女の恨みか、男の意地か ~張繍の反逆~
『三国志演義』でも有名な、張繍の叔父、張済の未亡人を巡って巻き起こった、宛での曹操襲撃事件の意外な真相について。
【張繍と劉表の同盟】
弘農の段ワイの下を立ち去り、新たに荊州の張繍から
招かれてやって来た賈ク。
賈クは荊州の地へとやって来ると、先ず張シュウを説得し、
次いで荊州牧である劉表の方へも、自ら足を運んで直接面会を果たし、
両者の間で起こっていた対立を解消して、同盟へと持ち込ませた。
しかし落とし所はあった様だ。
元々は張シュウの叔父、李カク政権では驃騎将軍だった張済が、
食料不足に困って、司隷弘農郡から南下して荊州南陽郡の穣県へと
侵攻を始めた事によって起こった、
両軍の戦いだったのだが、
しかし張済が戦闘の最中、流れ矢を受けて死んでしまうと、
それを知った劉表は、“元々これは、私の本意ではなかった”などと語って、
張済の死後はその後を継いだ張シュウと和睦し、
彼とその軍勢に宛県の城を与えて迎え入れたのだった。
※(『三国志 劉表伝』)
「张济引兵入荆州界,攻穰城,为流矢所中死。荆州官属皆贺,
表曰:“济以穷来,主人无礼,至于交锋,此非牧意,牧受吊,不受贺也。”
使人纳其众;众闻之喜,遂服从。
(張済が兵を引き込み、荊州へと入って穣城を攻撃をして来たが、
流れ矢に当たって死んでしまった。
荊州の属官の者達が皆、祝賀にやって来ると、
劉表は:“元より張済は窮(穷)してやって来たのだが、
しかし主人の私が礼を無(无)くしてしまった為、刀锋(锋)を交える
結果となってしまった。
これは私の州牧としての本意ではない。私は弔(吊)いは受けるが、
祝賀は受けない。”と言った。
そうして使者を送ってその衆(众)を迎え入れた。
これを聞いた張シュウ軍の者達は喜び、
遂に誰もが大人しく服従したのだった。)」
一見ではただ、一方的に張済の軍が略奪にしてきているようにしか
見えないのだが、
しかし劉表の方には、自身どこか気に病むところがあったようだ。
賈クはそこを見極めて、両者を同盟へと結び付けたのだろう。
やはりこの辺りの単なる口先だけの交渉術ではない、
人心の機微、及び物事を見て判断する的確な洞察力が、
彼の優れた外交折衝能力の礎となっているのだろう。
劉表との会見では訪れた賈クに対し、劉表は賓客の礼で以って、
持て成したと言う。
一方、張シュウのほうだが、
彼は賈クとは同じ董卓軍配下の同僚で、それもかなり懇意な間柄だったようだ。
しかし張シュウは賈クの様な聡明な人物が、
いつまでも李カクらなどと行動を共にしているのを見て、
不審に思っていたという。
※(三国志「賈詡伝」注、献帝紀)
「张绣谓诩曰:“此中不可久处,君胡不去?”
诩曰:“吾受国恩,义不可背。卿自行,我不能也。”
張シュウが賈クに謂いて曰く:“いつまでもここに居ては危ない。
君は何故、立ち去らないのか?”
