表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

実は博愛の人?賈詡と墨子家の意外な接点

賈クと墨子家の間に見られる意外な共通点について。


【董卓の乱も本を糺せば・・・】


賈クや李カク、郭汜らによる長安襲撃のクーデターは、

いわば彼らにとっての緊急避難として決行された。


ただ李カク・郭汜らの入京後、長安周辺の政治情勢は、

実際以前よりもさらに酷い状態となってしまったため、

だから裴松之の評の如く、

“こいつ(賈ク)が余計なことさえしなければ・・・”といった

見方が出てきてしまうのも、

まあ、無理からぬところではあった。


攻城戦の際にも多くの官吏や人民が死んだが、

さらにその後、

李カクは車騎将軍、郭汜は後将軍、樊稠は右将軍として其々が独自の幕府を開き、

長安城内を三分割してバラバラに統治を行った上、政治も放漫。

碌に盗賊を取り締まる事もせず、さらには自分達の子弟にまで好き勝手に

百姓達に乱暴させたため、

食糧の価格は高騰し、人々は互いに喰らい合って白骨が散乱し、

路上には異臭が充満したという。

そしてさらには長安城内にとどまらず、

彼らは長安を含む周辺三輔の地域(京兆尹、右扶風、左馮翊)にまで

兵士を送って城邑を攻撃し、

劫略をさせ、

ために人民は飢えに苦しみ、二年間の間に互いに貪り合い、

食料は悉く略奪され尽くしてしまったという。


※(『三国志 董卓伝』)

「时三辅民尚数十万户,傕等放兵劫略,攻剽城邑,人民饥困,二年间相啖食略尽。

(この時(时)、三輔の民は尚、数十万戸あったが、李カク等が兵を放って

劫略し、城邑を脅かしたため、

人民は困窮し、二年間の間に相い喰らい、

略奪し尽くされてしまった。)」


※(『後漢書 董卓伝』)

「時長安中盜賊不禁,白日虜掠,

傕﹑汜﹑稠乃參分城內,各備其界,猶不能制,而其子弟縱橫,侵暴百姓。

是時谷一斛五十萬,豆麥二十萬,人相食啖,[一]白骨委樍,臭穢滿路。

(時に長安城中では盜賊が禁じられなかったため、白日虜掠が行われた。

李カク、郭汜、樊稠は乃ち城内を三分し、各々其の境界に備えをしたが、

猶も制する事能わず、

彼らの子弟が縦横して、百姓を侵暴した。

この時、穀一斛が五十万、豆麦(麥)が二十万となり、

人は互いに相い食らい、白骨は積まれるまま、

臭穢が路上に満ちた。)」


・・・と、

確かに酷い状況になってしまっている。


挿絵(By みてみん)

(洛陽、長安周辺地図)


