年)に入り、
曹操はいよいよ河北の袁紹勢力との対決姿勢を深めていくこととなる。
きっかけは先ず、曹操が徐州の呂布を攻めたことで、
その頃、呂布とは同郷で、以前から親しくしていた大司馬の張楊が、
任地の司隷河内郡野王県から呂布の救援に赴くことを決意。
しかしそこを家臣の楊醜に裏切られて、張楊は殺害されてしまう。
楊醜は張楊の首級を曹操への手土産に持っていこうとしたが、
それをまた同僚の眭固によって殺されてしまう。
眭固は逆に袁紹を頼って、司隷河内郡の射犬の地に駐屯。
するとそれを受けて曹操軍もまた、その射犬城の眭固を討伐すべく進撃を開始。
そして199年(建安4年)の4月に入り、
曹操は先ず史渙・曹仁に黄河を渡河させて眭固を攻撃を行う。
眭固は元張楊配下の長史・薛洪と河内太守・繆尚に射犬城の留守を任せ、
自らは袁紹に救援を求めに行くが、
その途中で史渙・曹仁に遭遇し、交戦の後、討ち取られてしまう。
次いで曹操自身も黄河を渡って射犬城を包囲すると、やがて薛洪・繆尚は降伏。
曹操は彼らを列侯に封じると、一旦黄河の南岸の敖倉へと引き上げた。
それからさらに曹操は199年(建安4年)の8月に入り、
再び自ら黄河を渡って冀州魏郡の黎陽県にまで軍を進めると、
同時に臧霸らに命じて青州方面から斉・北海・東安の地域へと侵攻させ、
また于禁を黄河のほとりに駐屯させた。
そしてそんな、曹操、袁紹両軍の対決ムードの高まる中、
199年(建安4年)の11月、
ついに張シュウが賈クの助言に従って曹操に軍勢を率いて投降。
さらにその翌月の199年(建安4年)の12月、
とうとう曹操自身が官渡へと着陣し、いよいよ官渡の戦いの幕開けとなる。
・・・と、
しかしながら、こうしてみると、
官渡の戦いとは通常、大兵力の袁紹軍が、弱小の曹操軍に対して
一方的に大侵攻を開始して
南下してきたようなイメージがあるのだが、
実際には意外にも、
その弱小の曹操軍のほうから先に、袁紹軍の領地へと進んで侵攻し、
ケンカをフッ掛けていることがわかる。
この官渡戦にあたっては、
開戦前、袁紹軍では沮授や田豊らが持久戦を主張していたが、
実際、現実にこれを袁紹に実行されてしまうと、
曹操軍はもう、その時点で終わりだった。
だから曹操としては逆に、あえて弱小の自分のほうから、
何としても袁紹を短期決戦へと引きずり込む必要があったに違いない。
しかし戦力は10対1。
それ自体がバクチだったが、しかし何もしなければ“0”のまま。
曹操は荀彧や郭嘉らの後押しも受けて、
残る10パーセントの確立に、わずかな可能性を求めて、
官渡の決戦へと身を乗り出していく決意をしたのだろう。
一方、賈クはそうした状況の中、
良く情勢を見て、うまく張シュウと曹操の間を取り持って、
両者を結びつけた。
賈クも荀彧や郭嘉らと同様に、袁曹決戦では必ず曹操が勝つと見ていた。
11月の段階では未だ官渡の戦いが始まっていたわけではなかったが、
既に開戦は避けられないような状況だったのだろう。
短期決戦なら曹操にも分が出てくる。
いや、袁紹が短期決戦に打って出てくるとなった段階で、
既に曹操の勝ちと判断をしたのだろう。
沮授や田豊らは逆に、その時点で自軍の負けを悟った。
結果として袁紹は、まんまと曹操の挑発に誘い込まれてしまった。
官渡の戦い開戦前、
張シュウの下には袁紹から同盟を誘う使者が訪れていたが、
賈クがその使者を下がらせて張シュウに曹操と同盟を結ばせた。
※(『(三国志 賈詡伝)』)
「是后,太祖拒袁绍於官渡,绍遣人招绣,并与诩书结援。绣欲许之,
诩显於绣坐上谓绍使曰:
“归谢袁本初,兄弟不能相容,而能容天下国士乎?”
绣惊惧曰: “何至於此!”窃谓诩曰:“若此,当何归?”
诩曰:“不如从曹公。”绣曰:“袁强曹弱,又与曹为雠,从之如何?”
诩曰:“此乃所以宜从也。夫曹公奉天子以令天下,其宜从一也。
绍强盛,我以少众从之,必不以我为重。曹公众弱,其得我必喜,其宜从二也。
夫有霸王之志者,固将释私怨,以明德於四海,其宜从三也。原将军无疑!”
绣从之,率众归太祖。
太祖见之,喜,执诩手曰:“使我信重於天下者,子也。”
表诩为执金吾,封都亭侯,迁冀州牧。冀州未平,留参司空军事。
(これより後、太祖(曹操)が官渡に於いて袁紹を拒んだとき、
袁紹は人を遣わして張シュウを招き、並(并)びに
賈クに書(书)を与えて援けを結ぼうとした。
張シュウが之を許そうとしたところ、賈クは張シュウも出ている会見の席上、
公然と袁紹の使者に対して言った:““帰(归)って袁本初に謝してください。
兄弟(袁術のこと)さえ相い受け容れることのできなかった者(袁術)に、
どうして天下の国土を受け容れることができるでしょうか?”と。
すると張シュウは驚(惊)き懼(惧)れて言った:
“どうしてそこまでハッキリと極言してしまうのか”と。
またひそかに賈クに: “こうなれば一体、誰に帰せばいいのか?”と言った。
賈クは: “曹公に従(从)うに如かず。”と言った。
張シュウは言った:“袁紹は強く曹操は弱い。
また曹操とは仇敵同士の関係だ。どうしてこれに従うのか?”と。
賈クは:“これこそ曹操に従うべき所以なのです。先ず曹公が天子を奉じ、
天下に号令をしているということ。これが第一。
次に、袁紹軍は強盛なので、我々が少ない人数で従ったとしても、
我々を重視しないでしょう。
しかし曹操軍のほうは人数が少なく、
必ず喜んで我々を迎え入れるにちがいありません。これが第二。
また、覇王の志を有す者は、固より私怨などにはこだわらず、
以って四海に徳義を明らかにするものです。これが第三。
どうか将軍は疑うことのないように”と。
張シュウはこれに従い、衆(众)を率いて太祖(曹操)に帰参した。
太祖はこれを見て、喜び、賈クの手を執(执)って言った:
“天下の者達に対し、私の信望を重からしてくれるのは、あなただ”と。
太祖(曹操)は上表して賈クを執金吾となし、都亭侯に封じ、
冀州牧に昇進させた。
冀州は未だ平定されていなかったため、
曹操は賈クを参司空軍事として自身の側に留めた。)」