賈クは言った:“私は国に恩を受けているので、背く事が出来ない。
卿は行きたまえ、私は無理だ。”」
張シュウ自身は初め、叔父に従う前は、涼州武威郡の祖厲県で、県の役人を勤めていた。
辺章と韓遂が涼州で叛乱を起こした時、金城の麹勝という者が、
祖厲県長の劉儁を襲って殺害した。
しかし張シュウは隙を狙って麹勝を暗殺し、郡中の人々は彼の行為を
義挙として大いに称えたという。
村内の顔役となったが、
やがて董卓配下の叔父に付き従い、各地を転戦して武功を重ね、
建忠将軍・宣威侯にまで昇進した。
董卓が暗殺されると、彼も叔父と共に長安襲撃に参加。
しかし戦後は長安から離れて弘農へと駐屯。
張シュウが賈クに忠告した様に、張済もまた、
いつまでも李カク・郭汜らと一緒に居るのは危ないと判断したのだろう。
しかしその後は既述の通り、
張済は劉表との戦いで戦死し、張シュウはその後を継いだ。
張シュウは段ワイの下から賈クを招き入れると、改めて劉表と同盟を結び直し、
宛城へと入った。
・・・と、
しかし今度はそこへ、曹操が攻めてくる。
197年(建安2年)春正月のことだった。
(洛陽、長安周辺地図)
【女の恨みか、男の意地か】
しかし張シュウは曹操軍から攻められると、そのまま曹操に降伏をしてしまう。
これは先ず、賈クの助言だろう。
賈クは後に、曹操と袁紹が官渡で戦争となった時も、
勢力強大な袁紹、劉表の両同盟軍側ではなく、
弱小の曹操軍のほうに付くことを勧めて実行させている。
賈クとしては曹操の将来性を見て、
攻められたのであれば、もう何もせず、そのまま従っておいたほうがいいと、
そんな考えだったに違いない。
・・・が、
しかし一度はそうして降伏をして置きながら、
張シュウはその直後、
曹操を宛城内で襲って反乱を起こす。
反乱の切欠となった原因は、『三国志演義』では“スーシー”こと、
劇中では絶世美女と謳われた亡き張済の未亡人「鄒氏」を巡って、
曹操と張シュウの間で争いになるのだが、
一応、史実のほうでも、名前までは出てこないが、
張済の未亡人として出てきます。
そして演義と同様、
曹操がその張済の未亡人を自分の側妾とし、
それに張シュウが怒る。
が、怒るのだが・・・、
ところが、
史書の方を細かく読み進めていくと、
これがまた、ちょっと大変なことが見えてきてしまう。
張シュウは曹操に、張済の未亡人を妾として取られたことに対して怒り、
恨みを抱くものの、
しかしながら史実の方では、張シュウは怒ってもまだ、
反乱までは起こさなかった。
それは・・・・・・、
『三国志武帝(曹操)紀』の方では、
「二年春正月,公到宛。張繡降,既而悔之,複反。公與戰,軍敗,
為流矢所中,長子昂、弟子安民遇害。
(建安2年(197年)春正月、公(曹操)は宛に到る。張シュウは降伏をした。
しかしこれを悔やみ、複た反く。公(曹操)は戦ったが敗れた。
(曹操は)流れ矢に当たってケガを負い、長子の曹昴と、
弟の子の曹安民は命を落とした。)」
と、
そこまでで、
何故、張シュウが反逆したのか、その理由までは不明なのだが、
一方、『三国志張繍伝』の方を見ると・・・、
「太祖南征,军淯水,繡等举众降。太祖纳济妻,繡恨之。
太祖闻其不悦,密有杀繡之计。
计漏,繡掩袭太祖。太祖军败,二子没。繡还保穰,
(太祖(曹操)は南征し、軍(军)を淯水まで進めると、
張シュウ等は衆(众)を挙げて降伏した。
太祖(曹操)は張済の妻を納め、張シュウは之を恨んだ。
太祖(曹操)はそれを悦ばず、
密かに張シュウを殺(杀)害する計を巡らした。しかしその計が漏れ、
太祖(曹操)の軍(军)は敗れ、二子を亡くした。
張シュウは穣を保ち、還(还)った。)」
・・・と、
ちょっと、これはとんでもない。(笑)
詰まり、
張シュウは確かに叔父の未亡人を曹操に取られて恨みには思ったが、
しかしそれで反乱までは起こしていなかった。
どころかそれを聞いた曹操の方が、
“あ?何だ、張シュウのヤツは不満に思っているのか?面倒なヤツだな。
先に始末しろ”と、
曹操の方が先に張シュウを暗殺する謀略を密かに巡らして、
殺害しようとしていたのだ。
しかもそれが相手にバレる。(爆)
それは反乱をされるだろう。
何せ相手が自分の事を先に殺そうとしているのだから。
そして張シュウも遂に曹操への反逆を決意する。
が、
ここに一つ問題があった。
張シュウは宛へとやって来た曹操軍に降伏していたため、
城も明け渡し武装解除してしまっていた。
張シュウは裸も同然。
生殺与奪の権は完全に曹操の方の手に委ねられてしまっていた。
では一体どうすれば・・・?