しかしながらこうしたことも、

ではこれよりも以前の、反董卓連合軍と董卓との戦いに於いて、

連合軍側が勝利をして、

袁紹や袁術らによって朝廷が支配されていれば

政治は良くなっていたのかといえば、

それもやはり微妙だ。


先ず袁紹。

この人は連合の盟主であり、

当時に於ける、言わば漢王朝を担う宰相候補のナンバー・1であった人だが、

ただこの人物がまた、

これは北平の公孫サンが朝廷へと送った、

彼のライバルでもあった袁紹への弾劾上表文の中でも

触れられていることなのだが、

袁紹が嘗て、大将軍・何進の下で彼の参謀として働いていた頃、

その頃は“濁流”と呼ばれた、十常侍を始めとした宦官達の専横による悪政で、

人々は大いに苦しめられていた。

何進や袁紹ら、“清流”と呼ばれた漢王朝の士大夫層は何とか

この宦官達を排除したいと、

様々に腐心していたのだが、中々上手くいかなかった。


特に厄介だったのが、何進の異母妹で、霊帝の皇后であった何皇后の存在。

この何皇后が非常な宦官贔屓で、何進らが宦官達を懲らしめようとしても、

その都度、何皇后が庇って助けてしまうのだ。

しかし何皇后の宦官好きにも理由があって、

以前、霊帝の寵妃だった王美人が劉協(後の献帝)を生んだとき、

これを激しく憎悪し、

何皇后はその憎しみの余り、何と王美人を自ら毒殺してしまった。

しかしそれが霊帝にバレ、何皇后は危うく廃后されそうになるも、

それを宦官達の嘆願により、救われていたのだった。

霊帝の死後、何皇后は自らの子、劉弁を少帝弁として皇帝に即位させると、

自らは何皇太后として、未だ若い我が子の摂政として後見。

が、実際の政務は全て宦官達任せという状況だった。


何進らは宦官達の排除のため、少帝弁からの詔勅を引き出そうとしていたのだが、

それを摂政皇太后の何氏からチェックを受けて、弾かれてしまう。

そこで宦官を排除するには先ず、何皇太后の方を何とかしなければと、

そうして袁紹によって考え出された手が、

洛陽の都に大陸の各地から地方軍閥を多数呼び寄せて、

その武力を背景に何皇太后に脅しを掛けて宦官達の一斉排除を

承諾させるというはかりごとだった。

で、

これはいったんは成功をする。

成功して、何皇太后は地方軍閥の到来にビビリ上がって、

ついに何后自ら十常侍ら全ての宦官達を罷免し、

そしてそれぞれの郷里へと帰郷するようにとの、命令が出されたのたが、

しかしそれもまた、

そんな何皇太后に対し、宦官十常侍のボス・張譲が必死の嘆願を行うと、

彼女はまた急転して彼らを許してしまったのだ。


張譲は実は、自分の養子として迎え入れたその子の婦人に、

特に何太后の妹を貰っており、

張譲はその伝を辿って何太后に懸命の許しを乞い、

その情に打たれた何太后が結局、再び宦官達全員の罷免を

取り下げてしまったのだ。

そしてそこからは宦官達の大逆襲が始まった。

何進は宦官達から偽りの呼び出しを受け、

一人ノコノコと宮廷へと出向むいていったところを、

騙まし討ちで惨殺されてしまう。

何れそのままでは“第三次党錮の禁”が行われ、

袁紹、袁術ら、漢人士大夫らに対する一斉大弾圧が行われていたことだろう。


しかしそのとき、何進を殺された、彼の部下達だった呉匡らが反乱の手を挙げ、

亡き主人の仇討ちのため、

宦官達の居る宮中へと、忠臣蔵ならぬ、討ち入りを開始したのだった。

そしてその動きに呼応して、袁術や袁紹が共に宮中へと押し入り、

最終的には全ての宦官達が皆殺しにされるという結果に終わるのだが、

が、それが、

事件はそれだけでは終わらなかった。


実は先に袁紹が何皇太后に脅しを掛けるべく、呼び寄せた地方軍閥の面々の中に、

実はあの董卓が含まれていたのだ。

そして以後、宮中は完全にその董卓に乗っ取られてしまう。

だから裴松之などに口喧しく非難される董卓の乱も、

そもそもその原因を作った大本の人物は他ならぬ袁紹だったのだ。


だから実はこの袁紹の画策した地方軍閥召集に関しては、

実行の前に主簿の陳琳、尚書侍郎の盧植、奉車都尉の鄭泰といった

朝臣達から一斉猛反対を受けていた。

特に董卓が危ないと、盧植は名指しまでしていた。


そしてまた、

後に河北の地で袁紹と激しく争う北平の公孫サンなども、

彼が書いた袁紹への弾劾上表文の中で、この一件を先ず、

袁紹の第一の罪だとして指摘し、

激しく批判をしていた。

さらに公孫サンそのほかにも全部で十もの具体例を挙げて

袁紹批判を行なっているが、

その内容を見てみると、


※(『三国志公孫瓚伝』注、典略)

「绍既兴兵,涉历二年,不恤国难,广自封殖,乃多以资粮专为不急,

割剥富室,收考责钱,

百姓吁嗟,莫不痛怨,绍罪四也。

(袁紹が挙兵して既に渉歴(历)二年。国難(难)を恤する事もなく、

自らの封地と利殖を廣(广))くして、専(专)ら多くの資糧を

急でない事ばかりに充て、

富裕の家から割剥し、収考責(责)銭、百姓は怨嗟し、痛怨する事甚だし。

これ袁紹の第四の罪なり。」


といった、内容になっている。


まあこれは袁紹に対する公孫サンのネガティブ・キャンペーンの文言で、

また出典も注釈のほうなので、

かなり割り引いてみる必要があるが、

しかし実際、袁紹が為政者として彼のキャリアの中で行ってきたことというのも、

決して手放しで褒められるものではなかった。



そしてそれはまた袁紹の弟、袁術にしても言わずもがな。


※(『三国志 袁術伝』)

