董卓暗殺後、司徒・王允の戦後処理と秘められた真の企み
董卓暗殺後の、司徒・王允の戦後処理と、
残された旧董卓涼州軍閥の面々に対しての扱いを巡る、
王允の秘められた思惑についての考察。
【王允の涼州軍閥仕置き問題】
董卓の誅殺後、残された李カクや賈クらは、自分達も亡き主人である董卓と同様、
皆殺しにされてしまうといった都からの風聞を聞き、
長安への逆襲を決意したわけだったが、
ただこの辺りの事情は、王允の方でも本気で董卓の残党狩りを行う気だったのか?
そこは今一つハッキリしない点でもある。
以下、各種史書に書かれた内容を追ってみると・・・、
《王允の伝》
(『後漢書 王允伝』)
「允初議赦卓部曲,呂布亦數勸之。
既而疑曰:「此輩無罪,從其主耳。今若名為惡逆而特赦之,適足使其自疑,
非所以安之之道也。」
呂布又欲以卓財物班賜公卿、將校,允又不從。而素輕布,以剣客遇之。
布亦負其功勞,多自誇伐,既失意望,
漸不相平。
(王允は初め董卓の部曲を赦すことを議し、呂布も亦たしばしば之を勧めた。
王允は既に疑って曰く:「此の輩(李カクら)には罪がない、
其の主(董卓)に従っていただけだ。
それを若し今、彼らを悪逆の名で特赦すれば、其のことで返って
彼ら自身を疑わせてしまうだろうから、
以ってそれは彼らを安んじる道ではない。」と。
呂布は又、董卓の財物を公卿、将校に分け与えることを欲したが、
王允は又、従わなかった。
素より王允は呂布を軽んじていた為、以って之を劍客として遇した。
しかし呂布も亦た其の功労を負い、自ら賊伐を誇ることが多かったため、
既に失望し、
徐々にお互い穏やかではなくなっていった。)」
(『後漢書 王允伝』)
「董卓將校及在位者多涼州人,允議罷其軍。
或說允曰:「涼州人素憚袁氏而畏關東。今若一旦解兵*(關東)*,則必人人自危。
可以皇甫義真為將軍,就領其觿,因使留陝以安撫之,而徐與關東通謀,
以觀其變。」
允曰:「不然。關東舉義兵者,皆吾徒耳。今若距險屯陝,雖安涼州,
而疑關東之心,甚不可也。」
時百姓訛言,當悉誅涼州人,遂轉相恐動。其在關中者,皆擁兵自守。
更相謂曰:「丁彥思、蔡伯喈但以董公親厚,並尚從坐。今既不赦我曹,而欲解兵,
今日解兵,明日當復為魚肉矣。」
卓部曲將李傕、郭汜等先將兵在關東,因不自安,遂合謀為亂,攻圍長安。城陷,
(董卓の将校及び官位に在った者は多くが涼州人であった。
王允は議して其の軍を罷めさせようとした。
或る人が王允に説いて曰く:「涼州人は素より袁氏を憚り、
関東を畏れていました。
今若し一旦兵を解かせれば、則ち必ずや誰もが(人人)、
自ずと危機感を抱くことでしょう。
皇甫(崇)義真を将軍と為し、彼らを領させれば、陝に彼らを留めて安撫し、
而して徐々に関東の諸侯達(袁紹ら)との通謀を図り、
以って其の変を観るのです。」
王允曰く:「然らず。関東で義兵を挙げた者は、皆、私の仲間達である。
今若し險を距てて陝に屯すれば、涼州軍閥の面々を安んじると雖も、
関東諸侯達の心を疑わせてしまう。甚だ不可である。」
時に百姓に訛言(誤って伝えられた評判)があった。
当に悉く涼州人を誅すべしと。
遂に相い恐れて李カクらは転動した。其の関中に在った者は、皆兵を擁して自ら守った。
更に李カクらは相い謂いて曰く:「丁彦思、蔡伯?は董公が但だ
親厚していたという理由から、並んで従坐(連座)とされた。
今既に我が曹(役人)を赦さず、また兵を解こうと欲している。
今日兵を解いたなら、明日には当に復、
我々は彼らの魚肉とされてしまうだろう。」
董卓の部曲将であった李カク、郭汜等は先に将兵を率いて関東に在ったが、
不安となり、
遂に謀合して乱を為すと、
長安を攻め囲み、城は陷ちた。」
《呂布の伝》
(『三国志 呂布伝』)
「布自杀卓后,畏恶凉州人,凉州人皆怨。由是李傕等遂相结还攻长安城。
(呂布は董卓を殺(杀)してのち(后)よ(自)り、
涼州人を畏れ憎悪していたので、涼州人は皆、呂布を怨んだ。
これにより、李カク等は遂に相い結んで長安へと還(还)り、
城を攻めた)」
「允既不赦凉州人,由是卓将李傕等遂相结,还攻长安。