当然、張シュウは賈クに相談をしたことだろう。
賈クは初めは曹操に対して張シュウを降伏させたが、
しかしそれが逆に自分達の方が命を狙われる事態となってしまえば、
これはもう諦めるしかない。
後は追い詰められた張シュウを如何に救い出すかという事であった。
しかし城は敵の手に握られている。
そこで、賈クによって考え出された、起死回生の秘策とは・・・・・?
※(『三国志 張繡伝』注、「呉書」)
「吴书曰:繡降,(凌统)用贾诩计,乞徙军就高道,道由太祖屯中。
繡又曰:“车少而重,乞得使兵各被甲。”太祖信繡,皆听之。
繡乃严兵入屯,掩太祖。
太祖不备,故败。
(呉書(书)曰く:張シュウは降ると、賈クの計を用い、
太祖(曹操)の屯営の中を経由して、
高道に就かせて軍を歩かせて行きたいと、乞い申し出てきた。
張シュウはまた、“車(车)は少ないのに荷が重い為、
兵士達に各々、甲冑を被る事を許して貰いたい。”と、申し出て、
すると太祖(曹操)は張シュウを信じ、皆これを听(聴)き入れる事とした。
しかしそこへ張シュウの兵が入屯し、太祖(曹操)を不意に襲った。
太祖(曹操)は備(备)えをしていなかった為、敗れた)」と、
「徙军就高道」の部分が、
ちくまの訳では“軍隊を移動させ大道へ向かいたいから”となっているのだが、
“高道”というのはどこかの地名の事なのであろうか?
“就”という漢字には、目的地に到達するといった意味もある様なので、
やはり“~へ向かって軍を移動させたいので”といった意味合いになるのか。
“徒”も同じ様に、場所を変えて、動いて行くといった意味。
しかしこの点に関しては、曹操が全く警戒心を抱いていないということが、
やはり大きいだろう。
賈クの計略の的確さが感じられるが、さらに賈クはもう一工夫して、
“輸送車両は少ないのに、荷物ばかりが重くて大変だから”と、
丸腰しの兵隊に鎧を着させる事にまで成功した。
そしてその状態で、まんまと敵陣営の間のど真ん中へと入り込んだ
張シュウ軍では、
そこから一気に急襲に転じた。
曹操は全くの無防備で、どうする事も出来ずに逃げ惑うしかなかった。
『三国志武帝紀』の注に引く、「魏書」及び「世語」においては、
「魏書曰:公所乘馬名絕影,為流矢所中,傷頰及足,並中公右臂。
(魏書曰:公(曹操)は絶影という名の馬に乗っていたが、
流れ矢が当たり、頬と足を負傷し、また右臂にも当たった。)」
「世語曰:昂不能騎,進馬於公,公故免,而昂遇害。
世語曰く:曹昂は馬に乗る事が出来ず、公(曹操)に進んで馬を差し出した。
公(曹操)はそれにより危難を免れたが、曹昂は殺害の目に遇った。)」
などとも、記されている。
曹操は女一人の為に、長男の曹昂や弟の子の曹安民、
及び猛将の典韋ら多くの兵士達を失い、
その後2年間、敵に回した張シュウとの間に余計な抗争を強いられる
結果となってしまった。
余計なというのは、荀攸が曹操に対して実際に、
“張シュウを無理に攻めれば劉表と結託して抵抗されるだけだから、
出兵は控えるべきだ。
張シュウは劉表に兵糧を頼っているから、
劉表が張シュウにその兵糧を供給できなくなれば、