「南阳户口数百万,而术奢淫肆欲,徵敛无度,百姓苦之。

(南(陽)の戸数は数百万だったが、しかし袁術(术)は奢淫を欲しい儘にし、

百姓は苦しんだ。)」


※(『三国志 袁術伝』)

「荒侈滋甚,后宫数百皆服绮縠,馀粱肉,而士卒冻馁,江淮间空尽,

人民相食。

(荒淫奢侈が甚だしく蔓延し、後宮数百の后達は綺麗な絹をまとい、

穀物と肉はあり余っていたが、

士卒は凍(冻)え、長江と淮河の間に挟まれた一帯には何もなくなり。

人民は相い食らい合った。)」


と、

もしかして董卓を滅ぼし、洛陽の都で漢王朝の宰相として

君臨していたかもしれない

四世三公の名門の士達でこのような有様で、

また袁紹と袁術の兄弟二人は、連合瓦解後も互いに地方で割拠し、

自分勝手に好きな地方領主を任命して送り込み、

それが大陸の各地、広範囲に渡って激しい争乱を生み出す結果ともなった。


また或いは曹操などにしても、彼には徐州での大虐殺。

そしてそれと同じ頃、自分が領主として治めていたエン州内に於いても、

州内の実に9割以上の城邑に離反されての内乱なども経験している。


明くまで結果としてはだが、

それでも多くの人の生命と財産とが失われてしまったことには変わらない。

が、それも正義の理念に基づいた行動のためならば、

あるいはそれも目的達成のための必要上の犠牲として?許容されて

しまうのであろうか。


反董卓連合軍の結成などにしても、それ自体は正義の行動なのだが、

ただその直後、

大軍を動員した連合諸侯側では直ぐに兵糧が尽き、

既にその内部では“義挙のための徴発”を名目した、

官軍兵士達による略奪が公然として行われていた。

また曹操が属していたエン州グループでは、エン州刺史の劉岱が、

同じグループの東郡太守・橋瑁と食料の貸し借りで揉めて、

橋瑁を殺害してしまうといった事件まで発生していた。

そして曹操自身も、

彼はこの連合作戦期間中、一人、兵を連れて成皋の占拠に向かうのだが、

成皋・滎陽と言えば漢の重要な一大穀物貯蔵地だった。

詰まりそこの食料を確保するのが最大の目的だったのだろう。


当時、軍務に借り出される一般の兵士達にとって、戦争は出稼ぎの手段でもあり、

おまけに彼らは皆、飢えていた。


だからもし、そんな者達が洛陽の都へと乗り込んで行ったら・・・・・、

間違いなく、そこでは凄惨な大略奪が引き起こされていたに違いない。

王宮を焼いたのは董卓の大きな罪の一つとして数えられるが、

しかしだからといってどの道、

もしも上手く連合軍側が洛陽を占拠出来ていたところで、

結局、都がズタボロの廃墟と化していた事には変わりなかったろう。

ただ結果で言えば、董卓の方が先に都を焼き払って人も物も全て

長安へと移送するという、

いわば焦土戦術を行ったため、

連合軍はとうとう軍糧が尽きて解散となったが。




【破滅を存立に変える。賈クのヒューマニズム】


正義や大義名分を立てることは大事だが、

しかし例えば“正義のための大戦争”だとか、これは人類にとって厄介なテーマといえるだろう。


裴松之は賈クの計を人災として非難するが、しかし賈クがその決断をしたのも、

これは飽くまで彼のヒューマニズムの観点に立っての行動である。


そして実はこのヒューマニズムという思想こそが、

賈クという人物を貫く、最大の特徴ともなっているのだ。


賈クは確かに生涯に何度も仕える主を変えたが、

しかし彼のアドバイスを素直に聞き入れた者達は皆、