(王允は既に涼州人を赦さないとしていたため、
これにより、董卓の将である李カク等は遂に相い結んで、
長安へと帰って攻めた)」(後漢書呂布伝)
《董卓の伝》
(『三国志 董卓伝』)
「初,卓女婿中郎将牛辅典兵别屯陕,分遣校尉李傕、郭汜、张济略陈留、
颍川诸县。
卓死,吕布使李肃至陕,欲以诏命诛辅。辅等逆与肃战,肃败走弘农,布诛肃。
(初め、董卓の女婿で中郎将の牛輔は兵を別けて陕に駐屯し、
またさらに校尉の李カク、郭汜、張済らを分遣して
陳留、潁川の諸県を攻略させていた。
董卓が死に、呂布は李粛を?に使わして、詔命によって牛輔を誅殺せんと欲した。
牛輔らはこれに逆らい、李粛と戦った。李粛は敗れて弘農へと敗走したため、
呂布は李粛を殺した。)」
(『三国志 董卓伝』)
「比傕等还,辅已败,众无所依,欲各散归。既无赦书,
而闻长安中欲尽诛凉州人,忧恐不知所为。
用贾诩策,遂将其众而西,所在收兵,比至长安,众十馀万,
(李カク等が還(还)ったころ(比)、牛輔は既に敗れていた。
衆(众)は依る所無(无)く、
各々散り散りに帰(归)ることを欲した。
しかし既に赦書(书)は無(无)いとされた上、
長安でも凉州人を悉く誅殺し尽くそうと欲していると聞こえて来たので、
彼らは、憂(忧)い恐れて為すべき所を知らなかった。
賈クの策を用い、遂に其の衆を率いて西へと向かい、在所在所で兵を収めて、
長安に至るころ(比)までには衆十余万となった。)」
(『三国志 董卓伝』)
「与卓故部曲樊稠、李蒙、王方等合围长安城。十日城陷,
(董卓の部曲だった樊稠、李蒙、王方等は合流して長安を囲(围)み、
十日で城は陥落した。)」
(『後漢書 董卓伝』)
「傕﹑汜等以王允﹑呂布殺董卓,故忿怒并州人,
并州人其在軍者男女數百人,皆誅殺也。
牛輔既敗,觿無所依,欲各散去。
傕等恐,乃先遣使詣長安,求乞赦免。王允以為一歲不可再赦,不許之。
傕等益懷憂懼,不知所為。武威人賈詡時在傕軍,說之[一]曰:
「聞長安中議欲盡誅涼州人,諸君若□軍單行,則一亭長能束君矣。不如相率而西,
以攻長安,為董公報仇。
事濟,奉國家以正天下;若其不合,走未後也。」
傕等然之,各相謂曰:「京師不赦我,我當以死決之。
若攻長安克,則得天下矣;不克,則鈔三輔婦女財物,西歸鄉里,尚可延命。」
觿以為然,於是共結盟,率軍數千,晨夜西行。
王允聞之,乃遣卓故將胡軫﹑徐榮擊之於新豐。[二]榮戰死,軫以觿降。
傕隨道收兵,比至長安,已十餘萬,與卓故部曲樊稠﹑李蒙等合,[三]圍長安。
城峻不可攻,守之八日,呂布軍有叟兵內反, [四]引傕觿得入。
城潰,放兵虜掠,死者萬餘人。殺衛尉種拂等。
(李カク、郭汜等は王允、呂布らによって董卓が殺されたため、
故に彼らは并州人を忿怒し、
そのため、在軍の并州人(王允と呂布は共に并州出身)の男女数百人は、皆、彼らによって誅殺された。
牛輔が既に敗れ、依る所が無くなり、各々散り去ろうと欲した。
李?等は恐れ、乃ち先ず使いを遣わして長安に詣でさせ、赦免を乞い求めた。
王允は一歳(一年の内)に再び恩赦を行うのは不可だとして、
これを許さなかった。
李カク等は益々憂懼を懐き、為す所を知らなかった。
その時、李カク軍に在った武威の人である賈クが、彼らに説いて曰く:
「聞けば長安では議して涼州人を誅し尽くそう欲しているとか。
若し諸君が単独で行動すれば、
則ち一亭長でも能く君は拘束されてしまうでしょう。
相率いて西へ向かうに如かず、
以て長安を攻め、董公の報仇と為し、事が済めば、
以て国家を奉じて天下を征するのみ。
;若し不合だったとして、逃走するにもそれからで遅くはない。」
李カク等はこれを然りとし、各々相謂いいて曰く:「京師は我らを赦さず、我らは当に死を以ってこれを決す。
若し長安を攻めて克てば、則ち天下を得るのみ。;
克たずば,則ち三輔の婦女財物を鈔略して、郷里の西へと帰れば、
尚も延命はできよう。」
以て然りと為し、是に於いて共に結盟し、数千の軍を率い、
夜明けの朝(晨)、晨夜西行した。
王允はこれを聞くと、乃ち故董卓の将の胡軫、徐栄を遣わし、