自ずと張シュウは我々に降伏せざるを得ない”ということを言っていたのだが、
しかし曹操はそれを聞かず、何度も荊州への遠征を繰り返した。
既に長男まで失ってしまったため、
曹操もただ黙っては引き下がれなくなったのだろう。
即ち曹操自身の失敗である。
※(『三国志 荀攸伝』)
「建安三年,从征张绣。
攸言於太祖曰:“绣与刘表相恃为强,然绣以游军仰食於表,表不能供也,
势必离。
不如缓军以待之,可诱而致也;若急之,其势必相救。”
太祖不从,遂进军之穰,与战。绣急,表果救之。军不利。
(建安三年(198年)、張シュウを大軍で征す。
荀攸が太祖(曹操)に曰く:“張シュウと劉表は相い恃み合っているから
強いのです。
されど張シュウは遊軍(游军)として劉表に食糧を仰いでおりますから、
劉表がその食を提供出来なくなれば、
勢い、必ず離(离)れるしかありません。
進軍を見合わせてその機会を待ち、張シュウをこちらに誘い込むべきです。
もし短兵急に攻めれば、劉表は張シュウを救い、
我が軍の不利となってしまいます。)」
張シュウは賈クの計を用い、
見事な不意打ちで曹操を襲撃して追い払った。
が、張シュウとしては覚悟の行動を実行する以上、
確実に曹操の命を仕留めたい所であったろうが、
惜しくも逃してしまい、
その為、張シュウはその後も引き続き、再三に渡る曹操からの侵略に
悩まされることhとなってしまった。
ただ同じ張シュウ伝の補注の『傅子』のほうには、
※(『三国志 張繡伝』注、「傅子」)
「傅子曰:繡有所亲胡车兒,勇冠其军。太祖爱其骁健,手以金与之。
繡闻而疑太祖欲因左右刺之,遂反。
(傅子曰く:張シュウが親(亲)しくしていた者に
胡車児(胡车兒)という者が有り、
武勇は張シュウ軍中で筆頭だった。太祖(曹操)は其の驍健さを愛し、
手ずから之に金を与えた。
張シュウはその話しを聞き、曹操が自分の側近を籠絡して、
自分を殺害しようとしているのだと、疑念を抱き、遂に離反した。)」
などとも書かれているのだが、
しかし張シュウ伝の方にハッキリと“太祖闻其不悦,密有杀繡之计。
计漏,”と書かれている以上、
先ず、張シュウ伝の方が真実として正しいだろう。
この時点では未だ、袁術も呂布も健在の頃だった。
しかしながら曹操は別段この件に関し、悪びれるという風もなく、
「吾降張繡等,失不便取其質,以至於此。」(『三国志 武帝紀』)
即ち“張シュウから人質を取って置かなかったのが失敗だった”・・・などと、
語ったというが、
さすがに人を舐め過ぎだろう。
が、こんな目に遭いながらも、
曹操は後に張シュウの政権入りを許す。
曹操がそれを認める事が出来たのは、この一件に関し、
彼自身が自分の方にも多少の負い目があるという自覚を持っていたからだろう。
もし本当にただ、これが張シュウの方の一方的な殺意から
引き起こされた事件なら、
長男まで殺されて、曹操が張シュウを許すはずがない。
どころか曹操は後、再び賈クと共に降伏をしてきた張シュウに対し、
自ら手を取って出迎え、歓迎の宴を催すとともに、
彼に揚武将軍の位を与え、
さらには張シュウの娘と自分の息子の曹均を
結婚させるというようなことまでやっているのだから。