この生存競争厳しい乱世にも、

すべからく無事に命運を全うすることに成功している。


が、

では賈クがいて、どうして李カクらの横暴を

止めることができなかったのかという見方も勿論、できるが、

ただそれならば、では曹操の下で、

どうして荀彧は彼の虐殺を止めることができなかったのかということだって

いえる。

それはだから、彼らがそれをできなかったということは、

要するに無理だからだ。

できることもあればできないこともある。

それは無理なのだ。


李カクにしても郭汜にしても、彼らは自分達で勝ち取った権利として、

長安に支配者として君臨をしている。

それは袁紹や袁術、曹操らが別に朝廷の承認も得ず、

勝手に地方領主として収まって

好きにしていることと変わらない。

だから別にそのこと自体が責められる問題ではないのだ。

李カクや郭汜らが、自分達でどこまでもこれはこうしたいと望むのであれば、

それはそうさせる以外になく、

或いは曹操などが絶対自分でこうするのだと言い張れば、

やはりそれを止めることはできず、

そして無論その行動の責任も、それはそれをやった本人達にある。


だからそれ以上、彼らが聞かないとなればどうしようもないのだが、

が、それでも賈クなどは李カクらと一緒にいて、

何とか彼らを矯正させようと、色々苦労をしていた痕跡は窺われる。


長安周辺は確かに李カクらの悪政で乱れたが、そんな中、

賈クは尚書となって人事を担当し、

官吏の選挙登用を受け持ち、多くの点で政治を匡正した。


※(『三国志 賈詡伝』注、魏書)

「乃更拜诩尚书,典选举,多所匡济,

(賈クは尚書(书)に更拝(拜)すると、選挙を担当し、

多くの所を匡済した。)」(三国志賈詡伝)

「魏书曰:诩典选举,多选旧名以为令仆,论者以此多诩。

(魏書曰く:賈クは選挙を担当し、旧知の知名人を多く選び、

僕と令を任用した。

論(论)者の多くはこれを以って賈クを多とした。)」



仲の悪かった李カクと、郭汜・樊稠らを諭して、争いを止めさせようとした。


※(『三国志 賈詡伝』注、献帝紀)

「献帝纪曰:郭汜、樊稠与傕互相违戾,欲斗者数矣。诩辄以道理责之,颇受诩言。

(献帝紀曰く:郭汜、樊稠と李カクらは互いに相い争い、数多く闘った。

賈クはいつもその度に(辄)、道理を以って責(责)めた。

賈クの言は大いに(颇)、受け入れられた。」



献帝を直接、自分達の陣営に引き入れようとする李カクらに対し、

それは正義に外れるといって諌める。


※(『三国志 賈詡伝』注、献帝紀)

「献帝纪曰:傕等与诩议,迎天子置其营中。

诩曰:“不可。胁天子,非义也。”傕不听。

(献帝紀曰く:李カクらは賈クに、

天子を其の営中に迎え置きたいと議(议)したが、

賈ク曰く:“それは行けません。天子を脅(胁)すことは、

義(义)に反する”と。

しかし李カクは聴(听)かなかった。)」



李カクが郭汜との争いに有利に立とうとして、羌、胡の異民族数千人を

長安へと呼び寄せるも、

その代価として天子の御用品や宮女を与えると約束したため、

彼らが宮門の所にまでやって来て催促し、天子の頭を悩ますことに。

しかし献帝から直接相談を受けた賈クが自ら羌、胡の異民族と交渉し、

彼らを郷里へと引き返させる。


※(『三国志 賈詡伝」注、献帝紀)

「帝纪曰:傕时召羌、胡数千人,先以御物缯采与之,又许以宫人妇女,

欲令攻郭汜。

羌、胡数来闚省门,曰:“天子在中邪!李将军许我宫人美女,今皆安在?”