新豊で敵を撃たせた。
徐栄は戦死し、胡軫は降った。
李カクは道に随い兵を収めると、長安に至る比には、已に十余万。
故董卓の部曲だった樊稠、李蒙等も合流し、長安を囲んだ。
城は高く険しく攻めることができなかったが、これを守ること八日。
呂布軍の叟兵に内反する者があり、李カクは城内へと入ることが出来た。
城は潰れ、放たれた兵が虜掠し、死者は万余人となった。
衛尉の種拂らが殺された。)」
・・・と。
(洛陽、長安周辺地図)
【王允の秘められた真意】
後漢書の王允伝を見ると、
王允、呂布らが董卓を誅殺して葬り去った後、
先ず王允自身が亡き董卓によって率いられていた涼州軍閥諸将に対しての
恩赦の討議を諮った。
彼らの内、董卓の女婿で中郎将の牛輔は司隷弘農郡の陝に、
校尉の李カク、郭汜、張済らは豫州の陳留郡、潁川郡に分駐していた。
呂布達は彼らに対しての恩赦を出してやるべきだと王允に進言したが、
しかし王允は従わず。
王允が言うには、恩赦を出すことは返って彼らを
不安がらせるだけからと・・・。
次いで王允は董卓によって任官を受けていた、牛輔、李カクら
涼州軍閥の官爵を取り上げようとした。
そこへ誰だかわからないが王允に対して注意を投げ掛けた。
暴動発生の危険があると。
だから彼らを自由にはさせず、将軍の皇甫崇に率いさせて、
司隷弘農郡の陝に留めて慰撫し、
その間に、袁紹ら関東の諸侯達と連絡を取り合って
問題を処理していったほうがいいと。
が、
これも王允は拒否する。
その理由として、この場合に関しては逆に涼州軍閥の面々は安心させられても、
今度は関東諸侯達のほうを疑心暗鬼にさせてしまうからと。
これはさらにダメだと・・・。
と、
この時点で先ず、恩赦無し、官爵も剥ぐ。
さらに王允は呂布や李粛らに命じて陝の牛輔を攻め殺させた。
しかしこれで陳留、潁川の李カク、郭汜、張済らが戦慄しないわけがない。
勿論それは、王允自身が追い込んでいる。
李カクらが陝の牛輔の所にまで帰ってくると、既に牛輔は殺されていた。
また王允は恩赦も出さず、涼州軍を解散させようとし、
だけでなく、それどころか皆殺しだとの風聞までが伝わり、
彼らはその噂に戦々恐々としていた。
が、
それでもまだ彼らは反乱までは起こしてはいない。
どころか逆に、
彼らは取りあえず長安の朝廷にまで使者を送って、
正式に赦免を請い願うこととした。
だがそれも王允は蹴る。
恩赦は既に一度出してしまっているので、
一年の内に二度出すことはできないと・・・。
それでまあ、二度目の恩赦は無理だとして、
それでしかし、最後の嘆願さえも蹴られたとなれば、
彼らは果たしてどうなってしまうのか?
そしてその後である。
李カクらが賈クの献策に従い、遂に長安の襲撃を決意したのは。
結局のところ、
史書を一つずつ追っていって見えてくることは、
王允自身が、残された旧董卓軍閥の面々に対し、一切の救済措置を認めず、再三に渡って撥ね付け、
そして李カクらを窮鼠の際にまで、追い込んでいってしまっているという事実だ。
だからそれは危ないと、止めた方がいいといった批判の声まで、
王允の周囲の者達から出されていた。
恩赦も出さぬまま、彼らを関東の地に放っておいては危ない、暴反を起こすぞと。
だからせめて皇甫崇に引き渡せと。
で、実際それが、
旧董卓軍閥の反乱暴動行動を防ぐための、最も無難な措置であったろう。
しかしそれを王允は頑なに突っ撥ねた。
王允は何やら関東諸侯の疑心を抱かせるなどと説明しているが、
この言に至ってはもう、ハッキリいってわけがわからない。
・・・要するにこれは、
王允自身が唯一人、旧董卓軍の者達を、
皆殺しにしようとしていたということだろう。
皇甫崇に彼らの身柄を預けると助かってしまうから。
だからそれはダメだと、とにかく突っぱねた。
詰まり「長安中議欲盡誅涼州人」とは、
決して訛言(誤った噂話し)などではなく、
これはもう、王允の本気だった。
【王允の慢心?】
ただ王允はそうして、涼州軍を無理やり暴発へと追い込み、
それで彼らを征伐して勝つ積もりだったのだろうか・・・?