帝患之,使诩为之方计。

诩乃密呼羌、胡大帅饮食之,许以封爵重宝,於是皆引去。傕由此衰弱。

(献帝纪曰:李カクが郭汜を攻めさせたいと欲し、

羌、胡、数千人を召し出した時(时)、

彼らに対して、先に天子の御物や絹織物(缯)や、

宮人の婦(妇)女を与えると約束した。

羌、胡は度々省門(门)まで来て中を窺(闚)い、

曰く:“天子は中に居るのか!李将軍(军)は我らに宮人の美女を与えると

約束をされた。

今は皆、どこに居るのだろう?”と。

帝はこれを煩わしく思い、賈クに対策を命じた。

賈クは密かに羌、胡の大帥(帅)達を呼び出すと、飲食でもてなし、

封爵や重宝を与えることを保障した。

すると彼らは皆、立ち去り、またこれにより、李カクは衰弱した。)」



献帝一行が李カクらの下から離れ、長安を出て洛陽へと脱出しようとした

行動を助ける。


※(『三国志 賈詡伝』)

「傕等和,出天子,祐护大臣,诩有力焉。

李カクらが和睦すると、天子を長安城外へと送り出したが、

大臣を護(护)り助けるのに、賈クの力が有った。)」



李カクに殺されそうになった司徒の趙温の命を救う。


※(『三国志 賈詡伝』注、献帝紀)

「献帝纪曰:天子既东,而李傕来追,王师败绩。

司徒赵温、太常王伟、卫尉周忠、司隶荣邵皆为傕所嫌,欲杀之。

诩谓傕曰:“此皆天子大臣,卿奈何害之?”傕乃止。

(献帝纪曰:天子が既に東(东)へと向かった後、李カクらが追って来て、

王の軍(师)は敗れた。

司徒趙温、太常王偉、衛(卫)尉周忠、司隷(隶)校尉荣邵らは皆、

李カクに嫌われていたため、

李カクは彼らを殺そうとした。

すると賈クが李カクに謂いて曰く:“彼らは皆、天子の大臣達で、

どうして卿らが害することが出来るのか?”と、

それを聞くと、李カクは止めた。)」



・・・と、

賈クはまた、少帝弁の妃を李カクが妾にしていたのを、

献帝に進言して助けたりもしている。


そしてそれと今一つ、

董卓の排撃を目的とした袁紹・袁術、曹操らによる嘗ての反董卓連合はその後、

中途で仲間割れを起こし、分裂して瓦解してしまったが、

しかしその董卓の死後、また新たに長安の支配者となった

李カク・郭汜達の手から、

彼らを倒して献帝を救い出そうとする動きが、

徐州刺史陶謙、前揚州刺史周乾、琅邪相陰徳、東海相劉馗、彭城相汲廉、

北海相孔融、沛相袁忠、太山太守応劭、汝南太守徐?、

前九江太守服虔、博士鄭玄といった、諸侯の間から巻き起こり、

やがて彼らは司隷河南尹の中牟県にて、未だ旧董卓勢力との抗争を続けていた

城門校尉・河南尹の朱儁を総帥に担ぎ上げると、

袁紹や袁術勢力には属さない、全く独自の河南尹幕府を開いて、

李カク政権に対抗した。


この動きは余り現代にも知られてはいないのだが、

しかしかなりの大規模な、言わば第二の反涼州軍閥連合の誕生だった。

が、

この連合軍もそれから程なく、解散へと追い込まれる。

総帥の朱儁が朝廷から直接、太僕として任命され、

軍を抜けて長安への出仕を余儀なくされてしまったためだ。


そして実はこの計を画策したのも賈クだった。


名士とは帝からの命令をおいそれと拒否することなどはできない。

それをすれば自分も他の簒奪者達と同じになってしまうため、

だから漢の天子から勅命に対しては即座に復命、待ったなしというのが、

真の士大夫の在るべき姿なのだ。


それを見越して賈クが朱儁を召し返したのだろう。

しかしそれで取りあえず、両勢力での戦争はなくなった。




【賈クは墨子家】


賈クが戦争を避けようとするのは、

本質として彼が人の血を見るのが嫌いだからだ。

だから数多い三国志の登場人物の中でも、

ここまで明快に、人命尊重、ヒューマニズム、勢力同士の紛争回避といった

テーマを軸に、行動をしていたという人物は、

他にはちょっと見られない。


彼は複数の勢力間を渡り歩いたが、

これも逆に見れば、彼の仕事には特定の誰のためにといったことがなく、

彼のその、人に対する想いというのは異民族まで含め、他の誰にも万遍無く

平等に注がれていた。


これはもう、博愛と言っていいかもしれない。


博愛といえば、この大陸では墨子の集団が、

思想としてそのような考え(兼愛)を持っていたということで有名だが、

或いはこの賈クも、どこかで墨子の思想を吸収する機会があったのだろうか。

墨子はまた「義を為すは毀を避け誉れに就くに非ず」などとも言っているが、

それは“後世に例えどれだけの汚名を被ることになろうとも・・・”といった、

賈クの決意した長安襲撃クーデターの行動とも、

良く符号するように思える。


しかしそれが見方一つで、忠義心が低くて自己の利益や安全しか考えない、

計算高い身勝手な保身家などと変わってしまうのだから。


特に、儒家の好む名分論を軸に見れば、そう転びやすいのだが、

そう言えば儒家と墨家は思想的に非常に激しく対立していたことでも有名だ。

そうしたことなども踏まえると、

もしかして賈クは、墨家の何者かであったりしたのかもしれない。


賈クは献帝一行を長安から送り出すと、印綬を返上し、

彼もまた李カク、郭汜らの下から去って、

司隷弘農郡の華陰に居た同郷の段ワイの下へと赴く。

しかし段ワイは訪れた賈クに対し、表面上は礼を尽くして歓迎するも、

内心では密かに、賈クに軍を乗っ取られてしまうのではないかと

警戒心を抱いていたという。

この辺りはやはり、

賈クの持つ、尋常ならざる智謀が恐れられたのだろう。


が、やがて賈クは荊州南陽郡に居た、やはり同郷の張繍から招かれ、

段ワイの下も立ち去ることとなった。

しかし自分の家族はずっと段ワイに預けたままだったという。

所がすると段ワイは、張繍の所へと立ち去った賈クが、

張繍と自分との間を取り持ってくれるのではないかと期待し、

賈クの家族をいよいよ手厚く世話するようになったという。

これはどういう事情なのか良くはわからないのだが、

ただ段ワイにとって、南陽の張繍との関係向上が、

彼にとって大いに役立つことだったのだろう。

詰まり賈クがそれをお膳立てした。

因みに段ワイはその後、曹操政権の下、入朝して大鴻臚・光禄大夫となり、

209年(建安14年)に死去したという。


と、それと賈クを呼び寄せた張繍のほうだが、

当時、彼がどのような状況に置かれていたかというと、

元々は彼の叔父の張済が董卓に仕えていて、

張繍もその叔父の下で董卓に従っていた。

張済は董卓を王允らに殺されると、李カクらと共に長安を襲撃し、

先ずは鎮東将軍、次いで驃騎将軍・平陽侯にまで昇進し、弘農に駐屯。

しかしやがて食料が急迫し、

張済は荊州北部で略奪を働き、穣県へと侵攻を始めた。

だが荊州は仮節・鎮南将軍・荊州牧である劉表の治める領地であり、

当然、張済は劉表と戦闘になり、

そして張済は流れ矢に当たって戦死してしまったという。

甥の張繍はその後を継いだ。

賈クはそうした状況の中に、張繍から招かれてやって来て、

そしてその張繍に進言し、劉表との戦争を止めさせ、

両軍の間で和睦を成立させることとなるのだった。


詰まりここでもまた賈クは、一つ大きな紛争を解決へと導いているのだ。


墨家の大きな特徴として、

博愛と今一つ、彼らは特に専守防衛に特化した、異色の兵家集団だった。

そして彼らはわざわざ、他の強国から攻められて困っている

弱小国家の下へと出向いて、

そして一緒に戦って救ってあげるという、非常に奇特な性質を持っていた。


賈クの行動もまたそのように、彼は何度も仕える主を変えたが、

それも見方を変えれば、

彼はその都度、何か問題を抱えて困っている勢力の下へと飛び込み、

そして悉くその問題を解決へ導いて行っているという姿が見えてくる。


だから彼が自分自身の処世術の天才だというわけではなく、

それはむしろ他人に対しての、

現代風にいえば、彼はまさに紛争救済、解決のための、

名コンサルタントだった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