勿論、結果は惨敗。
まあ涼州軍に鬼謀の士たる賈クがいたことが非常に大きかったが、
しかしながらこの点、
ではもし賈クが何もせず、そのまま李カクらがバラバラに逃げていれば、
亭長に捕まって、それで終わっていたのか?
だから裴松之も、「賈クがまた、わざわざ悪い状態へと引き戻した」などと
語っているが、
では賈クが何もしなければ本当に長安は王允の政治によって
救われていたのか?と・・・、
そう冷静に考えて見た場合、
これは恐らく、
王允は例え李カクら涼州軍閥を覆滅することに成功していたとしても、
結局はその後、
彼は決して、長くは長安を保てなかったろう。
王允の新たに打ち建てた長安政権は、実は既に内部で分裂の兆しがあった。
先ずは呂布。
呂布は董卓の残した財物を、公卿、将校に分け与えることを欲したが、
王允は許さず、
また王允は自身の功績の大きさを誇っていた呂布を軽視し、
ただの剣客の扱いで遇した。
呂布は「既失意望,漸不相平」と、
史書にもハッキリ明記される程、二人の間には険悪なムードが漂い始めていた。
だから恐らく李カクらの排除に成功をしていても、
今度は呂布に政権を乗っ取られていた可能性が高い。
しかもそれは呂布だけではなかった。
後漢書の王允伝には、
※(『後漢書 王允伝』)
「允性剛稜疾惡,[一]初懼董卓豺狼,故折節圖之。卓既殲滅,自謂無復患難,
及在際會,每乏溫潤之色,杖正持重,不循權宜之計,
是以腢下不甚附之。
(王允は性が剛毅で激しく(稜)悪を憎んで(疾)いて、
初めは豺狼のような董卓を懼れていたが、
それ故、節を曲げて、密かに暗殺を図(圖)ったのだった。
しかし董卓が既に殲滅してしまうと、自らもう患うべき問題は
何もないのだと謂って、
即ち会議の際に在っても、いつも温和な表情に乏しく、杖正持重。
その場に応じての臨機な計らいもめぐらせなくなった。
そのため、彼の下に付き従う者は少なくなっていった。)」
と、あり、
また三国志董卓伝の注に引く、九州春秋では、
※(『三国志 董卓伝』注、「九州春秋」)
「九州春秋曰:傕等在陕,皆恐怖,急拥兵自守。
胡文才、杨整脩皆凉州大人,而司徒王允素所不善也。及李傕之叛,
允乃呼文才、整脩使东解释之,
不假借以温颜,谓曰:“关东鼠子欲何为邪?卿往呼之。”
於是二人往,实召兵而还。
(九州春秋曰く:李カクらが陕に在る時、皆恐怖し、
急ぎ兵を擁し自らを守った。
胡軫文才、楊整修は涼州の大人(名門)だったが、司徒・王允とは素より
仲が善くなかった。
李カクが叛乱に及んだとき、王允は文才と整脩を呼び付け、
東(东)方に行かせ、解释させようとした。
しかし王允は穏やかな顔も見せず、謂いて曰く:
“関(关)東(东)の鼠子は何を欲しているのか?
卿らは往って彼らを呼び戻して来い”
これに於いて、彼らは往ったが、しかし実際には兵を招き寄せて
還(还)ってきたのだった)」
などと、
何と王允は呂布のような彼から見て軽輩の士からだけでなく、
同じ名士同士の仲間達からさえ、その傲慢な態度から、
反感を買って離反されていたのだ。
王允は他にも蔡ヨウ伯喈や丁彦思といった漢人士大夫らを、
生前、董卓と特に親しくしていたという理由から、
周囲の嘆願も聞かず、処刑してしまったりもしていた。
だからやはり、別に賈クが助言をして李カクらを長安へと招き入れるまでもなく、
王允はほぼ確実に、
長安を失っていたに違いない。
大体がその長安の城が李カクらに攻められた際も、
迎撃に向かわせた胡軫文才、楊整修らには離反されて一緒に攻め込まれ、
さらにそこから攻囲されること8日。最後、城が陥落させられた際も、
トドメの引き金は、呂布配下の一叟兵の内応だった。
王允は董卓こそ最大の極悪人だとして、行ったクーデターだったが、
しかしでは、その董卓一人を殺して全ての問題は解決されたのかといえば、
決してそんなことはなく、
結局はまた、第二・第三の董卓が現れてくるだけだった。
が、
この点は果たしてどうなのか?
そんな第二・第三の董卓が現れれば、
王允は残らず、
どこまでも殺し尽くす積もりであったのだろうか・・・・・。